私は神社が好きで、よく行くのですが、ふと疑問に思ったことがあります。

歴史(私がわかるのは高校までに習った「日本史」ですが)では、聖徳太子の時代に、蘇我氏と物部氏が戦って蘇我氏が勝利し、仏教が広まったとあります。その時、物部氏が信仰していたのが確か神道(まで確立されているものかはわかりませんが)ですよね。聖徳太子や蘇我氏以前は、神道が日本の(主な)宗教だったのだと思います。

その後、仏教については、歴史の中で、空海・最澄などの有名人(?)や、いろいろな宗派が出てきたりして、表舞台に出てくるのですが、神道はほとんど出てきません。
それにも関わらず、現代でも、たくさんの神社が各地にありますし、日本人全体の中に、「神社」を大事にする思想は残っていると思います。また、仏教を始めとする他の宗教のようなたくさんの宗派への枝分かれもほとんどないのではないでしょうか?

蘇我氏と物部氏の戦いから、およそ1500年。その間、神道はどんな経緯でこの日本に永らえてきたのでしょうか?
関連するサイトなども、ご存知の方がいれば、教えて下さい。よろしくお願いします。

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A 回答 (8件)

>「誤解している」というのは、失礼な言い方ではないかと思います。


>(中略)
>しかし、明経博士については、仏教関係を扱うのではないようですね。

starflora さんのプライドを傷つけるとしたら申し訳ないことではありますが、
上のような場合に「誤解している」という表現が用いられるのは一般的であり、
決して不穏当な表現ではないと考えます。

指摘させていただいた箇所については、個人の解釈や学説の相違などと
いうものではなく、史実と異なるところです。
(念のため、「概ね」と言っておきましょう。)
不特定多数の目に触れるところに書かれたものでもありますし、
starflora さんの言わんとされている論旨との関わりを考えれば余計に、
言及されている件に深く関わっている立場からは違和感を拭えず、
見過ごすことの難しいものであったとご理解ください。

官位相当も、あくまでも、あらかじめ定められている「相当」(目安)に
過ぎず、実勢を表すものとは言えません。

starflora さんの回答の仕方(表現方法)については、
先の投稿でも今回の投稿でも、とかく申すつもりはありませんが、
たまたまよくご存知でなかった点については、「失礼なことを言う」などと
おっしゃらずに、率直に明るく認めていただきたかったなぁと感じています。

誰だって間違うことはあります。もちろん、わたし自身、カタイ話から軽い話に
至るまで、間違いを指摘されることが多々あります。

ついでながら、#7 において、

>長官の文章博士は、最高の漢文学者だと言っているのですから、その次官の明経博士も、(中略)
>文章博士が、大学寮の長官だということも、官職表を見れば、すぐ分かります。

とありますが、文章博士・明経博士は大学寮をはじめ、
いずれかの役所の長官・次官ではありません。

>(#5)神道あるいは、それに準じる神職的人物がつく公的官職はありましたが、仏僧がつく公的官職というものはありません。
>(#7)公家官職制度の複雑さの話をしているのではなく、仏教と神道の話をしているので、その観点から記したものについて、別の観点から、批判されても、

仏僧がつく公的官職....としては、僧官というのがありますヨ。
今後のご検討の参考になりましたら幸いです。(いやみではありません。)

わたしも官職制度そのものの話をするつもりはないのですが、
#5 の、あの部分では、starflora さんが、まず神祇伯の官位を述べられ、
そのあとで「仏教に関係した官職は、」とすることで、
官職の有無ないし優劣を指摘して、朝廷における神道・仏教の力(立場)関係を
示そうとされた、と受け取りました。

Aの話をしてるときに、それと少し関係のあるBの話をちょこっと持ち出した、
でもBはAという話のメインテーマではないんだから、多少間違ってても
黙って見過ごせ、....というわけには....、
見過ごせる場合と、ちょっと見過ごしがたいかナ....って場合とがありますよね。
単なる「個人の考え方の違い」であれば、「誤解している」などと言って
しゃしゃり出ることはなかったでしょう。

(わたしはコミュニケーションを旨としていますので、こういうやりとりは
 不本意ながら軽視してはならないものと思っていますが、
 コミュニケーションを排除する立場からは #7 と、わたしの #8 は、
 このアーティクルになくてもいいやりとりとなってしまいましたね。
 わたしはこれ以上続けるつもりはありません。心が騒いでしまった方、ごめんなさい。)
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この回答へのお礼

