芸術とは何か、はっきりした定義を聞いたことがありません。私なりに答は持っていますが、皆さんのお考えをお聞かせください。

ちなみに「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」というのがstomachmanの答です。言い換えれば、芸術の本質はその意図にある。ここで「感動」とは、正確には「感情・気分の変化」というごく広い意味です。
でも、「うちの親父をからかって、怒らせてやろう」というのも芸術に入っちゃう。これで良いのかどうか、というところが難点でして...
従って、カテゴリーはあえて哲学を選びました。

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A 回答 (26件中11~20件)

再度です。


芸術は生きがいになります。ということは、生きるという本質にかかわることではないでしょうか。成長の喜びを確認し、共有することではないかと思います。

たとえば、写真の場合その場に居あわせることが制作にとって必要なことであって、レンズの向きにさほどこだわらなくてもその場の空気や音が伝わってきますよね。その場に至る努力とその喜びが芸術であり生きがいではありませんでしょうか。そのことによって成長することが。写真には作者の人格・環境が見えるように思います。成長しつづけている人の作品がやはり感動をよぶと思います。

>「うちの親父をからかって、怒らせてやろう」というのも芸術に入っちゃう。<
も、そのレベルでの芸術といえるかもしれません。その行為で自分が成長するなら。親父がそれで感動するなら。勘当されるといけませんが。親子の愛情表現として許される範囲で。

ただ、人目を気にしない芸術もありえます。日記とか・・

また、大衆受けして有名になるより、分る人には分るという高度な感性に支えられているものが案外名作であることが多いというのも芸術の特徴ですね。レベルは好みといえるでしょう。レベルアップは良いものに接することで可能ではないでしょうか。そうした行為をとおして自分や人が育つことが生きがいであり、芸術である、というのはいかがですか。

この回答への補足

有り難うございます。いろんなレベルがあるってことですね。なるほど。

 反論めいた事言っちゃいまして申し訳ないですが...
ヒトは何にでも生き甲斐を見いだし、またそれなしではやっていけないようです。
 逆に...第二次大戦中の捕虜体験者の話ですが、硬い凍土に深さ2メートル、きっちり立方体の形をした穴を掘れ!と命じられるんですって。そんな逆境にあってすら、何かの役に立つと信じれば、作業を楽しむことすら出来る。
 やっと掘れた。そしたら、たばこの吸い殻をぽんと投げ込んで、「埋めろ」。埋めたら、「次を掘れ。」これをやられたら誰でも参るそうです。
 芸術=生き甲斐説は、「なんでも芸術」説の一歩手前のようで、それは広げすぎじゃないだろうか、そこまで相対化していいんだろうか、と思っちゃうんですよ。

補足日時:2001/01/27 16:37
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stomachmanさん、拙文お読み頂きありがとうございます。


(お時間あれば、その他の芸術関連の文章も僕のサイトの「dabun extra」というコーナーにありますので、参考になりましたら。と思います)

で、読んで頂いた拙文を理解して頂いたとの仮定の上で、お話します。

最初に「はっきりした定義を聞いたことがありません。」と言われていますよね?
で、定義は「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」と。
すると、この「ヒト」って奴がいけませんねってことになりませんか?
定義がはっきりしないと自分で言われているものの定義の中に「ヒト」にゆだねる部分をつくっちゃぁ、定義として成立しません。
なぜかというと、「じゃぁ、ヒトの感動って何?」っていう新たな質問をうむからです。

つまり、このstomachmanさんの言う定義「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」っていうものは、別の定義を必要とする定義であるわけで、定義として成立しないというわけです。
で、また、「じゃぁ、ヒトの感動って何?」と問われると、はっきりした定義を作ることは、ほぼ不可能ですよね(笑)

で、完全に定義をなさないということになります。
あの拙文の意図はこういうことにあったわけです。


ま、それはさておき。
世の中には「偉大な芸術作品」と呼ばれるものが数多く存在します。
では、それに十把ひとからげに輪をかけて見るという愚考を弄してみれば、
「多数の人に目の前にあるなにかから、なにかそれ以上のものを感じさせることのできたもの」
これがギリギリ狭められるデットラインじゃないかと。
これ以上の単語を追加していくと、何かが漏れたり、こぼれたりするんじゃないでしょうかね。定義としてはめちゃくちゃあやふやですけどね。そして、余計なものも含まれてしまってはいますけどね。でも、これが精一杯じゃないすか?


