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 普通、悪に対しての善 という言葉を用いる場合、

 陰に対しての陽、プラスに対してのマイナス、コインの表に対する裏 と云う様な意味であり、「善」が在るというなら「悪」もあるのは当たり前というか、中学生でも分かる道理だと思うのですが、「悪というものはない」と言い切る人は、どのような理屈で、そのように主張しているのでしょうか...

A 回答 (38件中1~10件)

 人間はなぜ、善とか悪とか思うのでしょうか。



 なぜですか。

 どうしてそんなことを感じるのでしょう。

 極端な人、例外を除けば、誰でも善悪を意識できるのです。

 悪を感じるのは良心。善を感じるのは悪心。

 良心があるから。悪心があるから。

 善のみなら、善を善とも思わない。

 悪のみなら、悪を悪とも思えない。

 博愛精神、慈悲心。〔全体〕

 煩悩、悪魔。〔個〕

 大海と岩に砕ける波しぶき。

 大海が神や仏。波しぶきが個々の生命。

 善は全体へ指向し、悪は個へ指向している。

 個、生命は自身を維持するため他者を殺す。

 ではなぜそこで、人間は罪悪感を覚えるのか。

 個は全体から生まれたから。個は全体と同質だから。

 (もしかしたらこの回答は途中かも、尻切れとんぼかも。でも先が続かないので投稿します。あとをよろしく)

この回答への補足

 しかし、蝶は確かに部分的な存在ですが、何の罪もなく、悪でもなく、存在し、そこに飛んでいます。

 「蝶はそれだけで完璧、完全だ」とするなら、悪ではないでしょう、しかし、蝶が部分的な存在であり、完全性からの欠落度合いを考慮して「悪」と定めるのは、少々無理も有るような気もします。

 バランスなんでしょうね、蝶は、バランスが取れているのでしょう。
小さい存在でも、個として、真円であり、どこかが突き出ている、何処かがへっこみ過ぎている ということはない、自然である。

人間も、個として存在していても、バランスが取れていて、自然であるなら、悪では、けっしてないのでしょう。しかし、ほかの動植物と比べると、その悪度合いは以上に高い といわざるを得ないでしょう。それだけ、存在としての難しさ、完全性を達成するのが困難である ということですね、そして人間はまさにそれを目指している。

補足日時:2009/10/05 23:02
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この回答へのお礼

 女性は、男性に比べて 自然寄りです。女性は、男性より完全性は高いです。

 胎児の時、男と女を分ける最後の決め手は、最後の変化が在るかどうかです。つまり、男は悪い意味で不完全度合いが高く、良い意味では、人間の可能性を追求するために存在している。より完全性の高い人間になるべく進化の過程にある。別な言い方であるとすれば、男しか、より良い世界への模索、働きかけは出来なのですが、しかし、それも大地、自然、女性がいてこそ、あってこそでしょう。しかし、それを踏まえずに、小ばかにし、安易に「自然回帰」を主張し、そうすることで人間の可能性をも否定し、否定することで実際に新たな、より豊かな世界になるのを閉ざしているのは、まだ天の時が来ていないと言うことでしょう

お礼日時:2009/10/05 23:19

善悪の使われ方には弊害がある。

その代表が、自分を善と規定して他者を裁いたり、日常生活でそれを前提として対処することである。実際には、それが悪を作りだしている。そうであるのに、「善しかない」、「悪はない」とはどういう論理なのか、ということが疑問だと判断しました。

「善悪」は、確かに「自分はどのような振る舞いをするか」という問題に深く関わっていると思います。
「善であること」と、「善という評価」は違うと思います。
「善であること」は、行為、心理において、公正な判断(論理だけではない)に基づかなければならないので難問でありますが、「善という評価」は、正当な評価は少なく、本人もいたって都合のいいように解釈することも出来てしまいます。
要は、こういった「善という評価」においての心理的やり取りが問題なのでしょうが、例えばじゃあ「善悪」という言葉を使わないようにしようというのは、ある程度の良い結果は出ると思いますが、根本的には、自分が心理的な善悪の判断をしなければ、たとえ善悪という言葉を使用したからといって、その心理的やり取りは成立しないと思います。(そう取られる可能性はあると思います。)心理的な善悪の判断をしないということは、「善悪なんてどこにもない」という判断のことですが、実際には「悪」がなければ、それに相対する「善」は生じないので、「悪はない」だけでも問題はないと思います。その人が「善」といったところで、それは、弊害を起こしてきた心理的判断を含まないため、仮にそれに相対する「悪」があるのだとしても、それは人間社会の範囲の問題ではないと思います。

