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江戸時代の和算やらは例外として、理学工学的な学問というものはありませんでした。これはなぜでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

これは、なぜ西洋で、理系などの学問が


体系化されたか、という問題だと
思います。

羅針盤、印刷、火薬、紙などは中国発祥
ですが、中国はそれを
理系の学問として体系化出来ませんでした。

西洋で出来たのは、キリスト教という
宗教があったからです。

キリスト教は一神教で、神は全知全能です。

こういう宗教と、体系化は親和性が
あるのです。

体系とは
一定の原理で統一的に組織された知識の全体を
意味します。

日本や中国は多神教で、そのため
一定の原理で統一する、ということを
やらなかったのです。
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この回答へのお礼

非常に宜なるお考えです!宗教間の違いというのは社会構造に圧倒的な影響を及ぼします。

お礼日時:2024/04/23 07:39

「なぜ」って問うほど不思議なこと?



「理学工学的な学問」を全て例外として除外するんだよね? その状況で「理学工学的な学問」って, 一体どこに存在する余地がある?
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この回答へのお礼

なぜ西洋のように近代に自然科学系の学問所がなかったのかです。

お礼日時:2024/04/23 07:38

一子相伝、免許皆伝とかで、知識、技術は内々で秘め事として、


伝えられ、皆が学べる環境の学問としての発想が無かったのだから
でしょう。
倭人は、新しい物事は、直ぐに取りられ、それを見ただけで次々と
伝わって行く器用さが有るので学問として、纏めずしても伝承された
からとも思えます。

鉄砲造りは短期間で伝わり、30万丁を保有する、当時の世界で
最強陸軍だったので、スペインはジパングへの侵攻を諦めたとかの
説もあります。
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この回答へのお礼

極度に民主的ではなかったということにもなりますね。

お礼日時:2024/04/22 11:30

ちょっと思い出しました。


映画「火天の城」


例えば、
・建築学なら、この映画で描かれている棟梁。
・冶金学なら、刀鍛冶や村の鍛冶職人
・機械工学は、動く人形などを作った細工師
などなど、

 芸事で「守破離」という言葉があります。先輩から学んだ知識を学び取り、自分自身が新たな工夫を加え、元のゲイを発展させるんですね。

 日本では、その守破離が芸事だけではなく、知識がそれを教える学者の「独立した学問」としてではなくて、様々な実践の中で経験が知識として親方から弟子に伝承されつつ発展したと言うことではないですか
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この回答へのお礼

はい。ですからなぜ学問所として体系的に学ぶものでなかったのか?ということです。

お礼日時:2024/04/22 09:47

理学工学的な学問というものはなかった、とあなたが


勝手に思っているだけ。平賀源内などの
勉強しましょう。あなたは何も知らない、ということを
前提に質問しましょうね。
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この回答へのお礼

あなたと同様「無知の妖精」です。

お礼日時:2024/04/22 09:19

八代将軍吉宗の時キリスト教以外の洋書を解禁したので科学的学問が多く普及しています


杉田玄白の解体新書や北方探検 測量技術 宇宙物理学なども開花しています 江戸の理系は世界水準としてとらえられています
ペルーが来た時も対応できるだけの日本独自の世界地図をひろげ
異人の持っていた地図と寸分たがわなかったとか
渡来した船の測量計算をその場でしたと言います
神社には星の動きをクイズにして問答をしていた庶民が多くいました
薩摩藩などは機械工学に優れていたから
異人の持っている鉄砲を借りて解体してすぐに復元出来て返却できたそうです
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この回答へのお礼

>江戸の理系は世界水準としてとらえられています
Oh,yeah(*'▽')!

お礼日時:2024/04/22 09:21

学問の定義は幅広いです。

学問とは四書五経(教義)を学ぶものだと思っていた昔の日本人。近代科学は自然をアプローチし客観的知見を見出し体系化し人類の生活利便に資したり、知的好奇心を満たす。
学問と認識していなくても土木建築、布、刀剣の製造は立派な工学です。天体観測して暦を作るのは古くからあります。
学問と認識していなかっただけです。
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この回答へのお礼

その学問として認識してなかったのが何故かなのです。

お礼日時:2024/04/22 09:21

農業の種を撒く時期、漁業、運送業、暦と天気予報、重要です。


鉱山から発掘して、金や銀に精製する技術、ありました。
計算ができると、そこからいろいろな学問に発展していきます。
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この回答へのお礼

それを体系化していなかったということです。

お礼日時:2024/04/22 09:22

「江戸時代の和算やらは例外として、理学工学的な学問というものはありませんでした」とは言えません。



江戸時代には確かに掛け算・割り算、利子計算、金銀銅貨の交換比率、測量などの算術がありましたが、作物の収量を上げるために「農書」が読まれ農学も盛んでした。

また長崎を通じて入ってきたヨーロッパ医学(蘭方)も学ばれ、鳴滝塾では外科・内科・産科・眼科などが教えられていました。

さらに蘭学がありました。杉田玄白や前野良沢は処刑された罪人の腑分けを行って「解体新書」を出しています。蘭学塾もできて人びとが殺到し、天文学・物理学でも最先端の研究成果を江戸時代に出していました。

植物や動物・鉱物などの自然を研究する学問(博物学・本草学)は江戸時代中ごろには非常に盛んでした。多くの学者たちが誕生し、植物採集や図鑑の作成をしています。
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この回答へのお礼

Yeah!

お礼日時:2024/04/22 09:23

世界最大の木造建築物とか、理学工学的学問が無ければ出来ないよ

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この回答へのお礼

なかったのにできた。

お礼日時:2024/04/22 09:23

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