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 普通、悪に対しての善 という言葉を用いる場合、

 陰に対しての陽、プラスに対してのマイナス、コインの表に対する裏 と云う様な意味であり、「善」が在るというなら「悪」もあるのは当たり前というか、中学生でも分かる道理だと思うのですが、「悪というものはない」と言い切る人は、どのような理屈で、そのように主張しているのでしょうか...

A 回答 (38件中21~30件)

#17です。



>しかし、それが単なる自己主張によるもので、真実から離れた主張や振る舞いであれば、それが誰か他の人間の苦しみとなるのでしょうか?
:その主張なり振る舞いなりの程度や場合にもよるのでしょうが、基本的に、真実は自ずと現れる、ということになるように思いますね。
ミイラとりがミイラになるとは良く言われることですが、そこまでいかなくとも顔ぐらいは似てきてしまう可能性は大いにありそうです。
人の思考や営みなどというものを遥かに凌駕する真理というものはあるはずでしょうから、そこを目指せばよいのであって、些事に関わりすぎると本質を見失う危険性もある。
といったような感覚で私はいますが。
 

この回答への補足

 自分のための、真実を基準としたものでない、単なる無智、傲慢な振る舞いは、結局は「自分に」現れる ということでしょうか、しかし、必ずしもそうではないかもしれない、とも思います。

 とくに、その無智傲慢な振る舞いを 受け取る側が 「結局は自分に帰っていくからほっとけ」という、無関心にして復讐的な心境で正面から向き合わないなら、その瞬間の心情が、すでに自分の人生を虚しく、貧しくしていると考えられます。

 正義のカルマを発動させるかどうか、それさえ、ここの人間にかかっている といって良いでしょう。

 自分がやったことが、自分に帰ってくるとしたら、「無関心と復讐心」は、その瞬間に自分を規定し、自分をそういった存在にしてしまうでしょう

 いかがでしょうか?

補足日時:2009/09/28 00:08
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この回答へのお礼

訂正

 正義のカルマを発動させるかどうか、それさえ、ここの人間にかかっている といって良いでしょう。


⇒正義のカルマを発動させるかどうか、それさえ、個々の人間にかかっている といって良いでしょう。


 つまり、誰かの振る舞いを見て、「なんかムカつくけど、結局は因果として現れるだろうからほっとこう」と、無責任と復讐心によって思うなら、その「復讐」が自分に帰ってくる、もっと言えば、「その瞬間に自分を、無責任で復讐する人間と、自分で規定している」ということになります。

>人の思考や営みなどというものを遥かに凌駕する真理というものはあるはずでしょうから

 それは、人格を伴った精霊や、神の計らいといったようなものでしょうか、それとも他のものでしょうか、例えば簡単な例で言えば水が沸騰すれば気体となる。と同じように、悪いことをすれば醜くなる。など

 しかし、人間がこの世界を作ったのなら、やはり人間の思いが、全ての法則であるともいえます。そうすると、やはり正義の法則、カルマを発動させるかどうかも、個々の人間にかかっていると言えそうです。

>些事に関わりすぎると本質を見失う危険性もある。

 しかし、大事を為さんと欲すれば、小成ることを怠らず謹むべし 別の言い方で言えば、小さなことをおろそかにする人は、大事も為す事はできない ということも言えると思います。

お礼日時:2009/09/28 00:33

#12です。



> それらを認識し、原因が何処にあるか、何かをまず知らなければ、やはり苦しみから救うことは出来ないでしょう。
:同感で寸ね。
似たようなパターンとして、宗教ではよく赦しということを(おそらく)言いますが、これとて、憎悪という過程を乗り越えて初めて感得できる(あるいは感得すべき)ものであって、お題目のごとく赦しだけを結論的に声高に叫ぶのはやはり欺瞞でしょう。
善意には解釈しますが、それで何事かを解決しようとするのは、メッキで傷口を塗りたくるようなものだろうという気がします。

> 自分のためと、他者もしくは世界のための行動振る舞いに、違いが生じてくるでしょうか?「自分のためにこちらの道を選ぶ」あるいは「他者、世界のためにこちらの道を選ぶ」と。
:生じないと私は思います。
私の捉え方としては、
「>他者、世界のためにこちらの道を選ぶ」と意志した時点で、それが【取りも直さず】
「>自分のためにこちらの道を選ぶ」ことと同義だ、ということだからです。

