A 回答 (8件)
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No.8
- 回答日時:
大政奉還後、坂本龍馬の発案した新政府の人事案に、徳川慶喜をそのままトップに近い地位に据えるというのがあった説もあります。
また、徳川家は大きな領土を持っていました。それを手放す代償として、名前だけの爵位ならいくらでもという感じでしょう。
No.7
- 回答日時:
>明治政府は徳川幕府と敵対して勝利した
この認識は正しくないです。なぜなら徳川慶喜は「国賊になりたくないから、大政奉還した」からです。
薩長土肥と幕府の戦いは、戦国時代と同様に内戦で最終的に薩長土肥に対して天皇がお墨付きを与えたので「官軍」になったわけです。ハッキリ言えば、日本の内戦としてはこの時点で決着がついています。
戦国時代でいえば秀吉が関白を拝命したときと、家康が将軍を拝命したときと同じだからです。
これは「天皇が政治権力の頂点として任命した人に向かって歯向かうのは国賊」という日本的なルールに従っているのです。
なので、徳川幕府がある江戸城まで官軍が進軍し、無血開城を求めたのが「天皇の意思」であり、ここまでは天皇も「慶喜の将軍職を維持」していたわけですが、江戸城包囲戦が起これば当然に将軍職を解職して、官軍に「国賊である徳川慶喜を討て」という勅許を出すことになるわけです。
それを分かっていた慶喜は、父親の斉昭の影響もあって自分の主人である天皇の命に従うことにしたのです。
なので天皇も「自分の権威にひれ伏し、江戸城を渡して大政奉還した慶喜をちゃんと処遇する」ことにしたのです。その結果、幕府側のほとんどの大名は「天皇に恭順すれば許してもらえる(つまり平安時代と同じように朝廷の中で生き残れる)」と理解したのです。
ならば将軍が大政奉還したのですから、天皇に恭順するのは当然で、その結果、明治政府ができてたった4年で廃藩置県が可能になり、廃藩した大名たちは華族という立場になれたのです。
明治政府は敵対して勝利したのではなく、結局「天皇の威光に慶喜がひれ伏した」のです。
No.5
- 回答日時:
日本の敗戦当時、海外に残っていた武装した660万人の日本軍将兵を速やかに武装解除させ、内地に帰国させるために、GHQが天皇陛下に対する日本人の尊崇の念を利用したのと全く同じです。
日本中に居た徳川恩顧の武士たちを、新政府に恭順させるために、慶喜を公爵にして、武士たちの徳川家(慶喜)に対する尊崇の念を利用したのです。No.4
- 回答日時:
#3さんの回答に一票です。
徳川慶喜が時の政府に抗していたならば、大きな内戦になっていて、
日本列島は欧州列強の植民地支配されていたと思います。
徳川慶喜が自ら蟄居謹慎したので、、多くの藩が従ったのです、それでも
収入源が無い政府は藩を潰そうと画策しましたが、各藩は応じず戦に
なりませんでした。
度重なる納税に耐えかねて明治17年(1884)10月31日から11月9日に
埼玉、群馬、長野、に跨る大規模な秩父事件(農民一揆)が起き、国内は
不安定でした。
勝海舟が復権の為に、色々と政府に働きかけて、1872年(明治5年)
従四位に成り、1880年(明治13年)正二位、1888年(明治21年)従一位
公爵相当と徐々に官位が上がってます。
廃藩置県をスムースに行う為に、旧幕臣の勢力を押さえる為にだと
思いますが。
新10000万円のお札に成る、渋沢栄一は、徳川慶喜が政治に関わり、
利用されるのは、良しとしなかったようです。
No.3
- 回答日時:
実は明治政府樹立に対する功労者でもあるからです。
最後まで江戸幕府が敵対をした場合、明治政府の力はかなり消耗しているでしょう。
この敵対していた功労者を冷遇してしまうと、明治政府の信頼が揺らいでしまいます。
No.2
- 回答日時:
日本の文化が影響していると
思います。
将棋は御存知だと思いますが
取った駒を利用出来る
という特異なルールがあります。
こういうのは、多神教たる神道の
影響が強いから、と言われています。
神道は多神教で、敵にも神様が
ついています。
だから、むやみに殺したり
すると、相手の神様に祟られる。
それで、戦争に勝っても、敵を祀る
なんてこともやります。
靖国には、敵である米国兵も祀られて
います。
そういう基本的な心情があるところに
外圧があり、内輪で揉めている場合じゃ無い。
殺して、幕臣達の反感を買うよりも
優遇して、国内をまとめるのが先決だ。
そんなわけで、榎本武揚も新政府の
高官に迎えられています。
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