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豊臣政権には五大老・五奉行の他に三中老がいたそうですが、彼等はどんな役割を担ったのですか?なぜ山内一豊は中老に選ばれなかったのですか?

A 回答 (5件)

三中老は本当にあったとすれば、五大老と三奉行という指導体制の監査役として問題が生じた時に間に立って仲介するとか、、何らかの事情で機能不全に陥った際に一時的に業務を代行するとかが考えられる。



しかし、同時代の公式記録など信頼度の高い文書には一切三中老に関する記述がないので、そのような制度があったかどうかは非常に疑問だ。

同時代人が書いた唯一の記録?は小瀬甫庵の代表作である『太閤記』だが、小瀬甫庵は『信長記』も書いている。信長の記録としては太田牛一が記述した『信長公記』が有名で、これは他の信頼できる1級史料とほぼ同じ内容であることから、そのほぼすべては史実と考えられる1級史料だ。

そして小瀬甫庵の『信長記』は、大田牛一の『信長公記』をベースに書いた歴史小説と断定されている。つまり、司馬遼太郎の作品群と同じく史実をベースに虚構を織り交ぜて読み物として面白くした小説だ。

三中老の記述もこの小瀬甫庵の『太閤記』が初出だ。一説には小瀬甫庵は三中老のひとりとされる堀尾吉晴に仕えた経歴があるので、旧主の堀尾をよく見せるために三中老を捏造したとされている。

後世の三中老に関する記述は、すべて小瀬甫庵の『太閤記』が元ネタと思われる。現代人が司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を読んで書いてあることがすべて史実だと思い込む人が多いのと同じことだったのだろう。

山内一豊については、当時の一豊は、まだ小物だ。小瀬甫庵は三中老を10万石以上の中堅だが老練で知られる大名に設定している。一豊のことは最初から検討もしていないだろう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。小瀬甫庵の作品の中の話だったのですね。

お礼日時:2023/10/21 05:38

五奉行は政権運営の最高機関。


五大老はお目付け役。

現代企業で言えば、五奉行は役員会、五大老は顧問団に近い。

中老についてはパス。
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せめて ネット検索してはどうでしょう。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89 …
豊臣政権の組織体制が明確にあったとお考えでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3 …
なぜ山内一豊は中老に選ばれなかったのですか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%AD …
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個性の強い大老と奉行の間の仲裁役、いわゆる中間管理職。


山口一豊が有名になったのは関ヶ原の戦いの時。豊臣政権下では無名の存在。今の会社なら係長の下、主任レベルでしょう。
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五大老と五奉行の意見が合わない時の仲裁役


弟の宿老だったから 弟の部下は使えないよ
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