準・究極の選択

どこからが「生きていて」どこからが「死んでいる」とされているのでしょうか?境目を説明して欲しいです。

A 回答 (9件)

大学や医療機関の研究室には30年以上前に死亡した女性のがん細胞が実験用の標本として今でも培養され生きています。


だからと言ってその女性がいまだに生きていると言えるでしょうか。
風邪のウイルスもそうで動物に感染するまでは生きているか死んでいるか定義の難しい状態で空気中を漂ったいます。

この手の話をする場合、自己の存在とは何なのかに話題を変えてみるとより理解し易いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうですか~、30年以上前に死亡した女性のがん細胞が実験用の標本として培養され生きていますか~。皆の考えを聞いてみると定義は難しそうですね^^

お礼日時:2006/04/20 00:03

「死ぬことができる」ならば生きていて、「死ぬことができない」ならば死んでいる、というのは駄目ですか。

こんなことを書くと「じゃあ死ぬって何だ」と言われそうですね。
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それは,システムが機能しなくなったときだと思います。



生体の一部が機能しなくなっても,全体ではまだ機能していることもある。
逆に,一部の機能が止まっただけで,全体が機能しなくなることもある。

どんな大きな生物でも,一つ一つの細胞はとても小さい。
しかし,その小さな細胞が結合することで,あらゆる生命体が成り立っている。

複雑な生体システムが機能している間は生きているのだと思います。
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“境目”は、幅があるとしか言えないでしょう。

人間について厳密になっている“境目”があるとしたら、医学的な基準であれ、法学的な基準であれ、それは便宜的に定めた決め事です。便宜的だから、堕胎や脳死などについて、様々な意見が存在し、生きているとみなしたり、死んでいるとみなしたりします。

「どこから~とされているのでしょうか?」という問いに対して答えるなら、それぞれの“境目”は、明確に定められてあるものもありますし、いまだ不明確なものもあります。時代や国によっても違いますが、調べれば分かります。この問い自体は哲学カテゴリとは言えないでしょう。

例えば、脳が不可逆的に機能を停止していても(脳死)、ある器官が生きている間は、移植ができます。医学的には元気でぴんぴんしていても文学的に死んでいたり(「彼女は彼の心の中ではもう死んだも同然だ」)、その逆であったりします。

“境目”を決めるためのアプローチ法を考えてみましょう。「生きている」状態を何らかの方法で定義して、その状態から外れてしまった場合に「死んだ」といい、新しい命がその「生きている」状態になった場合に「生まれた」というとします。

定義のしかたによっては「生き返った」もあるかもしれません。この流動性を排除したいならば、その状態にはもう戻らない場合だと定義するしかありません。しばらく観察して、戻ったなら「死んでいなかった」、戻らなかったならやはり「死んでいた」ということになります。過去形ばかりですね。“境目”は、そのときには分からなくて、後になってから“あのころに”「死んだ」ことにしようと決めるのです。やはり、その観察をしている期間として、“生きているのか死んでいるのか分からない期間”がどうしても存在します。

ところで、この内容で「困り度2:困っています」とされているのはなぜでしょう。レポートか何かで困っているのかと邪推してしまいますが……(^^;
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概念が間違っているので混乱します。


死に対応する言葉は、誕生です。
誕生から死までの間が、生です。
死から誕生までの間があるとすれば、あの世です。
なので、生と対応させて考えるべきものはあの世。
死と対応させて考えるべきものは、誕生です。
生と死を対応させようと誤るので混乱が生じてしまいます。
野球で言うと、表の攻撃が生、裏の守備があの世、3つ目のアウトを取られた時が死、3つ目のアウトを取った時が生。
攻撃の仕方と、それがアウトになることもしくは、ならないようにすることだけを考えては、野球チームに必要な、上手いピッチャーに考えが及びません。ピッチャーは常に攻略すべき対象でしかないからです。そんなんでは、野球理論は永遠に不完全です。
最初の一歩を踏み間違えないようにね。
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対象が何か分かりませんが・・・



答えは簡単。
対象が他に何かをもたらすならば、それは生きている。
しかし何ももたらさなければそれは死んでいる。
そしてそのもたらすものが嘘や幻ではないもの。というのが条件かと思われますが。

全ての物質が他との関連の中でしか、それを特定できない以上、
それが生きている(または存在している)定義は、他との繋がりがあるということ以外にありえない。
繋がりとは相互、または一方向に何かを伝えること。
それを保持している限り、生きていることになる。
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それはやはりそれぞれなんではないでしょうか。



例えば「人」だったりしても
私の中ではその人は「死」だったり、
でも同じような状況でもある人は「生」だと思ったり、
身近な人の「死」を知らされても、
目で確認するまでは「生」なのだと思いたかったり、
一方では全く知らない人のニュースには
何人が「死」か……と軽くそのまま受け止められたり……。

それはモノだったりしてもきっと一緒で
たぶん 誰がどう「正解はこれ」と説明したところで、
hata333さんの納得いく、感性がぴったりな答えって
出ないんじゃないでしょうか。

hata333さんの答えはhata333さんの中にしかないのではないかと思います。
いろんな回答が良いきっかけになるといいですね。
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他を引き寄せる力があるものは生きていると私は思います。


動植物は勿論、無機物や人工物などもそうだと思ってます。
やはり生きている人間の解釈だから、こう思うのかなって思います。
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哲学的な話をするのであれば、


まず「生きている」とはどういうことなのかを決めた方がよいと思います。
「自分を自分だと認識できない状態は、もはや生きているとはいえない」
という考え方もあるでしょうし。

もっと医学的なことで言うと、
「脳、心臓、肺すべての機能が停止した場合」
ということになります。
最近問題になっているのが「脳死は人の死か」ということですね。
このあたりはwikipediaに情報がまとまっています。
(URLを参照ください)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/脳死
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