プロが教えるわが家の防犯対策術!

深く考えずにできる、同じことの作業を繰り返し続けていると無心になって、意図しないところでものごとが考えられたり、閃きやアイデアが浮かんだり、またストレス解消にもなるような気がします。

たとえば私の場合その作業のひとつが「掃除」なのですが、結局何時間続けても飽きないのは、実は頭や心の中で整理されているから(したいから)、なんて思ってます。

その理由について心理的、生物学的、哲学的それぞれの方面からの構造を教えていただければと思います。

A 回答 (14件中1~10件)

お返事いただき恐縮です。

本業はものつくりと思っていますが、生来の怠け者で、本業で食ってはいません。しかも、50を前にしてまた学生を始めてしまいました。
話題がせっかく面白い方向に進んでいるのにつまらない横槍が入り、ちょっと残念です。でも、そういう人生もあるのかと、そういう考え方の人もいるのかとちょっと学習。わたしの場合は、せっかく人がアドバイスという意識ではなく、楽しい会話に口をはさんでみたような気分なので。
わたしは、無心でなべ磨きをするのがすきです。またなべ磨きが実は一番無心になれる仕事です。
かつて動物占いがはやったときに、わたしの友人がこれはあたっていると言ったこと、洗濯機の水流のようなものを見ているのが好きということでした。没我して無心になれるのは人それぞれです。
人それぞれながら意味がなく何を獲得しようという野心もなく、何がしかの作業・動作に身をゆだねるのは、ゆだねることができ、それについて考えることは人間の人間たる証ではないかと思いいたりましいた。
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この回答へのお礼

再びお越しいただいて嬉しく思います。

>横槍が入り
予測ですがどうせ捨てIDでしょう。ある方に似ています。別件で思い当たることがあるのですが、あまりにもくだらないのでほっておきましょう。

>50を前にしてまた学生を始めてしまいました
私も30にして、学生を再開しました。今の身分こそ、私の今の無心、かもしれません。

>無心でなべ磨きをするのがすきです
心も同時に磨いているのかもしれませんね。私にとっては掃除ですが、ピカピカに磨きあげ、少し汗をかくとこれだけでストレスの解消になります。あとは収納ですね。もっとも近藤典子さんのように機能的過ぎるのも逆に落ち着かないですが。

ご友人の水流のお話は興味深いです。洗濯機の中の渦巻きを見ていると吸い込まれそうで、確かに私も前にじーっと見ていたことがあります。でも目が回りそうでした(笑)。本当に、人それぞれです、大変興味深いです。

再回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/06/11 05:53

frauさん、こんにちは。

ごぶさたです。

以前、僕は人間の意識をたまねぎに喩えましたが、
それを思い出しますと、

人間には、「生活する自分」である顕在意識と、
その奥には、より深い意識層があります。
それは、潜在意識です。
さらに深い中心の意識は「魂」で、これが真我とも、
「本当の自分」ともいわれるものでしょう。

人間は起きている時は、顕在意識で頭を使い、
色々と思考します。
だいたいは、自分中心の心や、
欲の心から思念を発信しますので、
それと同調した他の精神思念を引き込むため、
様々な思いや現象が起こります。これがストレスです。

昔から、瞑想や座禅がされてきたのは、「無心」になるためです。
「無心」になっている時は、この我欲の心を出していない時なのです。
だから疲れないのです。
また、真我が発揮され、閃きやアイデアが浮かぶのです。
睡眠をとると、疲労が回復するのも、
表面意識(顕在意識)が働かないために、
雑多な我欲の精神思念を出さず、また引き寄せないからです。
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この回答へのお礼

yoh001さん、お久しぶりです!事情あってお礼が大変遅くなりすみません。
「>以前、僕は人間の意識をたまねぎに喩えましたが」
玉ねぎ!。かのスレッド、思い出しました(笑)

「>「魂」で、これが真我」
「自我」は個性が豊かですが「真我」は個性の集合体、「one」だと思います。
前者はバラついて混沌としてますが、後者は混沌がひと固まりになっているイメ
ージです。

「>睡眠をとると、疲労が回復するのも」
身体レベルではそうだと思います。夢は顕在意識が潜在意識に抑圧していたもの
を記号となって顕すものですがたとえば私など毎晩のように見る悪夢のために起
きるとぐったりしていますので、逆に起きているほうが疲れません。眠ることも
ストレスになっている場合もあると思います。覚醒しているのはむしろ睡眠中と
いってもよいかもしれません。これは私の場合なのですが、現在、生きているこ
とのリアリティは起きているときよりも眠っているときの方が強いです。まあこ
れも「昼夜逆転」の生活なのでしょうか(笑)


参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/26 00:00

1.無意識的状態


2.意識する
3.「無心」=意識を残した上で、無意識的状態を作り出す

私が考えたのは上のとおりで、「無心」は3にあたると思っています。

1は、まったく何も自身では感知しない・できない、又は寝ている時。

2は、我々の生活している上での一般的な状態であり、集中した状態というのは、周りの状況の把握ができなくなることもあるため、ある意味で1も含んでいるのではないかと思います。

3は、一般的に生活していては、いたることのできない状態。1と2は視野に入っても認知できない場合がありますが、3はそれらを統一している状態ではないかと思います。
また、2と3の間には、自分が「感じた」時点で反応に入るという状態、というのもあると思います。

とはいえ、わたしの言う3というのは、あまりに高次にありすぎるので、この3段階にも層が分かれているのだと思っていますので、低次ですが自動車を運転しているときなども2と3の間にあるのかもしれません。

(a)上記した3段階と(b)その各段階の中にさらにある層、そして、(c)ピラミッド状のような低次から高次に至る層分けの各層にある(a)、という3つがあると思います。

具体的に、メジャーリーグで活躍しているイチロー選手を例にとります。
彼は、低迷していたとき、頭で考えた「打てるボール」と身体判断した「打てるボール」が違う、ということを口にしていますが、つまり、「自分が「感じた」時点で反応に入るという状態」といえると思います。低迷から脱せた時がそのレベルでの3に至った状態なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

2=顕在意識、1=潜在意識、3=深層意識ともいえますね。
この3つの層の中にも層があるという視点はとても興味深いと思いました。
催眠状態などは1と2との間に起きているのでしょう。
「>(b)その各段階の中にさらにある層」
というのは興味深いと思いました。

