例えば、「授業中に私語をしない」というのは道徳的行為ですが、その様に行為する理由として、1.規則だから2.周りの迷惑になるから3.先生に怒られるから
 と言う3つが挙げられると思います。そしてこの3つとも、精神的利益を含んだ利己的な動機、または功利的な動機に基づいていると考えます。そこで質問なのですが、利己的または功利的な動機以外で、言うなら利他的な動機によって、道徳的行為を行う場合はあるのでしょうか?この質問に対する意見、参考URL等お願いします。

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A 回答 (8件)

>平和的で安心であった心を犯された結果、怒りを覚えたのではないか。


ええ、つまり、それは前回の回答の前者に該当すると考える訳です。

誰かの平和が壊された→自分であった可能性もある→自分との社会契約も放棄しかねなかった(=自分の平和も壊されかねなかった)→許せん!

というプロセスで、その怒りは利己的と判断できます。

が。本当にそれだけですか?
私はそれだけではないと思っているんですけどね。
これは確かに理論的に説明するのは無理かもしれませんね。それくらい、
実際、利己的な怒りとは区別しにくいのではないでしょうか。

私は、そこには何か「種の保持」に関連する様な感情がある様に思えます。
その平和を壊された人も、人間という種に属する訳で、種が危機にさらされ
た。そう考えると、同じ種である私が「種の保持」を考えて怒りを覚えるの
も当たり前の事かもしれません。

人間が人間に危害を加えるというのは、それが野性的な段階の危害であって
も、理性的な段階の危害であっても、私は矛盾を感じるのです。

こう考えてしまうと、人間という種に危害を与える人間は人間ではなくなっ
てしまう可能性があるんですけどね (^_^;) 。


人間って大変ですねぇ。中途半端に賢いがために、動物と神の間で生きなけ
ればならないなんて。

この回答への補足

「種の保持」の話ですが、それは功利主義の考えですよね。功利主義の原則は、我々人間の幸福の促進と苦の防止に努めるという利己的な見解である。よって道徳的行為は、未だに利己的な動機に拠るようですね。確かに何か他の動機、利他的な動機あるいは理想的な道徳的動機が存在するのかもと思いたいですが。  人間は本当に大変ですねぇ^^

補足日時:2002/01/12 01:44
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他の回答者 か ら の お話に、よっていいですか?(質問者へのアドバイスとして、一緒に考えるという意味です)



カッコワルいについてです。これは、生き様の問題なんです。僕、こういうの大好きです。五番目のものに、少し近いです。くだらない事かもしれません。そういう人の一生なんてすこぶる小さくて、なくなりそうです。しかし、それは確かにあるんです。たぶん、。(笑)そのひとは、二番目のものには忘れられません。

潔さがあるじゃないですか!(やくざではないですが、文学的生き方ですね)
利他とか、利己とか、そういう問題ではないんです。
そういう生き様には、その人自身に希望がありえると思うんです。五番目の者になるという希望です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考のひとつとして受け止めさせて頂きます。

お礼日時:2002/01/12 08:44

>利他的な動機によって、道徳的行為を行う場合はあるのでしょうか?


ありません。
なぜなら、その人がその人以外でありえることはないので、他的動機など存在しません。あれば、それは、いい意味でも悪い意味でも思い込みです。
道徳や倫理において重要なのは、す「べき」かどうかです。
>「授業中に私語をしない」というのは道徳的行為ですが、
これは道徳的行為とは関係ないです。これを道徳的だというのは、時代遅れの社会規範だけです。「学校をサボる」コレも同じです。コレをダメだと言うのは時代遅れの社会規範です。今の社会規範はもう少しだけ賢くなっています。社会規範自体が考えるようになっています。以前の時代遅れの社会規範は、「あつい風呂が好きだー!」といって、煮えた熱湯につかるような事より、もっと頭がよくありませんでした。(道徳や倫理規範は違います)

道徳、倫理的行為にもどりますが、(この倫理、道徳の二つは、僕の中では分けてないので、そうおもって聞いてください)そういう行為においては利も害もありません。なぜなら、その行為は、すべてにおいて、すべてに対してなされるからです。それが、自分の命を断つ事になろうが、先祖から続く命を断つことになろうが、それはなされます。それが、「しかるべき」ということです。これは、ほんとに個人を得た時と、同時の話です。
現代の流れでは、個性とか、安っぽい自尊心とか、何を創ってるというのか?とい言いたくなるようなしょぼしょぼクリエイターも「まとめて」、外面的にちやほやされてます。いいことに、皆なんとなくそのむなしさに気付いています。そのような意味の個人は、個性のないただの無意味な個人です。個人ではありません。まとめられるようなものは個人ではありません。個人とは、「私」としかいえず、さらに突き詰めて、「私」とも発する事の出来ないようなことです。そういう認識が大事です。他の存在は、ありません。
ココまで来て、独我論の毒牙にかかってしまいがちです。「私はすべて」と言う認識に行き着いたようで、以前の私欲やわだかまった我見と混同します。
 
