●外見のファッションは それなりに意味があると感じています。
 でも 人の外見を見るとき わたしはファッションよりも服を脱いだ
 裸のほうに「重き」を置いています。
 大切なのは その人の持つエロスのスケール感と深さです。
 プラス 楽しみの余興としてファッションがあると認識しています。
●実は意識にも同じ事が言えるのです。
 みなさんが意識のファッションを強く感じる知名人を教えてください。
 またファッションを脱ぎ捨てた裸の意識とは「なんだ」と思いますか?
 この話題にまつわる雑感など 交えて教えてください。

 参考:(わたしの場合い。)
 意識のファッションを強く感じる知名人:キリスト・釈迦・ヒトラー etc
 裸の意識:「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの。

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A 回答 (37件中11~20件)

>普通はご先祖様たちの汗と涙の結晶としての文化の上にあたらしいなにかを


 見つけるものです。
わたしにフォロー入ってるね(笑。しかもなんじゃそりゃ?ふぉろーになってへんってゆう(笑。::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
  
 
 

>ちほこさんの裸意識の立場としては、ご先祖様の汗と涙はどうなの?
 
汗と涙の結晶!ちょっとふきだしてしまったんだけど(笑。
「あせくさい。かびくさい。」なんてゆっちゃわるい?
汗臭い文化は祭りぐらいかな。もうすぐうちの町ではだんじりがでます。
私は年季入ってますよ!もう九年連続でてます。三歳くらいから(笑。
汗と涙は、人に流れる文化の血となって、受け継がれる。なんて。
くちゃいことゆってしまおう。
 
裸の意識にその血は流れてるよ。絶対。
 
 
 
↓かってにゆってるけど、宮だしの時とかわたし手、合わすよ(笑。
そういう意味じゃないって?
とりあえず、私学受けんのに合格祈願とかしに神社行ってる同級、馬鹿にしまくった想い出わたしあります。で、「親がかってにやってんだよ」つって、あっそ。
くだらない。
自分勝手な奴。願うくせに信じない、自分勝手な奴。
頼むばっかで裏切り、夜の神社を何故か怖がる。キャーキャー言って男子おだてて。むかつくわ。神社をありがたいと思ってる人はこわがらないもん。
そんなやつにだんじりは、引かてやんない!
 
 
私は文化を食べて、育ったつもり。これからもそのつもりです。今ある存在って、そーゆことなの。
あと、仏様には手、あわさないなぁ。仏壇とかないし。「まんまんちゃん」とかつって、ちょいきもいでしょ?牛神様とかのほうがまだまし。
死んだら仏様になるとかって、なんの慰めにもならない。死をごまかしてる。
修行して成仏するって、バカっぽくない?
今ある存在、大切にしたいよ
 
>わたしにとっては「勇気」と言うよりも「無知」と映ります。
どっちでもいいよ(笑。っていうかなんでもいいぜ?(今流行りなんです。「なんでもいいぜ?」)
私このセリフ、まじラヴです(笑。重くないし、やさしいし。
  
 
  
 
なんでもいいぜ?
 

この回答への補足

●子供を塾に迎えにいってきたので つづきをこちらに書きます。

 けっこう わたしはこまかいんで なんでもいいぜ?とはなりずらいですね。
 年号が平成にかわるときも こだわりましたよ。
 絶対「江戸時代PART(2)」にしましょうって。
 あの運動の張本人は わたしだったんです。無理なら「カンブリア紀」
 わたしたちの子孫が あれ! また江戸時代だー・・・。
 なんてお勉強してくれたら 超うれしいですよね。

 あと祭りには めちゃ興味あるんですよ。
 個人的に山車を持ちたいんですよ。
 百人くらいの男衆にひかせて その男達は全員わたしと寝たことがあって。
 笛と太鼓と鐘とエレキベースで 曲想はマイムマイムでサビがコロブチカ
 んで 間奏がオクラホマミキサー。
 そんでもって 真ん中にF18のエンジンを二基搭載してて
 ひとが注目してくれたら ときどき空ぶかしするんです。
 わたしは山車のつきだしでベッドに寝てて シャンペンなんか飲みながら
 愛嬌をふりまくんです。 なんか楽しそうだなあ・・・。

補足日時:2002/04/11 22:43
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この回答へのお礼

インタビュアー:首相 雇用情勢が求人倍率0.3倍を切り 大変きびしい
        状況ですが なにか秘策はございますか?
首相:なんでもいいぜ?

●こういう会話なら引かれます。つまり期待と答えの落差ですね。
わたしの今の社会的位置では なんでもいいぜ? は 使いこなせないなあ。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/11 22:00

●ロマン派として 生きるのは いいことだとおもいますが


 ロマン派に おぼれては いけません。
 
なんで?ええやん。おぼれても。溺れるのは、現実なんだから(笑。
あと、チョイフォローを。
 
今ある存在ってな、古くもなけりゃ新しくもない。
手を合わすならあわせばいいよ。あわさなくても生きていける。
↓こいつはたぶんあわしてないぞ。俺もあわしてない。境地?そんなものねぇ。
今を生きるとはすでに至ってる事だ。境地なんてねぇ。新しくもねぇ。古くもねぇよ。手を合わさない俺らはNGかもな(笑。
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この回答へのお礼

●NGなのはすべての人間ですよ。
 あなたが 自分はNGかもなと言えてることは すごいことです。
 人間 そこに なかなか気づけないものなんですよ。
 「俺らはNGかもな。」この認識だけでも80点だとおもいます。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/11 21:39

人は人になった。

で、いいじゃない。仏にならなくても。
なんでもいいよ。
私は 別の存在よりも 今ある存在を大切にしたい。
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この回答へのお礼

●仏さんに 手を合わせるひとが多いんですよ。
 かく言うわたしも 手をあわせるファッションを着こなすこともあります。

 今ある存在を大切にしたいという あなたが 仏さんに手を合わせずに
 生きれるなら その境地を知りたい。

 普通はご先祖様たちの汗と涙の結晶としての文化の上にあたらしいなにかを
 見つけるものです。いきなり自分だけあたらしい境地に立つということは
 わたしにとっては「勇気」と言うよりも「無知」と映ります。