イチロー選手は試合前にイメージトレーニングをしてから挑むそうですね。
彼の才能とは「>身体判断した「打てるボール」」とは深層意識にコンタクト
できることかもしれません。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/26 00:00

frauさん、こんばんは。

またまたvagabondです。
お返事ありがとうございます。それに対して返答したいと思います。その前に、横スレで申し訳ないのですが、Syo-yaさんのご意見、いつも参考にさせていただいてます。僕が探究している哲学と仏教の教えは近いものがあると思ってます。
そのSyo-yaさんのご意見に、「手で気を感じる」とあり、私事で申し訳ないのですが、先日サーフィン事故で利き手を開放骨折して、今もの凄く痛いです。(笑)日頃から哲学というか、人生に対して真正面から向き合っていたつもりが、肉体の痛みを忘れていたようです。心身一体を心がけていたつもりが、つい精神の方へ傾いてしまったようです。今回でそのことに気づきました。

文化や信仰から「無心」に迫ってみたいと思います。
お返事にユングが出てきて、西洋人と東洋人を比べた意見がありました。そこで僕が思ったのは、西洋の運命観は、やはり原罪の意識だと思いました。一生かけて罪を償う運命。それに対して、東洋は、日本のアニミズムを思いました。「神も人間もともに存在する」信仰です。「一生」と区切るんじゃなくって、死んだら神や霊や仏になる思想。生死を越えています。共存する神と交流しながら運命を味わう生きがい。そういう意識が、無心にも繋がると思います。極端な話、僕は無心状態を神と繋がった状態と言ってもいいと思います。

西欧の積み重ねる文化に対して、日本の根本的な運命観は、ただ雨風をしのぐ最低限のものにとどまって、自然となんら断絶のない生活を送る文化だったと思うんです。自然を楽しむ庭園の文化もあるし。西欧だと自然とは切り開き闘うもの。また一生かけて罪を償う時間の概念。時間も物も積み重ねの文化。家は石やレンガで築き、永劫に残そうとする。財産も物も蓄積する。それに対して西欧化するまでの日本は、木で家を作り、家財道具なんて最低限で、その上、火事も地震も台風もやってくる。しかし災害も神のしわざ。嫌ったってしょうがない。くるものは仕方がない。拒否するのではなく、上手く迎合しよう。そういう受け入れる和の文化だったと思うんです。一生かけて積み上げるのでなく、毎日を生きる感覚。風呂に入って「生き返った」とリフレッシュする感覚。台風で家が飛ばされたらまた建てればいい。不作だったら、神頼みして次回に期待するしかない。
話がどんどんズレちゃうから戻します。つまり、エコな文化で自然と一体だったんですね。信仰でも、山には山の神様がいて、台所には台所の神様がいる。神すら共存でまた一体でした。時間も現代みたいにスピード社会じゃなく、沖縄みたいにゆるりとした生活時間だったと思います。



「中庸」についてのfrauさんのご意見が書かれてありますが、僕はこれを哲学で言う「弁証法」にあたるんだと思うんです。弁証法にもいろいろとあるのかもしれませんが、テーゼとアンチテーゼ、frauさんがよく言われる「二律背反」の状態ですね、この対極した状態を昇華する術を僕は弁証法だと思い、昇華が「中庸」に繋がるのだと思ってます。


『私がもろもろの思考をもってここに在る、それは動かしようのない事実、絶対的なものであって、感情とは相対的なもの、いかようにもコントロールできるということです。』『怒るのは自分がブレている証拠なんですよね。』
的を得ていると思います。感情で我を忘れるのは小我であり、自我に囚われた状態だと僕は思っています。そんな自分を常に客観視できるようになりたいです。
また、今ここにいる自分こそが絶対であり、それ以外は諸行無常、移り変わりゆくもので絶対的なものは何ひとつないと思ってます。

『「今、此処の自分」に居ること』
よく言われるけど、今やらないでいつやるの?過去でも未来でもなく、やれるのは今だけなんです。明日やろうと思っても、明日も明日やろうとなって、無責任になってしまう。つまり、やるのは今しかないんです。つまり今にしか生きることができないんです。過去に縛られたり、未来で誤魔化す限り、今に生きることはできないんです。時間は管理してもいいけど、管理されるべきではないと僕は思います。

無我の状態…というよりは大我?無心の状態を僕は、満たされた絶対感とか、真空状態と言ってます。そんな感じなんです。そこには感情を超えた気持ちよさ・・・というか、満たされた気分になります。脳で麻薬物質が出ているのかなと思います。その時、時間の概念はないんです。あっという間に時間が過ぎていたり、逆だったり。まさに今この瞬間に全集中した状態だと思います。
時間と空間は相互依存関係らしいし、そんな次元を超えた瞬間こそが永遠に繋がっていると思います。


『「二律背反」がなぜ至る所に存在しているか、それはきっと「平常心」を学び悟るためにあるのでしょうか?』
今回の質問に沿って回答すれば、まさに人間とは、意識と無意識の両極面を兼ね備えた矛盾した存在であるからだと僕は思います。矛盾しているから悩む。悩むから知りたい欲求も生まれるし、好奇心も沸く。
東大の教授が言うには、現代の若者は、自然から学び取ろうとする能力が弱いそうです。それは悩むことから逃げているからだと思います。悩むなんてカッコ悪い?24時間管理され、競争社会で生きていくためには、時間を無駄に出来ない。悩むのは無駄なこと。しかしそれが、自分を見失っていることに繋がっていると僕は思います。無意識の自分を忘れているんです。自然は未知であり、意識を越えた無意識の世界ともいえます。いつどこで何が起こるかわからない。サーフィンの面白いところです。同じ波なんてありえないんです。自然との触れ合い。無意識の発見。それが気持ちいい。

自然と触れ合うことがない現代人の若者は、人工物に囲まれて育ち、無意識の存在を忘れ、バランスを崩し、そして自分を見失う。そのことにすら気づかない。ありのままの自分を受け入れることができず、つまり自分を愛せず、他人も愛せず、恋に恋して、何を信じればいいのかわからないから、お金で誤魔化すしかない。そういう悪循環に陥る危険があるんだと思うんです。

恋愛なんて何がなんだかわからないものです。しかし誰でも恋愛します。誰でも悩むはずなんです。そこでわからない存在に気づき、つまりわからないことがわかって、それは即ち無意識の発見だと思うんです。僕の「無心」のきっかけはそこからはじまりました。何もしないをする。ありのままの自分を受け入れる。弱いなら弱いでいい。そう思う強さが本当の自分だと気づきました。Syo-yaさんが書かれている『自分が愛着を感じている想い』。まさにそれです。僕は自我すら愛着すべきではないと思っています。結局自分が可愛いから弱くなっちゃうわけで、捨て身になれとは言わないけど、少なくとも、自分を大切にしてても仕方がない、それだと逆に自分を見失うことに拍車をかけると思ってます。言葉で表すのは難しいけど、恋愛で例えれば、傷つくのが怖かったら、人を愛することなんてできないと思うんです。恋愛なんて、異なる二人の存在がぶつかりあって、傷つきあって、それでもなお、向かい合うものだと思ってます。

