例えば、「授業中に私語をしない」というのは道徳的行為ですが、その様に行為する理由として、1.規則だから2.周りの迷惑になるから3.先生に怒られるから
 と言う3つが挙げられると思います。そしてこの3つとも、精神的利益を含んだ利己的な動機、または功利的な動機に基づいていると考えます。そこで質問なのですが、利己的または功利的な動機以外で、言うなら利他的な動機によって、道徳的行為を行う場合はあるのでしょうか?この質問に対する意見、参考URL等お願いします。

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A 回答 (8件)

>平和的で安心であった心を犯された結果、怒りを覚えたのではないか。


ええ、つまり、それは前回の回答の前者に該当すると考える訳です。

誰かの平和が壊された→自分であった可能性もある→自分との社会契約も放棄しかねなかった(=自分の平和も壊されかねなかった)→許せん!

というプロセスで、その怒りは利己的と判断できます。

が。本当にそれだけですか?
私はそれだけではないと思っているんですけどね。
これは確かに理論的に説明するのは無理かもしれませんね。それくらい、
実際、利己的な怒りとは区別しにくいのではないでしょうか。

私は、そこには何か「種の保持」に関連する様な感情がある様に思えます。
その平和を壊された人も、人間という種に属する訳で、種が危機にさらされ
た。そう考えると、同じ種である私が「種の保持」を考えて怒りを覚えるの
も当たり前の事かもしれません。

人間が人間に危害を加えるというのは、それが野性的な段階の危害であって
も、理性的な段階の危害であっても、私は矛盾を感じるのです。

こう考えてしまうと、人間という種に危害を与える人間は人間ではなくなっ
てしまう可能性があるんですけどね (^_^;) 。


人間って大変ですねぇ。中途半端に賢いがために、動物と神の間で生きなけ
ればならないなんて。

この回答への補足

「種の保持」の話ですが、それは功利主義の考えですよね。功利主義の原則は、我々人間の幸福の促進と苦の防止に努めるという利己的な見解である。よって道徳的行為は、未だに利己的な動機に拠るようですね。確かに何か他の動機、利他的な動機あるいは理想的な道徳的動機が存在するのかもと思いたいですが。  人間は本当に大変ですねぇ^^

補足日時:2002/01/12 01:44
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他の回答者 か ら の お話に、よっていいですか?(質問者へのアドバイスとして、一緒に考えるという意味です)



カッコワルいについてです。これは、生き様の問題なんです。僕、こういうの大好きです。五番目のものに、少し近いです。くだらない事かもしれません。そういう人の一生なんてすこぶる小さくて、なくなりそうです。しかし、それは確かにあるんです。たぶん、。(笑)そのひとは、二番目のものには忘れられません。

潔さがあるじゃないですか!(やくざではないですが、文学的生き方ですね)
利他とか、利己とか、そういう問題ではないんです。
そういう生き様には、その人自身に希望がありえると思うんです。五番目の者になるという希望です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考のひとつとして受け止めさせて頂きます。

お礼日時:2002/01/12 08:44

>利他的な動機によって、道徳的行為を行う場合はあるのでしょうか?


ありません。
なぜなら、その人がその人以外でありえることはないので、他的動機など存在しません。あれば、それは、いい意味でも悪い意味でも思い込みです。
道徳や倫理において重要なのは、す「べき」かどうかです。
>「授業中に私語をしない」というのは道徳的行為ですが、
これは道徳的行為とは関係ないです。これを道徳的だというのは、時代遅れの社会規範だけです。「学校をサボる」コレも同じです。コレをダメだと言うのは時代遅れの社会規範です。今の社会規範はもう少しだけ賢くなっています。社会規範自体が考えるようになっています。以前の時代遅れの社会規範は、「あつい風呂が好きだー!」といって、煮えた熱湯につかるような事より、もっと頭がよくありませんでした。(道徳や倫理規範は違います)