回答していただいた皆様、丁寧な回答をありがとうございました。
私が疑問に思ったことは、かなり、解消もしくは考え方や調べ方が見えてきました。

ポイント発行についてですが、starfloraさん、MiumMiumさんに発行しようと思ったのですが(私の質問に最も則してお答え頂いたため)、#7#8のやりとりをみて、ポイント発行することをためらってしまいました(おふた方とも20点にするわけにはいきませんので)。申し訳ありませんが、ポイントについては「該当者なし」とさせていただきます。

回答ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

お礼日時:2002/03/11 01:36

 


  余計なことかも知れませんが、「誤解している」というのは、失礼な言い方ではないかと思います。「誤解を招きかねない」というのも、半面そうかも知れませんが、公家官職制度のなかに神道の官職があるということを指摘したのであって、神祇伯の従四位が、参議と同等というのは、公家官職表を見ればすぐ分かるように、省の長官(卿)が、正四位だということも、調べれば公然明らかだからです。また、「従四位」が、神祇官の最高職の神祇伯の官位だというなら、正一位や、二位、三位、正四位となる、官職官位のなかで、決して高いものでないということは自明だとも思えますが。
 
  敢えて、神祇官が公職の官職として置かれていたということの強調のために述べていることで、従四位が、そんなに高い位でないということは、周知だとも思います(これは、最高クラスの貴族のあいだではという意味です。二級貴族、三級貴族では、五位がまず、最高の昇進だというのも、常識です……ということが分かっているのか、わたしも不安になります。こういう注釈を付ける人が出てきますと)。

  ……漢文学者最高の地位、大学寮の長官、文章博士が、従五位なのです。学問で最高に栄達して、従五位だというのは、その上の四位以上は、最高級貴族が世襲で占めていた位なのです。……また、神祇伯は、文章博士よりも二段高い位で、陰陽寮の長官、陰陽頭が従五位で、文章博士と並ぶのです。聖武天皇が国家仏教を築いたのにも拘わらず、公式の官職に仏僧の位置がなく、神道の官職があるという話です。
 
  それと、「まつりごと」というのは、古代的な「政治=祭儀」のことで、「まつりごと=政治」の意味で、わたしが書いているのなら、「太政官は、政治でまつりごとを行う」とは、どういう意味でしょうか。これは、古代的な、祭儀でもあった政治の行事を、太政官は政治として行い(つまり政治を担当し)、神祇官は祭儀として行っている(つまり祭儀を担当)ということで、「政治でまつりごとを行う」という限り、「政治=まつりごと」である訳がないでしょう。この場合の用法では。
 
  陰陽道についても、仏教を扱う官職が見あたらないのに、神道に近い、このような占い・呪術の官職で、神道と道教を混ぜたような世界観の官職があったという話で出しています。
 
  しかし、明経博士については、仏教関係を扱うのではないようですね。官職表を見ても、仏僧がなるような官職がないので、文章博士の下の明経博士を出したのですが、長官の文章博士は、最高の漢文学者だと言っているのですから、その次官の明経博士も、それに準じる仕事であったと考えるのが自然でした。自分で書いていて、矛盾した内容です。仏僧の官職がないかと捜して、こじつけたのだと言われても仕方ありません。(文章博士が、大学寮の長官だということも、官職表を見れば、すぐ分かります。大学寮は、式部省ではありませんが、その管轄に入っているので、こう書いたのです。率直に言って、公家官職制度の複雑さの話をしているのではなく、仏教と神道の話をしているので、その観点から記したものについて、別の観点から、批判されても、見当違いという感想を抱きます)。
 
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神道が今日まで続いた大きな理由の一つとして、


法制度の中に組み込まれて守られてきたことが挙げられると思います。
すなわち、朝廷に神祇官がおかれ、祭祀や神官が保護されていたこと、
そして、天皇を含む皇族等も、自らその祭祀を執り行ってきたこと、
その中で、神祇官や神社は領地を与えられ(許され)、
財政的にも保護されていたこと、などですネ。

天皇家が滅んでいれば、また違ったかもしれませんが....、
うーん、しかし、日本の「神さま」は、自然・災害と結びついて、
その象徴として庶民の間にも浸透していました
(というか、もともとこの国にいた庶民達の間で生まれ出た信仰ですね)から、
自然の驚異や災害に対する畏れが存在する限り、
「神さま」もなくなることがなかったんじゃないでしょうか。

