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終戦直後、緑十字機が敗戦調停のために任務を全うしたというドキュメントを見ました。

その中で、東京まで急いで無事に帰らないといかなかったそうですが、なぜでしょうか?

電報などで、必要な情報を東京に届けるのではダメだったんでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 日本史、世界史、歴史

      補足日時:2023/11/05 07:34

A 回答 (2件)

1945年8月16日、ソ連は北海道を狙って、北方領土に降り立ち侵略を始めていた状況下、マニラにいた連合国軍最高司令長官マッカーサーは、至急日本の降伏に向けた正式な手続きをするため、大本営に対し、日本政府、大本営の代表使節団のマニラへの派遣を要請しました。

 日本の代表使節団は、ソ連が北海道に侵攻するまでに一刻も早く、マニラでの手続きを終えて帰国する必要がありました。 マッカーサーとの降伏に向けた手続きが、電報などでできるはずがありません。 

混乱を避けるため、マッカーサーは、代表使節団の使用機材、外装、通信波長に至るまで細かく指定し、機体の塗装に関しては『全面を白色に塗り、胴体の中央部に大きな緑十字を描け』としました。 「緑十字飛行」「緑十字機」という名称はこれに由来します。 

この飛行は8月19日に本土と伊江島の伊江島飛行場間であり、伊江島からマニラまではアメリカ軍機で移動しました。 当時は厚木航空隊事件が発生し、抗戦派からの妨害が予想されたため、緑十字機には米軍機が護衛として随伴しましが、最後まで緑十字機への攻撃はありませんでした。 まだ、米国軍機が日本の上空を飛ぶのは危険だったため、敢えて日本の機上作業練習機「白菊」を緑十字機に塗装して使用したのです。 

連合軍の日本上陸後、日本による飛行は禁止されていましたが、日本政府の要請により、終戦処理連絡飛行がGHQの許可により実施されることになりました。 1945年10月10日のGHQによる航空機の全面飛行禁止の指令が出されて、計27機の緑十字機による国内運行は終了し、1951年(昭和26年)に日本航空による民間飛行が開始されるまで日本の航空機関は皆無となりました。 

何か勘違いしている人がいるようですが、「緑十字機」とかつて存在した製薬会社「ミドリ十字」は何の関係もありません。
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この回答へのお礼

詳しく解説ありがとうございます。
最悪、間に合わなかったら電報で簡単には伝えてたかもしれませんね。

お礼日時:2023/11/05 13:14

そのドキュメタリーを見ていませんが、眉唾物ですね。



マッカサー元帥が厚木の飛行場に降りての、第一声は「ドクター・イシイ
は何処に居る」です(元帥の書記官が記録してます)
人体実験のデータが欲しかったのです、このデータをGHQに引き渡す
事により、731部隊の責任者は戦犯の罪を免れ、緑十字社を造り、
昭和で輸入した血液製剤でエイズ患者を多く生んだ事件は、未だ
記憶に新しい事柄です。

人体実験は当然、許される事では有りませんが、そのデータは超貴重
な物ですから、電報や郵送では、機密が漏れる可能性が有るので、
使用出来ませし、731部隊に取っては、自身の命を守る為の
物ですから、マッカサー元帥に手渡しするのが最善でしょう。
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