それと、写真を表現手段としているものとして、reisさんにひとこと。
>カメラを持つ者の感動が風景の美と 同調し芸術になるのでは

それは、ちょっと狭義な見方じゃないですかね?
僕の尊敬する写真家に森山大道氏という方がいますが、
(興味のない方にはマイナーな話題ですいませんが、単なるマイナーな写真家ではないことをお断りしておきます。なにせ、氏の個展はアメリカ~ヨーロッパを巡回で行われたりする世界的な写真家です。)
彼の写真は彼自身も言っていましたが、必ずしも意図して撮られたものではありません。ファインダーを覗かずに撮ることもあるぐらいですから。
ですが、彼の写真からは異常なまでの情熱や想いがむんむんとたちこめています。

このような撮影方法は異例中の異例と写るかもしれませんが、案外写真をやっている人間の中では珍しくもない方法なのです。
彼以外にも同様の方法で、世界的評価を得ている写真家はいくらでもいますし。かの有名な荒木経惟もたまにやってますしね。

写真をやってる人間としてはこの文を尊敬する森山大道氏の引用で終わらせてみたいと思います。

『今思えば、頭から灰をかぶって寝てしまいたいというか、穴があったら木にのぼりたいというか、恥ずかしい。そんな目の前に真理のぶら下がっているようなことを考えているヒマに、もっと撮ってりゃよかったのだ。だいいち、真理とか真実とかあるわけもなく、あるのはド現実だけで、もうこれだけで手いっぱいだ。つまり写真とは?とか、これからの写真は?などと、ゴマメの歯ぎしりをしているから、写真が遠くなってしまうし、写真がダメになっていく。』


僕個人としては大定義の『芸術』じゃなくって構わない、みなさんの思う『芸術』でいいから、僕の写真が『芸術』なのかどうかを知りたいですね。

参考URL:http://www11.big.or.jp/~octacore

この回答への補足

有り難うございます。芸術を実践している方のお考えを直にきけるのは大変嬉しく思います。

感動ってなに? については、生理学的反応を伴ってますから、その質や主観的内容はともあれ、存在ぐらいは客観的に測れるのでは?
ですから、「何らかの感情の変化を引き起こす」ことに成功したかどうか、たとえば、展覧会の入場者に心拍モニターをくっつけたら面白いと思っています。

補足日時:2001/01/27 16:30
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考えれば考える程に、逃げたり、消えたり、分からなくなったり、つかめなくなったり、しまいには考えている人が行方不明になったりしてしまう、やっかいで正体不明な恐ろしいもの。



書き出すときりがないので、僕が以前に書いた「芸術家論」をお読みいただければと思います。

「芸術家論」なので、ちょっと違うかもしれませんが。

参考URL:http://www11.big.or.jp/~octacore/inframefolder/d …
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この回答へのお礼

面白い!stomachmanの質問は、パターン4:「人の心を動かすのがアートだ。」と言い放つ。 がニアミスかと思います。
有り難うございます。

お礼日時:2001/01/17 22:02

stomachman さんには、「マイナス×マイナス」でお世話になりました。

まだ、よく納得していないので、それは後日お返事するとして…。
「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」というのには、ちょっと、賛同できないなあ、と思います。
というのも、例えば(古いですが)「いっぱいのかけそば」というお話など、作者の栗某などは、まさに「ヒトに感動を生じさせ~」であって、それが国会でまで読み上げられたりして、大成功をおさめたわけですね。(彼の意図としては)
でも、あれが芸術だとは、sutomachmanさんも認めないでしょう。認めるかしら。
だから、わたしは、芸術は鑑賞する立場のヒトが決めるものではなく、作者の内面のものなのではないか、と思うんですね。
たとえば、写楽の浮世絵が、アメリカで評価されたとたんに芸術に昇華してしまうわけではないでしょう。
わたしとしては、「芸術は、ヒトのやむにやまれぬ排せつ行為から、そのヒトがつくりだした作品」だと思うのです。
ですから、子どもが偶然つくり上げてしまった積み木は、(私としては)芸術作品ではない、という判断です。青空もダメ。
ヒトに評価されようがされまいが、ヒトに伝えられようが伝えられまいが、芸術は芸術として「ある」んじゃないでしょうか。

この回答への補足

狭い個室で生み出したかぐわしき我が作品を眺めながら考え込んでしまいました。芸術は生理的産物なんですね。
ありがとうございます。
質問当初のstomachmanの考えでは「パイカケ」は「成功した安芸術」に分類されるんですが、reisの姉御に叱られてすでにコロビしました。やっぱりパイカケは大衆美学的家内工業生産品です。
大体の均衡点は見えてきてるんですが、回答してくださる方がいらっしゃるなら、もうちょっと開けといて、色々なお話を伺いたいな、とおもいます。

