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宣教師ニコライとキリスト教との関係、日本へのアプローチの仕方の分析など、教えてください。

A 回答 (1件)

宣教師ニコライとキリスト教の関係、日本へのアプローチの仕方の分析と一口に言っても、非常に漠然としているので、ニコライがどういう人物で、なぜ日本に来て、日本でどういう活動をしたかというところを少し紹介したいと思います。



宣教師ニコライ(本名:イヴァン・ドミトリエヴィチ・カサトキン)は1836年、現ロシア連邦スモレンスク郡の聖職者の家庭に生まれ、ペテルブルグの神学校に進学しました。実家が聖職者の家庭ということで、幼い頃からキリスト教(正教)には親しんでいたと考えられます。

在学中に函館のロシア領事館付きの聖職者の募集があったことがきっかけで、日本へ来ることになったと言われています。カサトキンが24歳のときのことです。

ではなぜ彼は日本に来ようと思ったのでしょうか。
一説には、彼は昔から極東の国に興味を持っていたので、募集を見て即決したと言われています。学校側に日本ではキリスト教の布教が固く禁じられていることを告げられたときも、日本へ行く決心は変わらなかったとされています。このことからも信仰心はかなり厚かったようです。

こうしてカサトキン(洗礼名ニコライ)は函館の地を踏むこととなりました。

当時、日本では外国人およびキリスト教徒に対する弾圧は激しかったにもかかわらず、ニコライは布教をあきらめませんでした。まずその第一歩として日本人を知ることからはじめた彼は、日本語、日本史、仏教、儒教、文学、芸術などを徹底的に勉強しました。

そして努力が実を結び、明治維新とともに彼は初めて日本人に布教することに成功したと言われています。ちなみに日本最初の正教信徒であるパウエル沢辺琢磨は坂本竜馬の義弟だそうです。

1871年、彼は函館から東京へ居を移します。東京では彼は自宅を開放し、日本人にロシア語を教えていたようです。
1873年に、日本でキリスト教が解禁されると、彼の自宅で開かれていた私学は再編され、7年間のカリキュラムをもつ神学校として生まれ変わります。こうしてニコライの日本での布教は徐々に拡大されて行くこととなります。ニコライの宣教活動でおよそ3万もの信徒が生まれたと言われています。

1880年にはニコライは主教に任ぜられ、神田に寺院の建立も決まりました。これが現在も神田駿河台にある有名な「ニコライ堂」です。

1906年、ニコライは大主教に任ぜられます。生涯をかけて、日本各地に正教の聖堂を建て、聖書や祈祷書などの教会の文献を翻訳しました。

そして1912年にニコライはその生涯を閉じます。没後、1971年にはニコライは「亜使徒」として日本正教会の聖人に列せられました。

ちなみに神田駿河台にあるニコライ堂は、一般にも開放されていて見学することが出来ます(火~金の午後のみ)。大聖堂の内部やイコノスタス、イコンなども見学することが出来ます。以上、簡単ですがニコライの生涯について述べさせていただきました。参考になれば幸いです。
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