
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
No.3 の方が述べておられるように、「知る」とは何かということで、標準的には、それは「認知」と「理解」の問題というか、二段階の構造が最低でもあるということがポイントでしょう。
認知というのは、主に、感性認識に関わっているとも言えます。外の風景を見ると、知らない、イヌのようなネコのような動物らしきものがいた。これは、そういうものがいたということで、「知った」のです。しかし、それは何なのでしょうか。また、パーティに出かけて行くと、素敵な女性がいたが、知らない人で、口をきく機会もなかったので、そのままパーティはお開きになってしまった。その女性については「知った」のですが、知ったのは、そういう綺麗な女性がいたということだけです。
こういうのが、認知の問題です。こういうことも知ることになり、私たちが、何かを「知る」という時、こういうレヴェルでの「知っている」が多いです。ある言葉を知っている、このあいだ読んだ本に出ていた。しかし、それはどういう意味かと尋ねられて、そういえば、どういう意味だろうか、と首をかしげるようでは、その言葉があることは知ったが、意味までも知っていなかったことになります。
知るというのは、感性を通じ知るのでが第一段であるのですが、上のように、本を読んで言葉を知ったが、その意味はというと、よく分からないというのも、第一段の「知った」ということになるでしょう。
最初のイヌかネコか分からない動物については、その場にいた友人に聞くと、あれは「犬もどき猫」という動物だと教えられると、なるほどと思うわけです。(こんな動物はいないと思いますが。念のため)。しかし、「犬もどき猫」とは、どういう動物なのか、よく分からないのであり、そこで百科事典を調べると出ていたのであり、また、そういう題名の本があったので購入して読んでみると、詳しく「犬もどき猫」について書かれていた、なるほど、そういう動物だったのかと納得します。これが、認知の次の「理解」の段階での「知る」ということです。
パーティで会った素敵な女性についても、後にまた、その人と会う機会があり、その時は、きっかけがあったので、色々な話をし、何が好きかとか、政治などについての意見を聞き、また彼女は、いま独身で大学で勉強していることなどを知った時、認知としての「知る」から、更に「知る」ことの段階が進み、「理解」という段階に進んだことにもなります。
こういう風に「知る」ということには段階があり、それぞれ、「何を知るか」が重要になります。
先の素敵な女性については、交際が重なり、色々な個人的な事情なども知り、彼女が悩んでいる人生の問題などにも相談に応じ、彼女という「人」について、その内面にまで、少し踏み込んで知った場合、「知る」ということは、更に深められたとも言えます。
こういう人間について、その実存を知るという以外にも、知識や学問の世界で、数学の問題を解く時、公式を使ってただ解いていた段階から、公式がどうして成立するのか、また、何故その公式を使うと問題が解けるのか、そのことまで見通しができると、「知る」ということは、更に深められたということになります。
「認知」の次に「理解」があり、更に、理解にも色々程度があることになります。世界について「真の完全な知識を得る」ということは、現実的にも哲学的に不可能なのですが、「世界についての真の知識もある」というのが哲学の考えです。こういう普遍的な「真の知識」を得ることが、何かを知るということの、最終段階に来ることかも知れません。
「知っている」と思いこんでいて、実は、よく分かっていなかったり、独りよがりな、勝手なことを言って、知っていると思いこむのも人間にはよくあることです。独りよがりな思いこみから脱し、正しい知識を、客観的に把握するということが、「知る」ということで、注意せねばならないことで、こういう主観的思いこみや、不完全な知識を乗り越えるということが、「真に知る」ということのためには必要でしょう。
こういう風に「知る」というのは、色々な種類があり、段階があるということです。そういうことを、よく考えて、調べられて、レポートを書かれればよいでしょう。
No.9
- 回答日時:
「速く動こうとするな 速いと知れ。
」そのとおりです。論理と同じ、知覚と同じです。むしろ、それらが、同じです。知ることがはじめにあります。ですから、赤ちゃんはたぶん(笑 見えてるものが少ない。遺伝子の記憶とか知りませんが、おおもとは、精神を凌駕しています。「赤ちゃんは何でも知っている」ってゆう番組がありました。
論理の基本はA=Aです。このためには、まずAを知っていなければなりません。
知るということに、先も後もありません。知ってるんです。所与だからです。
はじめと終わりは一緒です。今も一緒です。
「よく見せようとするな よさを見せろ」
よさがあることが無理やり(理屈なし)で決まってます。知る。
「悪ぶるな 悪さを見せろ、悪くあれ」
ないもんは見せれません。だから、知ることが必要なのです。生きる上でも死んだ上でもです。何故、悪がないものかというと、数えれば数えるだけあるからです。だから、虚偽であり、嘘なんです。
知るということは、所与です。
すでに知っている事を思い出さねば成りません。
疑問は生じません。そのとおりであるのは、所与だからです。
他力も自力もありません。所与です。
すでに、行って 来て いるのです。
僕らはそういう者です。(マジでです)
No.7
- 回答日時:
直示に指差しは必要ありません。
指摘は直示ではありません。発する事が直示っぽい。
詩人は指摘することをじかに示します。
みろ 帆かけが海のきらめきの一つとなった
これがそういうことです。
気持ちのよい一節ですね。直示で出来てます。
No.6
- 回答日時:
皆が はだかの王様を発するするように。
「王様ははだかだ!」
「おいっ、見ろよ!裸の女王様だぜ!」
「めがね めがね」(笑
子どもはおおっぴらに発するが大人は指摘しません。
大人は、「しぃ~~~。静かにしなさい!」という人もあれば、「そうだね、ぷぷ」と言う人もいます。別に、指摘しなくてもいいんですけどね、。突っ込む所は突っ込んどかないと、。^^;
まぁ、みんな王様が裸だって「知ってる」んだし、。
めがねがナイから見えないんじゃないんです。
それを見ないからそれが見えないんです。皆、見える目をもっています。
目を覚ましていなさい。(冗笑だけどマジで)
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「悪は悪」「その人はその人」
西瓜割りの様に目隠しつつ、「悪を憎んで人を斬っちゃァダメですよ」
それで、自分の思いどおりになっているわけがないじゃないですか!