 すべてとはかえられないもので、そのような認識に行き着いた者がとる行為は、いうことなしです。すべてのために行為します。「私はすべて」と言った時点で、「私がなくなる」のです。それは、悪い意味では決してありません。個人の喪失は、「すべてを得る」ということなのです。見失うものは何もありません。自分を見失った~(泣)などという状況は決してありません。すべてを得ている者が何を見失うのでしょう。

:家族のために生きるものがいます。その人が死んで、家族は多分残ります。血筋はいつか途絶えます。
:すべてのために生きるものがいます。その人が死んで、すべてが残ります。
前者は死にますが、後者は死にません。なぜならすべてが残るからです。
:私欲(利己)のために生きるものがいます。その人が死んで、何も残りません。
:曲を書くために生きるものがいます。その人が死んで、多分、曲は少しの間、残ります。
:生きるために生きる人がいます。その人の今は永遠です。

五番目のものは理解されやすく、二番目のものはいつに関係なく理解するようなものではありません。
五番目の者が理解されやすいのは、今を得ているからです。
二番目の者がそうなのは、問いの余地がないからです。そのような人は、「しかるべき」ようにあります。すべきことをし、生きるべくして生きます。死ぬべくして死にます。そうして、すべてを得ています。

あなたは二番目の者を目指しなさい。
僕は五番目にあこがれます(笑
五番目は人間的だから、、。

道徳的、倫理的規範は、今言ったような助言を導くとゆう意味で、役に立つのです。彼らのような規範が生き残った意味はそこにあります。放棄されるにはまだ早いです。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。非常に刺激になる意見で感謝します。検討を進めて行こうと思います。

お礼日時:2002/01/12 08:39

「授業中に私語をしない」理由の4つ目に「自分がカッコ悪く感じるから」が挙げられるのではないの。



そう自分を評価する感覚は客観的なものであり、利己的か利他的かどうかというのは、その客観というものが、自分の分身なのか他人なのかの捕らえ方の違いでしょう。

この回答への補足

意見ありがとうございます。「自分がカッコ悪く感じるから」と自分を評価するのは客観的です。しかしどう考えてもこの理由は利己的だと思うのですが、利他的とも取れるのでしょうか?利他的な動機から道徳的行為をする場合の具体例はあるのでしょうか?

補足日時:2002/01/12 01:26
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>迷惑を掛けないほうが自分とって幸福が多いという利己的な考えであると


>思います。
そういう人もいるでしょうね。と言うよりは、実際、社会の大半の人々は
社会で生活するが故にそうしているでしょう。
私は、そういった考えで道徳的行為に至っていたとしても、それはそれで
よしと考えています。結果的に社会にとってはマイナスではないですから。

ただ、やはり、それは弱い道徳だと思います。むしろ、それは道徳とは呼
んで欲しくないですね。

私は、両方を含んだものを道徳と呼びたいのです。
つまり、私は何故道徳的行為に至るかと言えば、それは社会契約が暗に成立
していると考えているからです。自分の権利を犯されないかわりに、他人の
権利も犯さない、と。この観点から見ると、確かに道徳的行為はただの利己
的行為です。
ただし、私がただ単にそれだけで道徳的行為に至るかと言えば、そうではあ
りません。私は言ってみれば「非道徳的行為」に対して、根本的な反感を
持っているからなのです。不愉快、という表現が適切かと思います。
例えば、目の前でひき逃げが起こったとしましょう。私は状況によって、
犯人に怒りを覚えるでしょう。これは精神的に道徳的行為であると思います
が、では、これはただの利己的な感情なのでしょうか。
それを問って頂きたいのです。

前記の通り、利己的感情だと判断されても、そう思って下さるのであれば、
文句はありませんが。

この回答への補足

なかなか考えさせられる意見をありがとうございます。ここで挙げられた例で、なぜあなたは怒りを覚えるのでしょうか?それは平和的幸福を願っているからではないでしょうか。故に平和的で安心であった心を犯された結果、怒りを覚えたのではないか。つまり利己的である。また反論よろしくお願いします。

