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鎌倉時代、騎馬戦が一般的だったのはなぜなのですか?

A 回答 (6件)

単純明快


鎌倉時代の大鎧は40㎏と重いので、下馬したら走れないw
それが理由で間違いありません。
従者たちが軽装鎧で、下馬できない大鎧の大将を守りました。
また、鎌倉時代は弓が主力なので、下馬しないで横着できたのです。

戦国時代になると大将の鎧も軽量化が進み、下馬して走れるようになりました。また、6メートルの槍を扱うようになり、下馬する必要があり、騎馬戦ができなくなったのです。
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この認識はチョット違いますね。


日本在来の馬は木曽馬の様に小型でした、鎧兜の装備した武者が乗って
30分も走ればスタミナ切れしたので、武者は両足を地面に付けて
馬を休ませたそうです。
鵯越で馬を背負って下った事は、あり得るのです。
南部(青森・岩手)には、古くから大型の馬が多く居て、平安時代に
発生した武家達は大枚を投じて購入したそうです。
山之内一豊が駿馬を手に入れて、出世の糸口にしたのは有名な話に
なるくらいに大型馬は少なかったのです。
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> 鎌倉時代、騎馬戦が一般的だった



名乗りを上げて、矢を射て、騎馬で突撃し、刀を振り回し、馬から落として取っ組み合って、首を切る
https://www.chunengenryo.com/kamakura_battle_man …
そういう戦いもあるにはあったのですが、多くはそのような戦闘ではなかったようです。

富士川の戦いでは、数万騎の軍がいたことになっています。
稲村ヶ崎の攻防戦では、新田は10万で攻め込んだと言われています。仮に誇張が酷いとしても、2万くらいの軍勢でしょう。 
ところで、馬はどのくらいいたでしょう。
奥州藤原氏が滅ぼされて奥州の馬を毎年3~8頭朝廷に貢献したそうです。鎌倉中期には毎年10頭幕府が朝廷に貢献となったそうです。そのために御家人たちがそれぞれ3頭を京献用選定候補として幕府にだしていたのだけれども、大変な負担で、結果として三浦氏が馬をだすことになったようです。
馬を育てることそのものが、当時大変だったようです。
元寇が来たときの蒙古襲来絵詞で有名な肥後国御家人竹崎季長は、鎌倉幕府の御恩奉行安達泰盛の屋敷まで九州から徒歩で行って、自分の功績を主張して、恩賞として馬一頭をもらいます。

鎌倉時代の戦いの際に、数千数万の軍を動員出来たとしても、動員人数の10分の1も馬を用意することは出来なかったでしょう。 
騎乗して戦う武将が一人に、10人前後の兵卒がいて、それぞれ戦っていたのでしょう。 騎馬戦で馬が怪我でもしたら、武将でも地上戦するしかないでしょう。 
でも、戦闘のシーンを絵に描かせれば、カッコイイと感じるものしか、描かせないでしょうし、絵師だって、その辺りは心得て描くでしょう。 兵卒がおっかなびっくり、あるいは蛮勇を奮って戦っているシーンなど描こうとはしないですし、語り物にもしないです。
馬は100頭前後でも、軍勢1200騎と言ったのでしょう。
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将棋の世界みたいなもので


王を詰まされたら、アウト。

つまり、トップの首を取れば、
それで戦争が終わった、という
時代だったからです。

しかし、集団戦術が発達するにつれ
歩兵同士の集団戦が中心になって
いきます。

鎌倉武士は、モンゴルの、この
集団戦に苦戦した、という記録が残って
います。
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騎射ですね。

鎌倉時代ぐらいまでは、武士は騎射が上手くないとダメだったので、普段から必死に訓練していました。
「鎌倉時代、騎馬戦が一般的だったのはなぜな」の回答画像2
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それは違います。

主人は騎馬ですが従者は走って追従します。また主力兵器は弓です。
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