いちばん失敗した人決定戦

●外見のファッションは それなりに意味があると感じています。
 でも 人の外見を見るとき わたしはファッションよりも服を脱いだ
 裸のほうに「重き」を置いています。
 大切なのは その人の持つエロスのスケール感と深さです。
 プラス 楽しみの余興としてファッションがあると認識しています。
●実は意識にも同じ事が言えるのです。
 みなさんが意識のファッションを強く感じる知名人を教えてください。
 またファッションを脱ぎ捨てた裸の意識とは「なんだ」と思いますか?
 この話題にまつわる雑感など 交えて教えてください。

 参考:(わたしの場合い。)
 意識のファッションを強く感じる知名人:キリスト・釈迦・ヒトラー etc
 裸の意識:「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの。

A 回答 (37件中31~37件)

 自我を脱ぎ捨てる。

それがナマと言えるかと思います。
裸の意識は、自我の無い精神体その者のことでしょうか。
自我に囚われていると、精神は発揮されません。
自我をもって伴うのは全て反応でしかなく常に限定されています。無限の快楽を得るには、無我になることが必要でしょう。それが、喜びの源泉であり、多様の源泉であり、全ては無によって成り立っています。全ての喜びは無から生まれ続け、無から消え続けます。それが、神の昼と夜です。
 
 自我という服をもってしては、「反応」としての快楽しか得られません。
至上の喜びを得るなら、神に触れ帰融すること、それでしょう。
自我によった状態でその使用による喜びに浸り続けると業が溜まるので、半作用的に精神は、その自我に溜まる業のもたらすものの虜になります。自我を脱ぎ捨てると、業、因果の連環、輪廻、そういうものから解き放たれますので、至上幸福を得れます。
しかし、至上幸福は霊によります。なぜなら、霊がその源泉(神)のかけらだからです。神は全ての体験をしますので、神に帰すると全ての喜びを無限に味わいます。飽きはありません。充たすものも無いからです。
反応としての幸福では、至上幸福は得れません。この世にいるという事は、反応、因果の世界ですので。知あるものなら、神を知って、それに帰する事で、それは初めてなされます。ですから、私は死んで成仏したいと思います。しかし、遣る事があるので、まだこの世にいます。この世に未練を残すと、輪廻します。

 自然は、霊的進化の場です。人間に宿った霊の進化は、自然界で生きる事で一番進化できます。霊の進化の最終は仏です。成仏する事が、至上の幸せでしょう。成仏すると、神(無始の仏)に帰融します。成仏した人間がこの世にいる場合、その者とあうのが幸せの一番近道です。
人間に生まれる事は、一気に神に帰融するチャンスなのです。私も、妖精や他の霊者(人間じゃない)にうらやましがられます。生まれるというのはこんなに辛いのに(笑。
神はドンドン昇っていきます。無限の喜びとともにです。
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この回答へのお礼

●我を忘れるとよく言いますが 自我を忘れるとは聞きませんよね。
 つまり我を忘れている感覚は自我が知覚できているわけです。
 あなたが「自我」と表記しているものは「我」ですよ。
 
 次に霊についてですが 心霊現象とかいうようにこの霊の存在は
 いまだ科学的には証明されていない概念です。
 しかし 魂という概念は 例えば「職人の技には魂がある」とか
 アントニオ猪木の闘魂とか 実生活でわたしたちが感じる「無形のなにか」を
 しっかりと捉えた概念です。したがって魂現象などとは聞きません。

 あなたが浸っている世界は 妄想というしろもので あるかないかも
 わからない世界です。その世界をファッションにするのは あなたのセンス
 ですからご自由なのですが。わたしにしてみれば あるかないかわからない
 世界に人生の貴重な時間を使うのは はなはだ ばかげていて なさけない。
 まじであれば あるほど 悲しい方だと哀れみを感じてしまいます。
 わたしが いちばん恐れている意識のファッションのひとつが
 あなたの意識を覆っています。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/03 01:22

あまり自分にはなじみのない世界なので、「そんな考え方もあるのかな」ってそれが第一感かな?