 あなたが仏さんに手を合わせているのなら それはもうOKです。
 ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2002/04/11 08:44

>わたしが 裸になるためには 真理らしいとしている事柄も


>心の奥底の良心も きれいさっぱり脱ぎ捨てます。
>そうしていると はじめは すべてのこと(悪も含めて)を許せる心境に
>なります。

ここまではよくわかります。


>結局「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもののなかで
>生きるようになります。

ここがよくわからない。
なんで『「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れる』で留まって
生きてしまうんですかね??
もっと人間は高い領域に上がれるのに。

そりゃ私も悟りを開いたわけではないから完全にはわからないけれども、
エロスも克服してさらに尊くなれると思うのですが。
仏典の記録によれば、お釈迦様はそういうレベルにまで達したようです。
仏典の記述をどこまで信じるかにもよりますが。

誰でもお釈迦様やイエス・キリストのようになれるかどうかわかりませんが、
本来、人は何物にも変えがたい尊い存在なんですよ。
そういう存在になれる可能性は、誰でも持っています。
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この回答へのお礼

●爆です。
 そもそも わたしは お釈迦さまやキリストになろうなんておもいませんもん。

 普通でいいんですよ。普通以上を求めると お釈迦さまやキリストみたいに
 わけわからないことしゃべるようになりますよ。
 普通がいちばんいいんです。
 普通をちゃんと わかるために 裸にならなきゃならないんです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/11 08:49

私も参加させてもらっていいですか?


>すばらしい人間を復活させたい そう願う あなたのことを理解できない
 理解しようともしない人間たちが 多すぎるんです。
 
そのための「しんがり」です。そのために 全員がしんがりなのです。私達の中で生まれたしんがりですが ずっと先であっても それはそれなのです。しんがりは死なない希望です。捨てられたもののために 皆はしんがりになるのです。

人は、自分の家族のためには他人の家族も殺せます。そして同時に、平和を願うのです。車に乗りながら、環境問題について語ります。流されながら、惰性からの脱却について、語ります。その時何を語る必要があるでしょう。
 自分を捨てるのに 何が歯止めを、かけているの?
裸になるのに なにを 恐れてしまうのでしょう? 
人は感化される。ともに混迷の時代を生きようとする。
私達は、人間を失うわけにはいかない。自然を失うわけにはいかない。
目の前の幸せは 私達には必要なくなった。それは望まずとも 気ままに訪れる。
見渡せる幸せを 夢に見る幸せ。
それを現実として 生きる幸せ。
自然が急速に失われる中、人の心は濁る。
人は感化する。甦る心からの涙は 皆の心を洗います。
人は忘れる生き物だけれども 洗われた心がどうやって輝くものか。
それは透き透ってる。
光と闇の闘争 死すべき者も生きるべき者 透明な人の心によって 両者は救われる。
 
涙で洗われた心を かわかすのは 太陽と風です。
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この回答へのお礼

[ まっすぐな まなざし ]

遠い日
そこには あなたがいる
少し はにかみながら
遠い日
心は すぐそばに いたのに
伝える すべを知らなくて
今 ここにきて
あなたに たずねられてる気がする
「しあわせですか」
いろんな想い出が重なって
今のわたしになっている
だから 迷わずに うなずける
遠い日
そこには あなたがいる
まっすぐな まなざしで


ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/11 09:00

|[ミームの由来]


|模倣を通じて人間から人間へと伝えられる文化的な情報単位。
|文化の遺伝子に相当するが、原則として親から子にしか伝わらない遺伝子と
|違って、ミームは1世代の間に多くの人間に拡がることができる。言語、思想、
|宗教、政治・経済体制から芸術、生活習慣、ファッションまで人間の生活や
|文化にかかわる幅広い事象が、ミームによって拡がるとされる。|
|....
|ミームの実体や複製機構は今のところ不明であるため現実性のない比喩に
|すぎないという批判もある。
|朝日現代用語「知恵蔵」2001より
参考URL; http://www.g-ws.co.jp/meme/meme.html

紹介していただいたURLからリンクをたどって、ミームの定義らしきものをみつけました。他でも説明がありましたが、とりあえず上記の記述が一番しっくりきました。

まぁ、フツーの人たちはマスコミ・口コミから流入する膨大な情報に振り回されて生きていますね。このことを「ミームの渦」と呼ぶならば、納得できる概念です。


>ミームからの 完全な脱却 そして真の自分への旅立ち
>そんな こころの有り様を 模索してみたいのです。

現実の自分は、まだまだ世間の雑多な情報に振り回されていることが多いけれども、そこから脱却するように努力しています。
日頃から心がけていることを簡単にまとめてみます。ご参考まで。


1.真理を探求し、理解すること。

人の思考が雑多な情報に振り回されるのは、自分の心の軸が定まっていないからです。
心の軸がしっかりしていれば、外部からの圧力があってもその影響を排除することができます。
真理を理解することで、善と悪・正と誤を論理的に判断できるようになり、心の軸を強化できると考えています。


2.良心の声に耳を傾けること

自分の心の奥底に「真の自分(真我)」があることを体得できれば、その真我が良心を通して自分の心に働きかけていることを発見できるかと思います。
物事の判断に迷った時には、心を済まして良心の声に耳を傾けてみてください。
直感的に事の是非が判断できるようになり、誤った選択を避けることができるようになるでしょう。
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この回答へのお礼

●1.と2.の内容ですけど 多分に意識のファッションから
 逃れられなくなる可能性のある方法だと わたしは思います。

 わたしが 裸になるためには 真理らしいとしている事柄も
 心の奥底の良心も きれいさっぱり脱ぎ捨てます。
 そうしていると はじめは すべてのこと(悪も含めて)を許せる心境に
 なります。そのうちに いろいろ考えることが 不必要になり 結局
 「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもののなかで
 生きるようになります。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/11 01:20

●あなたは 自然をアマク見ています。

自然を軽視してはいけません。
 人間のあらゆる行為(作為)芸術も勿論含む は 自然の有り様に
 その美しさで 足元にも及ばないと言う認識が あなたにありますか?