補足日時:2002/01/12 00:20
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まさにshunpeさんの考えの通りです。


道徳的行為に限らず、全ての人間の全ての行為は利己的な動機です。

>精神的利益を含んだ利己的な動機、または功利的な動機に基づいている

そういうことです。間違いありません。
ただ、残念なこと?に、こういうことって、わからない人(それを認めたくない人)にはいくら説明してもわかりません(認めません)よ。
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この回答へのお礼

同調していただきありがとうございます

お礼日時:2002/01/12 00:13

 道徳とは現実の社会に、善良な人間として生きて行くために、みずからを律し、たがいに守るべき社会的な規範をいいます。


 「情けは、人の為ならず」とかいいますが、他の為(利他的)であるようで、自分の為(利己的)なのであります。
 道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針(利己的)とはなりえても、三世(過去・現在・未来)にわたる一切の人々の救済(利他的)とはなりえません。
 他の為になっていると思うのは、傲慢であり、エゴではないでしょうか?
 利他的である為には、正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、最高最善の生き方であります。
 如何でしょうか?

この回答への補足

回答ありがとうございます。ということは利己的でない人もいる可能性があるのですね。

補足日時:2002/01/11 21:33
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2番は利他的ではないですか?

この回答への補足

最大多数の最大幸福を計るという功利主義を基にし、迷惑を掛けないほうが自分とって幸福が多いという利己的な考えであると思います。

補足日時:2002/01/11 21:04
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QEXCEL VBA ワークシートのコピーについて

seaclearsky8です。

一つのブックに何枚ものワークシートを追加して保存するVBAについて
ご教授、よろしくお願いします。

コピー元 

MASTER Book MASTER Workseets

コピー先

Copy Book copy Worksheets


コピー元にはワークシートがMASTERワークシートの一枚しかありません。

その一枚のワークシートに値をVBAで入れていき処理し

コピー先のコピーBOOKにワークシートをコピーしていきたいです。

しかし、MASTERBOOKの処理が何通りかあり、

コピー元の一枚のワークシートに
処理別にデータを写し

コピー先BOOKに

         ワークシート名
ワークシート1 処理1ワークシート 
ワークシート2 処理2ワークシート
ワークシート3 処理3ワークシート

という具合にワークシートを複数コピーしたいのですが

処理ごとにデータを代入し、コピー処理はできるのですが。

コピー先BOOK

ワークシート3 処理3ワークシート

だけしかコピーされてないBOOKが作成されます。
上書きされているのだと思われます。

対処法が調べましたが見つけられていません。

すいませんが対処法及び参考VBA等ご教授宜しくお願いいたします。

seaclearsky8です。

一つのブックに何枚ものワークシートを追加して保存するVBAについて
ご教授、よろしくお願いします。

コピー元 

MASTER Book MASTER Workseets

コピー先

Copy Book copy Worksheets


コピー元にはワークシートがMASTERワークシートの一枚しかありません。

その一枚のワークシートに値をVBAで入れていき処理し

コピー先のコピーBOOKにワークシートをコピーしていきたいです。

しかし、MASTERBOOKの処理が何通りかあり、

コピー元の一枚のワークシートに
処理別にデータを写し

コピ...続きを読む

Aベストアンサー

> 配列にワークシートのオブジェクトを入れることとか可能なのでしょうか?

それは多分できないと思います。


> 複数のセル・シートを何回もコピーする場合にでるらしいです。

多分、メモリをたくさん使っちゃってるせいでしょうね。
まず、メモリ使用を減らすようにしましょうか。

・testwriteの最後にオブジェクト変数のメモリ解放を行う。
 具体的には以下のように書く。もうやってたらすみません。
Set cbook = Nothing
Set mastersheet = Nothing
・testwriteの中でのブックオープンおよび保存をやめる。
 新規ブックのオープンをtestwriteを呼ぶ前に1度だけ行い、
 testwriteの中ではその新規ブックに対してシートを追加していく。
 そしてtestwriteの処理が全部終わったら、
 新規ブックの全シートを1度に「記録シートYYYY/MM/DD.xls」にコピーする。

それでも駄目でしたら、以下の回答No.1を試してみてください。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1822561.html

> 配列にワークシートのオブジェクトを入れることとか可能なのでしょうか?

