仏の三十二相に、陰蔵相というのがあって性器が体内に隠れているそうなんです。
仏様って男だったんですね。
なんでもおしっこをするときだけ、生えてくる?らしいんですが、これは「性欲がない」コトを表しているのでしょうか?
仏様は悟りを開いた人間で、セックスするとも聞きます。
仏様はセックスするのでしょうか? また、家族構成とかあるんでしょうか?(^^
ていうか、仏様って人間なんでしょうか?

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A 回答 (6件)

仏を仏陀だとすると、実在した人間だとされています。

シャカ族の首長であったため釈迦と呼ばれていますが、彼は、結婚して子供にも恵まれましたが、人生問題に悩み、出家することになります。苦行を経た後、独自に悟りを開いて、その後、弟子もでてきたことから布教をするようになります。
仏教の教えは、その後、歴史的地理的に変遷し、多くの流派を含んだ思想的にも広がりのある宗教となり現代に至ります。
そのため、様々な解釈も行われ、一義的に決まらないかもしれません。そして、周辺の宗教との融合という形で取り入れられたものもあります。
悟りを開くと、性欲の悩みがあっても、それと共存するように生きていけるので、セックスは強いてする必要もありません。それと、女性は、悟りを開くのにじゃまなものと考えられたりしたので、女性と接する機会は作らないようになっています。そういう意味では、セックスはしないようになったのではないでしょうか。釈迦に関する本はいろいろとでていますが、悟りを開いてからセックスをしまくったというような記述はなかったように記憶しています。
ただ、仏の三十二相というのは、釈迦が生きていたころからすると、ずいぶん後の考えによるものだろうと思われます。その辺は、詳しく知りません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
三十二相は後の創作ということを聞きました。
仏像って三十二相全部持ってる奇怪姿したものってないですもんね。
陰蔵相については、「仏は性を超越した存在」だとか「仏だって人間だからセックスする」とかいろいろ解釈がって、どれが通説なのかなって思ったんです。
私には、仏様にはセックスして欲しくないんですが(^^; だってほら、イメージが。

お礼日時:2001/12/26 01:20

初期仏教では、仏とは悟を得たものを指しました。


その後、超越的な存在として神格化し、仏教の体系ができていきます。
ヒンドゥー教やヘブライズズムその他土着宗教と混交し、さらに中国では儒教・日本では土着宗教(祖先崇拝など)や神道と混交していきます。
ここで、その地位や役割に応じて、仏・菩薩・天等様々な種類の超自然的な存在とヒエラルヒーがかたちづくられました。(インドで割と早いうちに体系化しました)
その体系の中では、おおむね、天はセックスをするとされています。それ以上に関しては教派によって解釈は異なると思います。天に関しては、歓喜天のように、男女が抱き合う形で表現される仏像もあります。その他、インドの石仏群等にも交接図は数多く存在します。
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この回答へのお礼

皆様どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/12/26 12:51

仏という言い方と仏陀という言い方ではちょっと違うと思います。


仏は様々にたくさんおりますが、仏陀は通常ひとりとされておりますので。

真言宗から派生した、一般に邪教とも言われている立川真言流では、
性行為により悟りを開くなどという教えがあります。
それを司る仏さんが確かいたはずです。ちょっと記憶があやふやですが。
確かもともとヒンズー教の神様だったのが仏教の仏として入ってきたんだと思うんですけれど。
もっとも、江戸時代に禁教になってますが。

通常には、おそらくどの宗派でも、おおっぴらにセックスを肯定していないはずです。
曹洞宗などでは、女人は悟れないなどとされています。
おそらくセックスによる煩悩が有害であり修行の邪魔になるとの発想からでた教義ではないかと思うのですが。

ちなみに、他力本願系の宗派では、僧侶にもセックスを禁じていない宗派も多いのですが、そうは言っても仏がセックスするとされているという話はあまり聞いたことがありません。

ちなみに仏陀とは、仏教の開祖である釈尊(ゴータマ・シッダルタ)という人物を表す言葉であり、その他の仏とはちょっと扱いが違うかと思います。
NO.2の回答の方の示された内容がその説明として適切であると思います。

またその他の諸仏につきましては必ずしもセックスをしないとは
言い切れません。
各宗派によってさまざまな仏が追加されていたりしますので、
立川真言流の御本尊のような仏が他にいないと断言するには、
ちょっと僕の知識では不可能ですので。