この回答への補足

「評価」ですか、評価は単に評価であり、善悪の是非とは関係ないでしょう、認識が逆転する場合もあります。

>要は、こういった「善という評価」においての心理的やり取りが問題なのでしょうが、

評価ではなく、 善悪 とは何かの問いです。

>自分が心理的な善悪の判断をしなければ、たとえ善悪という言葉を使用したからといって、その心理的やり取りは成立しないと思います。

 そうでしょうか、言葉の持つ意味は、そんなものでしょうか。それに、自分はそのつもりでなくても、他者が聞いたときに、「善悪」で判断されてしまい、その人が影響を受け、その後善悪と言う概念を使用して生きていくことになってしまうかもしれません。

 いずれにせよ、人間は、実際にあらゆる場面、状況で、善悪という概念を用いて、他者を裁いています。『実際に、現実社会で』です。

 結論としては善しかない は、欺瞞です。

補足日時:2009/10/05 22:54
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現在あるとされている悪は、その被害者が辛い思いをしたことにより、その人(あるいはその振る舞い)を悪としていることが多いと思います。


けれども、人そのものを悪とするのは不適切だし、行為としての悪は、人殺しは最大の支持を得るでしょうが、被害者の不都合性により悪の度合いが変わっていくと思います。
そのため悪は、被害者が嫌がる度合い、迷惑をこうむる度合いによりその程度が決まると思います。

「人として、してはいけないこと」=「悪」と言ってもいいのであれば、「悪は存在するのか」=「人として、してはいけないことは存在するのか」と、言い換えることも可能だと思います。
しかしながら、「していいこと」と「してはいけないこと」をいちいち決めることは適切なのだろうか、という疑問も出ます。
その弊害は、質問者さまご自身でも感じられていると思います。
そういったことを考えるよりも、本質さえ捉えていれば、そういった問題は減っていくとは思わないでしょうか。
といっても自分はその本質を明確にすることが出来ませんが、それは何か自分の存在に基づく当たり前の事実を知る、ということになりそうだと思っています。
抽象的かもしれませんが、その当たり前の事実を知る人が増えれば自然と問題は減るということから、悪とは存在からの気付きの欠如によるものであることが言えると思います。

平気で人殺しが行われていた時代もあったかもしれません。
そうした時代では善悪の概念は必要だったかもしれません。
けれども本質を捉えている人にとっては、善悪の概念は大して必要ではないと思います。
そしてその、存在としての当たり前の事実を知っている人は、その事実に基づいて他の人と接すると思います。
その人にとって、悪は存在するでしょうか。
「してはいけないこと」、「それをすれば、その人を心理的に排除する」という何かです。
本質を捉えている人すべてがしないとは言えないかもしれないですが、基本は自身と同じ人間であるので、少なくとも悪がどうこうとは思わないと思います。
規制をしなければならない社会であれば、善悪は必要かもしれませんが、本質が通用するのであれば、善悪は必要ではない、悪は存在しないという人がいても不思議ではないと思います。

善だけが存在するというのはおかしいでしょうか?
考え方は、ポジティブシンキングに似ていると思います。
目標を達成するためには、それを妨げるものはなければない方がいいですし。
実際、ネガティブな発想は実在していないものが多いし、ネガティブな発想をしているために現実にそうなっている場合も多いですし。
存在を善だとしてそれを追及することは、自分としては実体験的に知り得た気付きに基づいていると思うし、本質から逸れているとも思わないので、自分はそれがおかしいとは思いません。

この回答への補足

善だけが存在するというのはおかしいでしょうか?
考え方は、ポジティブシンキングに似ていると思います。

◇そういう主張に対しての、疑問(と言うより否定)を元にした、質問によって始まったNo.1へ戻ります、良く吟味してください。

補足日時:2009/10/05 03:01
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はじめまして。

こんばんわ。
明日締め切るということなので、
とりあえず何かしゃべってみたく、お邪魔します。


当方は「悪は存在しない」という言葉にかなり救われた者です。
「善」とか「悪」とかいう言葉を誰が作ったのかは分かりませんが、
「何のために」作ったのでしょうね。
もちろん何かのために便宜的に作ったのでしょうね。