それは多分できないと思います。


> 複数のセル・シートを何回もコピーする場合にでるらしいです。

多分、メモリをたくさん使っちゃってるせいでしょうね。
まず、メモリ使用を減らすようにしましょうか。

・testwriteの最後にオブジェクト変数のメモリ解放を行う。
 具体的には以下のように書く。もうやってたらすみません。
Set cbook = Nothing
Set mastersheet = Nothing
・testwriteの中でのブックオープンおよび保存をやめ...続きを読む

Q利己主義と利他主義

利己主義と利他主義の定義はそれぞれ何でしょうか?また、利己主義の反意語を利他主義だと安易に考えて良いのでしょうか?

Aベストアンサー

最近は、「利己主義」と「自己中心主義(自己チュー)」を混同
しがちです。

「利己(自己の利を優先する)」と「利他(周りの利を優先する)」
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するものである必要があります。
現在のように、分業による組織化が発達すると、かつてアメーバ
のように単細胞で生きていた生物が、我々のように個体として
活動するように、組織の単位にとっての利己と利他は、全体の
最善の活動へと統合されます。
たとえば、細胞レベルの「利己主義」であるガン細胞が、自らの
死滅に結果するのと同様に、短絡的利己は真の利己ではなく
なるのです。

つまり、「利己主義」が成立する(反意語である)ためには;
1.組織性が未発達である。
か、
2.組織性が発達していても、その自覚が未熟であり、その
不完全な個体の拘束(規則)や淘汰(貨幣制による競争)に
よって、組織性が保たれている。
かの、いずれかの場合によります。

Qエクセルの単数ワークシートについて

下記の問題で躓いています、ご教授お願いします。


エクセルの単数ワークシートの説明で、次のうち誤っているのはどれか

1.ワークシートのコピーができる。
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3.ですね。
ワークシートは、1つを残せば、
幾つでも削除出来ます。

Qルソーの市民的自由と道徳的自由について。

倫理学の勉強をしていて疑問に思ったので質問します。
ルソーの社会契約論で、市民的自由と道徳的自由はほぼ同じものでしょうか?
また市民的自由の中に道徳的自由が含まれているのでしょうか?

Aベストアンサー

ルソーは個別意志と一般意志を区別しました。
個別意志は個人的なもの、私的なもの、それに対して一般意志は集団的なもの、公的なもの。

ルソーはスイスという直接民主制の国に生まれたので、村々で村人が全員集まり、みんなで物事を協議し、討論して、その意見を集約して、物事を決定するのを幼い時から見て知っていました。

スイスでは、この間テレビで見ましたが、村人が全員集まって村の方針を討議し、それで決定しています。
村議会で、村会議員が村人から選出されて間接的に物事を決定している日本などとは大違いでした。
今でも、直接民主制が生きているんですね。

だからルソーのいう道徳的自由というのは個別意志、それに対して市民的自由というのは一般意志のこと。
個人の道徳的自由を集約して一つにまとめること、あたかも一般人という人格がいて、その人格が物事を決定しているものと「擬制」されたものが市民的自由。

当然、その市民的自由の中に、道徳的自由も含まれるけど、道徳的自由がそのまま市民的自由に直結するわけではない。
時には道徳的自由が市民的自由と敵対することもある。
ルソーは狭いスイスの直接民主制を念頭に「社会契約論」を書いたから、その国家の中には家族と国家しかなかったから、家族と国家は同心円を描いて、つながっていたけど、現代の国家は家族と国家の間に「市民社会」というものが存在する。
ヘーゲルは「法の哲学」で、近代社会というものを「家族・市民社会・国家」の三層からなる社会と言い、ルソー・ホッブス・ロックの近代自然法国家論、社会契約説を批判した。
社会契約論者は自然状態があり、そこには自然人がおり、自然権がある、という。
そしてその自然状態では互いに闘争の関係になるから、それを避けたかったら、自然権を一時的に棚上げして国王などの統治者に統治権を委任し、統治してもらうほかはないと言った。
この社会契約説は当時の絶対主義の「王権神授説」、すなわち国王は神から統治権を委任された代理人で、人民を統治する権利を委任されたのだから、統治する正当性がある、と言った、その「王権神授説」を打倒するために持ち出されたイデオロギーであって、実際に社会成立以前に自然状態があり、自然人がいたという歴史的証拠なんてなかった。
現代でも、歴史をさかのぼって、見出されるは氏族制の社会であって、マルクスのいうような原始共同体なんて存在しない。
マルクスの原始共同体が、ユートピアであったのと同じように、ルソーなどの社会契約論者のいう自然状態だとか、自然人というのも単なるフィクション。
事実、後年、ルソーは自分の言った、自然状態とか自然人がフィクションであることを認めていた。
ヘーゲルは社会成立以前に自然人がいる、個人が存在するというのを否定して、人間は社会の中で個人を形成するので、社会・国家がなければ個人もまた存在しないのだと言った。
だいいち、私たちは社会の成員になるのに、いちいち社会と契約なんてしていない。
せいぜい、会社員になるときに会社と締結する雇用契約がある程度。
私たちを社会の一員に加えてください、契約します、と言って契約しているか?
だから社会契約論者のいう契約というのは「擬制」、フィクション。