ちなみに、『テスト前になると、なぜか掃除や雑誌を読みたくなってしまう心理』は、社会心理学で「セルフハンディキャッピング」と言うらしいです。
長文失礼しました。まとまりのない文章ですみません。何か参考になれば幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1194167
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この回答へのお礼

事情があってお礼が大変遅くなりすみません。

「>西洋人と東洋人」
以前このカテで挙がった「日本文化の本質」のvagabondさんの投稿は実に興味深
く読ませていただきました。前回は悪いところばかり挙げましたが、裏返すと日
本のよいところって、なんでも受け入れるところだと思います。自然と共存する
から産業革命に遅れをとったりしましたが、いまや世界中でいちばんの経済大国
ですね。自己主張をしない民族の特性も逆にいえば「和」を尊ぶ一方で何でも受
け入れる強さ、「忍」における寡黙のようなイメージを抱いています。

「>昇華が「中庸」に繋がるの」
昇華ってブロウアップするというようなイメージで限りがない…、そして中庸は
穏やかな停止状態だと思ってたんですがなるほど、対極のものをお互い止揚しな
がら行き着いたところが「中庸」、ですね。お互いけん制しあうというイメージ
でしょうか。

「>時間と空間は相互依存関係」
時間て無常だと思ってます。特に掃除しているとあっという間に過ぎてしまう。
一見無意味な時間の流れもでもその間「閃き」の恩恵をもらうと、軽い汗もかい
て心地よく、充実した時間になります。ただの掃除じゃなくなります。こうした
行為に思考の拠り所を借りているのでしょう。単に「見えるモノ」を産出するの
だけではなく、あの「永遠の一瞬」を感じることも有機的な時間の使い方だと思
います。
「>時間は管理してもいいけど、管理されるべきではないと」
でもやはり焦るときもありますね。とくに私のような世間並みの生活をしていな
いと(笑)。でもそうだったとしたらvagabondさんのおっしゃるようなことも実
感できなかったかもしれません。

「>無我の状態…というよりは大我?」
「>結局自分が可愛いから弱くなっちゃうわけで」
小我、大我、真我の順に創造主に到達できるのだとしたら、「真」=「主」を感
じる我というのは「神」を内包しつつ抱かれているということなのでしょうか・
・・。自分を捨てているようで拾われているのでしたら、私はそれを生きる目的
にしてもいいと思いました。私事ですが守るべきものは何か、最近ようやくわか
りましたので・・・。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/26 00:00

またまた連投になりますが、お許しください。


逆説的に「なんで無心になれないか?」のお話をしたいと想うからです。

「原因と結果の法則」も「仏教」の言わんとするとことも一緒なんです。
最大公約数的にいうと『 気分次第で責めないで! 』なんです。(本当!なんです)
理性をもってください。サティる余裕を持ってください。正気になってください。なんです。
言ってることは極めて簡単、単純明快、超常識的なんです。


私は想うんですが「憎しみへの愛着理論」とやらも「センチメンタリズム」が原因だと想います。
「センチメンタル」です。 他の感情(煩悩)にしたってそうです。
基本に「自己憐憫」「自己哀れみ」があるから愛着、執着に発展するんです。
さらに突き詰めれば「弱さ」ということになると想いますが。。。

子供と一緒なんです。

怪我をしても誰にも心配してもらえないと、感傷的になって押入れに閉じこもってしまいます。
思い通りにならないと、感傷的になってしまうんです。
そうすると劣等感、差別感、憎悪・・・という感情の樹に積極的に水を与え、育てるんです。
早い話、自信を持って、積極的にグレてしまうんです。

「俺ら、プライド持って走ってますから、夜露死苦!」なんです。


アダルトチルドレン概念に共感を示す人に中高年が多いのも、
「ミッド・ライフ・クライシス」と呼ばれるセンチメンタリズムが一因だと想います。
不遇な自分への哀れみの心が、不適切な感情への愛着の原因だと想います。

私たちは、自分の心の庭園で、大麻を栽培する不良少年・不良少女なんです。


全部「よかれ」と想ってやっているんです。
そうすることによって、救われると信じているからです。

もっと別なことに喩えると「不遇」ゆえに万引きする心と一緒なんです。
本人は悪いことをしているなんて意識はないんです。
万引きという行為を信じて、愛しているんです。
救われたい心がそうさせているんです。


ここには理性がありません。
在るのは、その時々の気分に従う不安定極まりない心だけなんです。
「理性」に対して「獣性」です。

自己開示したくなる心理も一緒だと想います。
センチメンタルな心がそうさせているんだと想います。

私のように人の問題に首を突っ込みたがるのも基本はセンチメンタルなんだと想います。
自分に対しても他人に対しても感傷的なんです。

   その気分を抑えられないんです。
  「万引きしたい!」という気持ちを抑えられないのと一緒です。

で、万引きして捕まって、辛い想いをするのは結局、自分だけなんです。
心の中では「親のせいだ」「環境のせいだ」とセンチな想いを信じていますが、
万引きの【原因】となったセンチなハートが、逮捕という【結果】を生むんです(縁起説)


自分の心に対する【無知(無明)】のせいで、生き辛くなっているんです。
自己憐憫する心が、憎悪、劣等感、差別感、物欲・・・・いろいろなものを生んでいるんです。
そして、これらが「心、此処に在らず」状態を演出してしまっているんです。



でも、逆に、自分に対する執着がなくなってしまうと、センチメンタルもなくなってしまうので、憎悪・・・等の感情に対する愛着・執着もなくなってしまうんです。これが仏教の説く「無執着」です。心の庭園から害になっていた大麻草がなくなってしまうんです。

こうなると、「無心」の妨げになるものも減ってくるんです。
「無心」とは、心が一点に集中しない状態です。
ところが、自分に愛着を持っていれば、センチメンタルに発展して、そこに集中してしまうんです。
こだわりの誕生です。

不遇であれば、あるほど、この執着、愛着は強くなる傾向にあると想います。
でも愛着が強ければ、強いほど、生き辛さも伴うので、問題意識も芽生えるので、解決も早いんです。
背負っていた重荷が重ければ、重いほど、降ろしたときの快感(幸福感)は強いんです。
ですから、本当は不幸な人ほど、幸福になれるんです。