また、神道そのものの性格として、他の宗教と必ずしも対立せず、
それらを自らの内に取り込むことができた、という点も、
大きいのでしょうね。
といっても、もし外から自然・災害を象徴する「神さま」信仰が
入ってきていたらどうだったかわかりませんが、幸い、入ってきたのは
「仏さま」だったり、一神教で個々の自然災害そのものを象徴しない
「イエズスさま」だったりでしたしね。

関連サイトですが、神社オンラインネットワーク連盟の、
「神社と神道」 http://www.jinja.or.jp/
が、もっともメジャーであると思います。

 ***

indiaa さんのご質問からは逸れるので、どうでもいいかナとは思ったんですが(^^;
#5 の starflora さんのお話で、明らかに誤解なさっているところ
(あるいは詳しくご存知でない方の誤解を招きそうなところ)がありましたので、
失礼ながら、その部分について訂正させていただきます。

>官職は、大きく分けて、「神祇官」と「太政官」になります。神祇官は、神道でまつりごとを行い、太政官は、政治でまつりごとを行うのでしょう。

神祇官は太政官の支配を受ける立場だったことがわかっています。
したがって、官職を大きく分けたときに、神祇官と太政官とが
"対" するように位置づけることは難しいです。
また、神祇官は祭祀(まつりごと?)こそ取り行っていたものの、
一般に言う「まつりごと」=「政治」は取り扱っていません。

>神祇官の長官は神祇伯で、これは従四位ですから、参議と同格で、かなり高い位です。

参議(太政官(朝廷の最高機関)の幹部クラス職員)は特権を有する高い身分
ですが、神祇伯の身分は、決して「高い」とは言えません。
太政官の支配する8つの省の長官よりも一段劣る格付けです。

>陰陽道は、神道と道教が混ぜ合わさった奇妙なものですが、仏教というより神道でしょう。

「仏教というより神道」であるのはたしかにそう言えるでしょうが、
あくまでも「陰陽道」であり、神道とはずいぶん異なる別の道ですよね(^^;

>仏教に関係した官職は、式部省の明経博士辺りではないかと思いますが、

明経博士は式部省ではなく、大学寮所属の官であり、
また、仏教に関係した官職とは言えません。
ちなみに、文章博士よりも古くから置かれており、
周易、尚書、周礼、儀礼、礼記、毛詩、春秋左氏伝、孝経、論語
といった書物の教授です。

参考URL:http://www.jinja.or.jp/
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  No.2 の方の回答で概ね妥当と思えますが、神道と仏教を混ぜた、独特の宗教が造られていた訳ではありません。民衆レベルの習俗として、神社と寺院、神道と仏教が、いっしょくたになっていたので、一応、神道は神道、仏教は仏教で、区別はずっとありました。
 
  蘇我が仏教で物部が神道というのは、図式で、政治的に造られた図式です。物部は大連で、蘇我は大臣ですが、「大連(おおむらじ)」というのは、天皇家直属の軍事氏族の代表です。天皇が、神道の中枢だというなら、物部は大連として、天皇家を守護する必要があったでしょう。大臣は、政治的影響力の大きな大氏族で、軍事力も無論持っていた訳ですが、政争において、物部を斥けるため、「仏教信仰」というものを持ち出したのだとも云えます。また、蘇我は、朝鮮半島からの移住民であると認識されていたのに対し、物部は、古来からの日本列島の氏族と考えられていました。蘇我が仏教を押したのも、古い体制の日本だと、彼らの実力を発揮できないので、仏教を導入して、自分たちの立場を有利にしようとしたのだとも云えます。
 
  この後、天皇も皇族も大豪族も、それぞれ寺院建造に熱中しますが、「仏教信仰」というより、異国の新文化を導入し、守護神として、仏教の如来や菩薩を捧持したのでしょう。従って、すぐに、日本の仏教は、呪術と一緒になって来て、平安時代になって来ると、加持祈祷を行うのが仏僧だということにもなります。
 
  神道の独自性というか、仏教と明らかに区別していたのは、公家官位制を見ると、役職によって分かります。官職は、大きく分けて、「神祇官」と「太政官」になります。神祇官は、神道でまつりごとを行い、太政官は、政治でまつりごとを行うのでしょう。神祇官の長官は神祇伯で、これは従四位ですから、参議と同格で、かなり高い位です。また中務省には「陰陽寮」があり、陰陽道は、神道と道教が混ぜ合わさった奇妙なものですが、仏教というより神道でしょう。仏教に関係した官職は、式部省の明経博士辺りではないかと思いますが、これは、漢文学者の最高位文章博士の下にあります。
 