ま、おそらく、立川真言流だけだと思うのですが。仏がセックスをするというのは。
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 仏もたしかに人間ですし、もとより仏法では、仏を「人間とかけ離れた、完全無欠な超越者である」などと説いているわけではありません。


 では、そもそも仏とはどのような方か、といいますと、宇宙森羅万象に貫かれる根本の法(真理)を発見され、その法を実践することによって、自ら絶対の幸福境涯を証得された方であります。
 仏は、この、自ら悟られた根本の法を、仏法(仏が悟った法)として世に説き出だされました。この仏法に従って生きていく者は、誰もが、仏と同じような幸福境涯に生きることができるのであります。
 しかして、この点に間違いがないことは、すでに、仏法を実践した数多の人々の体験によって実証されている、といえましょう。
 したがって、仏も人間であるとはいえ、全ての人々を絶対の幸福に導く法(仏法)のことにおいては、間違いなどはないのです。
 さて、セックスの話ですが、釈尊は出家前に、妻妃との間に一子が生まれています。
 しかし、世間的の快楽を嫌い、思想上の満足を得ようと望んで止まず、出家されたのであります。
 かつては、出家するということは、小乗教においても、邪淫(セックス)を戒していたのであります。
 日蓮大聖人様におかれても、ひとりの人間としての人格の上に本仏の境界を現実に示されたのですが、そういうことはありませんでした。ですから、親はいますが、子はいません。
 仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩は、教主である釈尊の力用を示すために説かれたわけですが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」と思っておられるのならば、それはあまりにも幼稚な考えであります。
 女人成仏は法華経のみに説かれており、それまでは女人は仏になれないとされていました。
 如何でしょうか?
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「皆さんお亡くなりになれば仏になられます」とか、どっかの住職がいってました。

死んだものはセックスしないでしょう(笑
そういう意味で、仏は人間ではないですね。人間の形をえているだけです。ですから、自慰はしなくても、精液は自然にたまれば排出されるんではないですか?女性の仏は生理を起こしますか?きっと若ければおこすと思うんです。
 大事な点は、私欲に支配されないって事ですね。つまり、男性仏の場合、勝手に勃起するのではなく、勃起さそうとして勃起させるのでしょう。
でも、人間の男は違います。唇フェチは、好みのかわいい唇を見て勝手にどきどきしたり、勃起したりするんです。足フェチでもぱいフェチでも一緒です。好みがあるのです。
それに対して仏はきっと好みというものを持たないのでしょう。つまり、選択肢を持たないって事です。すべての行為がすでに決まっているのです。するべくしてするのです。それがセックスであれなんであれ、関係ないと思うのです。
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補足です。



仏様が仏教の開祖の事とすると、
釈迦族の王子のゴーダマ・シッタルタの事です。
彼は皇太子の時、結婚をしました。子供(王子)を設けた後、出家しました。

出家後は、性的な営みをしてはいない様です。修行中の時に、女性が迫ったが、何もしなかった様です。
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Q信仰心が高い仏像は昔の宗教改革によって破壊されたの

信仰心が高い仏像は昔の宗教改革によって破壊されたので、いま残っている仏像って信仰心が薄かったショボイ仏像ばかりですよね?

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激しかったのは薩摩が有名ですが、信仰心の多寡で破壊したのでは無く、単にイデオロギーとヒエラルキーの問題です。

>いま残っている仏像って信仰心が薄かったショボイ仏像ばかりですよね?

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Qお寺は仏様がいる場所なんでしょうか?

 神社には神様が宿るご神体や杜がありますよね。だから神社自体がパワースポットや聖域として扱われています。
 いっぽうお寺には仏様がいるんでしょうか?仏像は有りますが、仏って仏像に宿るものでしたっけ?仏はお寺に常駐していて、他にはいないものなんですか?