逆に、行き辛さを伴わない、健常者タイプが一番、危ないんです。
問題意識がないからです。負荷の少ない、万能感に犯されたタイプです。
こういう普通の人たちが、新たな苦悩の種を植えてまわる人でもあるんです。



・・と、下手な説明ですが、伝わりますか?
仏教って宇宙の真理を基礎にした、心理療法なんです。

で、「親を許す」と表現してしまいましたが、なにも許す必要はないんです。
そうではなくて、センチメンタルになっている自分の滑稽な姿に気がつくだけでいいんです。

人間って、不思議なもので、自分の行動が滑稽に思えるようになると卒業してしまいます。
「禁煙セラピー」という本は、喫煙という行為がいかに滑稽であるかを説いています。
この本で禁煙できた人は多いんです(私もです)

自分自身を客観的に、滑稽に見れるようになると、不思議なんですが、卒業できるんです。
だから、「気づき」が大切なんです。

カウンセラーの役割も、最終的には、気づきの補助ですよね。
「なんだか、気が楽になりました!」と言えるようになる時は、それまでの自分の姿が滑稽に思えるときでもあるんです。

客観性が生まれるんです。
大人になるんです。
理性が育つんです。

で、こうなると、こういうポジティブな気持ちが原因となって、ポジティブな結果が誕生するようになってくるんです。
原因があって、結果があるというのは宇宙の真理です。
原因が無いのに、結果があるということは、宇宙の真理に反しているんです。

・・と、ちょっと長文になりすぎましたが、伝わるでしょうか?

気分次第で万引きしたり、暴走する心の滑稽さに気が付いて、理性的になりましょう。
平常心になりましょう!。目覚めましょう。が仏教なんです。

まあ、目覚めたら、目覚めたで、今度は、オカルトの世界が広がるんですがね。。。(苦笑)
でわ、また。
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この回答へのお礼

「>「無心」とは、心が一点に集中しない状態です。」
雑念というのはすべて受け入れてもよいということになりますよね。雑念もすべ
て受け入れるという瞑想方法もあります。

「>「憎しみへの愛着理論」」
発達理論では親への愛着というのがとても大切なのですが、その親子ともども互
いに愛着がすぎると母子癒着をひきおこすのですが、なんでも過ぎるということ
はよくないですよね。ここに中庸の意味がありますよね。

「>仏教って宇宙の真理を基礎にした、心理療法なんです。」
哲学も心理ももっと互いに寄り添うべき、融合させるべきだと思ってます。トラ
ンスパーソナル心理学がその視点なのですが、まだ発展途上、認知度も薄いらし
いです。

「>禁煙セラピー」未読ですけれど、持ってます(笑)。読んでないのも結局禁
煙できないのも私もタバコに対する愛着を捨てたくないんでしょうね。人は長年
親しんできたものと切り離されるのは苦痛を伴いますから。しかも自ずとはより
難しい。…という言い訳ですが、本当は自殺願望の表れかもしれませんね。(効
果は絶大のようで、知り合いもこの本ですっぱりやめられていました)

「>カウンセラーの役割も、最終的には、気づきの補助ですよね。」
そうなんですよね。ただ受け入れるだけ。気づくのは本人。皆の中にある自己治
癒力に導きます。

「>背負っていた重荷が重ければ、重いほど、降ろしたときの快感(幸福感)は
強いんです」
私のイメージとしてはゴムをぐーんと伸ばしてパッと離したときの伸縮力のよう
なものでしょうね。その力が愛着なのでしょう。私は最近性善説から性悪説に変
えたのですが、幸福は不幸が前提にあって成るものだと思ってます。

感情をなくすのは不可能ですが、それを調節する理性とそして平常心とで上手に
共存していけたらと思います。参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/26 00:00

こんばんわfrauさん。


お返事ありがとうございます。


ウォーキング中の呼吸は、ちょっと早めに歩けば良いと想います。
普段の2割増しの勢いで、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ!と、軽快に歩くんです。
「無心」重視ならば、ただそれだけで良いと想います。

逆に調息に意識してしまうと、それが雑念になりますので、
自然な動きから自然発生的に起こる呼吸に期待するべきだろうと想います。

「アーナパーナ・サティ」ではなく「アーナーパーナ・サティ(大安般守意経)」でした。。。が、これと同様に呼吸は自然で、それにサティることのほうが重要なんです。


アスリートの無心と、瞑想の無心では、もしかしたら違うかも知れませんね。
これも坐禅の科学の本とかも読んでみると良いと想います。
ある本には、坐禅の無心と、ヨガの無心とでは脳波が違うと書いてもありました。

ちなみに、禅宗の曹洞宗の大本山の永平寺では、アスリート・モードで掃除をするんです。
物凄い勢い、まさにスポーツ感覚で掃除をするんです。
狂ったような勢いで、一切の雑念を排除したように、無心で掃除するんです。
ちょっとでも気後れしたり、動きが緩慢になると、怒声が飛んでくるんです。
「無になってやれ!」ということでしょうね。。。。

さらには、大小便中の作法、食事中の作法、床の作り方にいたるまで全てに作法があるんです。
まさに「マインドフルネス」の実践なんです。
道元禅師って凄い人だったんですよね。。。。。
お釈迦さまと一緒で、自分の肉体で科学実験したんでしょう。



>>こういう話を知ると脳死ってやっぱり死じゃないと思うんですよね

「腸」は脳から独立して動いているんです。
脳死しても腸は食物の消化に至る作業を淡々と続けるんだそうです。
腸にだって「パラ・ニューロン」という脳の神経細胞のようなものがあって、
脳と同じように機能しているんです。神経伝達物質まであるそうです。

我々、多細胞生物の祖先は腔腸生物の「ヒドラ」です。
全身が「腸」の超~かわいい生物なんです。

「脳」は、本体である「腸」がより効率良く食物を確保するために発達させたものではないかと想います。
ですから「腸死」こそが、真の死であるような気もします。が、まあ、妄想の余談です。。。


>>「今、此処の自分」って時間間隔でいうとどのような位置づけになるのでしょうか。
私は語彙も少なく、哲学的な思惟は苦手なので、兎にも角にも体験されることをお薦めしますが、「今、此処」は永遠に続く世界なんです。「今、此処」を認識できる平常心も、永遠に続く不動の心なんです。(理屈では、こんな感じです)

