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学校の授業で、ユダヤ民族にとってキリスト=神殿であり、エルサレム神殿などの神殿はユダヤ民族の再興のイメージであると習いました。(記憶違いかもしれません)

教会の神父をしている知り合いがいるので、キリスト教における神殿の意味合いは何なのか訊ねてみたところ、神殿は神と民との会見の場である、と言われました。

再興のイメージと、会見の場を結びつけることができません。これはどう結びつけたらよいのでしょうか。また、上記以外にも神殿に意味合いがあるのなら教えていただきたいです。

※あくまでも「キリスト教世界での神殿」でお願いします。

よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

お答えします。

旧約聖書に出てくるソロモン神殿か第二神殿ですよね。神殿は神がすむところです。地上における神の住居。ゆえにそれが地上における印なわけです。ですからキリストがいける神殿だとしてもおかしくないわけです。第二神殿はバビロン捕囚の後の再建されたものなので、ユダヤ民族の復活のシンボルでしょう。

もともとソロモン以前に神殿はなく、幕屋に神がすんでました。ダビデが建てたいと思ったのですが、赦されず、息子が建てたのでした。神殿はある意味で人間と神の和解の象徴でしょう。
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神の住まわれる天の、いわば模型に過ぎません。


こうかかれているからです。
*** イザヤ書 66:1 ***
「エホバはこのように言われた。「天はわたしの王座,地はわたしの足台である。では,あなた方がわたしのために建てることのできる家はどこにあるのか。では,わたしのための休み場としての場所はどこにあるのか」

エホバの証人の「聖書に対する洞察」によれば神殿とは:
「モーセの建てた幕屋やソロモン,ゼルバベル,およびヘロデの建立した神殿は,予型的もしくは描画的なものにすぎませんでした。そのことについては,使徒パウロが,幕屋は「天にあるものの模型的な表現また影」であったと書いて示しています。その幕屋の基本的な特色は後代の神殿にも含まれていました。

エホバの大いなる霊的な神殿,つまり「人間ではなくエホバの立てた真の天幕」を表わしていました。」

聖書にもこうあります。
*** ヘブライ人への手紙 8:1‐5 ***
「わたしたちにはこのような大祭司があり,その方は天におられる威光のみ座の右に座し,2 聖なる場所,そして,人間ではなくエホバの立てた真の天幕の公僕であられるということです。3 大祭司はみな供え物と犠牲の両方をささげるために任命されます。それゆえに,この方もささげるものを持つことが必要でした。4 さて,もし彼が地上にいるとすれば,祭司とはならないはずです。律法にしたがって供え物をささげる[人たち]がいるからです。5 しかしその[人たち]は,<u>天にあるものの模型的な表現また影</u>として神聖な奉仕をささげているのです。」

しかし、キリスト以降の現在、国民としては神はイスラエルを捨て去られたので神殿は意味を成さなくなってしまいました。
そのかわり、キリストの弟子が組織されて聖霊を注がれています。

参考URL:http://watchtower.org/j/
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昨日の回答には誤りがありました。

大艱難は、70週間ではなく、7年間です。                                大艱難は、啓示録6~19までです。6~13が前3年半で、14~19が後3年半を予言されています。今の時代は、十字架の血を心から信じるだけで救われますが、大艱難の時は信じるだけは救われません。信じながら律法を守り、その上666のしるしを貰ってはいけません。今は、お金を払うかカードによって物を買いますが、その時は全ての情報が人の手とか額に吹き込まれます。これを666しるしと言います。このしるしを貰わないと、物を買うことも売ることも出来なくなるのです「啓示録13:17」。牛とかには、既にこれが吹き込まれた国もあります。もし、これを人に吹き込むと、その人が世界の何処に居るのかを半径50cm以内で特定できます。これが、電気も電波も無い2000年前に予言されたのです。     大艱難の時には、救われた人はこの世には居ません。今の時代が終わる時、ラッパの音と同時に「ここに上って来なさい」と言われると楽園に引き上げられてしまうからです「コリント前15:51~55、テサロニケ前4:16~18、啓示録4:1~2」。ですから、666しるしを心配する人々がいかに聖書に無知であるか分かるでしょう。
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ユダヤ人が出エジプトして、イスラエルに入るまでは聖幕で神様を祭りました。