服は機能性を持つことが第一義だと思うし、ファッションはあくまでも余剰産物で人を不快にさせない程度ならOK、願いは中身が健康で美しくあって欲しいと思ってるしな
流行などは誰が決める物かは知らないが、実はとても限られた世界の出来事で、本音はそのような物に振り回されたくない自分がいる
それじゃ身もふたも無いって?

心はいつもヌーディストビーチ
押さえきれない本能の
雄叫び雌叫び冷ます為
海に飛び込む
また楽しからずや水の惑星地球号
ここらに裸の意識の「ファッション」が見え隠れ
格好つけなきゃ恥ずかしい
人と自然を分かつもの
それが無ければソドムの市
意識のファッション、おすぎとピー子
自然はそこにあるもので
嫌でもひたすらそこにあるもので
前頭葉が休む時
人も自然に返ってる
お帰りなさい
あんたまたどこ行ってたのさ

私のファッションも感じていただけたでしょうか?
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この回答へのお礼

●爆 おすぎとピー子 が妙にいいですね。
 「そんな考え方もあるのかな」って
 あなたは 十分わたしのこの設問の重要ポイントを
 すでに押さえてらっしゃいますよ。きっと・・・。切り口がちがうだけです。

 おすぎとピーコの部分を すこし変えてみましょう。
 ▲意識のファッション、ウサマとブッシュ
 ▲意識のファッション、釈迦とキリスト
 ▲意識のファッション、小泉と純一郎
 ▲意識のファッション、自由経済と環境問題
 ▲意識のファッション、金持ちと貧乏人
 やっぱ おすぎとピーコが いちばんいいですね。

 ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2002/04/02 11:26

乗組員は人間だけじゃないだろ?


でも、素敵な宇宙船地球号、いい名前だな。昔のなんとかとかいう建築家の本であったな。フラーだったかな。
知も純粋さをはずしてありえない。
だから、無を知ることは、直接ナマに導かれるんだよ。ナマよりもナマにな。
無を知るという事は、全てを知ることだからな。
全てを知るのは一じゃない。 だ。
>幸福を夢見つつ 生(なま)の人間の在り様を支えに 本当の生(なま)に
 なろうと 自分で自分の皮をむき始めるエロスを知ることを・・・。
 
いたいいたい(泣。なんつって。(笑
それでも夢見てんだろ?目、覚ましとけって。今がその時だってこと、なんでわからん。いまだよ。今。たのむぜ。
でも、その夢見るの、それは人間成長が始まるってことか?いいな、それは。わくわくするな。
じゃ、俺らはもう剥けちまってるかな。皮が。大人だな。
ま、皮むくの、苦しめってことかも知れないな。びびっちまうな、みんな。
だから、勇気がいるんじゃねぇか。
初めてむくの、楽しいことじゃないからな。おトコもオンナも。
俺の剥くのは、君が手伝ってくれたんだよな。
さんきゅうです!きもちよかったよ。
みんなが目、覚ました時、しんがりと逢うな。
世界の果てで。

俺も、君の手伝おうか?
えろいぜ、俺は。(笑
オンナがむけるとすげぇらしいからな。下着つけるのもままならん。ありゃ、脱いだんだっけ?(笑
自転車もきっつい。(笑。きつくないか、びくんびくんってだけだからな。
もう剥けてる?だったら、自転車にも乗らなくていいな。歩くんだから。
 
ついで:>知性磨きがいったいどんな意味を発光してくれるでしょうか?
磨く必要が無い。汚れもつかねぇ。それが光だからだ。それを磨くって意味がわからん。すでに知ってるとはそういうことだ。わかってないな。でもな、純粋だったら知なんてパターンだ。べつに取り立てる必要はねぇ。光だったら知でも愛でもいい。無脳小児もすでに救われる。愛の光ならな。知は愛を知る。