たとえば、
「人民の為に」自爆テロに向かう者の心理は、ジハードの戦士として身を捧げることのできる「自己に対する満足感」に溢れていることでしょう。
 

この回答への補足

「他者、世界のためにこちらの道を選ぶ」ということが、自分のために、その道を選ぶということになるから、やはり違いは生じない。 という事になりますね、納得です。

 たちが悪いのは、「私は自分を捨てて、あなたもしくは社会のために生きている。奉仕している」と、思い、自分を「善人」である としている人たちです。

 結局は、自分のためだけに生きることが出来る人は、真の強さを持っていると思います。「誰かのために生きる、あるいは死ぬ」というのは、弱さからくる、欺瞞なんだと思います。

 潔く、「自分のために生きている」と認識できる人間が増えれば良いですね。しかし、それが単なる自己主張によるもので、真実から離れた主張や振る舞いであれば、それが誰か他の人間の苦しみとなるのでしょうか?

補足日時:2009/09/27 20:31
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>はあ、そうですか、こちらはコドモの相手をしている時間が無いので、自分で捻ってもらえますか?>



 捻ってる時間は無いのにここで質問して受け答えしてる時間は在るのかwww
 否定的優位性を得たいだけの子供じみた質問だということが分かりましたw
 まあ精々まともな武器を得られるよう頑張って下さいねw

この回答への補足

>捻ってる時間は無いのにここで質問して受け答えしてる時間は在るのかwww

 えーと、「コドモの相手をしている時間が無い」と言っただけで、「捻っている時間が無い」とは言ってないですよね、アタマがパラドックスのようでw。そもそも、物事をそのまま観るのでなく、捻ったら、そういうアタマになっちゃうと思うんだけど。。。

>否定的優位性を得たいだけの子供じみた質問だということが分かりましたw

 肯定すべきものと否定すべきものは区別しなければなりませんね、どうやら自分のことを言っているようです。ちなみに、肯定的優位性も在るということをお忘れなく。一時期肯定しても、否定しても、真理に則ったものでなければ、いずれ廃れます。

>まあ精々まともな武器を得られるよう頑張って下さいねw

 いや、実はすでに持っているんですよ

 
 これらの回答は自己顕示欲によるものだということですね。

 まあしかし、その「捻じ曲がった」根性からでた、飛んでるアタマで出した善悪についての見解は、貴方に賛同する人たちに聞かせてやってください。とりあえず、お呼びではありません。

補足日時:2009/09/27 20:07
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 周りの人と違っていて申し訳ないのですが


>「善」が在るというなら「悪」もあるのは当たり前というか>
 こんな単純な道理だと思ってもらっては困ります。
こんなの重力が下に働いてるんだから地球はひらぺったいに違いない
と言っている子供みたいなものです。もう少し捻って見ると良いですよ
 

この回答への補足

はあ、そうですか、こちらはコドモの相手をしている時間が無いので、自分で捻ってもらえますか?

補足日時:2009/09/26 22:18
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 今の人間社会は、・・・。


 善、悪があふれている社会です。

 にもかかわらず、「悪というものはない」と言い切る人がいるのですね。

 考えてみました。

 というよりも、想像かな。

 それは、“お人よしの論理”ではないでしょうか。

 (私も、お人よしなのですが)

 でなければ、先に言ったように、究極の真理を想像して、あるいは、釈尊の“本来善とか悪とかそういうものはないのだ”を拠りどころとする“思い”があっての言葉ではないでしょうか。

 

 

この回答への補足

 ポジティブ思考、楽観的という意味でのお人よし ですか、それなら意味がわかりますね。しかし余り楽観的過ぎるのも困ったもんです。

 ところで、今の時代に素朴な感性を持った釈迦や、激しい一面を持っていたとされるイエスがそのまま生まれ変わってきたら、どうなりますかね、やっぱり「キレまくり」でしょうか、それとも日蓮のように激しく生きざるを得ませんか、あるいは...

 とにかく、善悪の定義を、解りやすく説明できる人が居たら、聞いてみたいですね。

 yy8yy8azさん、適当いい加減で良いので試みてもらえませんか?

補足日時:2009/09/26 23:18
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 まあおそらく本質的に無いということだと思いますよ


本質的もしくは感情的に存在している悪というのは有り得ない
ということだと思います、おそらく悪を感じるのは感じる側
であって決して行う側がその感情をメインに遂行している訳では
ないという事を言いたいのだと思います。
無論、「悪だからやりたい」という人は居ると思いますが
本質的にはもう少し違う理由があるということをなんとなく
言いたかったのではないでしょうか
動物で毎回例えますが動物に悪意があると思いますか?という話
です。

この回答への補足

 一瞬、見た感じですが、全ての文章が「ぶっ飛んで」ますけど...