  聖武天皇は国策として仏教を広め、仏教による日本の先進化を試みたのですが、神祇伯や陰陽寮のような、神道あるいは、それに準じる神職的人物がつく公的官職はありましたが、仏僧がつく公的官職というものはありません。天皇が、シャーマン王で、最大の神官だとも云えますから、国家体制がそうなっているのは当然だとも云えます。
 
  仏教と神道は並列して存在していたのだと思います。神道の大神官の天皇が、仏教に帰依したり、入道するのは、何か矛盾なので、仏教と神道は、本質は同じだなどという考えをしたのですが、やはり違うものであるのです。
 
  神道は、朝廷の保護を基本的に受けていましたし、日本の地方の宗教はみな自然神道であった訳で、それらが集合したりして、勢力が大きくなったりしたりしました。他方、仏教は、インドにおいても中国においても、高度に思弁的な思想を持った体系であり、鎌倉仏教になって来ると、加持祈祷の形だけの仏教ではなく、仏教の思想が重要であるとなり、ここで「新仏教」として、新しい宗派が色々起こりました。
 
  仏教は、ある程度意図的に、その教えや勢力を、全国に広めようとしたのです。日本の仏教は大乗仏教ですから、衆生を救う活動をするというのは自然な発想でしょう。他方、神道は、広めようとして広まったのではなく、すでに広まっていた信仰が、段々形を変えたり、また相互影響したりとして、組織化されて来たのでしょう。
 
  仏教の活躍が歴史に明確に見えるのは、外来宗教・外来思想として、日本に広まり、土着化する過程で、様々な事件があり、卓越した人物が新しい宗派や思想を起こしたからでしょう。他方、神道側であまり有名な人の名がないのは、考えてみれば、歴代天皇が、神道の大神官で、神道でもっともポピュラーな、天照大神などの子孫だと称しているし、みなそう信じていたのですから、発展の余地がなかったというか、十分に発展してしまっていたのだとも云えます。
 
  神社と寺院は、確かに隣接的にありましたが、神職と仏僧は別のもので、なかには両方兼ね備えていた人もいたかも知れませんが、基本的に別の役割を持つ、別の機能者です。
 
  神社と寺院をセットにしたのは、江戸時代の檀家制度でしょう。反キリスト教のため、一種の戸籍制度として、統制制度として寺を利用した結果、日本人はみな仏教徒になり、しかし、同時に、古くからの神道の信者でもあるので、神社に寺院を並立し、神社だけあって寺院のない場所には、寺院を造って、日本全国、寺院檀家制度で、統制したのでしょう。
 
  江戸時代の官職で、「寺社奉行」というのは、「町奉行」や「勘定奉行」が老中支配下にあったのに対し、将軍直属で、同じ「奉行で」でも格が違っています。大岡越前は、町奉行として、吉宗の改革のブレーンだったのですが、出世して最終的に、寺社奉行・従五位越前守・一万石の大名になりました。
 
  寺社奉行支配下で、神社と寺院と同じに扱っていたかというと、また違う訳で、同じにしていたら、本当に神仏教のようなものに、神仏院とかいう寺でも神社でもない訳の分からないものになっていたでしょう。江戸時代でも、この両者は截然と区別されていたのです。
 
  神道は、それを民衆共同体が支えて来たのであり、仏教は、江戸幕府の政策や庇護もあり、また布教に熱心でもあったので、よく目立つのですが、神道の神社は、日本の歴史を通じて、民衆の心を支え、民衆の心が支えて来たのです。「村の鎮守」というのが、日本全国にあった訳で、明治政府の「国家神道」政策も、この根強い伝統の神道の上で、民衆神道を統制してまとめようとしたということになります。
 
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なんだか的はずれのお答えが多いので、お答えします。



まず、日本の文化の特徴として文化の重層性というのがあります。それは新しい文化が受け入れられるようになってもそれは古い文化の上に乗るだけであり、古い文化と置き換わるわけではないということです。この古い文化と新しい文化が調和を保ちつつ共存するのが日本文化の特徴です。そして、ご質問の「神道」は日本においてもっとも古いものの一つであってそれこそ神世の時代から現代まで続いております。

簡単に思想・考え方としての神道の歴史を書きますとお話の通り、聖徳太子時代以前に神道の原型が成立します。
奈良・平安時代には「神仏習合思想」が生まれ、鎌倉時代には「伊勢神道」、「吉田神道」が生まれます。この両者が神道を理論化したもので、ここから神道が始まったともいえます。
この後、江戸時代に「国学」研究が盛んになりそこから「垂加神道」、「復古神道」が形成されます。
明治期に神道が国教化されて国家神道となり、また教派神道(天理教、金光教、黒住教など)も盛んになります。第二次大戦後、神道は国教ではなくなり他の宗教と同列におかれるようになっています。

