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A 回答 (38件中31~38件)
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No.8
- 回答日時:
つまり、これがいわゆる「悪」(実は悪に対しての善作用でもあるわけだが)の発生する原因であるといってもよいでしょうか。
例えば、「何が何でも生き残ろう、他者を排除してでも勝ち抜こう」とする民族があったとすると、それに対して根絶やしにされるのではなく、「根絶やしにしよう」と働きかけられるのは、起こるべくして起こることなのです。
自分たちがやったことの結果です。さて、何民族でしょうか。
この回答への補足
補足:
ヤ○ウェ(エホ○)から始まった「産めよ増やせよ」(脅迫と義務化)
何が何でも生き残るための教典であるタルムー○
これらが現すような、絶対命題としての「生き残り」と、それにこだわるからこその、排除されるという現象を引き起こす。
※これらは、仮説です。
No.7
- 回答日時:
不勉強で申し訳ないんですが、この議論を伺っていて私が思い出したのは「善人が救われるのだから、どうして悪人が救われないことがあろうか!」と喝破された聖人のお言葉です。
つまり現世において善悪の区別はあっても、彼岸にあってはそんなものはない、ということでしょうか。現世は精精百年、来世は永遠となれば、来世こそ正統の世界だということになります。つまり、世界には善悪の区別はないということになるのでしょうか。
人間を含めて生きとし生けるものすべて自分が可愛いし、自分をひたすら一番に護って来たわけです。自分の生を全うするのが善そのものだとしたら、かれが行う自分のための行動は自然の法則に随えばすべてが許されるものにはなりはしないでしょうか。
(人間)社会という極めて人工的な、不自然なものを人間がこしらえてきたがために「悪」というものが不自然に現れてきた。こういう考えもありかもしれませんね。
ご参考まで。
この回答への補足
過去とか、未来とか来世とか過去生、前世などというのは、今この瞬間から派生した言わば方便とも言うべきものでしょう。人は時間を知覚することは出来ないでしょう。明日が来ると思って寝て起きたら、やっぱり今日、今現在しかないわけです。空間があるならそれは無限であり、時間があるとするならそれもまた無限でしょう。連続したつながりの無い時間、空間であれば、それは別の時空間として在るということであり、今このときこの場所とは関係ないと区別するべきでしょう。時間というものが、連続したつながりであるとするなら、未来と今現在はつながっているわけであり、来世は今この瞬間でもあると言えるわけです。
○善人が救われるのだから、どうして悪人が救われないことがあろうか
この場合の善人悪人とは、その第三者から観た善人悪人であって、本人達が自分でそう自覚したという事ではないだろうから、区別したほうが良いでしょう。自覚の無い善人悪人は救われるとして、では、自覚のある、確信犯的な善人悪人は救われるでしょうか。
つまり、善悪と言う概念を用いることが、その善悪現象を作り上げる。真実、真理でなく、生き残りのため、あるいは力関係で自分と、自分の存在、生活を「善」であるとして確信的に他者を排除する人間は、その気持ちがすでにその瞬間、救われていないということになります。その時その瞬間に救われていないものは、来世あるいは未来に救われることも無いでしょう。自分で善とか悪とかを気取り、あるいは自負して振舞えば、それは真の悪となります。基本的には、悪は救われないから悪であると考えても良いでしょう。
イエスが磔になったのは、何が原因でしょうか。人は、真理にのっとって生きれば、力強く生きるでしょう。嫉妬と、力関係の考慮によって弾劾されたのは、当然と言えば当然であり、自分が何をしたのか理解していない、自覚の無いものは救われますが、しかし、今までに述べたことを「知ってしまった」からには、もう、今までのような生き方は許されません。
○かれが行う自分のための行動は自然の法則に随えばすべてが許されるものにはなりはしないでしょうか。
善悪を基準とした、善悪の認識に基づいた自分のための行動は、許されない と言えるでしょう。
訂正:
善悪を基準とした、善悪の認識に基づいた自分のための行動は、許されない と言えるでしょう。
⇒善悪を基準とした、善悪の認識に基づいた自分のための行動は、救われない と言えるでしょう。
○自分の生を全うするのが善そのものだとしたら
そうように振舞っていけば、「自分の生を全うするのでなく、理想を追い求めるのが善そのものだ」と考える利他的な人間を排除し続けていくことになり、結果として生き残っていく人間の質が悪くなり、悪がのさばるのは当然かもしれません。
そのような人間を許さないで生きることが自分の生を全うすることになるのだとしたら、勝とうとする人間を負かし、生き残ろうとする人間を絶やし、幸せになろうとする人間を苦しめるのは、義ではないでしょうか。
No.6
- 回答日時:
直接的回答にはなりませんが、何の為にそのように主張するのか、ということは確かに興味ありますね。
「世の中にまずい食べものというものは存在しない。おいしさに欠けるものが不味いものである。」
と言っているようなもので、そりゃそうだろうけど、なんでわざわざそんな理屈を捏ねるのかな?