道徳、倫理的行為にもどりますが、(この倫理、道徳の二つは、僕の中では分けてないので、そうおもって聞いてください)そういう行為においては利も害もありません。なぜなら、その行為は、すべてにおいて、すべてに対してなされるからです。それが、自分の命を断つ事になろうが、先祖から続く命を断つことになろうが、それはなされます。それが、「しかるべき」ということです。これは、ほんとに個人を得た時と、同時の話です。
現代の流れでは、個性とか、安っぽい自尊心とか、何を創ってるというのか?とい言いたくなるようなしょぼしょぼクリエイターも「まとめて」、外面的にちやほやされてます。いいことに、皆なんとなくそのむなしさに気付いています。そのような意味の個人は、個性のないただの無意味な個人です。個人ではありません。まとめられるようなものは個人ではありません。個人とは、「私」としかいえず、さらに突き詰めて、「私」とも発する事の出来ないようなことです。そういう認識が大事です。他の存在は、ありません。
ココまで来て、独我論の毒牙にかかってしまいがちです。「私はすべて」と言う認識に行き着いたようで、以前の私欲やわだかまった我見と混同します。
 
 すべてとはかえられないもので、そのような認識に行き着いた者がとる行為は、いうことなしです。すべてのために行為します。「私はすべて」と言った時点で、「私がなくなる」のです。それは、悪い意味では決してありません。個人の喪失は、「すべてを得る」ということなのです。見失うものは何もありません。自分を見失った~(泣)などという状況は決してありません。すべてを得ている者が何を見失うのでしょう。

:家族のために生きるものがいます。その人が死んで、家族は多分残ります。血筋はいつか途絶えます。
:すべてのために生きるものがいます。その人が死んで、すべてが残ります。
前者は死にますが、後者は死にません。なぜならすべてが残るからです。
:私欲(利己)のために生きるものがいます。その人が死んで、何も残りません。
:曲を書くために生きるものがいます。その人が死んで、多分、曲は少しの間、残ります。
:生きるために生きる人がいます。その人の今は永遠です。

五番目のものは理解されやすく、二番目のものはいつに関係なく理解するようなものではありません。
五番目の者が理解されやすいのは、今を得ているからです。
二番目の者がそうなのは、問いの余地がないからです。そのような人は、「しかるべき」ようにあります。すべきことをし、生きるべくして生きます。死ぬべくして死にます。そうして、すべてを得ています。

あなたは二番目の者を目指しなさい。
僕は五番目にあこがれます(笑
五番目は人間的だから、、。

道徳的、倫理的規範は、今言ったような助言を導くとゆう意味で、役に立つのです。彼らのような規範が生き残った意味はそこにあります。放棄されるにはまだ早いです。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。非常に刺激になる意見で感謝します。検討を進めて行こうと思います。

お礼日時:2002/01/12 08:39

「授業中に私語をしない」理由の4つ目に「自分がカッコ悪く感じるから」が挙げられるのではないの。



そう自分を評価する感覚は客観的なものであり、利己的か利他的かどうかというのは、その客観というものが、自分の分身なのか他人なのかの捕らえ方の違いでしょう。

この回答への補足

意見ありがとうございます。「自分がカッコ悪く感じるから」と自分を評価するのは客観的です。しかしどう考えてもこの理由は利己的だと思うのですが、利他的とも取れるのでしょうか?利他的な動機から道徳的行為をする場合の具体例はあるのでしょうか?

補足日時:2002/01/12 01:26
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>迷惑を掛けないほうが自分とって幸福が多いという利己的な考えであると


>思います。
そういう人もいるでしょうね。と言うよりは、実際、社会の大半の人々は
社会で生活するが故にそうしているでしょう。
私は、そういった考えで道徳的行為に至っていたとしても、それはそれで
よしと考えています。結果的に社会にとってはマイナスではないですから。

ただ、やはり、それは弱い道徳だと思います。むしろ、それは道徳とは呼
んで欲しくないですね。

私は、両方を含んだものを道徳と呼びたいのです。
つまり、私は何故道徳的行為に至るかと言えば、それは社会契約が暗に成立
していると考えているからです。自分の権利を犯されないかわりに、他人の
権利も犯さない、と。この観点から見ると、確かに道徳的行為はただの利己
的行為です。
ただし、私がただ単にそれだけで道徳的行為に至るかと言えば、そうではあ
りません。私は言ってみれば「非道徳的行為」に対して、根本的な反感を
持っているからなのです。不愉快、という表現が適切かと思います。
例えば、目の前でひき逃げが起こったとしましょう。私は状況によって、
犯人に怒りを覚えるでしょう。これは精神的に道徳的行為であると思います
が、では、これはただの利己的な感情なのでしょうか。
それを問って頂きたいのです。