 人間によって発生したサイバースペースが、自然発生の人間の脳に勝ると思うか?脳がドコに続いているのか、知ってるか?
オセロで勝てないのは、オセロという枠組みだから。
枠に囚われているからだよ。もし、枠組みの中で生き続けるなら、人類は終わる。
必ず。サイバースペースは死を呼ぶ化け物になるかも知れんぜ?虜になったら終わる。わくわくしてるのはマゾっ気かも知れんな。
でもな、なんも心配いらねぇ。しんがりがいるからな。
知は自由を呼ぶ。
サイバースペースは自由を呼ぶか。
それとも、愛を呼ぶか。
愛になら、囚われたいな。
自由には囚われたくないな。得た自由は捨てるべきだ。
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この回答へのお礼

●はなしが かみあってるんだか いないんだか?
 ま どっちでもいいんですけど。どうせ ひまつぶしだから・・・。

 ずいぶん無にこだわっているようですけど 概念にこだわるのは
 ファッションを着こなせてない ってことですよ。
 「無」に対する想いが なんにでもあてはまる精神の自由を感じてください。
 何でもいいです。そうですね 身近なティッシュでもいいですよ。
 ティッシュで 小躍りして喜ぶことも可能です。
 あなたが「無」の概念を自分のものにしたときのように。
 それも これも 概念はファッションでしか無いのです。
 それを脱ぎ捨てた 人間になにが残るのかに 着目するべきです。

 「修行層が無を悟ろうとする」
 そんなこと わたしは とうの昔に卒業しているんです。
 ファッションは 着こなしが 大切であり。
 自由に脱いで 裸になって交わる 皮膚の触感の一つひとつが
 交わる エロスを得とくするべきです。
 
 サイバースペースは死を呼ぶ化け物になるかも知れない その可能性は否定
 しません。しかし ならないことを予言しておきましょう。
 サイバースペースのなかで 悪と善の熾烈な戦いが いずれおこるでしょう。
 これは不可避のプロセスです。そして勝ち残るのは 「多様性」という善です。
 なぜなら「多様性」という善が勝つことは
 この宇宙ですでに実証されているからです。

 なにも おそれることは ありません。
 なるようにしか ならないからです。
 わたしたち人間は「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの
 のなかで 人間として存在する真の快楽をあらゆるバージョンで
 むさぼり楽しむのです。
 それはきっと尽きることのない無限の快楽世界として・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/02 11:13

わくわくしてるのか?


いいな!おれもわくわくしてるぜ。
>いずれ時代おくれになりますよ。
どうでもいいよ。なんで時代についていかなきゃなんねぇ?あと、奴らの教えは遅れねェな。古きより古く、新しきより新しいからな。宇宙のテーマだな。ただ、教えがフツーになる時は来るな(笑。
聖人、愚者、凡人、賢人、いろいろわけたがるが、みんなフツーの人だ。
ついていかなくても勝手にそのときいる時代に生きるんだから、気にしてもしょうがない。イエスや釈迦が服を着ていると思うのはいいけど、世にあるってことは服を着てるってことだろ?
 何かしらかぶってる皮は脱いだらいいんだよ。
でもな、もうチョイ。君、いい服着てるな(笑。
あいつらは君をベタほめだけど、おれはそんなことしねぇ。
>生(なま)の人間の在り様
を支えにしてたらそれにあれないじゃない。支えと同化しないと。同化。ナマにあらないと。腐ってもなまもの。言葉はいらねぇな。
正しいとかな、間違ってるとかな、どうでもいいな。あいつらはよくないというが、俺はどうでもいいよ。
行わずして行う。
それが、あるがままだよ。
>「持つものはすべてファッションだ。」
「持つ者」だよ。イエスや釈迦は何も持ってないだろ?名前も持たなくていいな。
自分が持っているもの、それを自分と錯覚する。だから、何ももたなくていい。
自分もだ。だいたい、自分なんて持てねぇけどな(笑 自分なんて無いんだから。
 ここらへんが、君には理解できんはずだ。
人前でマスもかけねぇ奴はへちょいな。 知恵の実食って、なんで前隠す?
 
