私は大学で哲学を学んでいます。
それで今道徳についていろいろと研究しているのですが、その中で「善」や「善い」と言うものがしばしば出てきます。
皆さんは「善」とは一体どういうものだと考えますか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (7件)

善とは、単純ですが、利益になるということではないでしょうか。


善を定義する者と、その善を実行する者が同じであれば問題は少ないのですが
そうでないからややこしいことになると思っています。
    • good
    • 0

御質問の趣旨に沿うかどうかわかりませんが、


過去に、「善」「偽善」についてのQ&Aがありましたので、
参考までにご紹介いたします。
(すでに閲覧済みでしたら済みません。)

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=96545
    • good
    • 0

 「善悪一如」とされ、本来、善と悪は共に人の心の中に具わっている用きであり、別々なものではない、ということになっております。


 「悪」を否定すれば、「善」を否定することになるということでしょう。
 「善」と「悪」とがあるのが、人なんです。それを、{善」だけを説いて、善人面するから、偽善者なのでしょ。「悪」を隠しているに過ぎません。
 道徳の理想は、「最高善」でしょ。正しい行い、良い行い・・・、所詮、それは、自己満足であり、それで満足しているようじゃ、偽善者の傲慢な姿です。他人を、本当に助けていることになっていないのであります。
 つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世も因果を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。
 正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境地に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと説かれています。
 このように正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、「最高最善」の生きかたとなるのです。
 如何ですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

参考になります。ありがとうございます。

お礼日時:2001/11/03 14:09

考え方の違いで、いくらでも善悪の基準は変化します。


時代、社会、人の心の中にのみ善悪を規定する観念が存在し、
伝播したり、語り継がれたりしながら観念は心に在りつづけます。
ですので、ある一面から善悪を語ることから万人に適用しうる善悪の定義は
なされないことが予想されます。
(もちろん強いカリスマが全世界にひとつの善悪観を届かせれば別ですが)

じゃあ、善とはなんなのかと私の考えを述べますと、
自分の中で気持ちとして、予感として、
これからする自分以外の人間や社会とのふれあい・なぐりあいに対して
まんべんなく良いと認められるだろうと予想される行動が善なのだろうと考えます。
善だと感じる行動に挑めるか挑めないか、という当然の人間の迷い多き心を制して
思う善に行動できる人間が善なる人と呼ばれるのだろうと。

じゃあ、具体的に善とはなにかといいますと、
私には私の感じる私だけの善があり、皆さんには皆さんの善があるとしかわかりません。絶対的な善悪なんてやはり無いものじゃないこと予想しています。
人間の短い人生では、結果もわからないでしょうけど。

ただ、最近の生活の中で感じることなんですが、
善も正義も思いをもつ自身に対して向けられるべきなのに、
他者にまで「これが正義だ」「これが善だ」と押し付ける人ってやはり、
悪だよなあ、と感じます。はい。
回答書きながらなんですが、
他人は他人、他人に対して良い悪いを言うのは悪になるんでしょうねえ。
つまり、私は気弱でおせっかいな悪人。
では、研究がんばってください!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。研究がんばります!!

お礼日時:2001/11/03 14:08

他者を交えて、向上して生きようとすることだと思います。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2001/11/03 14:07

shunpeさん、こんにちは、



自分は、哲学とは関係無い所しか見ていないのですが何故か気になってしまい回答しました。
自分は、かなり昔から善と悪の違いが良くわからなくなってしまっています。

世の中の物事に対して、ある価値基準を作成し、その基準に合致する物を善、しない物を悪としていると思います。
人によっては、この価値基準が一部共通だったり、場合によっては反対の場合もあると思います。
同じ人でも、いろいろ経験をして行くと価値基準そのものが違って来ると思います。

4文字熟語の「塞翁が馬」が面白い例になると思います。
この物語では、いろいろな事件が起きますが同じ事柄に対して、全て「いい見方」と「悪い見方」の両方が出てきます。

自分は、この物語から世の中で起きる事に対していろいろな解釈が有るけれど、事実はどんな解釈とも関係無くただ事実そのものが有るだけではないかなと思っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2001/11/03 14:07

あくまでも私個人の考えですので、参考にならなかったらごめんなさい。


  
 忙しい毎日の中でただ時間に追われて過ごしてしまう日も多い訳ですが、
ふと我に返って自分を、自分を取り巻く環境を客観的に見てみるとさまざまな発見があります。
例えば食事中でも。素材が出来あがるまでの手間を考えたり、素材を料理する大変さに感謝したり、お箸やお茶碗を作ってくださった苦労に思いを馳せたり。。。
 お野菜の事を言えば畑仕事のご苦労もあるし、突き詰めれば畑の中のミミズにまで感謝してみたりします。

私は全ての物事に感謝し、その気持ちを「行動」に表す事が「善」だと考えています。
それは人から感謝されるような行動に出る事だけを言うのではなく、お食事に感謝して残さず食べ、お茶碗を大切に洗うことも充分に「善」であると思います。
日常を大切に生きる、なかなか難しい事ですが大切な気持ちですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほどね。回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/11/03 11:25

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q【「徳を積む」のと「善を積む」の違いを教えてください】

