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 学校の道徳などで、「悪いことをする人間になりましょう」と教えることが許されないことはわかります。では逆に、「良いことをする人間になりましょう」と教えることは、なぜ許されるのでしょうか。

 「教え子を戦場に送らない」のスローガンの下、平和・人権教育が行われていますね。私の出身校では部●解●同●の幹部が授業を行い、それを丸暗記してテストをやって成績をつけるというものでした。その先生の主張は正しいかもしれませんが、他の意見、多様性を認めないものでした。それなので、私はアンチ平和・人権教育派となりました。

 なんで、学校で「良いことを良いこと」と教えることが許されるのでしょうか。質問は標題のとおりです。教えてください。

A 回答 (6件)

それが「良いことだから」という回答ではダメでしょうか?少なくとも質問者さんには「良いこと」「悪いこと」の区別は付いているように思いますが、であれば「良いこと」だから教えてOK、「悪いこと」は教えたらダメ、という説明で十分だと思いますが。


もし「良いことと悪いことの判断基準は何か」「誰が良いことだと決める権利を持つのか」という質問であれば、もう少し回答が難しくなると思います。

> それなので、私はアンチ平和・人権教育派となりました。

ある意味で教育の成果があったのでしょう。どのみち人間の主義主張は自由です。教科書通りの人間にならず、別の主張を持つ人間が育ったとしても、それはそれで教育の成果だと思います。自らがその教育を通して得るものを得たと誇れば良いのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

「私はいつ憲法に契約したんですか?」の質問でもお世話になりました。
本当に回答すばやいですね!

>「良いこと」だから教えてOK、「悪いこと」は教えたらダメ、という説明で十分だと思いますが。
もうちょっと、深みがある回答がほしいんです。
それがあやふやな感じだったので・・・。

1.良いことって何? 誰が決めるの? 判断基準は?
2.それは何で強制されるのか? (極一部の義務教育免除試験受験生を除いて全国民が小中学校に行くわけですから、小中学校の教員の発言は「強制」と受け取れますよね)

お礼日時:2005/08/04 14:19

正しいことを正しいと教えることは必要でしょう。


だからと言って、丸暗記させるのではあまり意味のないことだと思いますし、一概に何が正しいかを決められない問題もありますが。

むしろ、何が正しいのかを考えられる力を養うのが本来の姿だと思います。

しかし、多様性の名の下に、どんな意見も許されるわけではありません。
例えば、
「顔が悪いと言う理由で殴ってはいけません」
という話に、
「顔が悪いのだから殴られて当たり前という考え方もできます」
などといっても、認められませんよね。
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良いとか悪いとかは、相対的な価値観です。



「命を捨てて戦争に参加しましょう」という「良いこと」を教える国はたくさんあります。
人権団体が教育や教職員の人事に介入し、毎年のように自殺者がでている地区もあるようですね。
その地域の「良いこと」「悪いこと」は、独特の価値観なのでしょうね。
上からの教育は、どこも似たようなものです。
教育は親が責任を持つしかないでしょう。

日本は、教育委員会が地方行政の中で独立しています。
だから国民の目が届かず、声も届きません。密室で右翼と左翼が死闘を繰り広げているわけです。
だから、一任意団体が人事権を持つこともできたのです。

教育委員会を、通常の行政職のように、教育課とし、教育長を教育課長にして、「ふつうの部署」にすることが、偏った「良い」教育をやめさせる唯一の方法だと思います。
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この回答へのお礼

ひとつの妙案を提案していただいてありがとうございます。
教育行政を国家から切り離すか、くっ付けるか…悩ましい問題があるんですね。

お礼日時:2005/08/09 09:48

「良いこと」でもそれが押し付けになってしまっては、


良い事とは思えません。
道徳の授業も、本来は、「これがいいんだ。」と押し付けるのではなく、
本人に何がいいことであるのか考えさせるのが本来の姿のように思います。
ただ、いい事、悪い事の区別を間違えることもあると思いますので、
ある程度の方向付けをしてあげる事が親や教師の役割であると思います。

特に公立学校で思想、良心を押し付けることは違憲となりえます。
教科書問題をはじめ、義務教育で教えられることは、
国家に決められていて「強制」と思える部分もありますが、
国の考えとしては、義務教育の時期は人間形成の大切な時期であり、
国民一般の教育レベルを保つ意味でも、国家が(言い方は悪いですが)
管理する必要がある、という考え方です。

