14歳の自分に衝撃の事実を告げてください

苦行僧という言葉がありますが、仏教僧もキリスト教の聖職者も、苦行っぽいことを自らに課しているケースが多くないですか?
でも現代人風に考えれば、楽しく生きてもいい、むしろ「楽しく生きる」ことは「良い人生」の条件の1つじゃないですか?

「楽しく生きるべし」みたいなことを、ブッダもキリストも、なんで正面切って言ってくれなかったんでしょう?あるいはどこかでそういうことを、言ってますかね?

質問者からの補足コメント

  • しかし、日本の寺院でも僧職の人は、毎日早起きしたり、お寺中を念入りに掃除しまくったり、粗食ばかり食べさせられたり、座禅で読経しても集中力が足りなかったら喝を入れられたり、

    少なくとも俗世の人から見たら、あまり楽しくなさそうな、むしろ苦行に近い生活をしておられるのではないでしょうか?

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/08/22 13:01

A 回答 (7件)

宗教は楽しく生きることが出来ずに苦しんでいる人々の心をどのように癒すかが大きなテーマとなっています。

楽しむばかりで苦しむことの無い人ばかりの世の中なら、宗教が出る幕はないでしょう。

特に仏陀は「苦」との対決に、バラモン教が行っていた苦行なども散々試しましたが、「苦」から逃れることは出来ませんでした。最終的には「苦」が「欲」から生じることを悟り、「欲」を捨てれば「苦」から解放されることを「苦」に苦しむ人たちに説教したわけです。

ゆえに「苦行僧」が仏教界に存在するのはおかしな話ですが、それだけ仏陀入滅以後の仏教界も世俗化してしまったということでしょうか。
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この回答へのお礼

詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2024/08/25 07:29

人生はプラスマイナスだと信じることで、救われてるんですよ。


苦行の先にある幸福

幸福の先に幸福があるのは問題ないですけど
苦行の先に不幸があるなら生きてられないでしょ
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ブッタは「難行苦行」を否定してますよ


楽しく生きるだけの「安楽行」も否定していますよ
よく勉強してから質問しましょう
この回答への補足あり
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楽しく生きる以前の門題に苦しんでいたのだと思います。

人間と云った知恵が回る生き物は、生まれた瞬間から死に向かって生きています。そう云った予期不安に似た心境、或いは取りこし苦労を悩む存在が、そう云った宗教家の宿命だと思います。

人生を全て苦として感じていたのだと思います、それは『一切皆苦』と云った言葉に集約されていますが、その甲斐あって釈迦は人類の魂の救済に成功を収めています。

その成功を収めた姿は『禅』の中にふんだんに見る事が出来ます。例えるなら修行が実って『自分自身を知る事が出来たなら』生死の問題が解決すると云う風に表現しています。

人間は生れた瞬間から死刑執行に打ち震える存在として『一切皆苦』を感じていましたが、自性を徹見する事(悟りを開く事)によって『絶対の安心と云った境地を獲得出来るという事になります。
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人間は誰しも楽しく生きたいのです。



だからこそ、それを正面から認めたら
快楽主義に走りかねません。

快楽の後に残るのは虚しさだけ。

それで苦行なんてのが始まった
のです。

本来、快楽と楽しく生きる、というのは
違うはずです。

でも、現実世界に、楽しく、なんて
のを入れてしまうと、
快楽に置き換わってしまうのです。

快楽主義では、人間は堕落する
ばかり。
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当時の時代の価値観もあったのではと思っています

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質問者さんの意見考えが全世界共通、という訳ではない確かな証拠です

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