また、現実の信仰面でも神社はそれのみとして、あるいは仏教寺院と混淆しながらも信仰の対象としてあり続けました。これは上にも書いたように、日本文化の重層性がそうさせてきたわけで、現代の流行歌のようにヒット曲が次々に入れ替わっていくというイメージよりも、スタンダードナンバーとしていつまでも歌い続けられているものというイメージの方がぴったりくるでしょう。

なお、高校日本史においても「垂加神道」という言葉ぐらいは出てくると思いますし、上の文の中で「 」書きにした単語ぐらいは大学受験用単語として覚えていて欲しいものです。
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この回答へのお礼

詳しい回答をありがとうございます。
aminouchiさんは高校の先生なのでしょうか?大学受験用単語という響きが懐かしいです…(^^;)。
神道にも、いくつかの宗派(?)があるんですね。
流行歌というよりスタンダードナンバー、という表現が良くわかりました。

お礼日時:2002/03/11 01:15

不動明王様は神道の神で有名ですが、仏教にも出てきます。


ノーマクサーマンダ バザラダンカン
と真心こめて唱えることによって、この身に不動明王様を降臨させるのです。ただし丑三つ時は禁止。

私の考えでは、神道は奇跡を起こせなければ民に認めてもらえない。だが仏教は菩提をとむらったり、錯覚でも経典を読んで開眼することは凡人にも出来る。たとえば干ばつ地帯に雨を降らせられるのは、よほどの法力の持ち主だけだろう。だが、そんなことは普通無理だ。だが、神道ではやらなくてはならない。
雨を降らすのと、経典を読むのとではやってることは天と地の差がある。
ここに日本ではやらなくなった一因があると思う。ちょっと単純ですかね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、なぜ神道が流行らなくなったのか、ちょっと納得しちゃいました(^^)。
ワタシ的には、(その創立期のできかたはともかくとして、現在では)仏教の方が人工的で、神道の方がより自然に近いという気がしているので、Kaitoさんの考えは面白かったです。実際そうであった気がしますしね。

お礼日時:2002/03/11 01:06

「神仏習合」で検索すると過去の質問が出てきます。


日本の神様は仏さんの化身である(本地といいます)という考え方で、神様と仏様は良い関係を保ってきました。お寺と神社は隣り合わせに建てられ、仏教とも神道ともわからない、日本独特の宗教がずっと続いていましたが、明治政府が神仏を分離させて、神社を保護し、寺院いじめの制令(廃仏毀釈といいます)を発布してから、こんにちのように寺院は寺院、神社は神社というようになりました。
 廃仏毀釈の理由や、それがよかったのか悪かったのかなどは、人によっていろいろと解釈されるところと思われます。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/search.php3
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>お寺と神社は隣り合わせに建てられ、仏教とも神道ともわからない、日本独特の宗教がずっと続いていましたが…
そういえば、今でも、お寺と神社が隣り合わせになっているところってありますよね。では、廃仏毀釈までの千数百年間は、「神道」としての宗教は、伊勢神宮など大きな神社を除いて、あんまりなかったんでしょうか…?

お礼日時:2002/03/11 01:01

 神道は、もともと天皇が根本になっており、天皇が存在する限りなくなりません。

だから、幕末の勤皇倒幕により、神道が跋扈し天皇のもとに「神国日本」ということで、だんだんと侵略戦争へとかりたてていったのです。
 
 神社の中には、天満宮や明治神宮などのように菅原道真とか明治天皇などの歴史上の人物を祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕する感情や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭りあげてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。
 本来、神とは原始的時代の自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用には、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端を発しています。
 したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育むことに神の意義があるのです。この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮らせるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光と法の力を得て善神として人間を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。
確かに、そういう考えはあると思います。ただ、今回の質問は、「神道」またはそういった信仰が、現代までどう続いてきたかということなので…。

お礼日時:2002/03/11 00:55

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本朝(日本)を慕って帰化したから帰化人である、という国家意識ができたのが、上記の天智天武朝あたりから。その前のことで、帰化人(まぁ最近は渡来人と呼ぶようですが)であるかどうかを明確に分けることは不可能かと思います。

Q神式の葬儀について教えて下さい

神道式の葬儀について教えて下さい。
告別式に参列する時に、お香典も含めて、準備はどのような点が違うのでしょうか?