ルソーは家族と国家の間に、市民社会が存在するのを無視した。
というよりも、スイスという狭い国家を念頭に国家というものを考えたので、社会と国家の区別がつかなかった。
ところが現代の国家はスイスと比べてはるかに規模が大きく、市民社会という経済社会のウエイトが大きい。
市民はいちいち全員が集まって、物事を決定していられない。
働くことが忙しいから、政治は政治家を選出して代議員に代わってやってもらうしかない。
そして代議員は市民の意見を代表しているかと言ったら、必ずしもそうではなく、逆に国家の代理人であることもある。
だから、市民の意向に反することを決定して市民に押し付け、強制することもある。
だから近代国家では、家族と国家が相反する、個人の道徳的自由と国家の市民的自由が対立することがある。
国家には国家の行動原理があり、国家は他の国家と対立しているのだから、市民的自由を犠牲にしなければならないこともある。

今の政治家はポピュリズムと言って、市民の意見に迎合して政治を私的なものに間違えているけど、政治は公的なもの、私的なものじゃないのだから、市民的自由を守るためには市民の、個人の道徳的自由を犠牲にすることもいとわない覚悟が必要。

ルソーは個別意志と一般意志を区別しました。
個別意志は個人的なもの、私的なもの、それに対して一般意志は集団的なもの、公的なもの。

ルソーはスイスという直接民主制の国に生まれたので、村々で村人が全員集まり、みんなで物事を協議し、討論して、その意見を集約して、物事を決定するのを幼い時から見て知っていました。

スイスでは、この間テレビで見ましたが、村人が全員集まって村の方針を討議し、それで決定しています。
村議会で、村会議員が村人から選出されて間接的に物事を決定している日本などと...続きを読む

Q複数のワークシートEXCELで一つのワークシ-トだけ保存

EXCEL2000をつかっています。
10個ほど、ワークシートが作成してあるbookなのですが、あくまで雛型としてのワークシートなので、その都度どのワークシートを使うかは決まっていなく、保存する時(保存する時は違うファイル名)はその使った一つのワークシートだけ保存したいのです。
(通常どおりにbookまるごと保存すると容量が重くなるで困る)
そういうことって出来るのでしょうか?
たとえば「精算書」というファイル名(10個のワークシート)で、
ワークシート名1: 横浜
ワークシート名2: 川崎
ワークシート名3: 東京・・・・
という風に構成されているとき、
2枚目のワークシート(川崎)だけ、別のファイルとして保存するという意味です。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

 ワークシート名2: 川崎のシートの上で右クリックして,「移動またはコピー」
で「移動先ブック名」を新しいブックにして移動して保存するのはどうでしょうか。

Q客観的に見て悪い行為と被害者にとって悪い行為

相手に「バカ」と言うのと、相手の顔を殴るのとでは
客観的に見て後者の行為の方が悪いですが、
もし、顔を殴られのは平気だが「バカ」と言われるのはものすごく苦痛
という人がいた場合、哲学的にはどちらの行為が悪になりますか?

Aベストアンサー

 こんにちは。

 哲学的には 当事者たちが置かれている文脈(情況)と 当事者たちそれぞれの人となり さらにあるいは互いの関係――信頼関係とかです――によって 答えは違って来ます。

 文脈を無視して考えることは 哲学的ではありません。

 文脈におけるひとつあるいはいくつかの条件がよければ よい結果が得られることでしょう。

 ★ 客観的に見る
 ☆ ことすら 当事者それぞれの主観の中に まづ おさまると見るのが 哲学的です。
 そうしてその双方のあいだのマ(間合い)についても考え合わせます。
 というより 当事者どうしがすでにそういうことは互いに努力して折り合いをつける方向にすすめ合うことでしょう。

 これが 人間であり この人間であることに基づこうとするのが 哲学です。善悪の物指しを当てはめることが 哲学なのではありません。どうでしょう?

Q「ワークシート関数」

良くわからないのですが
エクセルのワークシートで使う関数を「ワークシート関数」と言い、
VBAで使うワークシート関数を「WorksheetFunction関数」と言うのですか?

