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ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

室生犀星の「小景異情」について、2つほど質問があります。
(1)「ひとり都のゆうぐれに」の「都」は多分東京のことを示しているのでしょうが、「遠きみやこにかへらばや」という「みやこ」のほうは、故郷の金沢のことですか?
(2)「帰るところにあるまじや」と言っていますが、室生犀星には何か故郷に帰れない事情があったのでしょうか?

どちらか片方だけでも構いませんので、お願いします。

A 回答 (2件)

犀星の親友、萩原朔太郎は、おっしゃるように「都=東京」にいて故郷の「みやこ=金沢」を思っていると解しています。


また朔太郎は、犀星の境遇を「母親と争い、郷党に指弾され、単身東京に漂泊して~」と述べています。「 」内は下記参考図書より引用。
ただ、吉田精一氏は、「帰郷時に、東京にあって思郷の思いを抱いていた当時を懐かしみ、そんな気持ちになれる東京に帰りたいものだ」という意味に解しています。「 」内は回答者の要約。
その説によれば、「都」「みやこ」はともに東京で、この詩は現実の故郷への幻滅、あるいは愛憎半ばする思いをうたったものということになります。

いずれの説が正しいか、私には判断がつきません。

参考図書 吉田精一「現代詩」学燈文庫
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この回答へのお礼

まさか文壇でも解釈が分かれているとは知りませんでした。ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/24 13:34

 「一見しただけでは、東京で作ったのか郷里で作ったのか分りにくいようだけれども、しかしそれは郷里を離れようとするときの別れの心と、もはや再び帰らぬという決意を歌ったものである」(伊藤信吉「現代詩の鑑賞(上)」新潮文庫)という説が穏当だと思います。



 ふるさとは、今ここにあってのそれでは断じてなく、遠きにあっての「思い」こそが貴重なのであり、その思慕の念が切々として歌ともなって湧いてくるのである。よしんば他郷の空の下で乞食となってさ迷うとも、ここふるさとには戻るものではない。なのに帰ってきた挙句のこの幻滅、この落胆は耐えられない。
 東京での癒されぬ憔悴の日々が、誰もが見知らぬ他人だけの中での孤独の充たされぬその日暮の中での追慕果てない望郷の、あの真摯な希求、あの愛欲を超越した純粋さを、今このふるさとの地においてしみじみと懐かしみ涙ぐむばかり。嗚呼、この純粋な思慕の念を今ここに反照させつつ、改めてここ故郷を出立しよう。まさに「帰ろうではないか」あの遠く離れた都に、この「ふるさと」からはずっと遥けき、対比としての「みやこ」の地へと。
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この回答へのお礼

伊藤信吉さんの説を詳しく紹介していただき、ありがとうございます。
しかし今、自分としてはどっちの説か面白いか、というとなかなか決められないですね。

お礼日時:2006/08/24 13:35

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