補足日時:2001/01/11 10:50
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面白いご質問で、なるほどこういうふうに考えをまとめていくのですね。



私の場合、『フランクリン自伝』の教科の目的を書いた中の
『芸術:本質を見る。感動を伝え合う。』 という言葉が記憶に強く、残念ながら自分で考えたことがありません。

例えば、青空に感動した時、
どう青いのか、それがなぜ感動的なのか・・・今人と分れたところだから?そばに白い花があるから?体力が余っているから?・・・
その本質を捕まえることが芸術でしょうか。

和歌にするか、絵画にするか、音楽や舞踊にするか・・その感動を伝えること、と、鑑賞者がその作品を通して感動に共鳴することも芸術ですね。

芸術って生きがいになります。
ちなみに今凝っているのは書です。
この線を細くすればこの空間が鮮やかな意味を持つようになる。・・・なんて・・
どうでもよいことを発見しては作品になったり、ごみになったり、評論家になったりしています。
無心に全身で書けた時には快感が作品に残ります。

やはり、発見して書きとどめることが私にとって芸術ですね。
先生や仲間に誉めてもらうとうれしいですしね。

この回答への補足

感動の本質を捕まえて、それを別の形式に移し替えて表現する、という方法論。書における美学的発見。書きとどめること。無心に全身で書けたときの快感、そしてそれが残ること。
cotikuさんのお説を拝見すると、またまた「伝えること」と「芸術」との関係が分かんなくなって来る感じで、わくわくします。ありがとうございます。

補足日時:2001/01/07 10:44
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しつこくてスミマセン。

mori0309です。考え出すとやめられないタチなので。
「スゴイもの」って何だろう、定義できるだろうか、誰もが認める共通性質はあるだろうか
と、考えました。
なるべくたくさんの人に「あなたがスゴイ! これこそ芸術だ!」と思うものは何ですか
という質問を投げかけて、得られた種々雑多な回答を、そのまま「スゴイもの」の定義に
するしかないと思うなぁ。(それは定義とは言えないけど)
人々が何を「スゴイ!」と思うかは、時代とともに変わっていくし。
stomachmanさんはやはり完璧な定義や説明をしないと、気が済まないですか?
私が「美学は不可能」と考えるのは、「スゴイもの」が定義不能・説明不能だと思うからです。
それは理性の敗北のようでイヤですか? 定義不能・説明不能と言っても90%近く
までは理性で肉迫できると思います。でも、あとの10%は分からない、知り尽くせない。
逆に、だからこそ、「魅力が尽きない」「飽きない」と言えるのでは?

この回答への補足

reisさんの回答を参考にして、現段階の考えをまとめますと:
 最初に質問に書いたテーゼは、芸術ではなく「文化活動」にこそ当てはまる。「こんなに面白い知識・美しいものがあるのを、広く知らしめて、その感動を共有したい。」という動機に支えられている。(儲からない映画館があえてマイナーな作品を掛け続ける頑固さも、これでしょう。)
 一方、芸術は未知の「美・感動」を追求するもの。哲学(科学もその一部です)や数学における「真理」の追求と全く同じように、既に知られている種類・程度の「感動」、似たような手段で得られる「感動」の再現は、芸術には当たらない。まだ誰も知らない美を見つけだす(あるいは創り出す)ことがその動機であるような活動です。
 なお美学は、「なぜ、美を感じるのか」という人間の仕組みに関する研究です(今では認知心理学の守備範囲かも知れません)から、美ではなく、真理の追究の方です。

 しかし「スゴイもの」が万人にとってそうである、ということを期待するのは無理であって、やはりセンスなり基礎知識がないと分からない、というのはやむを得ない。そういう意味で、芸術は文化活動による啓蒙と密接に繋がっていると考えています。

補足日時:2000/12/28 20:00
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話題をそらすようで申し訳ありません。

「ゲームソフト」カテゴリのNo.22652『「幻想水滸伝((1))」のことで』を
読んでいてふと思ったのですが、現代のオリジナリティある芸術作品はこんなかたちで世に現れてくるのではない
でしょうか。「幻想水滸伝((1))」がどんなものなのか何も知りませんけど、atsuotaさんやwayukiさんが
「このイベントは必見です」「グレミオが生きかえるシーンは泣ける」と熱く語っておられるこれこそ、芸術作品が
私たちに与えてくれる感動そのものではないでしょうか。「芸術」という言葉の意味は、「術」のほうにはあまり
重心がなくて、ほとんど「美」と同値・同義の言葉であるかのような語感を、小生はもっておりました。でも、やっぱり
stomachmanさんがおっしゃるように「芸術」という言葉は、「スゴイものができたから、みんな見て見て!」という
「スゴイもの」と「見て」の両方をあわせ持つ言葉だなぁと思いはじめました。
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ふたたびmori0309です。



> キモチワルサを狙った作品は成功すればするほど芸術じゃないということ?