 毎回 って、こっちは始めて見ましたよ、知らんがなw

補足日時:2009/09/26 22:22
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#6です。



>「在り方」としては現実から逃げている、自分だけはメンドクサイことに関わりたくないと考えている(在り方をしている)などが考えられます。部分としての存在であり続けたい、
:これは、本人がそう思っているというよりは、むしろ一般大衆をそのような者として認識している、ということではないでしょうかね。
そういった(愚)者を導くため(悪から救うため)の方便という気がします。
「宗教的欺瞞と牽強付会」という表現は、そういった意味で使いました。
つまり、それこそ善意(のつもり)でそのように主張しているのではないでしょうか。

おっしゃるように、あるがままに認識することに対する怖れといったようなものは確かにあるのでしょう。
ただ、「悪はない」とすることで何らかの問題が解決できる、あるいは解決しやすくなる、という信念に基づいての主張のように思われます。しかし、

>善が在るなら悪があり、悪が在るなら善も在る。
:のは、そのとおりで、あるものを無いと言いくるめても何の解決にもなりません。
関連して述べるならば、「利他」という行為は本来存在しません。
一種のおためごかしであって、これは他の方もおっしゃっていますが、人間は自分の望まないことはできるわけがないのです。
たとえ、犠牲的行為であっても、その犠牲によって得られるカタルシスの発散が根本的な欲求として存在しています。
つまり、善悪というのはあくまで「個人にとっての」あるいは「ある集団にとっての」概念であって、絶対的善悪というもの自体は存在しません。
「人が存在すること」は善でも悪でもなく、ただ、そこに在るというだけにすぎません。
そう思えない人は、「善でなければ存在するはずが無い」という無理な思い込みに囚われてしまうのでしょう。
たとえば、善としての神の存在を肯定してしまうと、そのような結論になってしまうのも肯けますし、そういったことが大元にあるような気もしてきますね。
善と悪の定義が一定していないためのすれ違い、という可能性もあるかもです。
 
 

この回答への補足

No.11の補足の訂正

 オレだけは生き残ろうとは思わない と、 というのは違います。

⇒オレだけは生き残ろうとは思わない と、「死にたい」というのは違います。


 出かけますので、補足は深夜か、明日となります。
 [26日13:57]

 

補足日時:2009/09/26 13:54
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この回答へのお礼

 善意 による、「悪は無い」という説得と導きにより、悪から救済しようとしているのではないか。ということですね。

 なるほど、確かに 悪というものは善が欠落している状態に過ぎない と考えるなら、「個としての存在は、それだけで完全である」と考えるなら、「悪は無い」という主張も正しいかもしれませんね。

 しかし、そうであるなら、わざわざ 「悪」は無い と言う必要もないでしょう。悩んでいる人、苦しんでいる人には、「~ない」という否定形を用いずに、「君は今のままで完璧、完全だよ」と言えば良いでしょう。
 ~は無い と、否定形を用いることが、やはり「逃げている」と言う印象を持ちます。例えば、何かが原因で苦しんでいる人がいて、その原因を認識せず、「そんなの無いよ、気のせいだよ」と言って済む問題でもないでしょう。

 それらを認識し、原因が何処にあるか、何かをまず知らなければ、やはり苦しみから救うことは出来ないでしょう。


 話は変わりますが、利己と利他 についてです。

 自分のためと、他者もしくは世界のための行動振る舞いに、違いが生じてくるでしょうか?「自分のためにこちらの道を選ぶ」あるいは「他者、世界のためにこちらの道を選ぶ」と。

お礼日時:2009/09/26 22:57

NO.7 です。


>生き残りたいと思う心と 善 と、どういった因果関係が在るのでしょうか
「私は生きる!」という宣言と「死にたい」という気分と、どちらが生き物にとって前向き(善いこと)かは明らかでしょう。生きものの目的は一義的に生存なのですから。
>歴史的な認識が正しいと言うのは、どうやって確かめるのでしょうか?
「歴史的な認識」というのは、時間軸を考慮した判断をそういったまでです。質問者様が、善悪の判断は刹那のことで、前後の時間は考慮しない(>人は時間を知覚することは出来ないでしょう。明日が来ると思って寝て起きたら、やっぱり今日、今現在しかないわけです。)といわれたことをぱくっただけのことです。その認識が正しいかどうかはこの際問題ではありません。
ここで正しいといわれる概念は、何度も繰り返すようですがただひとつ、自分は生きたい、ということだけに絞っています。
ご参考まで。