ところで、なぜ人間には「悪者」が必要なのでしょうね。
なぜわざわざ「悪」と名づけようとするのでしょうね。
時には(実在しない)「悪」を捏造までするのでしょうね。

成敗する対象(歪な愛を投げつける対象)が必要だからでしょうか。



「悪は善の欠如」という解釈にも賛成です。
わたしは「欠如」というより「不足」「枯渇」と言いたいですが。
殺人や強盗など好ましくないことをする人たちも、
やはり善の欠如・不足・枯渇のためだと思っています。
自ら「善」を入れておく器の手入れを怠ったのかもしれませんし、
環境やタイミングのために「善」をもらい損ねたのかもしれません。


少し話がズレますが
「愛」には「対象(存在)」が必要不可欠で、
存在自体が「善」であるという解釈にも賛成です。


さて、「善」の「欠如」「不足」「枯渇」についてです。
もしかしたら枯渇しすぎて空っぽの人もいるかもしれません。
この状況はどうしようもないかというとそうでもないと思います。
「善」を補給してくれる人を見つけられずにいるだけかもしれませんし
「善」の「やり場が無い」人が
たまたま枯渇している人を見つけられずにいるだけかもしれませんし。


存在・対象・関係などがある以上、
やはり「悪は存在しない」と思っています。

ではでは。

この回答への補足

存在・対象・関係などがある以上、
やはり「悪は存在しない」と思っています。

◇そういう主張に対しての疑問による、質問によって始まったNo.1へ戻ります、ご参照ください。

補足日時:2009/10/05 02:56
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この回答へのお礼

時には(実在しない)「悪」を捏造までするのでしょうね。

 ◇そうですね、しかし、

>「悪は善の欠如」という解釈にも賛成です。
わたしは「欠如」というより「不足」「枯渇」と言いたいですが。

善が欠如することで悪となるなら、悪が発生し、存在すると言うことになります。「全てが善で満たされていれば」、悪はないという事になりますね。

>存在・対象・関係などがある以上、
やはり「悪は存在しない」と思っています。

 「善」を定める以上は「悪」は存在します。善が完璧、完全であるなら、少しでも欠如したならば、その度合いはどもかく、「悪」となります、「悪は善の欠如である」と規定することが、その、本来ありもしない「悪」を作り上げている と言うのは、何度も言ってきているはずです。

◇結論としては、完全なものから何かが欠如するだけで「悪」と定める人が、それを作り上げているという意味において、「悪」であると言えないでしょうか。(←これも定めると悪となるので、問いかけの形で終えます。)

お礼日時:2009/10/05 22:37

 明日、締め切るということなので、とりあえず回答を試みます。



 善悪の定義。

 そんな大それた回答ではありません。

 道徳、倫理と言った社会性のある善悪という面での思索は不得意なので、個人の心に現れる善悪の心情に就いて。

 私個人は、“言い訳”をキーワードにしています。

 自分自身に言い訳をするときって、大概よろしくない事ををしたときなのです。

 一生懸命自分を正当化しようとしています。

 反対に正しいことをしているときは、言い訳という気持ちは起きません。

 堂々として、あるいは自然体でいられるのです。

 その行為を非難されたとしても、やましい気持ちがなければ、相手に“説明”できるのです。言い訳でなく。

 そのときに、言い訳になってしまったりするのは、その行為に“善”としての確信を持っていないから。

 結論

 好ましい状況の時は、自身への言い訳はありません。

 好ましくない心の時は、自身を正当化しようとする、言い訳が生じます。

この回答への補足

 善悪というより、良心についてでしょうか、非常にまともなことを言っているように感じます。

 仮に 「好ましい と 好ましくない」を、「善と悪」に置き換えると、

 善(の心情と行為)は、自身への言い訳はありません。
 悪(の心情と行為)は、自身を正当化しようとする、言い訳が生じます。

 となります。そうですね、特におかしくはありません。

 実際の行為振る舞いの、何が善悪に対応するのか と言うより、心理面での善悪は何か ということを考えるほうが、より本質、根源に近いような気がします。そうすると、「善」と思うこと、それによる行為振る舞いが 善 であるという、非常にシンプルなものになります。