 お寺という場所と仏様の関係についてが良くわからないので教えて下さい。

Aベストアンサー

お寺に安置されている仏像と神社のご神体とは少し違います。
仏像には大きく分けて二つの役目というか機能があります。
一つは仏教の教えを具体的に目で見て理解するための補助としての機能です。
口で説明したりお経のように文章で説明する代わりの役割です。

仏像というのは、一定のルールに基づいて作られています。
一番分かり易いのが、手の形です。
印相と呼ばれます。

仏の印相について - ZAQ
www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/inn.htm

逆に言いますと仏像の手の形を見れば、その仏像はどの仏様を表しているのかが分かります。

十一面千手観音像のような沢山頭があったり手がある仏像もありますが、これは、観音様は世の中の全ての事柄や人の心の動きを全部見ています。困っている人や苦しんでいる人を助けるためのあらゆる手段を持っています。ということを表しています。

もう一つの働きはイメージトレーニングの補助です。
小説を読むのとコミックで済ませてしまうのとよく似ています。
文章で書かれた小説は情景や登場人物の姿は、読者がイメージしながら読んで行く必要があります。
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念仏という言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、念仏というのは実は普段耳にするように声で唱えるものだけではなく、仏様の姿をイメージするやりかたも含まれています。観想念仏と呼ばれます。
これが非常に盛んになったのが平安時代です。
仏様の姿だけではなく、仏様がいる浄土の光景までイメージするようになりました。
ついには、実際にそのイメージどおりの建物を造りました。有名なのが京都宇治の平等院です。
お寺も実はこのミニ版です。
仏像の周りに色々な装飾品が飾られているのはこのためです。
奈良や京都の古いお寺は、創建当初は極彩色の絵で埋め尽くされていて仏像も金色に輝いていました。
現在のイメージとは全く違う景観でした。
鎌倉時代に禅宗が盛んになり、簡素であることを重要視してわびとかさびと呼ばれる美意識というか価値観が生まれました。
この価値観が現在も続いていて、現在のようなお寺のイメージになりました。

密教と呼ばれる宗派では、理論が難しいのでこれを図で表しました。
曼荼羅とよばれる大きな壁かけがこれです。
さらに、これを立体的に仏像を配列したものが京都の東寺に残されています。
立体曼荼羅と呼ばれます。

これらの仏像を始めとする内装品に囲まれた場所で、仏様の世界を疑似体験することで仏教の教えに従うようになる効果があります。
現在のお寺の仏像もその前に座って、姿をみることで仏の教えに導かれると期待されて作られています。

以上のように、仏像は仏教思想の視覚化であると同時にイメージトレーニングのための装置でした。
これに、神社のご神体のようになにかが宿っている、と考えるのは後から加えられた考え方です。
仏像を新造したさいに開眼供養とよばれる儀式が行われるのはこのためです。
開眼供養を行うことで、単なる彫刻作品に神格が生まれると考えられています。
奈良の大仏様も暮れの大掃除の際に僧侶が上りますので、儀式をおこなってこの神格に一時どいてもらいます。
お掃除が終わればまた儀式をして神格に戻ってきてもらいます。
この辺の考え方は神社の考え方とよく似ています。

日本では江戸時代までは、神社もお寺もワンセットで考えられていました。
神社もお寺も同じ敷地にあって、僧侶が神官をかねているところも沢山ありました。
これを無理やり政治的な目的で分けたのが明治政府です。
現在の姿は明治以降に出来上がったものです。
現在でも東大寺の大仏殿のすぐ近くに八幡様(手向山八幡宮)があります。

僧形八幡神坐像|秘仏開扉|華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
www.todaiji.or.jp/contents/function/buddha4.html

お正月の七福神も同じ宝船に仏様(弁天様、毘沙門天)と大黒様が仲良く乗っています。
吉野熊野や出羽三山の修験道のように完全に一体化した考え方もあります。
ということで、ご神体と仏像の区別がよくつかないのも無理がありません。
どっちもに似たようなものと考えられても一向に差し支えはありません。

お寺に安置されている仏像と神社のご神体とは少し違います。
仏像には大きく分けて二つの役目というか機能があります。
一つは仏教の教えを具体的に目で見て理解するための補助としての機能です。
口で説明したりお経のように文章で説明する代わりの役割です。

仏像というのは、一定のルールに基づいて作られています。
一番分かり易いのが、手の形です。
印相と呼ばれます。

仏の印相について - ZAQ
www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/inn.htm

逆に言いますと仏像の手の形を見れば、その仏像はどの仏様を表してい...続きを読む

Q長谷寺、室生寺で常時拝観可能な仏像は? 