この聖幕が、イスラエルに入ってからは、聖殿に替わります。聖幕は3番目の空にある楽園の模型でした「ヘブライ9:23~24」。聖殿の特徴は、人々が直接 神様に会うことが出来ず、必ず祭司長を通じてのみ神様に会うことが出来ました「出エジプト28~30」。罪を犯した人が、傷一つない牛や羊を持ってくると、祭司長はそれを屠って、聖幕の庭にある祭壇の4隅にある角に血を塗る事によって、犯した罪を贖ってもらいました。角には罪人の罪が記録されてあったので、血を塗ることによって、犯した罪を隠してもらったのです「エレミヤ17:1」。この模型の羊であったイエスキリストが「ヨハネ1:29」、世の中に来られて十字架に掛けられ、直接 血を流すことによって全ての人々の罪を完璧に赦して下さいました。永遠の祭司長であるキリストが、直接 際物になったので、十字架以後の人々はもはや祭司長を通さず、直接 神様と会うことが出来ます。イエスキリストの血が完璧に自分の罪を無くしてくれたと心から信じる人は、罪が完璧に無くなった人なので、その人の中には神様の霊がいらしゃるのです「コリント前3:16~17、6:19」。ですから、今は救われた人が聖殿なのです。今は、人間の手で作られた建物には神様は居られません「使途言語録7:48」。少ないけれども、救われた人=聖殿です。              天国という言葉はマタイ福音だけにある言葉で、王国の意味です。イエスキリストは、イスラエルの王として来られて33年間居られました。マタイ福音には天国が33回書かれてあります。イエスキリストが33年の間、王様だったのが間違いないことを意味します。しかし、天国は、イスラエルの宗教指導者達によって奪わられ「マタイ11:12、22:13」、イエスキリストを処刑されることによって、延期されたのです。十字架の意味を信じるだけで救われる今の時代が、想像がつかないくらいに悪に満ちるとー実際にそのような罪が多発していると思いますがーある日、突然 空が開き「ここに上って来い」と言われると、聖殿=救われた人々は楽園に引き上げられて居なくなり、この世は70週の間、暑くて堪らない大艱難に陥ります「ダニエル9;12:1、エレミヤ30:7、啓示録6~19」。大混乱が終わると延期された1000年王国が成立され、エルサレム聖殿が再建されます「啓示録20」。   ですから、聖殿=救われた人であり、1000年王国ではエルサレム聖殿が再建されるのです。しかしながら、イスラエルの再興と言うイメージではありません。大艱難の福音は、イエスキリストを信じながら律法を守り、666のしるしをもらってもいけないのです。今まで、イエスキリストを受け入れなかった彼らは、想像を絶する苦難の中で、144000人だけが1000年王国に入るからです。エホバの証人達は、この144000人が自分たちだと言い張りますが、啓示録7:4は144000人がイスラエル人のみであることをはっきりと記しています。  本で書くなら、2冊分量はなると思いますが、簡単に書いたので、御理解のことよろしくお願いします。
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神殿とは人と神が出会う場所であるというのは正しいですが、人では精神と肉体を結ぶ首のことであると解釈すれば理解しやすいと思います。

聖書ではエルサレムの宮であり、幕屋とも言いますが、ここで商売することは自分の家を守ることであり、この熱心さが私(イエス)を損なうといっています。家とは肉体のことです。家はアダム(精神=魂)を育てるために神がプレゼントした肉のイヴ(異部=穢場=腹の虫の蝮=鬼=殻田=仇敵)です。

精神と肉体本能の戦いで発する熱が魂を育てる、鬼=母体=破波がある(云う)ので魂が育つ、です。このΩ、オームの真理原理をイエス(神)は教えにきたのです。
「精神主肉体従のバランスをくずしてはならない」です。

ユダヤ、エルサレム、イスラエルは腹首頭の三位です。腹の獣性を精神で治めるところが首でエルサレムで、宮です。宮の字は宇の下で神人が法で結ばれるです。
ミヤは三矢の集まるところ、シュラインは主のラインを探る、テンプルは天にプル(燃える)すると言霊されます。

商売は考察を肉体に持ち帰って汗をかくことです。首で商売をすることは怠けの詐欺行為で設けることです。現代のマネーゲーム、ギャンブルは神の嫌うものであるということになります。

ユダヤは人の肉体本能のことですから民族ではなく人間として再興すること、罪穢れを反省して甦るのは考え方の転換である、神との関係を修復することであるということです。

ソロモンはダビデの遺言に従って神殿を建てたが外国の女を愛して、その神々を神殿に迎えてしまった。この罪のゆえに子孫のユダヤ人は国を追われたのです。
外国の女とは精神の外側のことで肉体本能で、人の家です。ですからイエスが商売するものを宮から追い払ったと同じ意味で、神はユダヤ人を国から追い払ったのです。国は玉=魂を作る所ですから神殿で宮であるのです。

ソロモンは一人者で、チョンガー=ゝの主神に偽我で、無神向で肉体本能の自己保存本能のことです。精神と肉体が首(神殿)で結婚しない、神を無視する者を独身というのです。

クフ、カフラ、メンカウラの三大ピラミッドではカフラ=果振羅が首、神殿です。
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こんばんは。



キリスト教における新しい神殿とは、旧約における人の手で作られたものとは違い、石の神殿を壊し、神によって再建されるのは、まさに、イエス自身の復活を意味するのではないでしょうか?

