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「正義」というものは、時代、国家によって変遷するものだから、それは、追及するべきものではないと考える人が増えていると思います。
それを追求しなければ、「正義」=「自分の利益」になってしまうと思います。いや、すでになっているのかも知れません。
従って、「普遍的な正義」という概念を、人々は持つべきだと考えます。
それは、いかなるものでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

生き物としての立場では、繁栄が正義であると思います。


逆を見れば、衰退は正義ではない。

全体が衰退をするには、抑圧的支配が効果的です。
抑圧的支配者が君臨すると、その集団は衰退に向かいます。

つまり、正義は抑圧的支配者からの解放です。

抑圧的支配者は、支配することで自身は繁栄していると
勘違いしますが、国であれば自国が衰退し
他の国が発展しても、追いつけません。

家という最小単位の集団でも、抑圧的支配者がいれば
その家は衰退して行きます。

迫害無き自由と共存こそ、繁栄に繋がります。
繁栄が、単に数が多いと言っている訳じゃないので
そこは、一応お断りを入れておきます。

普遍の正義と言えば、そうなのかなと思います。
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この回答へのお礼

シンプルかつ鋭いご意見だと思います。
私は、哲学の面白さを覚えたばかりの、初心者ですので
どうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2015/06/23 23:20

あるアニメのキャラが言っていました。


何が正義で何が悪なのか、本当のところは誰にも分かりはしない、だから論じる事自体無駄なのだと。
私はその考えに共感しました。
この世界には自分以外の生物がごまんといます。またその数だけ正義も悪もあると思います。普遍的な正義も、誰かにしてみたら悪になりうるかもしれないですよね?だから、皆が同じ正義を持つのは、理想ではあるが難しいのではないでしょうか?
人それぞれの正義、悪の考えを持ちながら生きていく他ないのでは・・・?
しかし、その自分の正義を他人に押し付けようとすることによって争いが生じるのだと思います。だから人々に必要なのは、普遍的な正義という概念ではなく、自分以外の正義、生物を受け入れられる受け皿だと私は思います。それも私が考える正義なのですが・・・
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この回答へのお礼

「正義」という言葉は多くの人にとって、何か抵抗感を感じてしまうのは、歴史を学べば分かるように
権力を持った一部の人間が、「正義」の名のもとに悪を行なってきたからでしょう。
だからですよ、「正義」に無関心ではいけないのは。
現代だって、多くの「正義」が存在します。何も考えずに従っていることは多いと思います。
あなたの言葉を借りれば、「自分も含めて、すべての生物の存在を尊び、自由を認める。」そういうことに
なりそうです。

お礼日時:2015/06/25 06:47

表題と内容が若干違っているような? ウルトラマンは科特隊のハヤタ隊員を成り行きで死なせてしまい、その義理で地球を守る事になりました。

最終回でゾフィが新しい命をそれぞれに与えたので義理は返したとの事で故郷に帰っていきます。

ガンダムが流行り出した頃から主人公側・敵側にそれぞれ正義があって戦いあっているだけです。言い換えれば自分は正しいのだから相手は悪い奴だ・潰すべきだと自分だけを正当化しているに過ぎません。この事は現実社会でもよくありますね。

普遍的な正義はこれだけ多民族が共存共栄しなければならない現代社会においては成り立たないものではないでしょうか?
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「正義」というものが、良心に基づく考えを基本とするならば、良心とは何かが重要な価値の基準になってきます。


ただ、良心あるいは良い悪いという考え方というのは、そもそもが哲学というか倫理学の基本の一つになっていて、それ自体にさまざまな論理的な説明がありますよね。その辺をひっくるめて深く学んだうえで統一見解を突き詰める必要がありますが、残念ながら現代の世の中ではそういう「思想」系の学問を深く学ぶことに資本主義的な社会が価値を見出してないのが現実といったところじゃないんですかね?多くの場面で大人が評価されるのは、年収だったり、所属してる企業だったり、学歴だったりであって、その人がその結果何をどのように考えるかということなんて飲み会のネタ程度にしか興味を持ってくれない人が大半ですしね。何事もそうですが、たとえば「医学とはなにか?、たとえば末期医療において本当は(個人の自由とかじゃなくて)良い生き方死に方ってなんだろうか?」とかを深く議論できるよりも、いかに治療ができる医師かということの方が医師としても評価されますしね。博士号(phD)が欧米の方がそれなりに社会でも評価されることを考えると、欧米よりも日本の方がそういう「学術的」なものに対する価値を見出してないような気はしますけどね。足の裏についた米粒ですから。ちなみに、アメリカの場合はたとえばスタンフォード出た人でも、公立高校の教師やってたりもしますよ。何年か現場でやった後に、大学院でphDをとって学術的に深めたうえで、市の教育委員会に行く、なんてのがキャリアパスでふつうにあったりもしますから。