プロテスタンティズム(この表現、誤解を招くなー)も芸術として表現されるべき、ひとつの「美」だと
思います。「芸術は気高くて美しいもの」という定義がまかり通るようになると、それは「生きている美」を
剥製化する抑圧的教義になってしまいます。そういうものに抵抗すること、それ自体が「生命感ある美」
ですから。とにかくマンネリズムや機械的教義は、生きているものをみんな殺してしまう。「楽譜どおり」に
「自動演奏」された音楽にはまったく感動できない。

> 実際、音楽理論はかなりしっかりした物がある

理論どおり作られた作品からは、そこそこの感動しか得られないですよね。すばらしい作品・生命感あふれる
作品には、なにかしらの脱線が必ずある。モーツァルトの「脱線部分」を「悪魔的」などと表現する人もいる。
こういうと、もう美学論めいたものになってくるので、イヤなのですが。

私は「芸術」とは「生命感を感じさせるもの」だと思います。

この回答への補足

mori0309さんのお考えは、atsuotaさんのおっしゃるオリジナリティ説に近い、と考えて良いでしょうか。
 従来の形式・価値観に対するアンチテーゼそのものがただちに「美」である、というわけじゃなくて、「もっと他の美(従来の形式・価値観から見れば悪魔的)」を追求するというオリジナリティを仰っているんじゃないかと、解釈しました。

 そうすると、オリジナリティ=創意工夫がポイントみたいです。
 Stomachmanとしては、たまたま作った積み木の作品に作者自身が感動して(ここまでは芸術じゃない)「ママ見て」と感動を伝えに行く行動、これも芸術に入れてあげたいんですが....

補足日時:2000/12/25 01:39
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stomachmanさん、こんにちは。

回答にも何にもなっていませんけど、まったく主観的な意見を述べます。
理由や根拠はありません。私が「思考」なしに感じとっている私だけの真実です。
1.人間の作った芸術作品のうちの最高傑作
 モーツァルトが作ったほとんどすべての音楽:とくにピアノ協奏曲20番~27番、交響曲39・40・41番、
 喜遊曲17番、経文歌アヴェ・ヴェルム・コルプス、弦楽五重奏曲4番、ヴァイオリンソナタ28番などが
 私の好きな傑作です。(他にも数え切れないくらいありますけど)
 和歌も好きです。私にとっては柿本人麻呂のものが最高傑作です。電車のなかで歌を読んでいて、不意に
 感動に襲われ、感涙してしまうこともあります。
 小説・絵画などにも大傑作がたくさんあると思いますが、私の鑑賞能力は音楽や詩にいちばん反応するようです。
2.すぐれた芸術作品に共通する性質
 (1)からだ全体に(この表現大キライですが)鳥肌がたつような感動がわきおこり、魂がゆさぶられる・鼓舞され
    る。(体の全細胞が幸福感や美的感動で満たされ歓声をあげているように思う)
 (2)大いなる存在・大いなる美が私に語りかけてくるような、そんな感じに満たされる。宇宙や自分の存在が無
    意味・無意志なもものではなく有意味・有意志であることを予覚させられる。つまりニヒリズムから救われ
    る。
 (3)その作品が「生きている」と感じられる。その作品にものすごく強い生命感がある。私のまどろみかけてい
    たり、硬直しかけていた魂が甦らさせる。
3.芸術は何を表現しているか。
  それは、美・いのち・こころ・運命・恋・愛・神・宇宙・意志。
4.芸術と芸術家
  芸術は芸術家の「意図ある創造物」ではなく、直感的・本能的に感じ取った「本当の真理」「本当の存在物」を
  表現したもの。
5.芸術美に法則はあるか?美学は可能か?
  法則はない。美学は不可能である。「生きている美」を完全に捕らえ尽くして説明することはできない。捕らえ
  られて説明されてしまったものは「剥製」であって「生きて」いない。「芸術」を対象化して語ることはできな
  い。「芸術」は表現するか「鑑賞」するか、そのどちらかしかできない。

キリがないですね。このへんでいったんやめます。

この回答への補足

帰納法で来ましたね(^o^)
優れた芸術作品・・・どういうのが優れているかと考えると、トートロジー(同義反復)に陥ってしまいそう。多くの人に強く心地よいポジティブな感動を与えてくれる芸術は、その結果、広く受け入れられ、すなわち名作の誉れ高いということになるでしょう。でも、キモチワルサを狙った作品(アマデウスさんと比べちゃ可哀想だけど、「たま」の「らんちゅう」とか)は成功すればするほど芸術じゃないということ?

