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幕末(文化5~10年頃)の出雲国の国司(国主?)は誰だったのでしょうか。そもそも江戸時代、藩体制になったのに国司(国主?)はいたのでしょうか。勉強不足で申し訳ないですが、知っていらっしゃる方、ぜひ教えてください!!

A 回答 (11件中1~10件)

NO.4,6,9です。


 お公家さんの入った風呂の残り湯をありがたがる話が、ネットに出ていないか探して見たらありました。↓
http://www.kmk-net.com/page_006_09.shtml
 お公家さんは位は高いが貧乏してます。位は徳川将軍より同等か上の五摂家でも見入りはせいぜい大身旗本クラスです。
 下の方の公家さんになってくると目も当てられません。日光例幣使は本式の大層な行列ですが、もっと簡易な朝廷のほんのお使いで地方へ下向したときでも、このようなことがあったと想像されます。
 県立図書館で長州藩史の詳しい資料を調べれば、何時誰が来たかわかるかも知れません。
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この回答へのお礼

公家さんの可能性大ですか!!ご回答を読んで、なんだかそんな気がしてきました。
添付して下さったサイトも見ましたが、残り湯はありがたいんですね。新しい可能性が出てきて嬉しいです!!
いろいろと調べて下さってありがとうございました。今度、図書館で調べてみたいと思います。

お礼日時:2007/01/25 20:53

#9さんの指摘のように公家の可能性があり,もし「文化年間」が不確かな情報なのであれば,七卿落ち(文久3年)に絡んだ事柄の可能性もあるような気がします。

文化年間は幕末でしょうか。
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この回答へのお礼

文化年間は確かです。家の額には確かに「文化7年(8年?)」と記されていました。七卿落ちよりは前だと思います。ご指摘ありがとうございました!!

お礼日時:2007/01/25 20:13

また、新しい情報が出てきました。


 長門の国に出雲の殿様が来ることはありません。
 公家さんの可能性大ですね。
 前の回答で洩らしてしまいましたが、公家の官位官職とは別枠(公家の方が本物といえば本物)ですから、出雲守はあり得ます。
 ただし、○○守は地方官ですから、公家の中でもそんなに偉くない人でしょう。諸太夫クラスかもしれません。
 天皇の次にエライというような人ではありません。
 公家さんが入った風呂の湯を有り難がって、貰って帰りそれを飲むという話はよく聞きます。万病に効くという信仰が庶民の間にはありました。
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 No.4、6です。


 同時期に松江藩主以外に出雲守を名乗る人がいたかどうかの問題ですが、その可能性はあると思います。
 たとえば幕末の志士で有名な真木和泉守ですが、もちろん和泉国の太守ではなく、出自は神主さんです。
 神主さんは大層な官位官職をお持ちになっている場合があるようですが、ご自分のそのときの実力や勢威とはかなりかけ離れたものになっています。
 神主さんに対する官位官職の乱発については、下のURLにその辺の経緯が出ています(このサイトの記述はまあ信用できそうです)。
 ただ、神社の歴史は非常に古く、大昔は大豪族であったりする例もありますから、一概に頭からそれはヘンだと否定するわけにもいきません。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Part/6305/pa …
 また戦国時代には官位官職の私称などもありましたから、そういう人の末裔が、「実は先祖が出雲守であった」などという可能性はゼロではないと思います。
 当時の大名旗本クラスに出雲守がダブって存在していたかというと、調べたわけではありませんが、いなかったんじゃないかと思います。
 下のURLにもあるように、官位官職の名乗りについては幕府が交通整理をし、大名統制に使っていましたので、出雲守がダブっている可能性は少ないと思いますが。とくに出雲の松平家の家格から考えてそのように思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% … 
 
 出雲の国内で、藩主以外の人が出雲守を名乗るってことは、畏れ多く、またこわくて出来ないんじゃないかな。
 ですから、質問者さんのご先祖様のおっしゃる「コクシサマ」は、大殿様の第8代松江藩主松平斉恒公である可能性が強いように思います。
 質問者さんのおうちの当時のお屋敷が、大きな長屋門を構えていて・・・ということであれば、まず間違いないような気がします。

この回答への補足

詳しく説明してくださってありがとうございます。実は、私は出雲人ではないんです。長州藩、長門国に住んでいます。もちろんその問題の家も長門国にあります。それで祖母にもう一度聞いてみたのですが、まとめると↓↓
・出雲の国司(国守?国主?)様がうちに泊まりに来た
・泊まりに来るにあたって、風呂を作り直した(五右衛門風呂を作った)
・その人が入った風呂の湯を近所の人が一升瓶を持ってもらいに来た
・その人は天皇くらいに偉い人
・その人にも苗字をもらった
・家の仏間に新しい苗字をもらった記念?みたいな金の文字の額がある(金は本物かはわかりません。)
とのコトでした。「藩主」ということで解決…したのかもしれませんが、家が長門国にあるとなると領内見回りとは考えられないし、天皇くらいに偉い人というのは、昔の人が大げさに言っただけだと思いますが、その人の入った風呂の湯を近所の人がもらいに来るくらいの人ってどのくらい偉いんだろう…、という疑問が浮かんできたのですが…。
藩主様の入った風呂の水ってほしいものでしょうか。
ここまでくると、全てが実はウソだったような気さえしてきます…