Aベストアンサー

「WorksheetFunction関数」などという言い回しは聞いたことありませんが、VBAのヘルプでWorksheetFunctionのところを読んでみると

---------------------
WorksheetFunction オブジェクト

Visual Basic から呼び出すことができる Excel ワークシート関数のコンテナーとして使用されます。
---------------------

と解説があります。
worksheetfunctionを経由しているだけで、ワークシート関数はワークシート関数だと書いてあります。

Q《自己の精神的充足》は 《利己》ではないですか?

 ( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?

  (あー1) 長い目で見てにしろ・わざとではないにしろ 自己の精神的充足が自己の利益をおもんぱかることとは無縁だという場合 その事例や根拠はありますか?

 (い)  《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないですか?

  (いー1) それとも 自己が欲しいものを手に入れて満足するというコトは いけないことなのですか? 

  (いー2) 《利己》がなくて 人間の社会的行為は成り立ちますか?

 (う)  《助け合い》は  《利己》ではないですか? 相互利己ではないですか?

  (うー1) もし利己だけではなく 《利他》もあると言おうと思うなら それは わづかにその手助けの行為について相手に おこなってもよいかと問うて その同意や了解を得ているときに 自己の満足(自己のよろこび)とともに味わう共同作業のよろこびのことではないですか?

  (う-2) すなわち 困ったときはお互いさまということであって それが 基本であると考えられます。つまりそのとき――利己だけではないとしても――ことさら 《利他》を《主張》しうる事態でもないでしょう。

  (うー3) 仮りに利己心のほかに人には 利他心があるとします。そうしますと それにしても 利己心としての満足(よろこび)と利他心が満たされたという満足(よろこび)とで どういう違いがありますか?
  
  (うー4) どちらも《主観》というつねに自己閉鎖的になりがちな意志と心との思いであって どこかに《利他の神による報いに浴することが出来た》とでも言うような・特別の――利己心とは別の――栄光がありますか?

  (うー5) もし仮りにその利他心の充足には 特別なかたちで満ちたりて行く心の思いとその栄光があるとしたら それは 《自己満足を得て 利己心が満たされたこと》とどう違いますか?

  (うー6) つまり ワタシの利己心からおこなう社会的行為――経済活動など――によって社会がわづかにでも利益を得るように成ること これはあると考えられますが そのときの《心のよろこび》とどう違いますか?

 ( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?

  (あー1) 長い目で見てにしろ・わざとではないにしろ 自己の精神的充足が自己の利益をおもんぱかることとは無縁だという場合 その事例や根拠はありますか?

 (い)  《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないですか?

  (いー1) それとも 自己が欲しいものを手に入れて満足するというコトは いけないことなのですか? 

  (いー2) 《利己》がなくて 人間の社会的行為は成...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちはです。



☆( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?
◇《自己の精神的充足》は、己れを利するのですから、《利己》です。
《利己》的な心が動機となり、その結果として《自己の精神充足》が発生するとは限りませんが。
また、
《自己の精神的充足》を得られない場合でも、《利己》はありえるのでしょう。
したがって、
 《自己の精神的充足》→《利己》
は成立しますけれども、
 《利己》→《自己の精神的充足》
は成立しないものと考えられます。



☆(い)《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないですか?
◇《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己なのでしょう。
他人を自己と同一視、もしくは他者を自己に、自己を他者に投影しているのでしょう。
《共感》といっていいのかもしれません。



☆(いー1) それとも 自己が欲しいものを手に入れて満足するというコトは いけないことなのですか?
◇これは認められません。これを認めると、《盗み》を認めることになるので。
もっとも、《盗み》は許される、ということをすべてのヒトが同意するのであれば、まぁ、これもありなのでしょうけれど。



☆(いー2) 《利己》がなくて 人間の社会的行為は成り立ちますか?
◇可能性としてはありえる、と思います。
しかし、実際は、これは成立しないでしょう。
何かがこちらに向かって飛んでくるときに目をつぶるなどの反射的行動すら、自己を守るためにあります。
無反省な習慣的行為も、利己的なものなのでしょう。
 快感原則、現実原則のどちらかを満足させている。
そして、有意志的な行為・行動のほとんどは、何らかの形で《利己》に基づいています。自己に何ら利益をもたらさない場合、ヒトは行動を起こさないと思いますよ。



☆(う)《助け合い》は《利己》ではないですか? 相互利己ではないですか?
◇《助け合い》は《利己》であり、《相互利己》なのでしょう。
メスのライオンが群れで狩りを行うのは、その群れのためではなく、あくまで自分自身のためです。群れで狩りをした方が、狩りの成功率が上がり、結果、受け取る分け前が多くなるからです。そして、これは群れのメンバーすべてに当てはまり、結果、他者の利益になる。
と思ったのですが、
これは
 《利己》→《助け合い》
の構図の一例を示しただけか。。。
いやいや、そうではないな。
《助け合い》は、《利己》を目的としているのだから、
《助け合い》は《利己》であり、《相互利己》であると言っていいはずだ!!
きっと、そうだ!!