とにかく「美学は不可能」と言い切ったのは凄い!! この線は考えても見ませんでした。

 音楽は抽象性が高い。つまり、なぜそこに美を感じるのか、分析しやすい対象でもあるし、作る側にとっては分析を必要ともしている。実際、音楽理論はかなりしっかりした物がある。意地悪い言い方をすれば、受け入れられ、ヒットする作品を意図的に作れる芸術家が多いように思われます。しかし、最上級の作品となれば別なんだろうか。

 優れた芸術については、沢山の人が賛美の言葉を述べている。しかし、優れたもの以外は芸術でない、というのなら、あえて「優れた」という修飾語は要らないはず。
優れていないやつも含めて「芸術ってなに?」
もちろん、主観的意見をお願いします。客観的は期待してませんてば。

補足日時:2000/12/24 23:12
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僕の勝手な解釈を書きます。


「言葉を越えた表現」。
つまり人間は少しは高度な言語を持ったが故に
論理を物にして知能を発達させたわけですが、
他との伝達手段としてすでに言葉を持っているわけです。

しかし言葉は、体験もおありでしょうが、
心の1割くらいしか伝えられない物です。
藤本義一が言ってました。「作家でも15パーセントくらいしか表現できない」と。
それで表現手段としてまず絵画と歌と踊りが発生したわけです。

僕の勝手な考えというのは、
「言葉で表現できる物なら言葉で表現すればよい」
つまり芸術にする必要性はない。
普通の話し言葉で表現しきれない部分を「芸術」で、
人は「芸術」で表現するのであると、思います。
だから全く普通の話し言葉で書いた物を「詩」等と称してくれては、しかも行間にこもる何物も無いような代物では、僕はそれは芸術ではないと考えます。

芸術は言葉の上位にある表現。
それ以上上位にあるのはテレパシーでしょうかね?
芸術の喜びは、原始的に言うと「伝わる喜び」と言うことになろうかと。
言うに言えぬ所が伝わる喜び。

と言うことはビジネスの世界でよく言われる、
「例の件、よろしく頼むよ」
営業マンはこれだけでちゃんと察して色々と便宜を図る物です。
これも芸術と言うことになるかというと、
そう言うことになってしまいますが、お許し下さい。

この回答への補足

> 言うに言えぬ所が伝わる喜び。
そうそう、それなんですよ。いや、まさにそれ!!
名前の付いていない、特別な種類の「感動」を伝えたい、という強い欲求があって、初めて手間を掛けて作品を作り上げることができるんじゃないかと。

小説なんか芸術じゃねえ。と仰ってるわけじゃないのは分かってます。シチュエーションを作り上げ、経緯というものを理解させてようやく、狙った「感動」が(説明するのではなく)読者に引き起こされる。そのための何十、何百ページですものね。

> 全く普通の話し言葉で書いた物を「詩」等と称してくれては....それは芸術ではない
何と称するかによって違うということでしょうか?いや、称しなくたってやっぱりそれは芸術ではないんでしょう?

補足日時:2000/12/24 23:10
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Q「芸術的悲劇作家は、また同時に芸術的喜劇作家である」

こんにちは。
ご存知プラトン著『饗宴』での末尾、
ソクラテスがアガトンとアリストファネスに「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という議論を展開し、また二人を納得させていた(とアリストデモスは言った)部分があります。
プラトンの技法によって、もしくは話題外であったため削られてしまいましたね。

そこで質問させていただきます
もし皆さんがソクラテスだったとしたならば、どのような論理展開で以って「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という命題を完成させますか?

よろしくお願いします。
ちなみに私は悲劇喜劇に関しての心得が全くございませんので見当もつきません…。

Aベストアンサー

これは課題ですよね?
課題であれば、先生は確実に検索しますから(笑)、ここで聞いた答えを書いて提出しちゃうと、きっとマズいことになります。だからここでは方向性だけ。ちゃんと調べて、参考文献もあげて、いかにもしっかり勉強したような体裁を整えておいてくださいね。

まず、「悲劇」と「喜劇」には、きちんとした定義づけがあります。『饗宴』でも、プラトンは何となく言っているのではない。そこを押さえておかないと、まちがいなくレポートはグダグダになりますから、そこのところはくれぐれも注意しておいてください。