何故なら、自分は、悪を切りたいのです。憎しみは悪です。
そこで、自分を切ることのないように。悪は悪、自分は自分。悪を見るとは、「悪=悪」とすることです。
こうしてはじめて、自分にいる悪を切れ、他の悪をよけたり、斬ったり出来ます。
間違って善を斬りたいですか?(笑
誰しもいいこと(善)を望みます。
すでにめがねをかけているのですよ。目がいいのに、。
No.5
- 回答日時:
そのことを知っているとは、そのことについて疑問が出ないことです。
「家」を知っていますか?おそらく知ってると思います。だから、話が出来ます。
そのことについて疑問がないとは、「ドコに立ってる」とかの、具時的な疑問ではなく、「家」そのものを知っていると言う意味です。「家=家」の式を知ることです。それが、認知です。「家=木の家」ではありません。「木の家=木の家」
誤解は以下の様に生まれます。
「その人は悪い」←これが誤解です
「その人はその人」で、「悪いが悪い」。別々の認識を、あたかも当然の様に統合してはいけません。「悪人」などおらず、「善人」もまたいません。
なぜなら、その人の善を見るまで、善人だとは分らないし、悪人についても同じです。そして、善を見たときは、その人が善に属しているのであり、「その人=善」
ではないのです。悪についてもまた同じです。
「善=善」「悪=悪」「その人はその人」です。
最初人間の認識はこういうものです。その後、それは隠されます。
なぜなら、数学や諸々生活で、A=Bと刷り込まれ、又、「いい子にしてなさい!」などと言われまくるからです。子にしたら「もぉやってられん怒!」って感じですね。
「OOたんはいい子だね~」
はぁ?って子どもは最初に思います。
「OOたんはOOたん」「いいはいい」「子は子」である事を知っているからです。
その内、「はいはい、もぉそういうことにしょおか、。」ということで、誤解に自ら生きる選択を強いられるのです。
哲学的には、直示と言います。じかに示す事です。そのものをそのもの以外で形容したり、他を引き合いに出したりしません。
詩人の言葉は、この直示から来ます。ですから、詩人の言は真であり、数学者の式々は虚です。多くの数学者、科学者は、それを解っていますが、それがウソも方便である事は知らされていません。
言語の成り立ち、個人における世界認識は後二段階ぐらい深く、マジ世界の成り立ちはさらに二段深いのです。何故なら、マジ世界の認識は、個人におけるではなく、「すべてにおける」だからです。それを知るには以下を知っている事を思い出さねばなりません。
以下に示された事は、何も無い事です「ないはない」だから、ありです。思い出しましたか?無いものは無いのです。すべてありですが、同時に無いのです。すべてとは、ありで、ナシです。だから、何も無いのです。だからすべてです。そのためありです。「無=無」これが昇華して「あり」それはすべてであったので、「すべてあり」しかし、この経緯、同時であるので(すべてだからだし、無いから)、
「無」つまり「 」です。つまり、以下です。
No.3
- 回答日時:
哲学に関するレポートなので、domino7さんが大学生であると想定して、簡単にアドバイスさせていただきます。
「認知」と「理解」をポイントにすればいいのではないですか? 大学の図書館には哲学辞典や思想辞典があるので活用してみてください。No.2
- 回答日時:
●MATRIXのなかでモーフィアスがネオにむかって言うせりふです。
「速く動こうとするな 速いと知れ。」
このことばは 精神世界ではもしかしたら万能かもしれない
そのように感じています。
●つらくて つらくてどうしようもない袋小路に入ったとき
つらくないと知るのです。するとどうでしょう つらくなくなります。
理由などという論理は必要ありません。知るとはそもそもそのように独立した
境地なのではないでしょうか?
知覚はそのとうりですし 論理はそのとうりです。
あえてそこに「知る」という概念を持ってくる必要性を強くは感じません。
●となると「知る」とは 究極のわがままな概念として捉えたほうがおもしろい。
知るとは知ることで完結するのです。
重要なのは なぜそのように知らなければならないかということになると思います。
誠実とはあなたであると知る・・・。
なぜ:そのような人と人生を歩みたいから
No.1
- 回答日時:
参考にならないかもしれませんが・・・(汗)
見る、聞く、触る、など全て「知る」ということだと思います。見る、聞くは言うまでもないですが触る、という触感を知るということも知識に入っていきますよね。よって人間は毎日が「知る」の連続だと思っています。
上にあげたものは私の考える「知る」の意味というか種類みたいなものになりましたが、もしかしたら「知る」ということは悲しいことなのか嬉しいことなのか、「知る」ことで人間におきる影響・心理作用といったような哲学的な意味ですか?もし私の回答が検討違いでしたら質問の補足なんぞをお願いします・・・(;^_^A
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