あるよ。っていうか、誰が見てもそうだろ。俺にそんなこと聞くなよ。
でもな、俺の言葉は 人間は素晴らしいと、言ってるんだよ。自然を甘く見てんじゃない。人間は馬鹿で愚かだけども、その心の奥、裸の意識は奇跡の眠る場所だと、思ってるから。自然を手本に生きるのか。自然体で生きるのか。
 
人間のありさまは、自然のありさまの中でも特に素晴らしいと言ってしまいたいな。比べたくはないし、全体を観りゃ比べれるものでもないけど、人間は素晴らしい。そのあり方を実現するのにミームは必要であり、悪は必要であり、苦は必要であり、涙が必要だと思うんだよ。悪も働いてるって、そう思うんだよ。素晴らしさは、外にあるんじゃない。与えてもらうものじゃない。心は外にも中にもある。
 人間の心は何故美しいか?
そこに宇宙があるからだよ。脳ミソとかの問題じゃない。素晴らしい人間を復活させたい。

 概念の話は止めよう。パソコンの構造もよくしらんし。えらくながくしゃべっちったよ。コーヒーも冷めちまったな(笑。
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この回答へのお礼

●ロマン派として 生きるのは いいことだとおもいますが
 ロマン派に おぼれては いけません。

 現実は 世界中の良識ある人々が反対するなかで 原爆実験を強行する
 人々がいることであり。 処理のしかたもわからない核燃料廃棄物を
 保管・管理・処理 事業を誘致したり。有害物質を除去できない
 ごみ処理施設を都市のど真ん中に建築したり。爆弾の雨を降らせたり。
 良識ある人間たちも その暴挙のただなかで 暮らさざるおえないのが
 現実というものなのです。わかっていても修正できないもどかしさ
 悲しさ 切なさ。わたしは そんな耐えられない状況から逃れ
 田舎でひっそりと暮らしていますが それでも黄砂が 空を褐色に染めると
 中国の方々の自然に対する良識を願いたくなるものです。
 たぶん 中国のこれからの発展の汚物を日本人は かぶることになるのでしょう。

 すばらしい人間を復活させたい そう願う あなたのことを理解できない
 理解しようともしない人間たちが 多すぎるんです。
 今日の経済新聞で ブランド性の分析が発表されていました。
 ブランドのちからの順位です。
 1:SONY 2:ディズニー 3:スタジオジブリ です。
 ソニーはともかく 2位と3位は夢の世界です。
 夢の世界が二位と三位をとっている 現代でも 本当の夢のような社会は
 ずーっと ずーっと 先のように感じます。
 なぜなら あらゆる人間がかかえる問題 非良識行為 悪 すべて
 わたし自身の中にも あるものだからなのです。

 ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2002/04/11 00:58

>参考:(意識の階層)


>自我(自分を自分と認識している意識のフィールド)真善美があるところ。
>   傍観できない。すっきりしている。
> ↓
> はだかの意識(対象に真善美を照らすフィールド)もやもやしている。
> ↓
> 第二の表層意識(顕在意識)すっきりしている。下の階層意識を傍観する
> 意識。
> ↓
> 表層意識(顕在意識)すっきりしている。

> 深層意識(潜在意識)は意識の全ての階層にかかわっている。

chihokoさんの意識観はわかりましたが、ややこしいね!(笑)
この説明なしに「はだかの意識ってなんですか」て聞かれても
フツーの人はなかなか答えられないと思いますよ。


私の意識観は、もっと簡単で、
 表層意識+潜在意識
という感じです。もっとも潜在意識にはいろんな要素が含まれていて
一概に同じモノとは言えないのですが、わかりやすくまとめておきます。

けれども、潜在意識のさらに奥にもう一人の自分が、
「まことの自分」
ともいうべき存在を感じます。良心の声とも言えるかもしれない。

アートマンとか真我とも呼ばれる尊い存在が、人の心の奥底深くに存在します。
あえて「はだかの意識」とは何かと聞かれた場合、それこそがそうだと思います。
客観的な存在の証明こそできませんが、ヴェーダ哲学や仏典の記述を読む限り、
そういう存在が、すべての人に備わっていそうです。
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この回答へのお礼

●わたしは 哲学の歴史には まったく興味ありません。
 本は 若い時 すこしよみましたがなんの影響もうけてません。
 ここで わたしが 問題提起している 核をわかりやすくひらたく言うと。

 何かを考え行っている意識もそれを傍観している意識も 潜在意識も
 すべてファッションですよ。そこに先ず気づいてください。
 そしてそのすべてを取り除いた自分を想像してみてください。
 そこになにがのこりますか?残ったものは ほんとうにそれでいいんですか?

 ↑ということなんです。
 ミームからの 完全な脱却 そして真の自分への旅立ち
 そんな こころの有り様を 模索してみたいのです。

 ご回答ありがとうございました。
 http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/ep_mem …
 ↑ミーム参考URL

お礼日時:2002/04/10 12:13

chihokoさんの言うことは、感覚的にはだいたいわかるのですが、


論理(ロジック)を組み立てようとすると、組みあがらなくなってしまうんですね。

オリジナルの用語が多くて、私の方で意味を把握できていないからかもしれません
ので、しつこいかもしれませんが、もう少し私なりの解釈を進めてみます。


1.意識のファッションを着こなすとは?

意識のファッション=人格とすると、
 「人間はさまざまな意識のファッションを着こなす」
という言葉の意味がよくわからなくなります。
一人の人が、多くの人の人格を身につけているという意味ですか。
それではただの多重人格者ではないかと。哲学を離れて、精神病理学の話になりますね。

それとも、
 「人間はさまざまな意識のファッションを着こなすうちに
  自分オリジナルのファッションを着こなすようになります。」
という言葉は、人は多くの人の人格の影響を受けて、自分自身の人格を形成
していくという風に解釈すればいいのでしょうか。


2.「ミーム」って何?