PS
補足欄への投稿だけだとメールが届きませんので、お礼欄にも投稿したほうがいいですよ(^^
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この回答へのお礼

事情があってお礼が大変遅くなりすみません。

座禅は私にはいちばん難しいかもしれません。何かいろいろ考えてからではない
と起床もしたくないのですが、逆に瞑想のための座禅は座禅のための瞑想のよう
になっていまって、とにかく動きたくてたまらなくなる。そういうとき身体にそ
の衝動を預けているのかもしれません。
瞑想方法によっては個人個人にそれぞれ「記号」を与えられてそれを唱える方法
もありますが、これが身体の代わりとなっているのかもしれません。この方法に
よると雑念もすべて受け入れるというのです。レム睡眠とノンレム睡眠のときを
たとえると、睡眠中の身の危険を監視するために脳が眠っている間身体は休息、
身体が活動している間は脳が休息していますが、「無心中」も身体は無防備なの
かな?なんて思います。実際私など考え事をしている間よく転びますし(笑)。
無心って幽体離脱的なことなのでしょうか。

「>「腸」は脳から独立して動いているんです。」
面白いですね!初めて知りました。だとすれば自分の中にあるのだけ
れど自分の命令で動いていない独立した生物・・・。それが栄養を吸収して私を
動かしている。面白いですね!でもあるとき反乱おこされて「私たちはもう働か
ない!」と言われて栄養を食べるのをストップされたらどうなるのでしょうか?
(笑)。でも宿主がいなくなれば自分らも生きられないからパラサイトし続ける
しかないのでしょうね。であれば、いずれかの死で死を決められません。

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/26 00:00

作業療法、森田療法などの書き込みがあったので、せっかくのよい流れをではありますが、口を挟ませていただきます。


つい先日レポートを書かされたのが作業療法の歴史なのですが、鎌倉矩子先生に因れば、森田療法の絶対臥褥期の後、単純な作業を繰り返す時期を作業療法的と書いています。
思い返してみれば、ずっと寝続けるということはともかく、一定時間のブランクをおいて時々陶芸家に戻るというわたしの生活は森田療法的人生だったかなと(笑)ちょっとそんな気になりました。
陶芸のそろい物を作るという仕事は、自分を機械のようにしてしまう仕事で確かに無心の境地です。形がそろわなくなったと思ったらトイレに行きたくなっていたなんて、同業の話しも思い出しました。工芸家や職人さんの仕事は無心の仕事なようです。
作業療法で、歴史的に手工芸を取り入れてきたのは、精神科疾患での妄想や欝の原因となる悩みを、何かに集中することにより一時的にでも忘れさせる効果を期待したためと思われます。実際、手を動かしてある一定の動きを繰り返すサイクルに入ってしまうと、トイレに行きたいのも忘れてしまうのですから効果的ですよね。ただ、疾病治療の場合はサイクルに入れる可能性の見極めが難しいとは思いますが。
手を使うから二足歩行になったなんてことも思い出しました。
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この回答へのお礼

いえいえ、お越しいただいて嬉しいです。

たとえ工芸家や芸術家などではなく、同じ工程を繰り返す単調な仕事など、体を自動的作業に身を預け、その間自分のための思考にどっぷり浸かれるのですから(もちろん仕事は責任を持ってこなすことは前提です)仕事内容に忙殺されない有意義な仕事でしょう。

「>わたしの生活は森田療法的人生だったかなと」

神経症などの、森田療法が対応する心理については勉強中ですが、なるほど、輪郭がさらに膨らみました。このような実体験をおききすることで私の中では様々なカテゴリにリンクしております。

また「何もしない」ってことは非常に大切なことですよね。考えないのは常に考えている状態というのは日々このようにして実感しておりますが、人生という幅の間でも、活動と休息を繰り返すことが必要です。そういう意味では転職や引きこもるなどは経済的余裕があればむしろ推奨されるべき「休暇」だと私は思っています。

無我の極地にハマり、己れも知り、神とも対話している。そしてそこから目覚めたときには手に芸術品を抱えている。そのうえ付加価値として名誉もお金も手に入れた場合…うーん、凡人の私なぞは来世に期待ですね(笑)

参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/10 10:19

せっかくですので、無心になって連続投稿します。


無心の神秘の世界の入り口です(苦笑)

気功の話ですが、例えば「自分の手を感じてください」と言われれば誰だって感じられます。
ピリピリ、ジワジワ、ジンジンします。それが、いわゆる「気」なんです。

先の理屈で言えば、感じている瞬間は「今、此処の自分」に居ることを示します。
だって「心、此処に在り」だから感じることが出来るんです。
感じている瞬間は、穏やかな心「平常心」になっている瞬間なんです。
サティっているんです。
気持ちが入っているんです。
これが「気」なんです。

で、こういう状態になると、不思議なんですが、頭ののぼせがスーッと無くなってしまうんです。
上手くいくと、嘘のように覚醒状態になります。

「気づく」「無心」「今、此処」「気」「ひらめき」「覚醒」「直観」「無欲」「無為」「天才」「右脳・・・・訓練次第で、これらのキーワードの世界が自分の中に広がるんです。(誰にでも)

心が穏やかな平常心ということは、感情に犯されない心なので、人格も向上してきます。
「仙人」「仏」のような人格者にもなってしまうんです。

さらに「気」が満ちてくると自分も健康にもなってしまうし、
他人を健康にしてしまうことも出来るようになってしまうんです。

『「見えないもの」を科学する』[著]佐々木茂美という本がありますが、これは「気」を科学した本で、気の指向性や速度なんかの測定の実験の話も乗っています。(興味があれば図書館にどうぞ)つまり、物質なのか、意思エネルギーなのか、よくわかりませんが、なにかも使えるようになってしまうんです。

何から何まで理想の世界に入ってしまうんです。
清浄な心の世界とでも言いましょうか?
宇宙を創造した「意思エネルギー」の世界かも知れませんね。。。。。


でも、この無心の世界に入っても、それを持続するのが難しいんです。

なぜならば、我々は信じているものが多すぎるからです。
「感情」というのは、必ず、自分が愛着を感じている想いに従って起きています。
人を憎むときも、愛するときも、必ず、その奥(深層心理?)には、愛着する心「執着」があるんです。

例えば、私の場合だと親が憎いですから、無意識のうちに「憎しみ」という感情に自分から許可を与えているんです。私は無意識のうちに「憎悪」という感情の樹に許可を与え、育てて、愛着を覚えているんです。でも憎悪の感情が心にも健康にも言い訳ないんです。穏やかな平常心の妨げになっているのも憎悪の感情なんですから、憎悪に対する愛着を断たないと、私には幸福も無心も訪れないんです。だからいつかは親をも許さないといけないんです。