前記の通り、利己的感情だと判断されても、そう思って下さるのであれば、
文句はありませんが。

この回答への補足

なかなか考えさせられる意見をありがとうございます。ここで挙げられた例で、なぜあなたは怒りを覚えるのでしょうか?それは平和的幸福を願っているからではないでしょうか。故に平和的で安心であった心を犯された結果、怒りを覚えたのではないか。つまり利己的である。また反論よろしくお願いします。

補足日時:2002/01/12 00:20
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まさにshunpeさんの考えの通りです。


道徳的行為に限らず、全ての人間の全ての行為は利己的な動機です。

>精神的利益を含んだ利己的な動機、または功利的な動機に基づいている

そういうことです。間違いありません。
ただ、残念なこと?に、こういうことって、わからない人(それを認めたくない人)にはいくら説明してもわかりません(認めません)よ。
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この回答へのお礼

同調していただきありがとうございます

お礼日時:2002/01/12 00:13

 道徳とは現実の社会に、善良な人間として生きて行くために、みずからを律し、たがいに守るべき社会的な規範をいいます。


 「情けは、人の為ならず」とかいいますが、他の為(利他的)であるようで、自分の為(利己的)なのであります。
 道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針(利己的)とはなりえても、三世(過去・現在・未来)にわたる一切の人々の救済(利他的)とはなりえません。
 他の為になっていると思うのは、傲慢であり、エゴではないでしょうか?
 利他的である為には、正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、最高最善の生き方であります。
 如何でしょうか?

この回答への補足

回答ありがとうございます。ということは利己的でない人もいる可能性があるのですね。

補足日時:2002/01/11 21:33
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2番は利他的ではないですか?

この回答への補足

最大多数の最大幸福を計るという功利主義を基にし、迷惑を掛けないほうが自分とって幸福が多いという利己的な考えであると思います。

補足日時:2002/01/11 21:04
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Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
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何か解決する方法があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

入力モードが「挿入」(普通の入力)から、「上書き」になってしまっているのだと思われます。
キーボードに[Insert]というキーがあると思いますので、1度押してみてください。

Q法と道徳ってどう違うのでしょうか?

法と道徳ってどう違うのでしょうか?

200文字以上で、例など出して頂けると助かります。
同じところは、社会規範。
違うところは、強制力。
そんな感じだとは思うのですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

質問するまでもなく、質問主のおっしゃることそのものが回答になっております。

両方とも社会規範で強制力が違いますよね。そのとおりです。

道徳なしで法律は作られることはまずありえませんから、社会規範として共通していますよね。
殺人や盗み、破壊行為などはもちろん犯罪ですが、それ以前に人として反していることですよね?だからこそ法律は存在しており、両方とも「人間のあるべき姿の実現」や「社会秩序の維持」を目的としています。

しかしながら同じ目的で存在しながらも、道徳の場合は「リンチ(私刑)」を食らわない限り、罰則規定がありません。ここで強制力の違いが見えてきますよね?

もっと具体的な内容に迫ると、裁判官が判決を下す際はまず適合する法規がないか探し出します。
いろいろ検討した結果、それでも見つからない場合は最終的に裁判官が持ち合わせている常識や良識、道徳で判決を下すことになっております。

両方とも同じ社会規範でも、物事に適合させるための優先順位は法律がまず優先されます。
この点で優先順位(つまり強制力)が違うことがわかりますよね?

最後に決定的な例を出しましょう。
その国で生まれた以上その人間は、その国に存在している約束(法律)を強制的に結ばされることになります。
嫌ならその「他の国に出て行け」ということになります。これが「亡命」であったり、「国外逃亡」であったりするわけです。

一方道徳は世間一般に存在しているものなので、本人が気にしなければ別段守らなくてもかまわないものなのです。

質問するまでもなく、質問主のおっしゃることそのものが回答になっております。

両方とも社会規範で強制力が違いますよね。そのとおりです。

道徳なしで法律は作られることはまずありえませんから、社会規範として共通していますよね。
殺人や盗み、破壊行為などはもちろん犯罪ですが、それ以前に人として反していることですよね?だからこそ法律は存在しており、両方とも「人間のあるべき姿の実現」や「社会秩序の維持」を目的としています。

しかしながら同じ目的で存在しながらも、道徳の場合は「リンチ(私...続きを読む


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