 ただし、「善」によって「悪」を裁く、排除するという行為振る舞いは除いて。

 というわけで、比較対照を生じない「善」であれば、悪を規定すること、及びそれによっての悪を生じることにはならない という事になるでしょうか

補足日時:2009/10/04 22:50
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この回答へのお礼

 いや、しかし「良かれ」と思ってすることが、相手にとって「悪い」「迷惑」であることも在るから、やはり一概にはそうは言えないかもしれません。

自分を「善」と規定し、「良かれ」と思って「悪」をさばくことも出来ます。

自分への言い訳をするかしないか、正当化するかしないかは、後ろめたさの問題であり、えてしてそれは、実際の真実とは関係ありません。幼少期に悪しき働きかけをされた子供は、特に悪いことをしていなくても後ろめたい気持ちになるケースもあるでしょう。働きかけをしたほうは、意外と良い事をした と思うことも在るでしょう。

お礼日時:2009/10/05 22:46

私の質問を調べたのですか。


ご苦労様です。
よほどしゃくに障ったのでしょうね。
本当のことを言われて。^^

あなたの場合、日常生活で、色々な不満や不安があるのだと思われます。
ネットという匿名の場を借りて、その鬱憤を晴らしている可哀想な方なのでしょう。
しかし、お礼蘭や補足蘭だけでは間に合わなくて、わざわざ別 ID を使ってまで喰いついてきた「けなげさ」に心打たれました。
そして、まだ話を続けて欲しいと私に頼んでいるわけですね。

よろしい。
その執念に免じて、もう少しお相手してさしあげましょう。^^;

因みに哲学カテでも質問はさせていただいてますよ。
あなたほど悩みがあるわけではないので、2回だけですけどね。
2回とも人気のトップにしばらくの間君臨させていただき、100近い有意義なご回答もいただいています。
あなたのような、屁理屈と居直りしか書けない質問や回答とはわけが違います。
見つけられなかったようですね。
頑張って探して、また何かケチをつけてみてください。
ファイト!^^;
ただし、徹夜とかしてはダメですよ。
また、いくら腹が立っても、周囲の人にやつ当たりとかしないようにね。
パソコン叩いたんですか?
だめですよ、そんなことしちゃ。^^;
怒りは自分に返ってきますからね。
手、痛くなかったですか?

> とにかく、潔く引くときは引いたほうが良いです、人間は、引き際が肝心です。
:あはは。^^;
わざと笑わせてくれるのですね。
そう言ってる割には引かないですね、あなたは。
あなたが締め切ればそれで澄むことでしょう?
いや、大笑い。^^

ま、袖振り合うも他生の縁、と言いますから、ひとつ有意義なお話をしてさしあげましょう。
あなたは、尋常でない精神的抑圧を受けてきた方と推察します。
おそらく、抑圧を受けてきたこと自体にも気づいていないかも。
生体防御の観点から、その抑圧を撥ね退け、発散させようとするのは生命体として当然のことです。
ただ、その矛先を間違えてはいつまで経っても解決には至りません。
マスターベーシンによって得られるであろう(得ているであろう)一時的な快感は得られたとしてもね。
あなたが誰彼構わず噛み付いては、駄々っ子のように、他者を貶めることだけでしか自己の見解を主張できていない姿が哀れに映ります。
自己内省によって、本質に目を向けることを怖れないことです。

朝夕の挨拶からまず始めましょう。
また、自分を神だとか思いたくなったときは病院に行くこと。
あと、別 ID を使ってもいいから、現実生活で処理しきれずに困っていることを素直に相談してみること。
ですかね。
ご自分の頭の中だけで考えていても解決できないことは多いものですよ。
「なんでうまく行かないんだろう」って悩んでいらっしゃるのでしょう?

衆生の円は度し難し、とも言いますしね。
これ以上は、私もお付き合いできませんのでご勘弁ください。
捨てゼリフでもたっぷり書き込んでから締め切る頃合いでしょう。
ま、ご自愛ください。
 

この回答への補足

 補足とお礼についての指摘や意見でなく、なんの根拠もない悪口、罵詈雑言に終始しているようです。

 もはや論理的に反論する事はできないと見て取って、
>よろしい。
その執念に免じて、もう少しお相手してさしあげましょう。^^;

 と しぶとく喰らい憑いてきましたが、「よろしい」「相手する」も何も、具体的なその質問のアドレスも示さずに、自分の妄想と現実の区別もつかなくなっての罵詈雑言をしている過ぎない ということは自覚していますでしょうか。ああ、そうか、「超自我」はそれを認識できないわけか...

