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ゲノム上に散らばる「縄文人由来の変異」の保有率は、京都府・福井・三重・奈良・和歌山県と四国4県が、1.5%前後で、日本では少ないグループです。
近畿については、弥生人が大量に入植したから、縄文人の比重が下がった、と思っています。

質問は、なぜ四国4県では少ないのでしょう?

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A 回答 (4件)

http://ofgs.aori.u-tokyo.ac.jp/kawahata/PDF_file …

落葉広葉性のドングリは東日本に,照葉樹林のドングリは西日本に分布しているが,落葉広葉性のドングリの方が単位面積あたりの生産高が高かった.さらに,三内丸山遺跡などの縄文人にとって最も重要な食料資源であったクルミ,クリ,トチなどの大型堅果類や河川を遡上するサケやマスなどの資源は,東日本にひどく偏っていることが知られている.サケやマスの漁獲高は,北海道で特別高く,太平洋側の北関東から東北まで,日本海側の北陸から東北までの地域で高くなっており,これらは縄文人の生活に非常に大きな恩恵を与えたものと考えられる.本州のこれらの地域では,上記の食べ物に加えてシカ,イノシシなども多く,狩猟に十分依存した生活を営め,人口支持力が高かった.

縄文人の人口が少なければ、その後に渡来人が流入し、気候も変化し、中国・四国・近畿にも渡来人が生活出来る状況に気候風土は変わっていれば、畑作、稲作などで暮らせる人も増えて、結果として、縄文人比率が、他地域よりも低くなってしまうのでしょう。
「ゲノム上の「縄文人由来の変異」が、なぜ、」の回答画像4
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
縄文時代は、近畿四国の人口が、他地域に比較し明らかに少ないですね。

お礼日時:2024/05/13 13:14

> ゲノム上に散らばる「縄文人由来の変異」の保有率は、京都府・福井・三重・奈良・和歌山県と四国4県が、1.5%前後で、日本では少ないグループです。



そうした情報の元は、これでしょう。
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/8252/
それが情報元であるならば、これを見てはどうですか。
https://www.cell.com/action/showPdf?pii=S2589-00 …

ここには、縄文時代の人口の多少に地域差があること、縄文時代末期には人口がまばらだった近畿・四国地方に、弥生時代に渡来人の人口が増加し、この地域では、他の地域に比較して相対的に縄文由来の人の比率が下がったという説明がされています。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
縄文人は、概して東日本に多くすみつき、西日本には少なかったくのですね。
弥生人が近畿・四国に入植すると、縄文人の比率が<相対的に>下がったのですね。

お礼日時:2024/05/07 13:37

畿内と四国は、淡路島を経由して行き来しやすいですし、阿波国(徳島県)が古代では粟(あわ)の産地であり、阿波国産の粟を畿内に運搬したルートが淡路島という地名になっています。


地名からも畿内と四国は古代から非常に密接な交流があったことが明らかと思われます。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
<畿内と四国は古代から非常に密接な交流があった>のですね。

お礼日時:2024/05/05 20:48

同じ理由でしょう


近畿から、瀬戸内海を淡路島経由で渡って入植したか
もしくは弥生人の大規模入植は四国方面の方が初期段階に行われたのか
のどっちかだと思います

北九州と近畿の位置関係を考えると、四国はその行程の中間ですから、北九州から押し出された弥生人が、瀬戸内を渡る間に愛媛などに住みついてコミュニティを築いた一派がいた、と考えるのが自然かなぁ

南方からの直接渡来説を考えると、もしかしたら黒潮に乗って四国にたどり着いた弥生人がいたのかも…なんて考え方もあるでしょうけど、まぁ飛躍し過ぎですかね
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
九州から来た弥生人は、山陽沿岸で目の前の瀬戸内を渡り、まず愛媛・香川に入植したのですね。

お礼日時:2024/05/05 18:09

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