>本来自然のなかで自然から学ぶ人間はだれもが「人格」を持てました。
>しかし 今日 ミームの渦のなかで狭い視野しか持てなくなってしまった

本来の人間は自然に人格を形成していくことができるが、今の人間は本来の姿から
外れているので、人格の形成がうまくできないということを言っているのでしょうか。
これなら、まぁ意味が通じます。

しかし、「ミームの渦のなかで」が全く意味不明です。
そこそこ哲学をかじって(独学ですが)いますが、ミームなる言葉に覚えが
ありません。詳細に説明してください。

オリジナルの用語を使う時は、知らない人が読んでも理解できるように
きちんと説明しないと駄目ですよ。
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この回答へのお礼

●ミームについて説明すると とても大変です。
 ネットで調べてください。

 わたしは 遺伝子以外で時間をこえて伝わるモノの総称としてミームという
 言葉をつかっています。

●人間の本来の姿 は 明示できないものだと感じています。
 自然の一員としての自分とミームの中でいきる自分とを
 どう折り合わせていきるか その回答が人格であると 言うこともできます。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/10 11:59

>あなたが なにかおいしいものをたべたとき そのものを指して「あ」といってください。

それが言葉です。そこには概念なんて存在しません。

ちょいまって。どうやってそのものをそのものとして知ることができる?何かをゆび指す時点で、言葉が働いている事に気付けるだろ?何かを何かとするんだから(リアルタイム状況で。文の上の話じゃないよ。)。名づけの前に。
意味わかる?これ系の話題になると女は必ず消えちまう。多くの男も消えちまうが。ここらが男女、センス、脳の構造、考え方の違いと思う。
言葉の本質は無言の言だ。指で指す前に、名辞の前に、言葉はすでにある。
言っちまうと、始まりも終わりもない時からある。言葉は人間の産物じゃないんだよ。存在と一緒で。「あ」はあきらかに概念だと俺は思うぞ?
なぜなら、「指されたそのもの」という、その時食べた、リアルに存在しているものを、概括的に、かつその時存在したリアルな要素を逃さず限定、念化したものを、「あ」と、してるんだから。「あ」というのは名辞だろ?概念は名辞じゃない。
名前の示す所、指す所のものだ。この話で言うと、現実の「何か美味しいものを食べた時のそのもの」が、念化されたものだ。名辞の対象は、モノじゃないんだよ。モノに名前はつけれない。すでについてるから。存在として。
>それはもう自然でしかありません。
 自然が存在するのに、言葉が必要だと言っても君は聞かないだろうが、自然か、自然でないか、そこに境界はない。そうか、そうでないかだけ。概念があっても、それに振り回されない自然体の私であれば、いいと思う。
●No Concept but Good Design とは「言葉の表現」でそう言っているだけです。
 無意識のうちに概念が関与しています。
 無意識の概念もない行為は 存在しません。それはもう自然でしかありません。
×自然でしかないなら、自然体でいいんじゃない?概念を自然とするのはできるんじゃないの?概念を知りながら、自然体で生きたらいいと思う。余裕でしょ(笑。
自然界に概念がないとしても、自然界はGood Designだよ?自然体で生きようぜ!服を着てても、着なくても。。自然は善くも悪くもないから。
●こどもも概念によって行動することには かわりありません。
 こどもは大人の数段上の感性を持ち 知識が乏しい それがこどもたる所以です。
×感性、感覚によって行動するんだろ?子どもは。で、自称大人がしつけをいろいろねじ込むんじゃないの? 「あそこに登ろうか」と思った時にはすでに登ってるのが子どもだと思う。登るのが無理だったらすでに無理。親が注意するまでもない。子どもは自然と自分で、リスクをよむ。概念を使うけれども、支配されてるわけじゃない。概念、知識を使って行動するのと、人生をコンセプトで形象するのとは違うと思う。
●ちゃんと自分で認識したファッションとデザインに基づく行為は 修正も
 できます。他者のあり方にも最大限の配慮が なされます。
 
×自然界に生きる動物は他者に配慮してる?自分の行為を修正するか?
裸の意識はあるがままとどう関係するのかな?
非常に固まった、小さい大人の感じを受けるぞ。
裸の意識が大事だって君自身いってるのに、なんでいまさらファッションに基づく生き方を持ち出すんだ?太陽の子どもが君のファッションなんだろ?服を着るのに理由はいらん。服を着たいから着る、それでいいっておもう。
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この回答へのお礼

まず 言葉 概念 というものについて。
●どの段階のはなしか ということにちゃんと着目する必要があります。
 たとえばパソコンの場合 OS 機械言語 ビットの有るなし など
 さまざまな 段階があります。「あ」とは OSの段階の話なのです。
 目や舌や歯などからはいる 知覚情報は 脳のなかで 既存の体験情報と
 比較され いままでに体験したことのない情報で その情報のベクトルが
 善や美の方向に向いているから はじめて 「あ」という言葉がそこに
 生まれるわけです。「あ」以前の情報は 知覚情報の単なる蓄積です。
 口に出して「あ」と発音してその音と知覚情報がone to oneでリンク
 することが 言葉なのです。

●あなたは 自然をアマク見ています。自然を軽視してはいけません。
 人間のあらゆる行為(作為)芸術も勿論含む は 自然の有り様に
 その美しさで 足元にも及ばないと言う認識が あなたにありますか?

 ないからあなたのような 言葉がでてくると思います。
 わたしたちは 自然の一員ですが 明らかに自然から逸脱したミームの
 なかで生きているのです。だからこそ 自然を手本として
 すこしでも高いファッションをもち デザインして 
 生きなければならないのです。
 
 自然のままに暮らし 生きれる世の中なら だれも苦労しません。
 こんな設問も必要ありません。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/10 11:47

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Q大阪のみやげはなんだ?

大阪出身、大阪育ちです。
こんど友人が大阪に帰ってくるので、大阪みやげを渡そうと思います。
しかし、大阪みやげというものがわからず困っています。
大阪に観光に来た方や、大阪の方大阪のみやげを教えてください。

Aベストアンサー

551の豚まんなんて、定番ではないでしょうか。
僕の周りではシュウマイと一緒に買うと、喜ばれます。
値段もそんなに高くないですから、いいのではないでしょうか。

Q《わたしがわたしである》わたしがわたしする

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。


 

6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イ
ツハリをおこなう。光も曲がる。存在もそして存在の中軸としての意志も 相対的
なもの(善)だからである。
 
7. つまりは 善なる存在は そのみづからの存在としての善をも損傷する自由
のもとにある。ウソをつきイツハリをおかす。それは やましさ(恥づかしさ)反
応で分かる。


 


8. ウソを 思惟しただけではなくヤマシサ反応にさからって実行したなら そ
のぶん もともとの(生まれつきの身と心とから成る自然本性としての)善を傷つ
ける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。
 