今週金曜日に長谷寺、室生寺に行く計画を立てています。
両寺院とも、特別拝観期間以外は拝観できない仏像があるようです。
今週という限定で拝観可能な仏像はどの仏像でしょうか?
または、拝観できない仏像はどの仏像でしょうか?
ざっくりした質問で申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。
室生寺で言えば、たとえば金堂に安置されている仏像は拝観可能だけど、
弥勒堂はNGだよーという情報でもよいので是非ともお願いします。

Aベストアンサー

 長谷寺の御本尊は、お姿自体はいつでも拝観可能です。
 但し、あまりに大きいため、通常下半身を見ることは出来ません。
 最近よく行なわれている特別拝観では、御本尊の足元に行って直接その御足に触れることが出来る、というものです。そこでは下半身をじっくりと観察することは出来ますけれど、近すぎるので逆に上半身はほとんど見えません。
 脇侍の像も拝観できます。
 それ以外の仏さま(重文指定)は宝物館の方に収蔵されていますので、春秋の特別公開時以外は通常拝観できないと思います。

 室生寺の方も、どこかの博物館・美術館に出陳していなければ、まず金堂の諸仏は拝観できます。
 以前行なっていた特別拝観では、通常建物の外、もしくは外陣から拝観するところを内陣まで入ることが出来、かなり近くに行ける、というものでした。
 弥勒堂の方ははっきりしませんけれど、少なくとも以前二回お参りした際にはいずれも拝観できました。これも通常は堂外からのお参りですので、入堂が可能、というようなものではないでしょうか。

Q神様や仏様に叶えてもらいやすい願い事

お寺や神社で行われる祈祷や祈願について質問です。

神様や仏様に叶えてもらいにくい願い事は多くあります。
「宝くじで一等があたりますように」
などと努力せずに大きな結果を求める願い事はほとんど叶えてもらえません。


神様や仏様に叶えてもらいやすい願い事はあるのでしょうか。

Aベストアンサー

5才ぐらいの子供とじゃんけんをしたときに、その子に「願い事をしてからじゃんけんをしよう、勝てたら願い事が叶うかもしれないよ」と言ってじゃんけんをしました。その子は目をつぶって願い事をしてから、じゃんけんをしました。そしたら、その子が勝ったので、私はどんな願い事をしたか聞いてみました。曰く「このじゃんけんに勝ちますように」だったそうです。これ本当の話しです。神様って粋ですね。

願い事を叶えてくれるくらいの神様ですから、神様にこちらから自分に何が起こったら自分が幸せになれるかを一々教えてあげなくては解らないような神様である筈がありません。じゃなかったら神様に矛盾してしまいます。人間って言うのは浅はかなもんで、自分の望みが叶ったからといって幸せになれるわけではなく、それどころかそのお陰で不幸になってしまう人も幾らでも居ります。だから神様に祈るときの方法は決まって居ります。無念無想で頭を空っぽにして、ただ頭を下げる、これです。しかし、人間て弱いもんで、それじゃあ不安だと言う方もいると思います。その時には、「私にとって一番良いと神様が決めたことを起こして下さい」と祈りましょう。その望みの叶う確率は限りなく1に近いですよ。

5才ぐらいの子供とじゃんけんをしたときに、その子に「願い事をしてからじゃんけんをしよう、勝てたら願い事が叶うかもしれないよ」と言ってじゃんけんをしました。その子は目をつぶって願い事をしてから、じゃんけんをしました。そしたら、その子が勝ったので、私はどんな願い事をしたか聞いてみました。曰く「このじゃんけんに勝ちますように」だったそうです。これ本当の話しです。神様って粋ですね。

願い事を叶えてくれるくらいの神様ですから、神様にこちらから自分に何が起こったら自分が幸せになれるか...続きを読む

Q仏像は何のためにありますか?

ほとんどのお寺には仏像が置いてあります。
あれは何のためにおいてあるのでしょうか?
あれを拝むのが目的でしょうか?
どの宗派でも仏像が安置されてますか?

