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YS-11は民間企業ではなく官民共同の日本航空機製造㈱と言う会社が開発を行っていましたので三菱重工以上の技術力を集約する事が出来たんですか?

A 回答 (5件)

戦前、戦中の航空日本の重鎮による基本設計をもってしても、戦後の民間輸送機には及ばなかった。

機体は遥かに大型化したし、屋外に駐機されるという概念もなかったし、過去には存在していなかった操縦復元性の規定や安全基準も増えた。

新三菱出身の東條輝雄氏のリーダーシップは僥倖ではあったけど、川重出身の土井武夫氏の思考の柔軟さを除けば、当時若手と呼ばれた方々の頑張りと試行錯誤が与えた影響は大きいと思う。

それらの人達は、富士重や日飛、全日空からの出向者、空自からの転籍者だったりするのだけど、戦前戦中の基準でいえば、「既に一人前の若き主任設計者(実験者)」、当時の民間輸送機のノウハウからすれば「若き挑戦者」程度。それでも、各社はエース級か準エース級を出していた。大御所と呼ばれる方々は「製造設計には関与しない」と言って加わっていない(土井氏を除く)。

多分、大御所が加わっても結果に大差はないと思う。土井氏が異常に柔軟で大胆だったのは恐らく個人的素養。
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YS-11と同じターボプロップのロールスロイスダートエンジンを使った期待としてはアブロ748(ホーカーシドレー748)という旅客機があります、この機体、ちょっと小ぶりだけど、YS-11にそっくりなんですよ。

ロールアウトはYSより前です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96 …

こちらは450機製造ですから、YS-11の倍以上売れています。この当時の、このクラスのベストセラーは同じくダート双発のフォッカーF27フレンドシップでこれは3倍作られています。後発で似たような機体になってしまったのも成功しなかった要因の一つです。
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その会社は官民一体で、旧日本軍機を設計・開発した堀越二郎、土井武夫、菊原静男、太田稔、太田英正、木村秀政各氏など名だたる技師を集められたのはそういうことですね。

但し各氏とも民間機の設計経験はなく操縦するには武骨なところがあったそうです。

機体の設計は良しとして、長いブランクの有ったエンジンはロールスロイス社の物を使うしかなかったです。何しろレシプロエンジンからジェットエンジンに変わってますから。

筋は良かったものの外国為替の円が当初の1ドル360円から280円くらい(不確かです)に高騰し、採算が全然取れなくなって製造中止です。その後しばらく自衛隊機やローカル線で使われました。私もローカル空港へ行くのに初めて乗りました。エンジンが唸って離陸するときには目が潤みました。

今円安、円安と騒がれますが、円安は決してそんなに悪いものじゃないです。為替操作せずに円安でいてくれるってそこそこラッキーです。
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官民一体となって頑張ったそうな。



でも肝心のエンジンはロールスロイス製だし、部品の何もかもがコスト高で商業的に競争力も営業力も無く、そんなに売れなかった。
世界最後の人力飛行機だそうです。(舵の操作)
良く乗ったけど、独特のダートエンジンの高音が機内でも煩かったし、
ジェット機よりも低い高度を飛んでたから良く揺れた。
太平洋戦争の頃の技術では、快適性は望めませんでした。
STOL並みの離着陸性能を追求し過ぎたのかな?、
まるでDC-3の兄貴分みたいに思う。
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せやな。



当時は通産省と東大が音頭を取って、輸送機設計研究協会(輸研)を設立し、そこに民間各社が参加した。

参加したメーカーは新三菱重工業、川崎航空機、富士重工業(現・SUBARU)、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の機体メーカーと住友金属、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気(現・東芝)、三菱電機、東京航空計器の部品メーカーであった。
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