9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼
んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。悪は 表現の問題である。
 
10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 
善――正負の善――の関数である。




11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在で
ある。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損
傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけ
ではない。善がひがみ ゆがむのみ。

12. 人びとの中には やけを起こすわたしがいるだけのことだ。これが やめ
られないとき その悪を悪魔といった独立の存在のしわざだと見たくなる。その想
像の産物として 悪や悪魔がある。



13. 相対的な善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へそ
の曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる
存在を自治する。自己経営する。
 

14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つま
り人間の行為関係を共同自治して生きる。
 

15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集
まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよば
れる。悪の共同自治ゆえ。

16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛は
あるか。

 
17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。


18. これだけのことであると考えられるところを 世の中には――自由意志ゆ
えに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがあ
る。

19. 理念を推し出しお花畑を描くことによってのみ人間と社会の問題に発言を
おこなったり あるいはぎゃくに 世の中はチカラのみだという〔しばしば悪の〕
社会力学のみを推し出したりする。・・・


成否・当否を問います。
あるいは この《18&19》のあとを ご自分の見解で展開して行ってください。

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現...続きを読む

Aベストアンサー

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせてはいけない
殺人は取り返しがつかない
時間はもとには戻らない
家族が嘆き悲しむ
親戚が嘆き悲しむ
その人の所属している団体、すなわち会社が、学校だったりが悲しむ

たとえば旦那さんの不倫があったとする
それは奥さんが旦那さんから気持ちが離れた
旦那さんのことを気に掛けなくなった
旦那さんより自分の気持ちを優先させてしまった
一人では生きていけない
この世は支えあって成り立っている
仕事や自分の趣味等に気が行き過ぎるとよくない
バランスが大切

とか・・・。いろいろなことを教わる。
だから全ては善なんだ。

反対されるかもしれないが
こんな考え方 この世には善しかない
どうですかね?

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせては...続きを読む

Q大阪市の住民投票は大阪市民だけ、、、他の大阪府民の意見は?

大阪都に関する住民投票は大阪市民だけが対象だそうですが、賛成が上回って
実際に大阪市が解体された場合、大阪市以外の大阪府民には影響は少ないの
でしょうか?
大阪市以外の大阪府民の意見は聞かなくてもよいものなんでしょうか?

Aベストアンサー

もともとの構想は、大阪府・市を廃止して大阪都を設置し、市内に都市区を設置するというものでした。(画像参照)
ですが、2013年堺市長選挙で、大阪都構想に反対する候補が当選したことにより、初期構想につまづきが生じた結果、まずは中心の大阪市だけ先に住民投票で賛否を問うという形になりました。
なので、大阪市が賛成となれば、それ以外の市に関しては改めて協議という形になるでしょう。その際には当然各市において、住民の意見を問う活動が予想されます。

Q哲学アンケート:他我意識

哲学アンケート:他我意識

みなさんは「他我意識」という記号から、どんなイメージを持ちますか?

(ちなみに当カテではアンケート目的の質問投稿は、管理担当者により認可されております)

Aベストアンサー

哲学の歴史の中で、他我認識の問題を初めて取り上げて問題にしたのが、現象学の創始者フッサールで、その「デカルト的省察」においてでした。
私たちは外的対象ならば、見ることができるから認識できますが、他我、すなわち他人の心は私からは見えないから、直接的に認識することはできません。
私の心は直接知ることができますが、他人の心は間接的にしか、例えば他人の振る舞いや仕草や表情の向こうにあるものとして単に想像するしかありません。
フッサールはこれを「間接呈示」と言っていますが、私たちは「間接呈示」を通して、感情移入によって私の心を他人の身体の内に「投げ入れる」ことによって、他人の心というものを認識します。
フッサールの用語ではこれを「類比的統覚」と言っていますが、私の心に類似したものとして他人の心があるということです。
しかし、他人の心というのは私の心を他人に「投げ入れた」ものですから、いわば私の心の「投影」です。
したがって、この世界には心というのは私一人にしかなく、他人は機械であって、ロボットかゾンビに過ぎないと考えることもできます。
これが「独我論のパラドックス」で、世界に心は私の心一つというのはひじょうに常識に反します。
常識では、私に心があるのと同様に他人にも心があるというものです。
しかし、哲学的に考えると「独我論」にならざるを得ません。
パラドックスになります。
いったい、常識が正しいのか、「独我論」が正しいのか?
もし、常識のいうように他人にも我が、他我が存在するというのなら、私たちはそれをどのようにして認識しえるのでしょうか?
そしてフッサールは「デカルト的省察」では他我認識に失敗し、破綻しました。
晩年にフッサールは「独我論のパラドックス」を解決するために、新たに「間・主観性」という考えを持ち出すに至ります。
フッサールによれば、他我認識が難しいのは近代哲学の以下のような前提に私たちが呪縛されているからだと言います。

(1)私の心は直接的に知ることができるが、他人の心は間接的にしか知ることができない。
(2)心は各人の身体の内側にあり、外からはそれをうかがい知ることはできない。

この二つの前提を放棄しない限り、他我認識は失敗する、というのがフッサールの診断です。
それに代えて、フッサールのいう「間・主観性」というのは、心とか主観とかいうものは人間の身体の内側にあるのではなく、人間と人間の中間にあるという考えです。
各人の心はその「間・主観性」が枝分かれして各人の身体の内側に定位したもので、だから心とは「共同心性」なのだ、ということ。
心は実体的な概念ではなく、関係的な概念だということです。
これを逆にいうと心というものは人間と人間が共同して作り上げているものということができます。
人間の本質は共同存在にあり、孤立した存在ではないということがそこから帰結します。
他我というのは共同の心性を各人の身体の内側に「投げ入れて」そこにあるものとして私たちが認識するものです。
そして他人からすれば、私の心は同じように共同の心性を私の身体の内側に「投げ入れたもの」ですから、私は私の心と他人の心を「類似」したものとして認識し、理解することができます。
共同の心性というのは私と他人だけが作り上げるのではなく、社会的・文化的に作られるものだというべきです。
たとえば一定の共同体に生きている人間は、その共同体の固有の心性を持つことができます。
私たちが他人の心を理解できるのは私と他人が共に同じ共同体に生きているからです。
当然、同じ共同体に生きていない人間同士では、互いに理解できないということが起きます。
共同心性が作られていないから。