Aベストアンサー

神道式の場合、焼香ではなく玉串奉奠になります。たいていは「2礼2拍手1礼」の作法で拍手は「偲び手」といって音を立てずに手を合わせます。しかしながら奉仕する神職により拝礼の作法などが異なることがありますのでそれに従って下さい。
それと仏教では読経中に焼香をしていますが、神道では「祭詞」が奏上されたのちに玉串奉奠になります。また香典は「玉串料」或いは「御霊前」で大丈夫です。

神道式は「匂い」と「音」があまり無いので不思議な感じがするかもしれませんね。

Q天皇家・藤原氏・蘇我氏の出自について

私はよくインターネット等で天智天皇は百済の王子の翹岐王だったとか
蘇我氏は名前が渡来系っぽいから百済人や藤原鎌足は豊璋だとか言っている人を見ます
そこで疑問があります。

まず、いくら王子だからとはいえ日本の属国であった百済の人間が
まして国外追放されて亡命してきた翹岐王や人質としてやって来た豊璋のような人間たちが
頑張ったとしても、朝献をする国の外国人が日本のトップである天皇や
その側近に成れるものなんでしょうか?
名前を隠して入れ替わろうにも周りも馬鹿じゃないんだからバレて入れ替われないでしょうし
普通は周りの人間が大反対してそんな地位にはなれないんじゃないでしょうか?

倭が391年以来、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。 (広開土王碑)
新羅百済は倭を大国と崇めた (隋書81巻東夷倭国)
新羅の4代目国王の昔脱解は日本人 (三国史記 新羅本記)
百済の王が王子を人質として倭国に送る (三国史記 百済本紀)
新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。 (三国史記 新羅本紀)

Aベストアンサー

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。
桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾取される側の人間でした。
外国人が天皇に成り代わるなんてのは不可能です。

インターネットでそういったトンデモ説をご覧になり、疑問を持たれたとのことですが、みんなが皆、疑いを持つとはかぎりません。高校の日本史ですらまともに勉強してこなかった人や、おもしろければなんでもいい人、思想的に偏っている人など、さまざまな人たちがいます。

そういった、インターネットで見かけただけで、あっさり洗脳されてしまいそうな人もいるのですから、教えて!gooのようにネット検索の上位にヒットする場でこのような質問をされるのは控えていただけないでしょうか。
知らずに一生を終えるであろう人にまで興味を持たれて、トンデモ説が広まってしまいます。
無視が一番です。

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。
桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾...続きを読む

Q葬儀に関与しない宗教は?

日本では一部を除いて、仏教、神道、キリスト教などの各宗派が葬儀を取仕切るのが当然のになっているのが現状ですが、世界を見渡すと、原始仏教のように葬儀に関与しない宗教もあるのでは?と思うのですが、ご存知の方に教示いただければ幸いです。

Aベストアンサー

日本の一部にたくさんあります。
仏教では、檀家を持たない寺、信者からのお賽銭を収入の柱にしています。
神道ではほとんどが葬儀をしません(○○祭という儀式、十日祭・・・五十日祭、一年祭等をやらない、どうやるかも分からない神社がほとんど)やるのはほんの一部。

わたし、曹洞宗ですが、寺の歴史を住職が説法で語るときがありますが、曹洞宗では300年前位までは葬式をしなかったそうです。(忠臣蔵の頃)
それから葬式をするようになったので、他宗派のやり方を見て参考にして作り上げたそうです。

Q伊達氏、真田氏、徳川氏、豊臣氏、毛利氏、武田氏、北条氏

伊達氏、真田氏、徳川氏、豊臣氏、毛利氏、武田氏、北条氏
は今でも続いているんでしょうか?それとも滅んだんでしょうか?

Aベストアンサー

大名家は直系の子孫は絶えることが少なくなく、親戚周りから養子が入って血脈を継ぐことで氏族としては繋がっています。
北条氏も狭山藩1万石の大名として幕末まで続き、創価学会の北條浩(4代目会長)などが出ています。
徳川氏は家光の(男系の)血脈は館林藩越智清武で絶えていますが、8代将軍吉宗の血脈として、德川恒孝氏が徳川宗家でしょう。
豊臣氏は氏(うじ)ですから、木下家が豊臣氏であり、足守藩木下家として幕末を迎えます。
血筋としては、真田信繁の3男に秀次の血が入っており、出羽亀田藩の家臣として三次氏を称しています。


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