話がそれましたけど、ある意味「サンデル」の本が売れるのはそういう思考ゲーム?が目新しいからなんでしょうね。まあ、あくまでゲーム感覚で聞くから人気が出るわけで、本当に深く考えたり、それから共通の目的を見出そうなんていう崇高な議論をする人はいないんでしょうね。多くの企業だって本来「企業理念」とか持ってるんですけど、多くの就活就活性はそんなことより(建前はともかく)金や地位だろうし、逆に言えば「理念」を基本に自分の仕事場を考えたところで採用側(人事もそんなに興味ない)も建前でしょうから意味ないわけです。そういう意味では、ベンチャーとかワンマン社長が採用するような中小企業ほうがそういう信念をもってるのかもしれませんけどね。

結局国家も国という共同体に過ぎないのですから、その国の憲法に基づいて「法律≒正義」が決まっていくわけですよね。日本の場合はまあGHQのごり押しみたいなところもあったでしょうが。だから民主主義ってだって、「多数決」という一つの共通の正義のあり方であって、一方で、多数決だからと言って国民が「死刑にしろ」といっても「裁判」を受けて死刑かどうか判断されるわけですから、最大多数よりも価値があるもの(ここでいうと命)の存在というものを否定はしてませんよね。北朝鮮や軍国主義でありがちなお上の意見が正しい、とするような正義のあり方だってありますから、少なくとも日本という国は日本国憲法ないし、国家制度に基づく普遍的な正義、によって規定されてると言えるでしょう。もちろんアメリカにもそれがあります。ちなみに、義務教育ってのは「自主性をはぐくむ~」とか言ってますが、結局はその国で生きている人間の知識レベル、認識をある程度を同一水準にすることによって、国が管理しやすくるするってだけじゃないかとも思いますからね。

ちなみに、多くの国において、反逆罪(国の存在が脅かされるような状況を生む行為)は死刑になってることが多いのですから、その国の正義の名においてはその国をつぶす行為は死に値するというわけなんです。要するに、日本という国の制度そのものがすでに、「普遍的な正義」の一つのあり方であって、たとえば「信仰の自由」「教育を受ける権利」とかそのへん全ては自由ですよ、(ただし)他人(あるいは国)に迷惑をかけなければ、というのだって、その観点においての自由という「正義」のあり方というわけです。

全然関係ないですけど、自分がかりに教員になったなら「良い人生ってなんだろうか?」的な道徳の授業でもやってみたいですね。そもそも絶対的な「正義」というものが自由でなくてあったとして、それに忠実に生きるような質素な生活をする人間は幸せなのか。逆に、一方でたとえば金儲けが悪だとするとそれを目指すことって現代社会では悪なのか、とか色々。

長々と失礼しました。
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この回答へのお礼

あなたの「嘆き」は共感いたします。
哲学なき社会と言われてきた、我が国ですが、更に悪い方向へ行っているように感じます。

「M.サンデル」の企ては私は評価しています。一般の民衆が哲学に興味を持ち、自らの頭で
考えるようになることとは、「真の民主主義」第一条件であると思うからです。

お礼日時:2015/06/25 06:59

繁栄につながるものが正義という意見に賛成です。


 ①生物として:個体数の増加
 ②社会として:暮らしやすさ
 ③個人として:他への影響力
につながるものが正義、かなと思います。
①②③が矛盾しない範囲内で
人それぞれのバランス感覚の中で培われた
各人の正義はそれぞれが多様でいいものとして成立し、
その集合体としての正義が普遍的である確率が高くなると思います。
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#4です。


(論点をぶれさせないため、お礼内容を再掲いたします)

>政府の機能が今ほど発達していなかった江戸時代には、地域社会においても
商売の世界においても、助け合い、自助力というものが強かったと聞きます。

あなたがおっしゃるのは、欲の塊のような現代人が、こういう精神を持てた
ならば、理想に近づけるかも知れない、ということでしょうか。

当時も含め、いわゆる「助け合い、自助力」のようなものは、むしろ自我欲の裏返しではないか、という気がします。
つまり、助け合いというのも、つまるところ自らの生活を支えるためのひとつの方策に過ぎなかった(過ぎない)のではないでしょうか。
「助け合い」ではなく、一方通行としての「助け」であれば、これは、「正義」=「自分の利益」とはならないはずなので、自我欲の満足のためではなくなります(ただし、超自我的な欲求に基づくものである点では、自分のためである、という意味で大差はないのですが)
江戸時代に、そうした精神性が確立していたものかどうか、わたしには不明です。
いずれにせよ、わたしが申し上げたかったのは、あまり欲張りすぎず、適当なところで、「ま、こんなもんでいいか・・・」といった意味での「諦念」です。
現代人は、徹底的に自己の欲求に忠実であろうとしすぎるのではないか、といったところかもしれません。
一概に悪いことでは決してないのですが、ここから普遍性を伴う価値が生まれることは、おそらく無いのではないか、ということでもあります。
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この回答へのお礼

よく理解できました。ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/23 23:05

>従って、「普遍的な正義」という概念を、人々は持つべきだと考えます。


>それは、いかなるものでしょうか?