以上のようにフッサールは「間・主観性」をもって、近代哲学の「独我論のパラドックス」を克服できると考えました。
果たして、本当にそれが克服になるのか、私はじゃっかん疑問を抱いていますが。

哲学の歴史の中で、他我認識の問題を初めて取り上げて問題にしたのが、現象学の創始者フッサールで、その「デカルト的省察」においてでした。
私たちは外的対象ならば、見ることができるから認識できますが、他我、すなわち他人の心は私からは見えないから、直接的に認識することはできません。
私の心は直接知ることができますが、他人の心は間接的にしか、例えば他人の振る舞いや仕草や表情の向こうにあるものとして単に想像するしかありません。
フッサールはこれを「間接呈示」と言っていますが、私たちは「間...続きを読む

Q大阪市立大学と大阪経済大学について質問です。

大阪市立大学と大阪経済大学について質問です。

大阪市立大学と大阪経済大学の雰囲気や1970年代からの評価、就職状況など地元大阪府の人教えてください。
又看板学部は大阪市立大学の場合商学部になるんですかね?

Aベストアンサー

大阪市立は3商大として名門でした。
(一橋大、神戸大、大阪市立大)
誤算だったのは、近くに名門国立大である阪大、京大があったこと。
またバブル期の80年代に私大志向が高まったことでどんどん陰りが見えて来ました。
90年代の不況で漁夫の利的に、一時期は人気も出たのですが、特に対策も取らずにのほほんと来たが為にずっと下がり続けていると言う感じですね。
問題は校風だと思います。
ランク的に、京大落ち、阪大落ちが多く、「落ち」と言うものの、要は
センターの結果から安全策を取った回避組です。地元公立進学校の生徒が多く、そこそこ優秀であることと、「受験に失敗した」わけでもないので入学後に猛勉強をすると言うような校風でもありません(例えばランク的に同程度と思われる中央なら早稲田や東大落ちが多く、必死にやって5年後、10年後にたくさんの人が司法試験に受かります。)
そこそこでやって来た人が入って来てそこそこやって卒業していく感じですね。多くが公務員や地元金融機関に進みます。何人も知っていますが、温和なノリですが、あまりパワーは感じません。
やはり浪人を避けて第一志望を回避して来た人が「しょうがなく入る」のが入学後も響いてる気がしますね。
「昔は良かったんやけど」と言うのが地元の人の感覚です。余り優秀でないわけですから、それを自覚して活動すべきなんだけど、何せ阪大や京大を「目指してた」わけですからその感覚がなかなか抜けないようです。
親である大阪府、大阪市の酷い財政状況や不祥事と合わせて辛い時期だと思います。

大阪経済大学は詳しく無いですが平凡な2流私大と言う気がします。

大阪市立は3商大として名門でした。
(一橋大、神戸大、大阪市立大)
誤算だったのは、近くに名門国立大である阪大、京大があったこと。
またバブル期の80年代に私大志向が高まったことでどんどん陰りが見えて来ました。
90年代の不況で漁夫の利的に、一時期は人気も出たのですが、特に対策も取らずにのほほんと来たが為にずっと下がり続けていると言う感じですね。
問題は校風だと思います。
ランク的に、京大落ち、阪大落ちが多く、「落ち」と言うものの、要は
センターの結果から安全策を取った回...続きを読む

Q現象的意識と反省的意識

デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?

そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね?
「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか?
もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか?

あともう一つ、現象的意識が「現れる」という表現がよく見受けられますが、
現象的意識を「感じる」「受け取る」という言い方は不適切なのでしょうか?

質問ばかりで申し訳ありません。
宜しくお願い致します。

デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?
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Aベストアンサー

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識によるからです。ですから、物事の意味理解は全て反省的意識によると見てよいのではないかと思われます。私には、反省的意識と機能的意識は同一としか考えられません。


例えば生まれたての赤ん坊の意識はほとんど純粋に現象的意識でしょうし、
5+7=12などの単純な計算はほとんど純粋に反省的意識によるのではないでしょうか。


>「質感を持たない主観的体験」
難しいですが、無いように思います。


感覚ではなく現象、感じるではなく現れる、と表現するのは現象学や純粋経験論的立場をとっているためではないでしょうか。
感じる「私」の存在は実は前提ではなく、ただ経験(現象)あるのみとしか言えないというアレです。


参考になる所があれば、ぜひしばらくお付き合いください。

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識による...続きを読む

Q今の大阪どうなんでしょう?

当方大阪出身で大学の進学から大阪を出たまま、10年以上経ちます。
大阪が大好きです。高校時代は探偵ナイトスクープに何度も投稿しました(笑)。もちろん今でも大阪弁です。

さてテレビ、新聞で見る大阪と言えば「痛ましい事件」「企業の大阪離れ」「シャッター商店街」などあまりいいものを目にしません。
実に「えー?どこ?うーわ、また大阪やん。」と思うことが多いです。
最近橋下知事の話題がようやく入るようになった程度。大きく変わったことは阪神が強くなった程度です。
よく全国ネットのニュースの最後の1分ぐらいに流される
「これはxx県の映像です。昔から伝わるxxxという行事です。子供たちが楽しそうに遊んでいます。」
こういう映像で大阪を見た事が一度もありません。

年末年始帰省しても、大都市って年末年始はガラガラ、ラッシュになると戻って来る人で混雑するはずですが。今の大阪は年末年始になるとどっと人が増え、本来の大阪の姿になります。逆転現象です。
実際私の中学・高校時代の同級生の多く大阪から離れていっています。
大企業になるほど大阪離れ顕著です。

隣の韓国のソウル一極集中もすさまじいですが、プサンと同様大阪も完全に日本で一番大きい地方都市化してしまいました。

実際に大阪に在住の人に質問です。
大阪は今でも活気があると思いますか?実際住んでいて大阪ってどうでしょう?住みやすいと思いますか?