それにしても、「相手してさしあげる」というなら、自分が何処かから持ち出してきた超自我、自我、本能 を展開させるなりして相手を納得させるべきでしょう。

いくら ^^; などといった顔文字を使ったところで、回答者さんの動揺、憤りが、その悔し紛れの悪口から漂ってきます。それこそ、自慰行為は人に見られないところで、一人でするが宜しいでしょう。

 何処から持ってきたかわからないが、何かに書いてあった、実感したこともない超自我などを想定し、妥協による諦めを「超自我の発達」と定め、現実に向かい合うことなく自分からも世界からも逃避している人は、自己変革のための自己変革も出来ないということです。 まず、目に映る事象と自分の感情を、逃げずにそのまま受け止めること、これが回答者がまず自覚し、留意すべきことであるということです。

 単なる机上の空論により、超自我自我本能などを他者の言われるまま真に受けて想定し、実際の場面で働いているのがどれかもわからずに妄想、狂言を弄すると、その 顔 まで醜くなることは必然でしょう。

 虚は邪であり、回答者は邪道の道を行き、自分をごまかして他者を見守り、慈悲にあふれた偽菩薩になり、偽の天上界へ行くと言うことで。

潔くあきらめるときは諦めるのが人としての道理です、理屈を言いまわしていないでまず人間性を見直したほうが良いようです、自己変革以前の問題ですね。ああ、「理屈を言うな」と言われたから、今度は妄想による非難、中傷にしたということですか、しかし、どっちが回答者なんだか。。。理屈(と誹謗中傷)を言いまわしていないでまず人間性を見直したほうが良いようです、自己変革以前の問題ですね。

 違うIDを使用ですか、補足とお礼の文字数が限られていること、それに「SUN_LIGHT は自分のIDです」と解るように示してますよね、補足とお礼ともうひとつ書きたいときに、別ID で書いたのは、見ての通りです。補足だけ見て、他者の解答を見ないことも考慮に入れての補足と「別IDによる回答」をしたんですが、道理もわからなくなったのであれば、それはその場の刹那的な対応で、虚言を繰り返したが故でしょう、自分のやったことが、すぐに現れるということですね。

ま、ダニのように執着して喰らいついてくるのは、その性分としては仕方がないことなのでしょう。

>ま、ご自愛ください。

 の次に、今度はどのように喰らい憑いてくるのか、待ちますか。

 しかし、虚言を繰り返すうち、その顔が醜く変貌していかなければ良いのですが...
 人は修羅場でどのように対応するかで、自分の要望も含めた全てを自分で決定していくと言っても良いでしょう。この場で一時的になんとか無理して体裁を保ったとしても、そのままではいられないでしょうね。

 基本、「お呼びでない」です。(顔が回答者さんと似てきても嫌ですので)

補足日時:2009/10/04 22:37
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この回答へのお礼

訂正:

>自分の要望も含めた全てを自分で決定していくと言っても良いでしょう。

⇒自分の容貌も含めた全てを自分で決定していくと言っても良いでしょう。

 ご参考まで。

お礼日時:2009/10/04 22:43

もうひとついい忘れてました。



>おそらく解答しないだろうと思います。悪しからず。
:社交辞令だったんですが、そうしてもらえると助かります。
安心しました。^^;

この回答への補足

>安心しました。^^;

 いえ、おそらく他者の土俵でしか相撲を取れない人は、今後「質問」をすることは ないだろうと思います。特に、なんとでも屁理屈を言える「哲学」のカテゴリではね。実際、客観的な答えを得られる分野でしか質問をしていないようです。http://mlab.dyndns.org/okgoo/okgoo.php?id=hakobulu
他者の言にクレームをつけるのは簡単です、まあ、この文章を見て意地でする可能性はありますがね。しかし、ぜひともこの「哲学」のカテゴリで質問してください。私は質問者が屁理屈を言いまわさないうちは見守ると思いますが。

◇最後に私も言い忘れ◇
 「具体例」がないとアドバイスできないなどと言っておきながら、「具体例」ではない例に対して 意見やアドバイスを指摘してきた回答者は間抜けに違い在りません。「これ以上は無理と言ったんだよ」などとまた屁理屈を言ってきそうな気がしますが^^;