【「徳を積む」のと「善を積む」の違いを教えてください】

Aベストアンサー

同じようなモノですが「徳を積む」とは人には見えない善行ですから
人にわかるのはただの善行でしょう。

Q==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋

==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋ねします==
哲学は 人間を始め森羅万象のあらゆることを考察あるいは研究し、人間に役立つ成果(考え)を提供するものと思っています。その成果が 多くの人間に役立つためには その成果が多くの人間が説得され易い構成になっている必要があると思います。それは論理構成になっていることが有力手段です。つまり研究成果の哲学が論理構成であるべきではないかと言うことです。当然この論理構成は論理の限界のなかの展開となり 対象が異なるだけで 数学とか科学とかと同じ構成となります。
そこで、納税者の一人として お聞きしますが、国立系の哲学研究者の方は 研究成果を国民に説明し 納得してもらわないといけない という立場があると思いますが、哲学は論理構成であるべき とお考えでしょうか。いやそうではない 論理構成の元にあたる公理(原則)の成り立つ条件であるとか 公理の存在理由であるとか 別公理であるとか の議論の方が重要であり、 非論理展開もあって 納税者への説得は難しいが 言葉で説得する。
いずれにしても 税金で研究を続ける以上 納税者としては 研究者の研究に絡まるこれらの考え方を研究者から聞きたい と思います。

==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋ねします==
哲学は 人間を始め森羅万象のあらゆることを考察あるいは研究し、人間に役立つ成果(考え)を提供するものと思っています。その成果が 多くの人間に役立つためには その成果が多くの人間が説得され易い構成になっている必要があると思います。それは論理構成になっていることが有力手段です。つまり研究成果の哲学が論理構成であるべきではないかと言うことです。当然この論理構成は論理の限界のなかの展開となり 対象が異な...続きを読む

Aベストアンサー

毎年の科研費の申請書において、論理構成にもとづいて、前年の成果と翌年の研究課題をそれぞれの項目に分けて論述しています。哲学がそうあるべき姿がこのようにあるのではなく、哲学がそうあるべき持続的営為を維持する管理とシステムの姿がこのようにあるのです。つまり、研究費を与える役職担当者に読解され、共感される文章を作成せねばなりません。そして担当者の裁量は納税者を代表しているにほかなりません。回答者の条件に適合しておりませんが投稿は自由なので回答させていただきました。他の適合者による回答をお待ちください。

Q善は善にして常の善にあらず。「老子」

受け売りでし。
(ヒマな時にでも)

Aベストアンサー

言うまでももないか、あるか、
元は、
老子第一章
道は道にして、常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず、無を天地の祖に名付け、有を大地の母に名付く。
もって無はその檄を現さんと欲し。有はその嬌を誇示せんとす、
第荷二章
人々は、善は善である、と考え、善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜である事をしらない。
・これら相い対峙する二つのものは、否定、対立しあいながらも、一つの統一体をなすものである。
と、ヘ-ゲルの弁証法、もしくは、色不異空、色即是空、が述べてあります。
老子の考え方を現代風、あるいは私流儀で説明すると、
善=善 である、しかしそれは、善-善=0 と言うのと同じであり。一つの単位としての統一体
、もしくは、存在、とはならない。ある、ためには。善×1/善 =1 でなければ、ならない。
善と(1/善)は表裏であり一体である。(1/善)は悪と名付けられる、常でない善となる。
道は道にして常の道にあらず。という世界の在り方は、名、妄想、の在り方、起こり方とも一致する。
となるのでしょう。米粒の在り方、法則生、も米俵の在り方法則性も同じである?

言うまでももないか、あるか、
元は、
老子第一章
道は道にして、常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず、無を天地の祖に名付け、有を大地の母に名付く。
もって無はその檄を現さんと欲し。有はその嬌を誇示せんとす、
第荷二章
人々は、善は善である、と考え、善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜である事をしらない。
・これら相い対峙する二つのものは、否定、対立しあいながらも、一つの統一体をなすものである。
と、ヘ-ゲルの弁証法、もしくは、色不異空、色即是空、が述べてあり...続きを読む

Q愛と憎しみを研究した哲学者や哲学書が知りたいです。

愛と憎しみについて、哲学的考察を試みたいのですが、なかなか文献が見つかりません。
今のところ、見つかったのはデカルトの情念論などです。

愛については、アウグスティヌスやキルケゴール、フロムなどが思いつくのですが、憎しみについて論じているものがなかなか見つかりません。

愛と憎しみについて比較考察しようと思っているので、そういった感じのものがあればいいなと考えています。

愛と憎しみについて、どちらか一方だけでもいいので、論じている哲学者や哲学書などを知っている方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

片方を調べ、考察することで、もう片方は自然とあぶり出されてくるかもしれませんね。。。

手近に
「理性と愛」-スピノザの思想-、大津真作著、高文堂出版社
という本がありました。

スピノザの「エチカ」は、デカルトの「情念論」と対比されるもののようです。
上記は市民社会思想史IIIで、IとIIが別にあります。
よろしければ読んでみてください。

「スピノザ 思想 愛 憎しみ」などでググると、二人の思想および時代背景について、大まかなところを捉えることができると思います。

Q【創価学会の教えである「美・利・善」の美って何ですか?】 あと勘違いがあったら困るので、利・善の意

【創価学会の教えである「美・利・善」の美って何ですか?】

あと勘違いがあったら困るので、利・善の意味も教えてください。

Aベストアンサー

>>創価学会の教えである「美・利・善」

そんな物は無い。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報