当方大阪出身で大学の進学から大阪を出たまま、10年以上経ちます。
大阪が大好きです。高校時代は探偵ナイトスクープに何度も投稿しました(笑)。もちろん今でも大阪弁です。

さてテレビ、新聞で見る大阪と言えば「痛ましい事件」「企業の大阪離れ」「シャッター商店街」などあまりいいものを目にしません。
実に「えー?どこ?うーわ、また大阪やん。」と思うことが多いです。
最近橋下知事の話題がようやく入るようになった程度。大きく変わったことは阪神が強くなった程度です。
よく全国ネットのニュ...続きを読む

Aベストアンサー

たしかに活気が減っているのは事実です。
根幹には日本の場合、政治・経済共に東京への極度の一極集中化がされている為です。少し前なら、その状況下でも大阪は独自の経済圏を持ちえましたが、これだけ不況が続き、地方の活気がなくなると大阪にも影響が出てくるのは自明の理です。

あとは言い訳をしていきましょう
「痛ましい事件」
一般に大阪以外で大阪の細かなニュースが全国展開で流れることはありません。(それは各地方でも同じです)従って、大阪以外の地域で大阪のニュースが大きく取り上げられるとどうしても「痛ましい事件」が多くなります。別に大阪だけでで痛ましい事件が多発しているわけではありません。

「企業の大阪離れ」
これは確かにそうですが、今に始まったことではなく、大半の企業は平成始めごろまでに「離れて」しまっています。

「シャッター商店街」
大阪でも見られますが、やはりその惨状が酷いのは各地方都市です。首都圏も例外でなく、千葉・群馬・栃木・茨城辺りでは簡単に見られます。少なくとも京阪神近郊に限定すれば他地域よりもましな印象があります。

「こういう映像で大阪を見た事が一度もありません。」
そんな扱いをしたら関西圏の人が田舎扱いするなと怒るのでは?
という冗談はさておいて、各地方に見られる「ほほえましい」風景というのは東京等の都会から見た視点で放送されており、関西特に京阪神近郊は都会的要素が含まれるため、東京から見て「ほほえましい」「懐かしい」と感じるほど田舎的要素が見られないためと個人的には考えられます。
また、年中行事の大半は京都を中心とした地域の伝統が源流にあるため、源流であるゆえ「珍しい」と感じる要素が少ないことも理由と考えられます。
有名行事なら、ニュース最後の暇ネタではなく、本編で堂々と紹介されていたと思いますが…

>今の大阪は年末年始になるとどっと人が増え、本来の大阪の姿になります。逆転現象です。
大阪離れが進んでいることを自覚しているなら当然の現象です。大阪離れが進むほど東京から「帰省先」が大阪になる人が増えてくるのは当たり前の話です。

関西人は関西は東京に次ぐ第二の経済圏と信じて生きてきますが、一旦東京生活をすると、大阪とて他の地方都市となんら変わりないのだという「現実」に気づいてしまいます。
その現実を受け入れれば、特に悲観することはありません。上述の不満も他の地方都市に比べれば多くは「まし」なのです。

ただ、多くの関西人は田舎と都会のよさが適度にブレンドされた関西圏を愛し続けると思いますよ。

最後の質問ですが、特に住みにくいとは感じません。

たしかに活気が減っているのは事実です。
根幹には日本の場合、政治・経済共に東京への極度の一極集中化がされている為です。少し前なら、その状況下でも大阪は独自の経済圏を持ちえましたが、これだけ不況が続き、地方の活気がなくなると大阪にも影響が出てくるのは自明の理です。

あとは言い訳をしていきましょう
「痛ましい事件」
一般に大阪以外で大阪の細かなニュースが全国展開で流れることはありません。(それは各地方でも同じです)従って、大阪以外の地域で大阪のニュースが大きく取り上げられると...続きを読む

Qヘーゲルの自己意識にとってのもう一つの自己意識とは?

◆「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。
第二に、自己意識はそうすることでもう一方の相手を破棄している。
というのは、それは、相手を実在としてみるのではなく、むしろ自己自身を相手のうちに見出すからである。」(141.109-19)

ヘーゲルは、「自己意識が二重になりながら統一を成しているという概念」(141.109-9)に、「自己意識で実現されている無限性」をみる。
自己意識が二重になりながら統一を形成するというのは他者と人間関係を結ぶ中でこそ、自分に対する期待、自分の果たすべき役割、自分のなしうることなどについて、意識されるからである。
(加藤尚武編『「精神現象学」入門より』)

という事は、自己意識にとってのもう一つの自己意識とは他者なのでしょうか?
また他者は如何に、どうやって自己意識に把握されたのでしょうか?

Aベストアンサー

相互承認の部分ですね。

> 自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。

まず最初、自己意識は〈自分だけの存在〉としてあります。自分の中から、他者のすべてを排除する活動によって「これが自分だ」という意識が生まれる。
この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我にあらざるものすべてに対立する自我」)です。

「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する」というのは、一人の個人がもうひとりの個人に相対している、ということです。
けれども「もう一つ別の自己意識が存在する」というのは、このふたりを俯瞰する位置にあるわたしたちに言えることであって、この人はまだそう思ってはいません。ただ、「自分ではないやつがいる」と思うだけです。
同時に、この人の内部でも、主観的には自己自身を確信しているけれども、他者に対してそれが通用するかどうかわかっていない。そのために、この自己確信は単なる主観的確信に留まっている。

したがって、自分の持つ自己意識の観念を、自分以外の人間にも認めさせなければならない。その人が人間として価値を持ち、実在性をもつ、ということを、他者に認めさせなければならない。つまり、その人の生命の意味は、この他者が握っているのです。
だから「自分の外に出ている」。

他者に相対したときの「自己意識」は〈自分だけの存在〉ではありません。
それが「自己意識は自己自身を失っている、ということである」ということ。

「自分をもう一つの他の実在として見出す」、これは、相対する他者を、〈わたし〉となんらかのかたちで〈おなじ〉存在の次元に属するとみなしつつ、〈わたし〉ではない、〈ことなって〉いると見なす、つまり、現前しているのは、他者であり、しかももうひとつの「自己意識」として見出すこと。

そのことによって、自己意識は初めて真に存在することになるのです。
ここからは熊野純彦の『ヘーゲル 〈他なるものをめぐる思考〉』(筑摩書房)がわかりやすいので、そこから引用しましょう。