 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである(ヨハネ 2:19-21)
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 まず、キリストの定義は、ユダヤではイエス・キリストを指すわけではありません。

キリストというのは、ギリシャ語読み、へブル語では「メシヤ」を意味し、その元々の意味は「油を注がれたもの」。ユダヤでは、王になるもの、祭司になるもの、預言者になるものに油を注ぎました。ちなみに、とれ1つ取っても、とても大事なものでした。

 さて、神殿は、何を象徴するのか、ですが、そもそも神殿は、「神様をあがめる所」として、建てられました。だから、第一に「神様の栄光」を象徴します。そういう点では、現在、それ(神殿)は、クリスチャンそのものを指します(新約聖書のコリント人への手紙、より)。
 
 昔の(旧約聖書時代の)ユダヤ民族にとって、神様は根本、基(もとい)です。普通、家を建てるとき、まず、礎石と言うのを置くでしょう? また、日本では、まず神棚や仏壇を置く場所を先に決める人もいると聞いています。そういう風に、一番大事なものから・・・ということで、捕囚されたあと、まず、ユダヤ人が国を再興するために行なったことの1つに「神殿建設」があります(旧約聖書の、ネヘミヤ記やエズラ記参照)。だから、確かに「国の再興」を意味するかと考えられます。

 で、ほかの意味合いは、なんですが・・・え~っと、今時間がないので、あと数日この質問サイトを残していただければ、もう少し回答できるかと思います(^^;)
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この回答へのお礼

わかりやすい例えですね。
お忙しいところわざわざありがとうございます。
お時間があれば他の意味合いも教えていただけると嬉しいです。

お礼日時:2006/01/26 18:53

何の学校か知りませんがずいぶんと乱暴な話をされるものです。



第1にキリスト、というのはそもそもギリシア語で、ヘブライ語のメシアを翻訳したものです。ですから、本来ユダヤ民族にとって、というならメシアでないと話が通りません。
七十人訳の時代のはなし、つまりユダヤ教が盛んに宣教していた時代ですら、神殿の礼拝で読み上げられた文書はヘブライ語です。そのため、通訳がついていたという記述が残っているくらいですから。

であるからこそ、キリスト教が当時のユダヤ教の用語や、また七十人訳聖書(「旧約」のギリシア語訳)を横取りする形で使うようになり、その後のユダヤ教徒は別の訳を使う、などとなっていくわけで、こういった歴史を踏まえない乱暴な用語法です。

第2にキリスト教はユダヤ民族の宗教ではありません。ユダヤ教の改革派あたりが起源の一つではあってもそれから2000年で、独立した宗教です。ただ、旧約聖書というものがあるので話がややこしくなってはいますが。

したがってユダヤ教には神殿がありますがキリスト教には神殿はありません。ここを区別しないのはもはや理論とも言えません。
で、そうなると質問のご趣旨がわからなくなってしまうのですが、一応二通りにわけて考えましょう。

1.ユダヤ教の神殿
再興のイメージ、というのはこの場合エルサレムの神殿のことと思われます。ユダヤ民族は何度か敗北しているわけで(ということは他の民族を支配していた事もある、という点何ら他の民族と変わりがない)とくに紀元70年にエルサレムの神殿が破壊されています。ですから、神殿というよりエルサレムが再興のイメージに結びつくのでしょう。
一方一般にユダヤ教の神殿はまあ日本の神社同様、お参りする場所で、門前町などもあるやはり普通の神殿です。そこに神のよりますご神体などがあったわけですね。今は無いと思いますが。だから、そこにいるであろう神霊と会見するわけです。これを祈りといいます。まあ実際は司祭を通じて話を通してもらったりしていた、ということですが。

2.キリスト教の場合
神殿はありません。神は何かに宿るものではなく、あまねくあるものだ、という考えです。だから、宗派によってとくに偶像を排除する思想がでるのはそういう考えが基礎にあります。では教会はどうか、というと、教会は教会堂を指すのではありません。エクレシア・カトリカといって、天上世界に教会がある。それは建物でもありまたその組織でもあり、いわばキリスト教そのものである、という思想です。これの地上における対応物が、地上におけるキリスト教会である、という考えですね。これは天における真正の、普遍的な(カトリカ)教会(エクレシア)をひな形としたものなので、そこでは神と会見するのに適した場所である、ということなのでしょう。(実際にはこのあたりは宗派により違う考えがあります)
ユダヤ教ではないので再興のイメージと教会は無関係です。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ございません。
数ヶ月前の授業のメモを見て質問をしたので、少し私の勘違いがあったようです。
詳しい説明ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/26 18:51

ユダヤ民族は長い流浪の歴史があります。


そのことを考えると、「神殿」を築くということは、定住の地を持つということにつながることから、「再興」という表現を使ったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。
やはりユダヤ民族の歴史にも目を向けないといけない問題ですよね。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/26 18:47

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