憎悪だけではありません。私は知らず知らずのうちに、
もっと沢山の感情に愛着を感じて、許可を与えて、育てているんです。

普段は、これらの私自身が愛着を持って育てている感情のせいで「無心」になれないんです。
「ハゥ」と頭のほうに意識が取られ、頭がのぼせ上がってしまうんです。


つまり「無心」になることを妨げているのは、潜在的にある、私たち自身の執着心、愛着心なんです。
過去の出来ごとに対する恨み、憎しみ、失望、挫折、愛着・・・・経験の積み重ねが、いつのまにか心の執着を生み、私を「今、此処」から遠ざけているんです。これらのせいで「心、此処に在らず」になってしまっているんです。

・・と、こんな下手な説明で通じますか?(かなり、的を射たことを書いているかも・・です)


私たちは生きながら進化することが出来るんだと想うんです。
心という見えないものを育てれば、本当に生きたまま進化してしまうんだと想うんです。
「生き仏」なんて言いますが、これは本当のことではないかと想うんです。

その入り口は”サティる”ことです。

身体意識にサティり、
過去や未来の妄想にしがみついている愛着心、執着心にサティり、
サティって、サティって、サティいまくることで、進化してしまうのではないかと想うんです。
「マインドフルネス(油断なく醒めていること)」とも言いますよね。

これが、私の想い、目指している、無心の世界です。

面白いでしょ?(苦笑)
理に叶っていると思いませんか?

「原因と結果の法則」も最終的にはこんなことを言っていると想います。
長文失礼しました。

この回答への補足

>頭ののぼせがスーッと無くなってしまうんです

なんだか今の私に最適な方法です。
「平常心」って仏教用語なのでしょうか。これは「中庸」ともいえるのでしょうか。私の好きな「二律背反」のあいだに位置している状態でしたら、今までは極端から極端へシフトする状態を楽しんでいたような気がします。たとえば怒りの感情って凄いエネルギーになるんです。カプサイシンをとると交感神経が興奮して一種の覚醒状態になりますが、刺激の少ない生活をしていると、辛いものを無性に欲しくなるそうですが、なるほど、生理からしても興奮を求めているのですよね。怒りも同じ交感神経の興奮状態ですが、刺激の動機が「怒り」だとしてもストレスになったり心の理論に瑕疵が生じるわけです。
でも喜びもあまりにも大きすぎるとストレスになるらしいですよね。でもどうせなら「喜び」からエネルギーを貰いたいものです。

さて、あることから私は悟りました。というのも、それはただの感情だと気がついたわけです。感情というのは思考と相互関係にありますが、どっしりとした思考があっても、感情にいかようにもブレてしまうのは、きっと何か深い原因があるのかと。そこを今心理学のほうで勉強しているのですが、「憎しみへの愛着理論」のようなこともでてきます。この腐れ縁とはいつか手を切りたいと思っているのですが、人は慣れ親しんだものと別れるのは非常に苦痛を伴うそうですが、愛着の背景にはきっとそのような理論もあるのかと。つまり私がもろもろの思考をもってここに在る、それは動かしようのない事実、絶対的なものであって、感情とは相対的なもの、いかようにもコントロールできるということです。頭でわかっていたことが、身体と合致したということでしょうか。これを悟りといってはおこがましいことこの上ないのですが、でも感覚的に、一瞬新しい風に吹かれたような感じがしたんです。凡人の悟りのレベルですが(笑)。

>感情に犯されない心なので、人格も向上してきます

ああ…(ガクッ)。ココロに痛い。まさに私のことですが(笑)、でも人間ってつくづく感情の生き物だと思います。理論なんて吹っ飛ぶんですよね、その瞬間。Syo-yaさんが前におっしゃった恐竜の脳、コモドなんとかという本能でしたっけ?私も大脳新皮質の重さを感じている私もヒトの端くれでありますが、感情に誤魔化されるとき、それってこんなに軽いものなんだなー、と感じています。
でもある考えに至ったんです。怒るのは自分がブレている証拠なんですよね。で、思ったんですけれど、例の「二律背反」がなぜ至る所に存在しているか、それはきっと「平常心」を学び悟るためにあるのでしょうか?

「>憎しみへの愛着」。ご尤もです。個人的なことですが、私の中にもべっとりと張り付いてなかなか剥がれない古い怒りや憎しみを抱き続けていますが、確かにエネルギーになります。たとえばいつか見返してやろうとか。でもそれは悪循環ですよね。わかってるんですけれど、So-yaさんにお教えいただくとまるで高潔なお坊様に諭されている気がして気持ちが素直になります。これからもお釈迦様のことなどのナビゲーターとして期待してますね。

>だからいつかは親をも許さないといけないんです
それは私にもいえます。許す、か許さないか、の凄まじい葛藤。対象者は考え方が変わらない。すればお互いの考え方ではなくて自分の気持ちの状態を変えればよいかと。考えを諭したところで、感情が生き続けてたら幸福になれないですよね。私も結局幸福なんて感情で決まると思ってますから。「感情」という巨大な生物の前には、もろもろの哲学なんてすべて凌駕されてしまうんですよね。ヒトの一生ってこれとの闘い、ともいえますね。とりあえず私の当面の課題です。そこで「>サティる」、ですね(笑)。

再回答ありがとうございました。

補足日時:2005/06/10 09:35
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お久しぶりです!



無心のメカニズムということですが、解っていることは脳波がアルファ波になるとか、右脳が優位に働く・・・とかの結果論的なものばかりだと想います(たぶん)

どのような過程を経てそうなるのか?の全体像は把握できていないのではないでしょうか?
例えば、筋肉中のセンサー「筋紡錘」が脳に刺激を与えるのが良いという一面もあるでしょうし、
呼吸が整うという一面もあるかも知れませんし・・・膨大すぎるでしょう。
もしかしたら、体育系大学とかの運動生理学に研究があるかも知れませんね。

ちなみに、脳波学の先生で(故)品川嘉也さんの著書によると、
中国の気功師を測定したら、生きているのに脳波は脳死状態を示したそうです。
訓練しだいではそれくらい無心になれるんです。


私にも素人なりに意見はあります。
単に繰り返すだけではダメで、それプラス、気持ちを集中すること
(サティ(気づき)を切らさないこと)が最も重要だと想います。

ですから、私は繰り返しよりも、サティ(気づき)優先で考えています。
そう考えると、繰り返しの行動って、サティを保ちやすいって面がありますよね。
単調な動きの繰り返しって、気持ちが入りやすいですよね。