---p.177-p.178-----

つまり、自己意識にたいして他の自己意識が存在するとは、自己意識がみずからとひとしいものを、自分の外部に見いだすことである。つまり「みずからとはことなった存在において。じぶん自身とひとつである」ことである。自己意識は自己を他者として、他者を自己として見いだしている。他者が私でもあり、私は他者でもある。

 他者は他者であるとともに他者における自己でもあるのだから、他者を否定して自己を肯定することは同時に自己を否定することであり、逆もまた同様である。かくして、他者と私との「両者はたがいに承認していることを相互に承認しあっている」。自己意識は、かくて「承認されたもの」としてのみ存在する。
-----

(※なお、コジェーヴは主奴論とからめながらこの部分を非常に精緻に展開していっています。もし興味があれば、コジェーヴの『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』をお読みください)。

相互承認の部分ですね。

> 自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。

まず最初、自己意識は〈自分だけの存在〉としてあります。自分の中から、他者のすべてを排除する活動によって「これが自分だ」という意識が生まれる。
この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我...続きを読む

Q無謀ですか?大阪周遊パス

大阪周遊パスを使って、大阪観光をしたいと思ってます。

歩くのは苦じゃない二人組です。

大阪から移動して9:00着周辺の4箇所を回る
 大阪城天守閣、大阪城西の丸庭園、大阪歴史博物館、大阪国際平和センター

移動して天王寺 四天王寺、大阪市立美術館、通天閣、天王寺動物園

移動して天保山 サンタマリア乗船(45分)、天保山観覧車、大阪府咲庁舎展望台

移動してなんば とんぼりリバークルーズ(30分)

移動して堂島 大阪市立科学館

移動して天神橋 大阪くらしの今昔館 16:30までに入場

最後の大阪くらしの今昔館に16:30までに入れますか?

通天閣、動物園、展望台等はさくっと回る感じです。
アドバイスあれば教えて下さい。

Aベストアンサー

大阪在住で、ほとんどの施設に行ったことがある者です。

「まわること」だけが目的ならば可能だと思います。
ただし、観光が目的ならば疲れるだけで無意味な物になります。
「大阪周遊パスで利用できる施設」を羅列しているだけのように見えます。

A.大阪城天守閣、大阪城西の丸庭園、大阪歴史博物館、大阪国際平和センター
B.天王寺 四天王寺、大阪市立美術館、通天閣、天王寺動物園
C.天保山 サンタマリア乗船(45分)、天保山観覧車、大阪府咲庁舎展望台
D.なんば とんぼりリバークルーズ(30分)
E.堂島 大阪市立科学館
F.天神橋 大阪くらしの今昔館

それぞれに移動時間が30~60分くらいです。
全部で3時間ちょっとだとすると、観光に使える時間は4時間です・
1カ所を30分程度で廻るならば可能でしょう。
それから、リバークルーズやサンタマリア、観覧車、通天閣は60分程度の待ち時間が
発生することもあり、待ち時間が長いと無理です。

また、大阪くらしの今昔館にこだわっておられますが、大阪市が三井住友銀行との
タイアップで作った施設でたいした展示はしていません。(私は個人的に好きですが)
これをはずすだけで、Dのなんばでもう少し時間がとれるでしょう。

A・9:00~10:30 大阪国際平和センター除外
B・11:00~14:00 動物園または四天王寺を除外 
C・14:40~16:20 大阪府咲庁舎展望台除外 
E・16:50~17:30 全て除外してもいいですが
D・18:00~

大阪在住で、ほとんどの施設に行ったことがある者です。

「まわること」だけが目的ならば可能だと思います。
ただし、観光が目的ならば疲れるだけで無意味な物になります。
「大阪周遊パスで利用できる施設」を羅列しているだけのように見えます。

A.大阪城天守閣、大阪城西の丸庭園、大阪歴史博物館、大阪国際平和センター
B.天王寺 四天王寺、大阪市立美術館、通天閣、天王寺動物園
C.天保山 サンタマリア乗船(45分)、天保山観覧車、大阪府咲庁舎展望台
D.なんば とんぼりリバークルーズ(30分)...続きを読む

Qへびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○ 《へび》についての参考資料:~~~~~~

 星を散りばめたこんな時間に 独りして
 そこで
 もし風の音でないとすれば 泣いて
 いるのは 誰かしら

 今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで
 いったい 誰が 泣いているの?


 何か心の深い意図に対して憑かれたかのように
 わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて
 わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から
 一滴のしづくがこぼれるのに
 触れたように思っている。

 〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて
 《もっとも純粋なるもの》が
 静寂のかなたから
 この傷ついた心を照らし出してくれることを
 待っている。

 〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕
 咎めのうねりを囁いている。――

 岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを
 ものを苦々しくも呑むことになったような
 心を締めつける嘆きをざわめかせ
 送りやっている。

 
 髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは
 何をしているの?
 あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な
 風に吹かれた落ち葉がざわめき
 つづけるのは
 何故なの?

 この未知の天空につながれて
 わたしは きらめいている。

 災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は
 輝いている。

 ・・・

 わたしは ここまで
 わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。
 ・・・

 (ポル・ワ゛レリ:若いパルク La Jeune Parque )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * あるいはつまり

 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○...続きを読む

Aベストアンサー

>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、
 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。

>つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。
 私は、縁起共生という場合、《わたし》の独自性が極一部として、その全体の中に残っていると《わたし》が知っている《わたし》の生きる動態で、
 空観は、その独自性が全体の中に溶解消失するとみる《わたし》の生きる動態かと感じていました。

>一人ひとりの地道な努力としての《回転》の積み重ねでありこれが 社会全体としての動態的な過程に現われてくることであろうと。

 誰からみた場合でしょう。一人が、《回転》したなら、その人の社会は既に劇的に変容しています。本当に起こるかどうかはわかりませんが。
 それを知った他人からみたら、社会がほんの少し変わったことになります。
 何も知らない他人からみれば、社会はまったく変わっていないでしょうが、どんどん積み重ねられて、周りと話などをするにつけて、
 《回転》の香りが漂うようになれば、彼にも《回転》が起こるのかも知れません。

>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、
 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。

>つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。
 私...続きを読む


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