 さて、これでもまだ喰らい憑いてくるか、まだ締めないでもう少し様子を見ましょうか。自我で認識できないから「超自我」ということもわからない回答者が名誉挽回をしてくるか、興味の在るところです。

 とにかく、潔く引くときは引いたほうが良いです、人間は、引き際が肝心です。そうであればこそ、これ以上恥をさらさずに済むと思います。

 結論としては、アタマで考え、選択した振る舞い行動には、「他者や世界のため」というのはありえないということで。

 5日の24時に締めます。

補足日時:2009/10/04 15:54
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この回答へのお礼

訂正

>他者の言にクレームをつけるのは簡単です

⇒他者の言に意味のない屁理屈を言うのは簡単です

 [10月4日 16:01]

お礼日時:2009/10/04 16:01

>どうしても納得できなくて喰らい付いてきましたか、しかし何処まで行ってもやはり屁理屈の領域を出ていないようです。


:これだけの投影の事例も珍しいですね。
笑わせてもらいました。^^;

>とにかく、食い下がってきても、無駄です。屁理屈は屁理屈、お呼びでない者は、お呼びじゃないです。
:質問する立場としては語るに落ちましたね。^^;
お大事にとしか言いようがありません。
これ以上、論理的に返答できない、ということをおっしゃっているのでしょう。
私としても同じことをこれ以上繰り替えすのも面倒なのでこれで失礼します。
まあ、無理せずにがんばってください。
 

この回答への補足

>笑わせてもらいました。^^;

ああ、そんなにカッカしないでください、そんなに叩いたらPCの画面が割れてしまいますよw

>お大事にとしか言いようがありません。

 はい、アタマがパラドックスな人は他者が「お大事に」と映るようです。

>これ以上、論理的に返答できない、ということをおっしゃっているのでしょう。
私としても同じことをこれ以上繰り替えすのも面倒なのでこれで失礼します。
まあ、無理せずにがんばってください。

 はい、捨て台詞を吐く程度の人間であるということを踏まえて、今までの言は全て参考にさせていただきます。お大事に。(アタマを)

補足日時:2009/10/04 15:37
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 どうしても納得できなくて喰らい付いてきましたか、しかし何処まで行ってもやはり屁理屈の領域を出ていないようです。



>:ご理解いただけないようで困りましたね。^^;言えないとか言えるとかいう問題ではないんですよ。根本的なことなんですが、そのアドバイスとやらの必要性を私は感じていない、ということなんです。

◇それでは、

>「当面差し迫って対処すべき問題はない」から、「無理に具体例を提示する必要もないでしょう」と言うのは、少々無理があります。しかし、それとてhakobuluさんが「いや、言いたくない」というなら、強制できるものではありません。

◇この文章の、「いや、言いたくない」の部分を、「いや、言う必要性がないと思う」に読み替えてください、同じことです。

>必要なときには、owlsjp さんのように質問しますから、その際にはよろしくどうぞ。

 多分、言った言わない、言いたくない じゃなく、必要性が無い などといったレベルに堕ちるのを避けるという意味において、おそらく解答しないだろうと思います。悪しからず。

>>「自己変革とは妥協の産物」と言った時点でこの対話を止めるべきでした。
:自己精神の内部要素として「本能・自我・超自我」があるわけです。
大雑把で恐縮ですが、本能は快・不快を 自我は損・得を 超自我は善・悪を、それぞれ司っています。自己変革というのは、これらの何かが変革されることです。

 これが、書物からの引用なのか、それとも経験とそれに伴う思索、洞察などによる定義なのか、疑問に思うところです。なにしろ、「分けて考え、感じている」というのが信じられません。

>たとえば、善の領域が広がるということは、本能的快の部分が縮小されるということになります。銀行強盗してでもお金が欲しいという欲求が本能的快の指令ですが、それは不味いんじゃないの、というのが超自我による規制ですね。つまり、この場合は本能的快の要素が妥協したことになります。

 正直、ピンときませんね。質問者さんの書物や逃避としての頭の中での理屈のみで語られても、言われた方は、「はあ、そうなんですか」としか言えません。「具体的にこういったケースで『超自我』さんが私に働きかけました」などといったことはありえないでしょう。具体的なケースを挙げられないのがそれを証明、物語っています。