ただな、この星、輝いてるな。もうそれだけでいいんだよ。誰が見ても輝いてるじゃねぇか。なんでかってな、素敵な宇宙船地球号、素敵なのは、乗組員が素敵だからだよ。輝きは中から来る。創造は無により。無なんて気にするな。ありゃ覚えるの、難しいわ。覚える時に覚える。無を目指したってな、ないんだから目指せねぇ。

>わたしは もうその萌芽を感じています。
おれ達もびんびん?になってるよ!(笑。
裸足で歩こうな!
 
ただな、チョイ追記だ。
イエスや釈迦の話は聞かなくていが、何がいわれたかは一応聞いといたほうが、いいぜ?
愛が深くなる。
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この回答へのお礼

●素敵な宇宙船地球号の管理者としての人間。(まがりなりにも)
 アポロ11号で 人間は月へ行きました。アポロ号を操縦(管理)して。
 だから人類はやったんだ!という感慨があるわけです。
 ところがどうでしょう その宇宙船の管理運営・構造・技術が
 人間がいくら勉強しても把握できないレベルになってしまったら。
 それに乗ってる人間なんて「サル」となんら変わらないわけです。
 もうすぐ地球がそうなってしまうのを確かに感じるのです。
 すでにオセロでは 人間はコンピューターに勝てません。
 しょぼい話ですが 人間はなぜ勝てないのか実感としてもその全体像を
 トレースしても その理由が解らないのです。

 人間をはるかに超える知性の前で ままごとの如き人間の知性磨きがいったいどんな
 意味を発光してくれるでしょうか?そんなことするのは その未来では
 ほんの一部の「レトロあたまでっかち」だけでしょう。
 わたしは思うのです。その未来 多くの人々は すべてのファッションを脱ぎ
 「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもののなかで
 幸福を夢見つつ 生(なま)の人間の在り様を支えに 本当の生(なま)に
 なろうと 自分で自分の皮をむき始めるエロスを知ることを・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/01 23:40

chihokoお久しぶりです。

皆さんお元気そうでツイツイ回答してしまいました。

>みなさんが意識のファッションを強く感じる知名人を教えてください。

普通に考えると「意識の流行を感じる」と言うことになってしまいますが、質問の内容から考えると、ファッションを装飾・演技のような意味で使用されているようですが難解な質問ですね。

「演技する精神」と言う本を、昔、読みましたが、私たちは、そのときの、立場、立場で、演技しています、子供に対して親の立場で、愛人に対しては恋人として、社長に対しては社員として演技しているわけです、裸の意識は自分が一人でいるときではないでしょうか、こうして回答している自分も何かしら演技をしているようです。

意識のファッションと言う言葉を勝手に演技と捕らえていたらごめんなさい。以上雑感です。
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この回答へのお礼

●みなさんお元気そうで というよりも みなさんオヒマなのねーって感じかな。
 若い頃 映画を創りたくて演技の勉強をしました。そのときの教授が
 fishbowl66さんが おっしゃったようなことを 言ってました。
 演技の勉強とは 言い換えると人間研究ですから。

 常々思ってるんですが 人生をよりよくするためには どんな考え方が
 必要か?ってね・・・。んで デザインという考え方に行き着いたんです。
 あらゆることが デザインという範疇でくくれるんです。
 ま んで しばらくその方法で人生を構築してまして。すこし欲がでまして
 デザインの元はなんだろうと 考えて行き着いたのがファッションなんです。

 意識のファッションと演技について考察してみると
 ファッションの集合の部分集合として演技があることかな。
 演技は自分が演技していると気づかないで演技していることがあっても
 いずれ能動的なものを言いますよね 受身であってもその演技は外に向いています。
 ところがファッションは たたずむなかでの静かな意識にも入り込んでるのです。
 わかりずらいかもしれませんが ひまなときに考察してみてください。

●自分がいまどんなファッションに覆われているかが見えてくると
 自分のオリジナルのファッションがいかに大切かが見えてきます。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/01 22:57

>ファッションを脱ぎ捨てた裸の意識とは「なんだ」と思いますか?