図書館へ行って、文学辞典、演劇辞典、百科事典、まあ何でもいいですから、「悲劇」「喜劇」の項を調べてみてください。wikipedia には肝心のところが載ってないから。
いまわたしたちが使っている「悲劇」「喜劇」という言葉と、ギリシャ時代の「悲劇」「喜劇」の意味が、異なっていることがわかるはずです。当然、ここで言われている「悲劇」も、単に主人公がかわいそうな結末を迎える劇ではありません。

ギリシャ悲劇として最も有名なのが、ソフォクレスの『オイディプス王』ですが、これを考えてみると、悲劇がどんなものかよくわかると思います。
偉大な人物である主人公が、運命もしくは神々の力と対抗しようとするが、最終的に破れ、死を迎える。だから「悲劇」なんですね。

それに対して喜劇というのは、偉大な歴史上の人物ではなく、身近な、日常卑近な人びとを扱ったものです。偉大な人びとではない、市井の人びとは、性格的にさまざまな欠陥を持つ。その性格の欠陥ゆえに、さわぎを引き起こし、笑いを誘う。そうして最後は幸福な結末、とくに結婚式で終わってゆくのです。

結婚というのは、新たな生命の誕生の含意があります。
悲劇が人間の死を扱うのに対して、喜劇は人間の誕生を扱うものだった。つまり、人間の存在の発端と終局を共に描いている、といえるわけです。

ここまできたら、『饗宴』の39の「喜劇と悲劇とを作るということが同一人にできる」ことであり、「真に芸術的な悲劇詩人は同時に喜劇詩人でもある」ということの意味もわかってきますね。

ここらへんのことをもっと知りたければ、中村善也の『ギリシア悲劇入門』とか、古い本で手に入りにくいんだけど、図書館に行けばきっとあると思うな、田中美知太郎全集の第18巻に所収されている「プラトン「饗宴」への招待」がとても参考になると思います。

さて、このような悲劇・喜劇の要素は時代を経るにつれ、徐々に混在していき、特にロマン主義の時代になると、悲劇的要素と喜劇的要素は積極的に混淆されていくようになります(たとえばゲーテの『ファウスト』)。それに対して、ギリシャ時代のような、純粋なかたちでの悲劇を描くことはできないか、という問題意識から出てきたのが「絶対悲劇」あるいは「絶対的悲劇」という言葉です。

ジョージ・スタイナーは「絶対的悲劇」(『言葉の意味』所収)で、絶対的悲劇というものは、そもそも成立し得ないことを書いています。

以上、参考まで。

これは課題ですよね?
課題であれば、先生は確実に検索しますから(笑)、ここで聞いた答えを書いて提出しちゃうと、きっとマズいことになります。だからここでは方向性だけ。ちゃんと調べて、参考文献もあげて、いかにもしっかり勉強したような体裁を整えておいてくださいね。

まず、「悲劇」と「喜劇」には、きちんとした定義づけがあります。『饗宴』でも、プラトンは何となく言っているのではない。そこを押さえておかないと、まちがいなくレポートはグダグダになりますから、そこのところはくれぐれも注...続きを読む

Q多数決の最大の難点は何か。また、それを克服するための諸方策について

今、大学でジョン・ロールズについて勉強をしています。
ちょっと気になった部分が出てきて、「どうしてもも解消して次に進みたいな」と思い投稿させていただきました。
多数決の最大の難点は何だと思いますか。また、それを克服するための諸方策は何があるでしょうか。
教えてください。

Aベストアンサー

感情に流されてしまう。
人気のある人、有名な人、実力者などの意見だから、という理由で決められる。
というような可能性を秘めている事だと思います。
いずれも、本質的な内容を判断しないで決められてしまう、ということですね。

確かドゴールだったと思いますが、
自分に有利な法案を強引につくり、国民投票にかけたが、
当時、ドゴールは絶対的な人気があり、フランス国民は、
「ドゴールの作った法案だから賛成」という人が多かったそうです。

克服するための方策は、反対意見も意識的に検討してみて、
物事を一方方向から観るだけでなく、多方面から観るようにすることだと思います。
また、感情にとらわれないように意識することだと思います。

Q詐欺の本質は悪意か

 
理研はSTAP細胞問題は小保方ペテンであったってことで答えを出したようです。
本件の調査ではSTAP論文に見出される様々なデータの捏造、写真のイメージ操作、他者論文の無断コピペは単なる不注意によるものなのか、それとも悪意によるものなのかについて大きく論じられた。
そして理研はこれらは単なる不注意ではなく悪意によるものであると結論を下した。
そこで質問ですがあらゆる詐欺、ペテンの本質はやはり悪意なのかどうかということでお尋ねします。
 