また仏像は絵画より彫刻が圧倒的に多いのですが、
これはどうしてでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

拝むのが目的ではなく目に見えない物は拝みにくいからです。例えばあなたには亡くなってもう会えないおばあちゃんが居て、親からいくらおばあちゃんが良い人だったと聞かされても「ふ~ん」くらいにしか思えないでしょう。写真でもあれば自分のおばあちゃんはこういう人だと話とイメージを繋げて考えられます。
ですから宗教上の人物(?)や政治家や偉人なども銅像を作って忘れられないようにします。
ただこれが高じると<手段>が<目的>になってしまいます。確かイスラム教では偶像崇拝を禁止していたと思いますが理由がどうかは知りません。

Q【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いという悟りに行き着いたという。 親鸞は悟り後はありの

【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いという悟りに行き着いたという。

親鸞は悟り後はありのままに自分のしたいように生きて亡くなった。

これって本当ですか?

親鸞は若い時は厳しい修行をして己を苛め上げていたが悟りを開いたあとの後世はのんびりきままに自分のやりたいことをやって宗教の呪縛から解放されて伸び伸びした生活をして死んだ。

Aベストアンサー

親鸞が悟りについて語ったとは思えませんが、ありのままの人生が悟りへの道だと言うのは、それが阿弥陀如来のはからいであれば、そのように考えていたとは思いますね。
親鸞の人生自体が阿弥陀如来のはからいでしょうから、何かから解放されたとか言う事は無いと思いますよ。(最初から阿弥陀如来のはからいがあったと言う事です)
親鸞は悟ったとは言わなかったんじゃないですか?(浄土教自体が、悟りを求めていないですからね)

Q仏像に魂入れは必ず必要か?

仏間に位牌と三具足を置いて毎日手を合わせています。今度、ご本尊の仏像を購入しました。仏壇店では、仏像に魂入れをやってくださいとの事です。その場合、ご本尊の仏像に魂入れは必ず必要でしょうか。仏壇の購入予定はないです。

Aベストアンサー

こんばんは。

魂入れはお位牌、新規に立てたお墓などでよく行われることなのですが、新しい仏像をお迎えになったということは、やはりこれも魂入れが必要になるものと思います。

魂入れとは開眼法要または開眼供養と申します。(ただし浄土真宗では呼び方が異なります。御移徙といいます。)
もともとは造られた仏像には眼を入れなかったんです。お祀りする際に法要を行って新たに目を書き入れるところから開眼と名づけられております。眼を入れるということは、仏法上から見ると「智慧の眼」を開いて仏法の真理を悟ることとされます。

お求めになられた仏像に眼がないわけではなく、お寺様において書くわけでもございませんが、魂入れである開眼供養をすることは、その造られた仏さまに「智慧の眼」を授けることで仏の世界に生き、ご本尊になるということになります。そしてお位牌などの祖霊は本尊となった仏さまの世界の中にお祀りされていくわけです。

詳しくは菩提寺様があるのであれば、そちらにもお尋ねになってみてください。
絶対今すぐにでも魂入れをしてほしいということは言いません。それぞれの事情もあり、すぐにはできないことも考えられるからです。ただご自身が納得されるようでしたら、魂入れである開眼供養をされるとよろしいかと思います。

以上です。

こんばんは。

魂入れはお位牌、新規に立てたお墓などでよく行われることなのですが、新しい仏像をお迎えになったということは、やはりこれも魂入れが必要になるものと思います。

魂入れとは開眼法要または開眼供養と申します。(ただし浄土真宗では呼び方が異なります。御移徙といいます。)
もともとは造られた仏像には眼を入れなかったんです。お祀りする際に法要を行って新たに目を書き入れるところから開眼と名づけられております。眼を入れるということは、仏法上から見ると「智慧の眼」を開いて仏法の真理...続きを読む

Q無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。
無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論)
そこで無我について考えてみました。
煩悩を考察する例え話です。
たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。
冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。
このようになります。
ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。
このようにくよくよします。
そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。
この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。
でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。
我には無い、されど世にはあるです。
無我に照らせばフェラーリはあるです。
我に照らせばフェラーリは無いです。
ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。
世の中をあまねく照らせば全てはあるです。
無は信仰のみにしか無い。
ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。
「私があなたを知らないわけがない」と。
そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。
しかし神に照らせば全てはある。
ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。
お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。
私は無我とは偽りであると主張します。
それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。
無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論)
そこで無我について考えてみました。
煩悩を考察する例え話です。
たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。
冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。
このようになります。
ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。
このようにくよくよします。
そのようなくよくよがなく、...続きを読む