もう既に持っています。それが自然権です。
人権の基礎の一つになった概念です。

自然権とは、「汝、殺すなかれ」というものの、殺されそうになった時は反撃してもいいし、その結果相手を殺してもしょうがない。と言う正義ある防衛(正当防衛)という概念です。
(勿論、他の意味もあります。正当防衛は一例です。)


それを言葉で明確にしたのがキリスト教の自然法の一部である自然権ですが、この正義はキリスト教世界に限らず、太古から古今東西、土着的に発生し定着した普遍の正義です。キリスト教が伝来する前の日本にも、その様な正義の概念はありました。

人間が勝手に決めた正義は、普遍なものはありませんが、本能として自然に備わった権利(権利とは正義が伴わないと認められません)は、普遍です。その一例が、自然権です。




↓自然権や人権に関して、分りやすい本。
『本当は怖ろしい日本国憲法』
長谷川三千子 (著), 倉山満 (著)



>ウルトラマンの心

ウルトラマンは、自己の利益は追求しない正義らしいです。

「らしい」と言うのは、私はウルトラマンを知りません。
下のリンクは、上に紹介した著書は、特撮マニアなのですがその人のウルトラマンの正義の分析です。
長いですが、参考までに。
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この普遍的な正義論は、キリスト教文化圏では


盛んです。

キリスト教では、神様は全知全能ですから、正義も
神様が創ったことになります。

一神教の神様ですから、普遍的な正義があるはずです。
そうやって欧米キリスト教文化圏の人たちは、正義論を
戦わせてきたのです。


”従って、「普遍的な正義」という概念を、
人々は持つべきだと考えます。”
    ↑
そういう考え方が、欧米がおのれの価値観を他国に
平気で押しつける、という結果になっているのです。
理念としては立派ですが、現実世界に応用して
弊害が発生するようなら、それは悪い思想です。
社会主義と同じ弊をもたらします。


”それは、いかなるものでしょうか?”
    ↑
現在ではロールズの正義論が通説みたいに
なっております。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9 …
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この回答へのお礼

弊害があるということは、思想が偏っているからです。
つまり、普遍的でないということではないですか?
その錯誤と、理想を求めることを、混同しておられるようです。

お礼日時:2015/06/23 22:45

『宇宙目線からの正義』についてのご質問ですね。


宇宙には地球の倫理観や美の形式が異なって成立するかもしれない。

しかし地球での正義であれば
ウルトラマンの正義(利益)が勝つのは必然でしょう。
だって「後出しジャンケン」なんだから。

なんで最後の最後でスペシウム光線出すか!?
悪がはびこる前に防ぐことをしてたか?
命の尊さや美しさ、平和の実践教育とか自立支援とか・・・。

時代や国家など文化が違えど、
危険を避ける為の「抗」という必要悪は「先出しジャンケン」なのかな。

正義というのは正々堂々と戦い
「敵ながらあっぱれ」とするのが正義で品格です(武士道では)。
そこには自分が不条理に大怪我で負けてしまうことも、
逆に敵に有利に働いてしまうことまで了解の覚悟があります。

最後の最後の望みに心を託して、人生さえ超えてしまうかもしれない。
それは夜空の彼方の星のようにささやかな光で
見え方でも、他の邪魔が入って容易く隠されるものかもしれない。
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この回答へのお礼

異次元思考の、miko-desiさんならではの表現ですね。
「宇宙目線からの正義」、その通りです。

お礼日時:2015/06/23 22:40

「諦念」ではないでしょうか。



生き物である以上、自我的な欲求は本能に準じるものであり、それを完全に手放せば死に至らざるを得ません。
しかし、現実社会では多数の自我が存在しており、「普遍的正義」というものがあるとするなら、それは、そうした「自我の折り合い」に見い出していくしかないように思われます。
手法としては、知足安分、足るを知る、などですが、自我という(決して悪い意味だけで機能するわけではない)欲の塊に、こうした要素をいかに取り込んでいけるか。
「諦念」というと何か消極的なイメージですが、放っておいても自我という奴は、そんなに簡単に手を引くものではありません。
個として消極的になるわけではなく、あくまで普遍的正義に近づくためのバランス要素として一役買ってもらうための鍵です。
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この回答へのお礼

政府の機能が今ほど発達していなかった江戸時代には、地域社会においても
商売の世界においても、助け合い、自助力というものが強かったと聞きます。

あなたがおっしゃるのは、欲の塊のような現代人が、こういう精神を持てた
ならば、理想に近づけるかも知れない、ということでしょうか。

お礼日時:2015/06/23 22:23

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