☆(うー1) もし利己だけではなく 《利他》もあると言おうと思うなら それは わづかにその手助けの行為について相手に おこなってもよいかと問うて その同意や了解を得ているときに 自己の満足(自己のよろこび)とともに味わう共同作業のよろこびのことではないですか?
◇必ずしも、同意や了解を前提にしていない。
烏合の衆のごとき、漠然とした期待、何かもらえるかもしれない、という期待感でも十分でしょう。
烏合の衆のことですから、その後、分け前を巡って騒動を引き起こすかもしれませんが。
その騒動を未然に防止するために、同意や了解があった方がいいのでしょうね。



☆(う-2) すなわち 困ったときはお互いさまということであって それが 基本であると考えられます。つまりそのとき――利己だけではないとしても――ことさら 《利他》を《主張》しうる事態でもないでしょう。
◇「情けは人の為ならず」で十分でしょう。
「困ったときはお互いさま」には、「わたしが困った時には、あなたはわたしを助けなければならない」という暗黙のオキテがすでに含まれているので。
《利他即自利》、《利他自利不一不二》ですよ、大乗ブディズムは!!
《利他》のみを強調するのは、大乗ブディズムではない!!



☆(うー3) 仮りに利己心のほかに人には 利他心があるとします。そうしますと それにしても 利己心としての満足(よろこび)と利他心が満たされたという満足(よろこび)とで どういう違いがありますか?
◇現象としての現われとしては、違った様相をみせることはあるでしょうけれども、源は《利己心》なのでしょう。違いは、それが《利己》に基づいていることを自覚するか否か、なのではないでしょうか。



☆(うー4) どちらも《主観》というつねに自己閉鎖的になりがちな意志と心との思いであって どこかに《利他の神による報いに浴することが出来た》とでも言うような・特別の――利己心とは別の――栄光がありますか?
◇たぶん、この現象的で有意識的な世界においては、そのようなものはないのでしょう。



☆(うー5) もし仮りにその利他心の充足には 特別なかたちで満ちたりて行く心の思いとその栄光があるとしたら それは 《自己満足を得て 利己心が満たされたこと》とどう違いますか?
◇これは神さま次元の話ですよね~。
この次元においては、自己満足や利己心などは消滅しているのではないでしょうか。おそらく、この次元では、慈悲や愛といった人間的な感情すら存在していないのではなかろうかと。。。
ただ無差別に一方的に与えるだけなのかな。。。



☆(うー6)つまり ワタシの利己心からおこなう社会的行為――経済活動など――によって社会がわづかにでも利益を得るように成ること これはあると考えられますが そのときの《心のよろこび》とどう違いますか?
◇《心のよろこび》なので主観でしょっ。
そもそも《よろこび》に質の違いがあるのだろうか???
快感みたいなものですから、あるとすれば、量の違い、強さの違いではなかろうかと。
自己と他者を同一視することができれば、それだけ、《よろこび》が増える。
他者の《よろこび》を自分の《よろこび》と感じられるので。
結構なことではないですか

そして、それでヨロシイのではと。

「そもそも、自利と利他を分けてはいけない、分けて考えるべきではない」と思いますが、
わたし。


PS
《バカの飲み薬》の《三倍返しの副作用》で頭がイ・タ・イ!!
そして、今夜も《バカの飲む薬》を飲まなければいけない。
飲んだ勢いで、お店のお姉ちゃんと約束してしまったもんな。
約束は守らなければならない。
この身を犠牲にしても、この契約を実行しなければならない。
これは、《自己犠牲》による、《献身》なのであろ~か(笑)。
きっと。そうだ。
ここにもっとも純粋な愛の形があるに違いない!!
(笑い)。

こんにちはです。



☆( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?
◇《自己の精神的充足》は、己れを利するのですから、《利己》です。
《利己》的な心が動機となり、その結果として《自己の精神充足》が発生するとは限りませんが。
また、
《自己の精神的充足》を得られない場合でも、《利己》はありえるのでしょう。
したがって、
 《自己の精神的充足》→《利己》
は成立しますけれども、
 《利己》→《自己の精神的充足》
は成立しないものと考えられます。



