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小林多喜二は歯は折れブラブラ顔面はバットで殴られボコボコ頚には絞め殺された後がくっきりで喉の骨が折れていたとあります。
一目瞭然の殺人なのに家族はなんで警察に殺人事件として届けでなかったのでしょうか?

A 回答 (3件)

真実は闇の中でしょうが、プロレタリア文学は嘘・誇張が多い。


手塚英孝『小林多喜二』紹介「警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に多喜二を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった」とあるが誰が見たのか?特高側だった三田村氏の書籍を読むと、思想犯には懐柔していた様子が伺え、多くの転向者が居た姿が読み取れます。左翼系の記述には、何でも特高が残虐で悪いとう刷込みや、戦後の一方的な風潮の影響もありそうな気がします。(参考資料)【大東亜戦争とスターリンの謀略 三田村武夫(著)】少ないですが、特高の書籍もありますので、当時の様子から常識的な状況を考えるのが良いかと思います。
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この回答へのお礼

あなたに会えてよかった

小林多喜二が拷問死したとの伝説は戦後
江口渙が新聞に投稿したことから始まります。遺体をそのまま写したデスマスクは江口の言うことと違い歯もちゃんとあります。バットで殴られた傷痕もありません。また証拠と言う有名な二枚の画像もありますがそれぞれの右胸脇を見ると仰向けは傷痕はないのに横向きは酷い傷痕があり別人です。このフェイク画像を
多喜二側の要請で警察に駆けつけた弁護士が著書で使っています。
また仰向けの遺体の状態は江口の言う拷問とはまったく違い大腿部の傷痕?は墨をぬったようです。
そもそも何時撮影したか分からない写真で証拠になりません。またそれぞれ
ふんどしのみと腹巻きのみで服装が
違いますのでその時間差も説明が必要でしょう。いずれにしても全く証拠にはならない代物です。
また多喜二の弁護士が証拠薄弱で告訴はせずそのままになったの記録もあります。しかも証拠薄弱は秘密にされ2018年に発見されました。
そもそも警察の説明に納得して引き取り
支援の弁護士や医師や同盟の江口は
解剖をさせないから証拠がないと言いながらほとんど22日近い21日の深夜に遺体が帰宅して23日の3時に火葬したと多喜二は言う。となると死亡届けの提出は22日辺りが推測され多喜二側は
心臓麻痺の死亡診断書を提出したことになり解剖しなかったと辻褄があいません。慈恵医大で5時まで解剖しろしないで押し問答したとありまので解剖前に
心臓麻痺の死亡診断書を提出した可能性が大きいです。多喜二は証拠薄弱もそうですが都合の悪い事実は隠しますので
行政に死亡診断書から火葬許可を何時だしたか明らかにしてません。
都合の悪い事実は隠してますので。
この度は三田村さんを紹介して下さり本当にありがとうございます。
是非読んでみます。
また特高に関しての本も読んでみます。

お礼日時:2023/11/28 21:50

当時は治安維持法という超悪法があって、反政府の思想を持ったり広めたりすれば、最高刑は死刑。


 また当時は政治犯だけでなく一般の刑法犯にも取り調べに拷問が認められていたので、共産党員の小林多喜二は特高警察(内務省内の思想警察)で特に酷い拷問を受けて死亡したと言われています。
 で、特高警察が拷問で殺害しても、取り調べ中に心臓麻痺で死んだと言われたら、遺族は何も言えなかった。
 そんなこんなで政府や軍部に何も言えない暗い時代だったのです。
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この回答へのお礼

助かりました

ありがとうございます
拷問は認められていないと思いますが

お礼日時:2023/11/27 21:35

亡くなったのが、1933年(昭和8年)ですよ


太平洋戦争が始まる8年前!
警察に届け出ても追い返される時代だったような気がします
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この回答へのお礼

助かりました

ありがとうございます。
当時も法治国家ですので一目瞭然の殺人遺体はさすがに追い返されないと思いますが。

お礼日時:2023/11/27 21:52

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