Aベストアンサー

 #1さんと同じく、詐欺の本質は欲だと思います。

 人に害を成してやろうという積極的悪意を持つ人間は、けっこう強烈な個性の持ち主で、そんなのはあんまり多くない気がします。

 むしろうじゃうじゃいそうなのは、欲が満たされるなら、他人の迷惑どうでも良いタイプです。しかし被害者にとってみれば、それは明らかな悪意であり、それを行われた事実のみに基づいて判断し、悪意と認定し定義するのは法律です。

 それはそれで妥当と思います。


 欲の究極タイプが、ゲーム好きと言わざるえない人達です。どうも実際にいるみたいです。ここでゲームとは、パズドラとかではなく、人生や生死をかけたゲームです。そういう状況こそが、No Game No Life な人達です。

 映画などではたぶんに脚色されますが、稀代のペテン師の話などは、過ぎたるは及ばざるのごとしの逆に、過ぎたるはカッコいいと思ってしまうのも、人間の性です。

 国民性の違いから日本にはあまりいませんが、西欧のギャングには、一種職業的なところがあります。つまりそれはその人の天職かも知れない訳です。

 けっきょく人間って、可能な事は、なんでもやってしまうんですよ。


 小保方氏について言えば、たとえ悪意がなかったとしても、詐欺(悪意あり)と認定されてもしかたないと思います。信用を回復するのは、劇的なイベントでもない限り、きわめて困難でしょう。

 自分の印象を言えば、彼女には独学の臭いがけっこうある。自分も独学部分がけっこう大きいので経験しましたが、その業界なり学会なりでは普通の常識を知らなくて、びっくりした事が何度かあります。

 しかし、知らなかった(悪意はなかった)というのは、行った事実から下される認定においては、言い訳にしかなりません。知らなかったという主張には、それだけでは客観性はないからです。

 #1さんと同じく、詐欺の本質は欲だと思います。

 人に害を成してやろうという積極的悪意を持つ人間は、けっこう強烈な個性の持ち主で、そんなのはあんまり多くない気がします。

 むしろうじゃうじゃいそうなのは、欲が満たされるなら、他人の迷惑どうでも良いタイプです。しかし被害者にとってみれば、それは明らかな悪意であり、それを行われた事実のみに基づいて判断し、悪意と認定し定義するのは法律です。

 それはそれで妥当と思います。


 欲の究極タイプが、ゲーム好きと言わざるえない人達です。...続きを読む

Qキリスト教の「隣人を愛せ」という教えの本質は?

仏教の教えの本質は、執着からの脱却で、その目的は人生の苦しみから逃れるため、と解釈しています。
では、キリスト教の教えの本質は何でしょうか?
隣人を愛せよと説いていますが、その目的はなんでしょうか?
平和な世の中を作るためでしょうか?
魂の浄化に関わってくるのでしょうか?

物事に執着するなという仏教の教えと、隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、ふと相反する考えのように思えたので質問します。
(仏教で愛を説かないのは、その人物に執着しすぎてしまう恐れがあるからと解釈しています)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的で誰にでもわかる台詞でありながら本質に迫る問いであり、
人間を成長させる力を持っている言葉だと私は思いました。

私は、キリスト教も仏教も人間の幸福を希求していると思います。
より深く人を愛するには 慈悲と悟りの両面のレベルアップが求められる気がします。 
執着するなではなく、執着が無意味に思えるレベルまで認識が拡大することが悟り・解脱ではないでしょうか。
キリストの言行は、シンプルでありながら矛盾を含むようでもあり、
愛への認識の拡大を迫る。
個々の局面で自分の中の執着や冷酷さと向き合うことを要求する。

キリスト教の愛と、「愛別離苦」といった使い方をする仏教的な愛とでは、そもそも概念が違うと思います。
キリストの問いた愛は執着を超えた大きな愛であり、
キリストの言動は、そういう愛への示唆に満ちていると私は思います。

こんばんは。私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的...続きを読む

Q現行学習指導要領は本質を見落としている、とは思われませんか

質問の前提から述べる形を採ります。

1.
「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
このことを再確認すべき時が来ているのではないでしょうか。そして、
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」、ということも。
こうした論理の帰結として、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
これが絶対的摂理の指し示すところであるのは確かであることを認識、あるいは感じることができるように思うわけです。
DNA に書き込まれた遺伝情報や生育環境などによって「自我としてのこの我」は規定されると思いますが、これらは、あくまで偶然のイベントとして、「この我」に降りかかってくるものだと言えるのではないか、ということでもあります。
絶対と偶然の表現に誤解があるといけませんので補足しておきますが、人類という種は絶対的摂理の指し示すところとして現在地球に存在しているが、「この我」を自覚する個々人が人類として存在しなければならない必然性は無い、ということです。