☆(い)《他人の喜...続きを読む

Qワークシートの追加をエクセルの複数のファイルで したい。

エクセルファイルにワークシート(記入済)が3枚入っています。これにワークシート(記入なし)を3枚追加したい。多数のファイルを開かずにワークシートを追加する方法をご教授ください。

Aベストアンサー

#3です
私には難しいですが、作業性を少なくしてできる知っている方法だけ記述します。

300あるファイルをできるだけ開きます(例50個ぐらい選んで右クリックで開く)
Book1で#3に記述した内容を実行し(またはショートカットキーでShift+f11)
Boot1にできた新しいSheet3個をアクティブにして右クリック→移動またはコピーを選択、移動先ブック名を選択(例Book2)、コピーを作成をチェックして→OK。
これを50回繰り返す
こんな内容しか私にはわかりませんが、少しは作業性が向上すると思います。

Q人間誰しも“自分さえよければいい”といったずるい利己的な感情を持っているものなのでしょうか?

私は人格障害なので普通の人間の気持ちがよく分からないのですが、
誰しもこういった利己的でずるい感情は持っているものなのでしょうか?

最近食品偽造などが問題になっていますが、カルト宗教にしろ
騙す人間というのは皆、心の病気なのでしょうか?

もし持っているのだとしたら、食品偽造などの問題は一生無くならないと思うのですが。

Aベストアンサー

「心の病気」じゃない人はいないと思いますけどね。
ただ、気づいているかいないかだけの違いでしょう。
人間が本能のみに生きるものではなく、アイデンティティを基礎にした超自我性を希求する属性を持っている以上、心の全く病まない人というのは想定するほうが難しいぐらいなものと考えます。
外界からの刺激に端を発して、本能・自我・超自我の葛藤の中に常にさらされているわけで、この摩擦熱こそが病の本態と言えます。
つまり、病むこと自体は人間にとってむしろ正常なことであり、それを糊塗して足れりとするような安易な人間こそが本物の心の病気ということが言えるでしょう。

「>“自分さえよければいい”といったずるい利己的な感情」とは、まさに自我そのものであって、本能と同様これがなければ人は生きていけません。
精神の発生過程として必ず通過せざるを得ない道であり、またその後もその人を支える土台となる要素でしょう。
ただ、実際的には「自分【さえ】」という自我的要素だけでは満足しないように人間はなっています。
勘違いしている人は多いわけですが、彼らは自分がなぜ不満足なのかその理由を知らないだけです。
超自我的要素において崇高性や善といった精神の高みを目指そうとする属性が、人を人たらしめているということです。
とはいえ、超自我性ばかりが高くてもバランスが取れずに心は不安定になります。
自分にとってなるべく気持ちの良いことを(本能的)、自分がなるべく損をしないように(自我的)、そして、他者にも同様の権利があることを忘れないように(超自我的)しながら求めていくのが健康的な精神性と言えるでしょう。

前二者は通常の場合、生きるには必須のものとして獲得されている(あるいは獲得していく)ものですが、三つ目の超自我性は、ある程度の負荷を自らに掛け(あるいは掛けられ)ることによって、自らの意志として獲得していくものだけに、不足しがちになってしまうのは力学的に言っても止むを得ないことかもしれません。
その意味で自我的人間が多数を占めてきたわけで、その自我的社会において超自我性をどこまで発揮できるのかが(今後も引き続き)問われていくことになるのでしょう。

超自我性のみでは人は生きていけない、というところが最大の悩ましい点と言えます。
「自我的生活だけで自分たちは真に満足することはできないのだ」という事実に気付き、そのことを自らの問題として実践する人々が増えていくことによって、いずれ社会そのものの存在意味が変質していくでしょう。
その時代においては、食品偽造は、現在の企業における利益損失と同等に認識されるはずで、個人的一生のうちには無くならないとは思いますが、人類滅亡の前までには無くなるのではないか、と推測します。
 

「心の病気」じゃない人はいないと思いますけどね。
ただ、気づいているかいないかだけの違いでしょう。
人間が本能のみに生きるものではなく、アイデンティティを基礎にした超自我性を希求する属性を持っている以上、心の全く病まない人というのは想定するほうが難しいぐらいなものと考えます。
外界からの刺激に端を発して、本能・自我・超自我の葛藤の中に常にさらされているわけで、この摩擦熱こそが病の本態と言えます。
つまり、病むこと自体は人間にとってむしろ正常なことであり、それを糊塗して足れ...続きを読む


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