男女の行為も「単調な動きの繰り返し」と「サティ」にポイントがありますよね。
長すぎてもダメ(サティが途切れてしまいます)
短すぎてもダメ(サティが始まる前に果ててしまうパターンですね(苦笑)
物理的な繰り返しの行動だけでもダメですよね。(それで良いと言う人もいますが・・)

やっぱり気持ちが入っていないとダメなんです。

かつて自殺したマラソン選手がいましたが、彼は理屈でいえば、リズム運動をしてるので、セロトニン神経も強化されているし、心身ともに健康だと想いますが、実際には、成績不振、大失恋で「もう走れません」という遺書を残す結果になってしまいました。

別のことを考えたり「心、此処に在らず」ではダメだということです。
大切なのは繰り返しではなくサティを絶やさないことだと想います。



中国の気功法というのは、このサティを絶やさない智慧として「イメージ・スクリプト」を多様します。
「気」の存在の有無の議論は別としても、最高の智慧だと想います。
「亀のように丸くなって」とか「鶴が舞うように」「邪気を出すように」・・・というイメージを保つことで、余計な思考を排除して、サティを保つようにしているんです。「これぞ、人間の智慧だ!」といつも感心します。こうすれば、頭の固い大人から子供まで、みんな気づきを保つことが出来るんです。

サティを保つということは、「今、此処の自分」に居ることなんです。
「今、此処」を認識できるのは、「平常心」だけではないでしょうか?


逆に、サティが切れる時っていうのは、「心、此処に在らず」の時です。
過去の後悔、思い出・・・・ 未来の心配、期待・・・・に心を奪われているときなんです。

サティが保たれているときというのは、「心、此処に在り!」なんです。
つまり、何処にも心を奪われていない状態なので、安らいでいるんです。
安らいだ状態でものを考えると、スッキリした思考も出来るんだと想います。
右脳優位・・・、セロトニン神経も活躍しているかも知れませんね。

ちなみに、好きなことに夢中になって徹夜しているようなハイ・テンションなときって、セロトニン神経が大活躍してるそうです。一日くらい不眠不休でも疲れない、思考力も落ちない状態を演出しているのもセロトニンが関わっているそうです。

このセロトニンの実験でも、サティを切らすとダメだそうです。
意識した呼吸法と、意識しない呼吸法では、セロトニンの働きに差が出るんだそうです。


私の敬愛する天才ギタリスト「ジミ・ヘンドリックス」は演奏前に「GOOD NIGHT」と言いました。
演奏中は、完全に演奏に没頭、集中しているのでしょう。
「無心」だったんだと想います。
で、演奏が終わると「今、起きたばかりで次の曲が思い出せないなぁ・・」と言いました。
左利きですから右脳も活発だったかも知れませんね。
ヤクをやっていたという説もありますがね(苦笑)


やっぱり、想うんですが、
「気づき(サティ)」=「今、此処の自分」=「平常心」が鍵ではないでしょうか。


心理療法もそうですよね。
まず「気づき(アウェアネス)」があって、次に、療法別の「修正(リ・プログラミング)」ですよね。
仏教瞑想もこの手順を踏んでます。

仏教では「アーナパーナ・サティ・スッタ(入息出息の観察)」という経典があります。

  長い息を吸っている時は「長い息を吸っている」と覚知する。
  長い息を吐いている時は「長い息を吐いている」と覚知する。

  短い息を吸っている時は「短い息を吸っている」と覚知する。
  短い息を吐いている時は「短い息を吐いている」と覚知する。

  体全体に気づきながら息を吸い、体全体に気づきながら息を吐く。

  体の動きを静めながら息を吸い、体の動きを静めながら息を吐く。

・・と、呼吸という一生繰り返される単調な動きにサティを保つんです。
または歩行とう感覚、身体意識に気づきを巡らします。
これで深い禅定に入ってから、自己観察の瞑想(ヴィパッサナー)を行います

こちらの#12のお礼欄もみてください。
http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1156213


・・・と、まだ、書き足りないような気もしますが、そんな感じです。

そうそう。「原因と結果の法則」全四巻、ジェームズアレンって本はお薦めです。
つまらない仏教書よりも、仏教の核心に触れてます。

参考URL:http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1156213

この回答への補足

Syo-yaさん、お久しぶりです。長いお礼になりそうなのでこちらで。

実は私、毎日1時間のウォーキングをしているのですが、呼吸の方法、これがなかなか、ダイエット効果と同様成果がでない。歩くリズムに合わせ、二度息を鼻か吸い、鼻から一度吐く、という三拍子の呼吸をしています。
歩く行為って一種の瞑想状態になると聞いたことがあるので、歩いているときにより必要でより意識的になる呼吸というのを、せっかく歩くことをしているのだから、きちんとした呼吸方法を取り入れなければもったいないと思ってました。こちらの方面でもお詳しいSyo-yaさんに聞けたらなと思ってたのですが、ご紹介いただいたリンク先を見たら・・・。いやはやすごい充実したスレッドですね。ただウォーキングでの呼吸法にも適用できるのでしょうか。「アーナパーナ・サティ・スッタ(入息出息の観察)」が基本であるのでしたらまずこちらから早速試してみます。

スポーツを継続していくと辞められなくなるというのはドーパミンの味を忘れられないそうですが、瞑想状態とも関係あるのでしょうか。脳生理学的にドーパミンやセロトニン、精神世界的に瞑想状態というのは無心状態となる。であればアスリート達がスポーツを辞めて自殺する人も出てくるのであれば、単に生きる目的を失ったからだけとは言えませんよね。ずっと放出されていた快楽物質がいきなり途切れたからなのでしょうか??