という印象は受けます。
うまい不味いのことであれば、
だから、多少不味いからといって好き嫌いするな、とか何かしら言いたいことはあるんでしょうが。
推測するに、
悪というものはない、とすることで、善へ変質できる可能性について言いたいのかな、という気はしますけどね。
悪とは「善に変質する可能性が全くない」という性質のものではない。
といったような。
しかし、善悪という概念がすでにあるわけですから、それに沿って論理展開することにそれほど無理が生じるとも思えません。
宗教的欺瞞と牽強付会めいたニュアンスが漂います。
この回答への補足
善悪という概念がすでにあるわけですから、それに沿って論理展開することにそれほど無理が生じるとも思えません。
両方を使うなら、無理が生じるとも思えません。
善が在るなら悪があり、悪が在るなら善も在る。
善が無いなら悪もなく、悪が無いなら膳も無い。
片方のどちらかしかないと言うことに、確かに宗教的欺瞞と牽強付会めいたニュアンスが漂っています。
誤字訂正
>善が無いなら悪もなく、悪が無いなら膳も無い。
⇒善が無いなら悪もなく、悪が無いなら善も無い。
○悪というものはない、とすることで、善へ変質できる可能性について
ないものを、どうこうする事は出来ないでしょう、まずはあると認めなければ変質することさえ出来ません。
というわけで、何のため と言うよりも「在り方」としては現実から逃げている、自分だけはメンドクサイことに関わりたくないと考えている(在り方をしている)などが考えられます。部分としての存在であり続けたい、自我が強い。傲岸不遜である。「善しかない」と主張していることと符合するわけです。
自分が「善の側で居たい」「善を演じたい」
善悪いずれも強めれば、もう片方が同じく生成されるでしょう。しかし、誰も好き好んで悪を演じたいと思う人はいないはずです。とすれば、善側でありたいとするモノたちが、悪を作り出していると考えられます。
結論としては、どちらかのみを主張する人間?が、対極現象を強めるという意味において、悪である と言えます。
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No.5
- 回答日時:
今回は私が回答者の立場です。
(前回はありがとうございました)さて質問から、善と悪を、相反するものである、と受け止めているようですね。
これを相対的なものである、と言い換えて。
ふたつのものを比べるから、重い軽い、大きい小さい、高い低い、熱い冷たい、といった「比較」が可能となります。
もしひとつだけだったら、重いとも軽いとも、大きいとも小さいともいえません。
善悪も、比較する対象があればこそ、です。
悟りの世界に入ったとされる釈尊は、本来、善とか悪とか、そういうものはないのだと、言ったようです。
信仰心から“悪というものはない”という人はいわゆる「性善説」の立場で言っているのではないでしょうか。
この回答への補足
相対するものであるとするのでなければ、わざわざ善悪と言う言葉を使う意味は無いでしょう。ということで、単に受け止めている というわけではありません。
それはさておき
比較する対象があればこそ、確かに人間社会はドラマが生じ、面白くなるともいえます。
確かに「本来は」善悪はありませんが、今の人間社会はどうでしょうか。
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No.4
- 回答日時:
古代キリスト教の神学者アウグスティヌスは「悪は善の欠如である」と述べました。
つまり、どういうことかと言うと…
闇とは光のないことであり、光のない所が闇である。
つまり光は実在するけれど、闇は実在しない。
富は実在するものであり、貧困は存在しない。貧困は富の不足だからである。
さらには無知も実在しない。無知は知識の不足だから。
同じように、悪も実在せず、悪は善の欠如である…とのことです。
また「悪は善に寄生する」という言葉があります。
これも多分、アウグスティヌスの述べたことだと思います。
どういうことかというと・・・
「ナルニア国物語」の作者であり、アマチュア神学者もであったC・S・ルイスはこう書いています。
「あなたがたは、ひたすら善のために善を行うことはできる。しかし、ひたすら悪のために悪を行うことはできない。人に親切をする気分ではないが、あるいはまた親切をしても喜びを感じないが、しかし親切をすることは正しいことだからという、ただそれだけの理由で、親切な行為をすることはできる。だが、人が残酷なことをするのは、前にも言ったように、それが快楽や、なんらかの利益を与えてくれるからなのである。……つまり、善が善であるのと同じ意味では。悪は悪であることはできないのだ。善は、いわば、それ自身であるが、悪は腐った善にすぎないのである」。(C・S・ルイス著、柳生直行訳「キリスト教の精髄」83-84ページより)
この回答への補足
申し訳ない、アウグスティヌスよりも私のほうが良く理解しているようです。
悪は善の欠如である つまり完全なものから何かが欠ければそれだけで悪である。と言う事になります。そうすると、その程度はともかくとして、存在するもの全ては悪である と云うことになってしまいますね。
結局は、善悪という言葉と、そういった概念で判断、認識すること自体が「悪」なのです。本人が、悪と規定している、その、悪そのものを作り出しているのだから。
光と闇 と、 善悪 を区別してください。 闇があってこそ、安らぐこともできます。夜があってこそ、植物も枯れずに生育することが出来るでしょう。闇=悪 ではありません。
「悪は善の欠如である」と「悪は善に寄生する」は、矛盾 ですね、欠落したものが寄生する???この場合、「善悪」という、両者で同じ言葉を使っていますが、別のことを言っているようですね。
後半部分のナルシストの引用は以前にも読んだことはありますが、ピンときませんね。
「悪は腐った善にすぎないのである」ということは、善も腐れば悪となる。結局は、悪は存在する という事になりますね。光が無いところは闇であるから、悪である。
>「悪は善の欠如である」と「悪は善に寄生する」は、矛盾 ですね、欠落したものが寄生する???