補足日時:2007/01/23 20:55
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#2です。

補足を拝見しました。
国造(くにのみやつこ)は音からも意味からも無さそうに思います。

他の方の言われるよう,国主(国守)または出雲守でしょう。
しかし,「出雲守」を名乗る人が同じ時期に複数存在する場合,出雲の藩主ではない,出雲と無関係の人の可能性もないでしょうか。
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この回答へのお礼

その可能性もあるかもしれませんね。ただ、うちに泊まったお方はけっこう偉いお方のようなので、松江藩主と考えるのが妥当なのかもしれません。ご回答ありがとうございました。m(_ _)m

お礼日時:2007/01/23 20:51

 NO4です。

補足を拝見しました。
 うーん、そういうお話ですと、結論としてNO.5さんの線が強いですね。
 殿様が領内見回りのときなど大百姓(郷士等)の家へ泊まったという話は、出雲に限らずよく聞くところです。
 出雲で一般人から殿様といわれる人は(1)松江藩主、(2)支藩の藩主、(3)他の高位の武士 ということになると思います。
 
 ご先祖様が「殿様」と言わず、わざわざ「コクシ様」と言い残されたのは、上の(2)や(3)の人ではなく一番エライ(1)松江藩主すなわち出雲の国の支配者(国主OR国守)の意味であった可能性が一番強いですね。
 それと出雲弁の発音は東北弁と似ていますから、コクシュ→コクシに聞こえるということはないのでしょうかね。
 あるいはご先祖様が国主の古い呼称「国司」を知っていてコクシと言ったのかも知れません。
 いずれにしても、出雲で一番エライ殿様のことを指していた可能性が強いと思います。
 
 出雲大社家といえば相当な権威はあったと思いますが、その時代には出雲の国の実質的な支配権はありません。そこの一番エライ人のことを一般人がどのようにお呼びしていたか私は知りません。
 幕末のことであれば、つい百何十年前のことですから、地元であれば現在の古老がどのような言い方をしているかで、ある程度推測できると思いますが。
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「国造」は7世紀以前のもの


「藩」は江戸時代のもの
時代がまったく違います。
「国司(こくし)様」ではなくて「国守(こくしゅ)様」ではないでしょうか?

この回答への補足

そうかもしれません。その辺は曖昧で、私もよく分かりません…。
それで「国守様」というのは「藩主」と同じと考えていいんでしょうか?

補足日時:2007/01/23 20:40
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 質問者さんのおっしゃる国司(国主?)の意味ですが、そのときの実質的な支配者は誰か、ということであれば、そのときの第8代松江藩主松平斉恒です。

松江藩の縄張りは出雲一国ですのでOKと存じます。
 松平斉恒の官位・官名は 従四位上 出雲守 左近衛権少将 ということですので、「出雲守」が国司という古代律令制度に基づく官名にピッタリ当たっていてヨカッタですね。
 なぜヨカッタかといえば、歴代の松江藩主は代々出雲守ではありません。↓
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F% …
 出羽守という人の方が多いくらいですが、出羽守といっても実際に出羽の国を治めたのではありません。出羽守という名前で出雲の国を治めていました。
 ちなみに出羽の国は現在の秋田県と山形県を合わせたような大きな国で、江戸時代には10以上の藩に分かれ、それぞれ藩主の「○○守」などの官職名はバラバラで実際の領地とは合致しないものがほとんどです。
 江戸時代には古代の律令制度に基づく官位・官職名は、実際の職務とは無関係にほとんど形骸化し、名誉的なものに変質していました。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …
 

この回答への補足

詳しい説明ありがとうございます。今回この質問をしたのは、我が家に文化5~10年くらいに出雲の国司様が泊まった、という言い伝えがあって、その国司様に今の苗字をつけてもらったらしいのですが…。それは誰なのかなぁと思ったからです。他の回答者様の意見も踏まえて、やっぱり松平斉恒と考えるべきなのでしょか。

補足日時:2007/01/23 01:37
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3% …
松平 斉恒が、文化3年に家督を継いで、文政5年に亡くなっている。
当該の 文化5年から10年には 出雲守となっているはず。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。それで、下の方と同じような補足質問になってしまいますが、出雲国造とは違うのでしょうか?

補足日時:2007/01/23 01:28
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出雲国造の称号は出雲大社の「祭祀長」が代々受けついでいます。


中央から派遣された形の国司や藩主とは別の存在では無いでしょうか。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2% …

この回答への補足

URLまでつけて下さってありがとうがざいます。それを読んだ上での補足質問ですが、出雲国造というのは、藩主とは別でいるということでしょうか。出雲国だけ藩とは違った組織が支配していたということでいいんでしょうか?

補足日時:2007/01/23 01:21
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