義務教育の間は特に学習内容だけでなく、
ものの考え方や生活態度なども、先生から大きく影響を受けますが、
それはあくまで、「ある程度」であって、限度を超えて強制となっては、
それが例え先生本人の考える「いいこと」であっても
許されるべきことではないと思います。
質問者さんの経験の場合は、「ある程度」ではなく、
「強制」となって思想、良心を押し付けになっていると思います。
(どこまでがある程度かは、一概にはあらわせませんが)

人権とは、人に迷惑をかけない範囲で、
自分の信じる考え方や、幸せに思うことを追求していくことだと思います。
こうしてみるのもいいんじゃないか、とか、
こう考えるのもいいんじゃない?と参考を示されるのはいい事と思いますが、
けっして他人から強制されることではないと思います。
最終的な判断として自分の人生、自分の幸せは自分で決める、
ということが、人権保障であり、
そのように方向付けてあげることが、
人権教育だと思います。
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この回答へのお礼

私が悩んでいたことに対して、
すごく具体的な示唆を与えてくださいました。
反論異論をここで追加することはありません!

お礼日時:2005/08/09 09:50

#1の回答者です。



> 1.良いことって何? 誰が決めるの? 判断基準は?

概ね社会的な常識によって決められます。ただし、時の社会権力によって社会的な常識にない行為が「良いこと」に強制的に加えられることはあります。

例えば人を殺すことは良くないことです。これは社会的な常識といってよいでしょう。健康な若者が電車の中でお婆さんに席を譲る行為、これは良いことと見なされますが、これも常識的な基準と言えます。
例えば、今の権力者は、「卒業式で国旗を掲げ国歌を歌うことは良いことだ」と定義しましたが、これが社会的な常識であるかは難しいところです。また、教室内の権力者といっていい学校の先生も、同じように「これが良いこと、これは悪いこと」という基準を持っているでしょう。常識的に定められる「良いこと」「悪いこと」という基準に、これらの外的要因による調整が加えられて「良いこと」「悪いこと」が定められます。
このように、「良いこと」「悪いこと」というのは、概ねは多くの国民に共有できる基準より導かれますが、細かい部分では必ずしも絶対的な基準はなく、相対的、流動的な部分があることは否めないと思います。

> 2.それは何で強制されるのか? (極一部の義務教育免除試験受験生を除いて全国民が小中学校に行くわけですから、小中学校の教員の発言は「強制」と受け取れますよね)

何を教え、教えられるかという行為については強制はなされますが、それは教育というものの本質です。かけ算九九が嫌いな子供にもかけ算九九の暗記は強制されます。それと同じことです。道徳教育について上記に書いたような基準のブレが存在するのは確かでしょうが、それは本質的なことではありません(かけ算九九のような自然科学は判断基準が明確ですが、それ以外の分野においてはもともと判断基準が明確ではないものが多く、それですらある判断基準によって教育は為されねばならない)。

行為については教育の本質として強制されますが、思考については強制はされません。平和・人権教育によってアンチ平和・人権教育派の質問者さんができたことが、思考を強制された訳でないことの反証です。何かを強制されたときにそれをどう感じるかという人間の思考は自由なのです。これもまた教育の本質です。
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この回答へのお礼

>(かけ算九九のような自然科学は判断基準が明確ですが、それ以外の分野においてはもともと判断基準が明確ではないものが多く、それですらある判断基準によって教育は為されねばならない)

きれいごとではありますが、人文社会科学の場合は多様な説を取り上げて、なるべく中立、なるべく多くの意見を紹介するのがいいんですね、とおもいました。(これを平和団体の集会で言ったら「中立なんてありえない!(左に)偏って何が悪い」と怒られちゃいました…)

お礼日時:2005/08/09 09:53

僕は教育者ではないし、質問に対して適切な答えにはならないかもしれませんが、あえて回答します。



教育と言うのは本来何のためにあるのでしょうか?

僕は日本の教育である限り、健全な日本人を作るためにあると考えています。

健全な日本人とは、日本と言う国に愛国心を持ち、日本人としてのアイデンティティを世界に発信できる人間を作ることだと思います。

良い、悪いの尺度は、日本の文化や歴史の中で培われてきた道徳の上に存在していると思います。

ですから、戦後のGHQに押し付けられた民主主義や、自由、民権、博愛というような個人主義から出発した価値観なり道徳観は日本人自らの手で一度疑い検証する必要があると思います。

検証した上で日本人らしい、日本人を作ると言う意味でなら信念を持って「良いこと、悪いこと」を教えることができるのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

私自身の立場から申し上げますと、まさにそのとおり!っておもいました。
腐りきって古びた平和教育が向上するよう、私は人文社会科学系の学生として、勉強し活動していきたいと思いました。

お礼日時:2005/08/09 09:56

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