>大体こういった意味での「>妥協」ということです。
妥協という言葉をネガティブに捉えておられる感もありますので、一応補足しておきます。

 妥協は一般的には良い意味の言葉ではありません。ネガティブに捉えるのが普通と言うか、当たり前です、捻くれた屁理屈さんでなければね。
 それにしても、「妥協」と言う言葉が、人によってポジティブもしくは中立の意味で用いられているとは、初めて知りました。ポジティブな表現であれば、他の言葉を使うのが適切ですよね。超克とか、克己とか、その他色々。

 とにかく、食い下がってきても、無駄です。屁理屈は屁理屈、お呼びでない者は、お呼びじゃないです。
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#28ですが、ちょっと補足です。



>「自己変革とは妥協の産物」と言った時点でこの対話を止めるべきでした。
:自己精神の内部要素として「本能・自我・超自我」があるわけです。
大雑把で恐縮ですが、
本能は快・不快を
自我は損・得を
超自我は善・悪を、
それぞれ司っています。
自己変革というのは、これらの何かが変革されることです。

たとえば、善の領域が広がるということは、本能的快の部分が縮小されるということになります。
銀行強盗してでもお金が欲しいという欲求が本能的快の指令ですが、
それは不味いんじゃないの、というのが超自我による規制ですね。
つまり、この場合は本能的快の要素が妥協したことになります。
大体こういった意味での「>妥協」ということです。
妥協という言葉をネガティブに捉えておられる感もありますので、一応補足しておきます。
 

この回答への補足

 どうしても納得できなくて喰らい付いてきましたか、しかし何処まで行ってもやはり屁理屈の領域を出ていないようです。

>:ご理解いただけないようで困りましたね。^^;言えないとか言えるとかいう問題ではないんですよ。根本的なことなんですが、そのアドバイスとやらの必要性を私は感じていない、ということなんです。

◇それでは、

>「当面差し迫って対処すべき問題はない」から、「無理に具体例を提示する必要もないでしょう」と言うのは、少々無理があります。しかし、それとてhakobuluさんが「いや、言いたくない」というなら、強制できるものではありません。

◇この文章の、「いや、言いたくない」の部分を、「いや、言う必要性がないと思う」に読み替えてください、同じことです。

>必要なときには、owlsjp さんのように質問しますから、その際にはよろしくどうぞ。

 多分、言った言わない、言いたくない じゃなく、必要性が無い などといったレベルに堕ちるのを避けるという意味において、おそらく解答しないだろうと思います。悪しからず。

>>「自己変革とは妥協の産物」と言った時点でこの対話を止めるべきでした。
:自己精神の内部要素として「本能・自我・超自我」があるわけです。
大雑把で恐縮ですが、本能は快・不快を 自我は損・得を 超自我は善・悪を、それぞれ司っています。自己変革というのは、これらの何かが変革されることです。

 これが、書物からの引用なのか、それとも経験とそれに伴う思索、洞察などによる定義なのか、疑問に思うところです。なにしろ、「分けて考え、感じている」というのが信じられません。

>たとえば、善の領域が広がるということは、本能的快の部分が縮小されるということになります。銀行強盗してでもお金が欲しいという欲求が本能的快の指令ですが、それは不味いんじゃないの、というのが超自我による規制ですね。つまり、この場合は本能的快の要素が妥協したことになります。

 正直、ピンときませんね。質問者さんの書物や逃避としての頭の中での理屈のみで語られても、言われた方は、「はあ、そうなんですか」としか言えません。「具体的にこういったケースで『超自我』さんが私に働きかけました」などといったことはありえないでしょう。具体的なケースを挙げられないのがそれを証明、物語っています。

>大体こういった意味での「>妥協」ということです。
妥協という言葉をネガティブに捉えておられる感もありますので、一応補足しておきます。

 妥協は一般的には良い意味の言葉ではありません。ネガティブに捉えるのが普通と言うか、当たり前です、捻くれた屁理屈さんでなければね。
 それにしても、「妥協」と言う言葉が、人によってポジティブもしくは中立の意味で用いられているとは、初めて知りました。ポジティブな表現であれば、他の言葉を使うのが適切ですよね。超克とか、克己とか、その他色々。

 とにかく、食い下がってきても、無駄です。屁理屈は屁理屈、お呼びでない者は、お呼びじゃないです。

補足日時:2009/10/04 01:20
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