2.
とはいえ、こうした「自我としてのこの我」が存在するのもまた厳然たる事実です。
ここに「自我としてのこの我」と「人類としてのこの我」のせめぎ合いが生じざるを得ないはずなのですが、少なくとも今の日本では、後者についての理解が希薄なように思います。
「自我としてのこの我」が圧倒的優勢を保つ一方で、「人類としてのこの我」はヒューマニズムとして矮小化されているのではないか、ということ。
つまり、上記( C )が導かれる根拠としての( A )( B )について、十分な理解が浸透していない。
ここに留意することで、「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」は、ヒューマニズムではなく、絶対的真理ゆえに真とされるべき命題であることを再確認すべきではないでしょうか。

3.
大前提である「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」 について少し補足いたしますと、その根拠としては、
「人智の及ぶ何らかの力の結果として我々は存在している。」わけでないことは明白であるから、ということになります。

4.
ここで今回の質問です。

「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

これらを一連の根拠ある真理として、つまり論理的事実である点を明確にしつつ、学習指導要綱に明記すべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/dou.htm
こうした考え方が浸透することで、将来的に「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」という命題が感覚的に理解され、そのことによって世界は新しい局面を迎えることができるのではないか、という気がしているところです。

質問の前提から述べる形を採ります。

1.
「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
このことを再確認すべき時が来ているのではないでしょうか。そして、
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」、ということも。
こうした論理の帰結として、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
これが絶対的摂理の指し示すところであるのは確かであることを認識、あるいは感...続きを読む

Aベストアンサー

ふむ、、本質的な真理について理解、ですか。これは難しい。
根源的なものの理解というのは、本質的であるかもしれないが、太古的である場合もあります。それ故に無意識との親和性も高く、それは彼の行動原理を組み上げる主な材料にもなるでしょう。しかし一方で、人類の積み上げてきた多様性、それも個人個人のもつ多様な価値観を置き去りにする可能性があります。
ヒューマニティーは人類が作為したものかもしれませんが、最も進歩した価値観の一つであり、現代に通じ、また集団ではなく個人個人に通じ得る、真に普遍的なものに近づいているものです。表層的かもしれませんが、その表層が、きめの細やかさという意味において、些末まで行き渡るという意味においては大切になってきます。

つまり、我は我であり彼ではないという厳然たる事実、個人という存在を受け止めつつ、各人が人類としての行動規範を得て、無益な争いから離れようという事が、ヒューマニティーには可能であります。

一方で、本質的な真理についての理解は、左の人に出来たら右の人にもできるというものではない様に思います。宇宙の摂理という人智の及ばぬものが存在するだろうという事は分かっても、誰もがそこから、彼は我であったかもしれず、我は彼であったかも知らない、という、共感や人間理解に到達するだろうか?と疑問が生じます。そこにはハコブルさんならではの思索の深みが存在しており、誰しもが同じ様な思索を持ち得るかというと、難しいと私は思います。ですが、この深い共感と人間理解がハコブルさんの上において実現したなら、縁は自然と繋がって、周りの人もハコブルさん自身も豊かにしてくれるのかなと、そんな気はしています。

宗教について

とある思想や教義が、組織によって保たれてきたという面があるのは事実でしょう。そしてその伝わる聖書やコーランなどから恩恵を受ける個人が存在することも事実だと思います。ですから、組織だった宗教が諸悪の根源だと私は思いません。
また、祈りや瞑想が、個人の魂の安らぎに貢献するものであるというのは同意できます。しかしそれが、何か根本を解決するものであるかどうかと言うのは、まだ疑問が残ります。瞑想や祈りは静かに行われるものですから、世の喧騒から離れられるものではあるのですが。。

少し自説を述べすぎたでしょうか。

ふむ、、本質的な真理について理解、ですか。これは難しい。
根源的なものの理解というのは、本質的であるかもしれないが、太古的である場合もあります。それ故に無意識との親和性も高く、それは彼の行動原理を組み上げる主な材料にもなるでしょう。しかし一方で、人類の積み上げてきた多様性、それも個人個人のもつ多様な価値観を置き去りにする可能性があります。
ヒューマニティーは人類が作為したものかもしれませんが、最も進歩した価値観の一つであり、現代に通じ、また集団ではなく個人個人に通じ得る、...続きを読む


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