この回答への補足

 オレだけは生き残ろうとは思わない と、 というのは違います。

 私は生きる というのは、どうやっても生きるしかないのですから、普段それを強く意思しなくても、生きるのはあえて主張しなくても良いことです。

 それを、「生き残ること」が目的となっては本末転倒、とまでは言いませんが。

>「歴史的な認識」というのは、時間軸を考慮した判断をそういったまでです。質問者様が、善悪の判断は刹那のことで、前後の時間は考慮しない

 「歴史的な認識」と、「時間軸の考慮」はっきり言って何を言っているのか解りません、錯乱しているのではないでしょうか。
 善悪の判断は刹那のこと とは言っていませんよね、もう一度よく読んでから投稿してください。

>ここで正しいといわれる概念は、何度も繰り返すようですがただひとつ、自分は生きたい、ということだけに絞っています。
ご参考まで。

 正しい概念=自分は生きたい という思いですか、はっきり言ってお呼びではないです。

補足日時:2009/09/26 13:43
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この回答へのお礼

すくなくとも自分か回答者のどっちかはうそつきのようです。

お礼日時:2009/09/26 13:52

NO.7 です。



>、「悪というものはない」と言い切る人は、どのような理屈で、そのように主張しているのでしょうか...

上記についてのみシンプルな思考から入っていこうとしたのですが、お話が深まらないままに時間とか自覚とか、信念とか勝つとか義とかいろんな別の概念が入ってきて混乱してきました。いや、私が混乱したという意味ですが。

>生き残りのため、あるいは力関係で自分と、自分の存在、生活を「善」であるとして確信的に他者を排除する人間(A)は、その気持ちがすでにその瞬間、救われていないということになります。

本当にそうでしょうか。
私は、そこに他者がたまたまいたことが問題なのであって、Aそのものには問題はないと思います。生き残りたいと思う心は善の方向性を持っており、なんら非難するべきではないでしょう。他者を喰って生き残ろうとしても、それ以外に方法がなければ仕方がないのではないでしょうか。

>(善悪を基準とした、善悪の認識に基づいた)自分のための行動は、救われない と言えるでしょう。
未来も過去もなく、歴史的な認識がない状態では当然( )の内容はまだAには認識されていないはずです。

この回答への補足

>生き残りたいと思う心は善の方向性を持っており、

◇生き残りたいと思う心と 善 と、どういった因果関係が在るのでしょうか、生き残りたいと思わないこと、および生き残りたくないと思うことは、悪だと言うことでしょうか


>未来も過去もなく、歴史的な認識がない状態では当然( )の内容はまだAには認識されていないはずです。

◇認識 と言うものが、自己のものでなく、歴史的なものに基づくものであると言うのは、初めて知りました、歴史的な認識が正しいと言うのは、どうやって確かめるのでしょうか、誰かが「これは正しい」といい、大多数の人が認めれば、それを正しいと判断するのでしょうか

>自分の存在、生活を「善」であるとして確信的に他者を排除する人間(A)

 が、(善悪を基準とした、善悪の認識に基づいた)自分のための行動をしていると言うのは、(A)には認識できているから、そうしているのですよね。善悪の認識で以って、自分を善として確信的に他者を排除しているのですから。

補足日時:2009/09/26 10:51
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この回答へのお礼

 私と、回答者の、どちらかが虚言を弄しているようです。

お礼日時:2009/09/26 13:21

義ではありません。

義自体にはイエスもノーも含まれる、つまり義は善でもあり悪でもあるからです。

ですので「理想を追い求めるのが善そのものだと考える利他的な人間を排除」すると考えるのは義に対する誤った考え方です。

私自身は理想を追い求めるのが善そのものだと考える利他的な人間であろうとしています。

この回答への補足

 義 を、嘘偽りの無い態度で臨むこと だとすれば、理想を追い求めるが故に善側に立ち、他者を「悪」と定めて裁く人間を否認、場合によっては排除しようとする のは、義に対する誤った考え方ではないでしょう。

 理想、つまり結果を追い求める、結果が重要だと言いたいわけですか、今この瞬間に直面している状況でなく

 利他と、利己で、実際の行為振る舞いが違ってくるのですか...

補足日時:2009/09/26 10:44
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この回答へのお礼

◇「自分の生を全うするのでなく、理想を追い求めるのが善そのものだ」と考える利他的な人間を排除し続けていくことになり

>ですので「理想を追い求めるのが善そのものだと考える利他的な人間を排除」すると考えるのは義に対する誤った考え方です。

 よく読めば、これらは矛盾していませんね。お解りでしょうか。

お礼日時:2009/09/26 13:16

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