Aベストアンサー

お釈迦様の悟りは「無」ではありません。それは、後世の大乗仏教の教祖の一部の人が言っているだけで生悟りなわけです。だから、いろいろな理屈に合わない疑問が出て来るわけです。

大乗仏教や学者たちは、お釈迦様の悟りを正確に理解しておりません。

特に、大乗仏教の歴史はお釈迦様の悟りが理解できていないことからスタートしました。だから、色々な学説が生まれて現在ような、無数の創作経典や論書や宗派が生まれました。

それぞれが、似たようなことを説いたり、まったく違うことを説いております。

これは、お釈迦様は「自分の悟りを表さなかった」ことによります。お釈迦様は自分の悟りの感想は言っていますが、「悟りとはどういうことなのか?」ということは説明していません。

ただ「ニルヴァーナ(涅槃)」というだけです。そして、自分と同じ悟りを体験しなさいということで、その修行法を生涯に渡って説いただけです。

お釈迦様は、涅槃に至る修行法とそれを助ける教えを説いただけで、「これが悟りだ」ということは言っていません。言うどころか、言ったところで理解できないから言わないと言っています。

また「無我」ですが、これは「我(アートマン)」の存在について説いたものです。「我」とは、「アートマン」、つまり「霊魂」のことです。

古代インドでは、人間の本性は霊魂(アートマン、我)であって、肉体が滅んでもアートマンは残り、それは常住不変で永遠の存在であると言われていて、そう信じられていました。

しかし、お釈迦様はバラモン教で言われているアートマンは永遠でもなければ、常住不変の存在でも「無」いと説きました。

また、バラモン教が説いているアートマンも真のアートマンでは「無」いと言ったわけです。

バラモン教が説いているアートマンは一見不変で永遠のように思えるが、それもまた因縁によって出来たものである説いたのです。

仏教で言う「無我」とは、何も無いとか、何も考えない状態とか、何も思わない状態とか、そういうことをいっているのではありません。

仏教で「無」という言葉が使われ過ぎるために誤解が生まれただけに過ぎません。

般若心経でよく「無」という言葉がでますが、あれは修行によって「有」を「無」に転ずることが出来、「無」を「有」に転ずることが出来る。あらゆるものは因縁によって「有」でも「無」でもすることが出来る。何の理由でそのようなことが出来るのか、それはすべての真理は「空」だからだと説いているわけです。「空」というものが、因縁によって色々なものに変化すると説いているわけです。

だから、本当は「無」ではなく「空」なんですね。「無」は否定語として使われているわけです。

だから「空」だけは実在なのかも知れませんね。「空」の中に、あらゆる物も命も霊も、その元になるものがあるわけです。それを仏教では「梵」「法(ダルマ)」と言いました。これは言葉が違うだけで「絶対神」のことを言っているのだと思いますね。「空」という言葉は、大乗仏教の中観派から出た言葉ですね。

お釈迦様の説法の特徴として「神」とか「霊」とか「魂」とか、他の宗教と混同して誤解されやすい用語は使わなかったのですね。お経を読めば、これは「霊」のことを言っているなというところがあるわけです。言葉が違うから説いてないという学者や僧侶がいますが、間違った解釈ですね。

お釈迦様が説いたのは「ニルヴァーナ」とそれに至るための「修行法」と「教え」のみです。それ以外は、庶民の人生相談や素朴な疑問に答えただけですね。「ニルヴァーナ」についてですが、未だに誰も理解しておりません。だから、諸説や推測が数多く出てきます。「無我の境地」もその一つでしょう。

ある程度の地位や名声のある人が、何か言ってしまったら、間違っていてもそれが通ってしまうのが世間というものです。だから、偉い人が間違うと困るのです。修正する勇気のある人が出るまでそれが真理として定着していまいます。

お釈迦様の悟りは「無」ではありません。それは、後世の大乗仏教の教祖の一部の人が言っているだけで生悟りなわけです。だから、いろいろな理屈に合わない疑問が出て来るわけです。

大乗仏教や学者たちは、お釈迦様の悟りを正確に理解しておりません。

特に、大乗仏教の歴史はお釈迦様の悟りが理解できていないことからスタートしました。だから、色々な学説が生まれて現在ような、無数の創作経典や論書や宗派が生まれました。

それぞれが、似たようなことを説いたり、まったく違うことを説いております。

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