「>中国の気功師を測定したら、生きているのに脳波は脳死状態を示したそうです」
すごい。この問題提起はちょっと違うかもしれませんが、こういう話を知ると脳死ってやっぱり死じゃないと思うんですよね。

「>サティ」・・・近所に「サティ」ってショッピングセンターあります(笑)。

もとい、

「>男女の行為も「単調な動きの繰り返し」
「サティ」からしたらそうかもしれませんね。

「>サティを保つということは、「今、此処の自分」に居ること」

格言というか日ごろも、「今を生きろ」といいますよね。時間って来ると同時に過ぎ去るものだと思いますが、「今、此処の自分」って時間間隔でいうとどのような位置づけになるのでしょうか。このような状態に心身を置くのって難しいですよね。スピード社会ですし、個人的には将来に向けての焦燥感もありますし。きっとこんな煩悩をお釈迦様は諭されたと思うのですが、仏教に関してもまだまだ不勉強なので改めて・・・。

「原因と結果の法則」のご紹介ありがとうございます。ひじょーにタイトルからして興味深いです。ぜひ一読してみますね。

参考になりました、ありがとうございました。

補足日時:2005/06/10 05:09
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frauさん、こんにちは。


僕もありますよ。【同じことの作業を繰り返し続けていると無心】になる状態。僕の場合だと、風呂に入っている時とか、トイレ中の時とか、あと、同じく掃除をしている時とか。本当にストレス解消になると実感します。あくまで感覚ですが、なんだか「真空状態」になった感じがします。

昨日、風呂掃除を思いっきりしたんです。新しい形状のタワシを買ってきて、もの凄く汚れが落ちるから楽しくなって夢中になってしまいました。終わったら、母が「心までキレイになったのね」と言ってきました。普段はそんな会話しないけど、確かにそんな気分だったので、すんなりその言葉を受け入れることが出来ました。

同じ作業を繰り返す場合、頭の中でやるべき作業が解っていて、それを身体で実行するだけなので、余裕ができるんだと思います。そこで無意識が出てくるのだと思います。掃除機をかけながら鼻歌を歌っている母とか。ドライヤーをかけながら、歌っている妹とか。普段抑えている欲求の表れだと思います。

>体(ハード)と心(ソフト)は一方なくしてはいずれも成り立ちません
昔の人は、心と身体を分けて考えていなかったと僕は考えます。科学が発達しだした辺りからか、全てを細かくカテゴリー化して分別して、より専門的になった状態が現代の文明だとも思います。
極端な話、宗教と一体化していたと思うんです。政治を「政(まつりごと)」と書きます。本来は「政」も「祭りごと」も「祀りごと」も区別なく、一体だったと思うんです。日本の場合だと卑弥呼の政治とか。祖霊のアドバイスをもとに政治をする。現代だと科学主義でそのような非合理的なことは受け入れられませんが、しかし現代人だって、朝のテレビには占いなど、非合理的なモメントはたくさん存在しています。なので僕は、カテゴリー分けした片方だけだと片手落ちだと思うんです。

僕が思う無心とは、まさに心身一体の状態。文明が未発達であればあるほど、より一体感を得ていたと思います。狩猟時代なんか弱肉強食の世界です。生きるためには自らの命を懸けなければ存在できなかった。心と身体を別に考えるゆとりなんかなかったはず。例えば身体に傷を負えば、何か儀式をして悪霊を追い払い、薬草を飲んで治癒していたと思います。まさに自然と一体になりながら、また同時に自然との闘いだったと思います。自然というより超自然と書いたほうがいいのかな。その凝滞のない自然の流れとの一体になる喜び。それこそ僕にとって、最高のストレス解消法になります。現代人のように、全てをカテゴリー化して、その狭い分野の中だけで、めくら(盲)になって追い込まれバランスを崩しているのは、文明の発達による代償なのかもしれません。

僕がその無心状態を好むのは、無条件でストレスが解消できるし、閃いたり、何かと何かが繋がったりしてとても気持ちいいからです。
あくまで、僕の独善による哲学なので正しいかわかりませんが、何か参考になれば幸いです。長文失礼しました。

この回答への補足

vagabond_0710さん、お久しぶりです。また長くなりそうなので(笑)こちらにお礼をさせていただきます。

「>祖霊のアドバイスをもとに政治をする」
政治の世界でもですか。他には巫女やイタコの代わりとしてカウンセラーがいますね。何でも瀬戸内寂聴さんの心棒者にとっては彼女は優れたカウンセラーだとか。

「>文明が未発達であればあるほど、より一体感を得ていたと思います」
文明は淘汰されたと思います。宇宙へ行くのも私にとっては侵略のひとつでしかないんです。神秘に近づくのはロマンのひとつですが、ヴェールに包んだままの部分を残しておかないと、と思うんです。だから今こそ逆行すべきときだと思います。たとえば西洋医学と東洋医学って少し前までは対立してたじゃないですか。でも今は少しずつ近づきつつある。つまりおっしゃるように「>一体になる」ことですよね。精神世界でも心と身体を分けて考えていた。太古の時代では一体であったのですが、一度分解させてみた、それが文明と呼ぶのであれば解体の美学は多くの犠牲も伴ってきた。たとえば征服されやすい弱い存在や地球環境・・・。でも近年分離されたものをもう一度一体化させようという動きが各分野で見られますよね。

近代の東洋人の社会心理的なものはいくつか疑問がありますが、それよりもうんと濃く潜在的に受け継がれている精神世界は西洋的な合理精神よりも実は依拠しております。
たとえば私はユングを憧憬しておりますが、ユングを初めて日本に紹介した河合隼雄先生の著書でご自身が無意識について東洋と西洋の見解を述べております。

●「ユングは、西洋人が「心」(mind)という場合はつねに「意識」を考えるのに対して、東洋人は「無意識」のほうをさしているのではないか」●「東洋人の意識は、そのなかにその中心をもたず、無意識内にある自己を中心として、それに対して開かれており、意識と無意識の境界が明らかでないということができる」●「西洋の意識構造の持つ欠点は何であろうか。それは、自我を中心としてのまとまりが強力となりすぎているとき、それは深い基礎づけを欠いた弱さとなって現れる。東洋人が何か土と密着しているとでもいいたい安定感を持つのに対し、西洋人は土から離れた孤独に悩まなければならない」●「西洋では運命と戦うことに人生の意義を見出し、東洋では運命を味わうことに生きがいを感じているといえるだろう」云々。

ということは、西洋人はあまり無心状態になるのは少ないのでしょうか?でも近頃欧米ではヨガなどが流行っていますが、これも西洋と東洋との一体化なのでしょう。これからはプラスマイナスのイデオロギーが必要なのではないでしょうか。「±=0」、とにかく原点に還る必要があると思います。

私は「田舎暮らし」で、土に密着した生活が夢なのですが、余分に付着したものを分離しつつ、不必要に分解してきたものを一体化させつつ生きる・・・ということを小さい規模ながらもとりあえずの「一体化」の目標とします。

PS.
「>母が「心までキレイになったのね」」
いいお母様ですね。私の母はこんなふうに詩人ではありません(笑)。

参考になりました、ありがとうございました。

補足日時:2005/06/07 20:41
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