矛盾というか、関連が無いと言ったほうが適切でしょうか。
完全性を保っておらず、部分として存在する「が故に」寄生するというのは論理としては成り立たないですね。
しかし、実際私は欠落度合いの高い人間から寄りかかられているかもしれないです。いろんな構図でね。
No.2
- 回答日時:
自分にとって「悪」となることをすることが質問者さんには出来るでしょうか。
例えば、タバコを吸っているとしたら体にもマナーにも悪いですが、ストレス解消には良いのです。
良い面、悪い面を天秤にかけてストレス解消を選択したのです。
後になってあれは良くなかったと思うことはあっても、その瞬間は最善の選択だったはずです。
人をいじめることも、人の物を盗むこともみんな同じようにその瞬間は自分にとって良いと思われる選択をした結果なのです。
私たちは常に最善の選択しか出来ないのです。
私たちは常に最善の選択しかできない、裏を返すと悪いことは出来ないのです。
私たちの行動は最善の選択をするという絶対善にもとづいているのです。
私たちは悪いことが出来ないのですから、この世界に悪は無いのです。
説明します。
自分にとって「悪」となることを、私はすることが出来ます。
自分を善と規定して、他者を裁いたり、日常生活でそれを前提として対処することです。そうすることが、悪を作り出すから、根本原因として、自分が悪となります。
>その瞬間は最善の選択だったはずです。
それしか対処の仕方が無かったのなら、それについては良いとも悪いとも言えません。
以上より、後半の三行は全て否定されます。
No.1
- 回答日時:
二元論は非常にわかりやすい論法なんですね。
誰にでも理解できるということで二元論があるわけです。
でも実際の社会では二元論評価は割りと少ないのですね。
例えば、小中高校の成績であれば5段階評価ですね。
大学以上だと優・良・可・不可(あるいはAA/A/B/C/D)などですね。
そこで、行いを5段階評価で表すと1・2・3・4・5で5が一番良い善とすると一番低い善は1になるわけですね。
これを善悪の二元論で表現すると、例えば3を境に3以上が善で3以下が悪になるわけです。閾値を設けた2値評価、デジタル評価が善悪二元論になるのですね。
2値評価はコンピュータが得意とするところですが人間はアナログ的評価が主流だと思いますので、悪も善の欠落の程度だと評価すれば「悪などない」という論法もありえるのですね。
善悪二元論を持ち出すと、評価論理の異なる「悪などない」ということを言い出す人も多いですね。これは論理が異なるということを念頭に置いとけばいいだけですね。
この回答への補足
悪 というものが、善の欠落 というなら、そもそも「善悪」という表現を使わずに、
完全の欠如度合いによって不完全の度合いが決まる
とでもいえば良いと思うのですが。
完璧な全体性を保ったものが善 というなら、この世界、特に人間存在と人間が作った社会には、善というものは存在しない と言う事になりますね、必ず、何かがかけているだろうから。何かがかけていなければ、個としての人間として存在することすら出来ない よって人間は少なからず悪である。
結論としては、善悪 という表現を使ってしまえば、存在全てが「悪」となってしまう。従って、「善しかない」とか「悪はない」と善悪という表現を使うこと自体が、善悪現象を生じさせる原因となる。いずれの概念も、用いる人はアホである ということが言えるでしょう。
人間関係の場も含めたすべてにおいて使うことが間違っているといって良いでしょう。
それでもあえて「善 は在るけど 悪はない」と言う人は、汚系キャラをあえて演じている、悪を演じてくれているということでよろしいですね、悪がはびこらなければ、悪を懲らしめることも出来ませんから。
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