 
 ナルシスト的発想です。
 マッチョ、ボディビルダーは、ナルシストだと云われています。
 自分は気にしていないとしながらも、逆に外面を気にし過ぎているんじゃないですか。
 それだけ、神経質だともいえるでしょう。
 自分が想うほどに、他人は気にもかけていないものです。だから逆に目立ちたいと思われてのことでしょ。
 「心の美しい人が一番美しい」という内面の美しさをもっと追求すべきでしょう。如何ですか?
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この回答へのお礼

●美しい心 たいせつにしたい言葉ですね。
 ただ こころのもっとも深い部分にあると言われる「美」
 が どのように在るかによって そのひとの「美しい心」の認識も
 それぞれにならざるをえません。
 分りやすく言えば ウサマとブッシュでは「美しい心」の本質が
 ちがうということなんです。
 「美しい心」はとてもたいせつです。でもその前提に
 「美しい心」もファッションのひとつであることを認識していなければ
 人生をまちがう可能性があるとわたしは感じているのです。

 ご回答いつもありがとうございます。

お礼日時:2002/04/01 01:15

面白いこというな。


俺もその通りだと思うよ。
服を脱いだらどうなるか?それは、空になる。
服を着たらどうなるか、それが俺の夢。
持つ者は全てファッションだ。
キリストも、釈迦も、ヒトラーも、テレビも、言葉も、ファッション。
自然と一体になろうとするって、自然と一体でないとはどういう状態なんだ?
そんな状態あんのか?あえていうなら、服を着てる奴は自然だぞ。ホントの自然の本質は裸。
かぶとむしだってな、自分の穴に帰ったら、こんなだぜ?
「あ~、よっこらしょ。今日はあっついわ(汗」
つって、かぶとを脱ぐんだよ(笑。びっくりするだろ?カブトムシがカブト脱いでんだからな(爆。
自分という者、それが、表層、器、服、そういったものであるということを知ってるか?服の中身は空(から)だよ。
だから、裸に重きを置いたって、重いわけがねぇ。(笑
皆が忘れてるのは、裸の私との一体感。一体化してると重くない。軽~い、吹く風のようにな。
君が同級生だったら楽しいだろうな(笑
中身ってなんだろな。
「君、なか見た?」
もしそうなら、エロいな(爆。俺はエロイぞ(笑。
 
ついで:キリストと釈迦は裸の私と一体化してるからな、服を着てない。
奴らにそんな概念はないな。表層と一体化してんだからな。深きより深いってそうだ。古きより古く、新しきより新しい。奴らはそういう奴。だからなに?ってかんじだな(爆。
奴らが自然体じゃないと言うのはチョイきついな。君が山に入ってったら、ばきばき枯れ枝とかふんで、のしのしあるくだろ?だから、獣とか、虫とかは逃げる。
でもな、釈迦やイエスが入ってくとな、奴らは寄ってきて、教えをきくんだよ。
なんでかってな、釈迦やイエスにエゴは無いからだ。服、器、そんなものが無い。つまり一体化してんだよ。
全て抱きしめる。それが無我だ。自他が無い。自他同然。自他同全。それが自然。
べつにえさくれっつって、よってくるわけじゃない。(笑
うわさの君は、どんな返事するんだろうな。
あ、本題忘れてた。知名人か?まず、作家一般。アーティスト。それ系はみなファッション大好きだな。名前挙げたらきりがない。
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この回答へのお礼

●「持つものはすべてファッションだ。」
   ↑ いいところに気が付きましたね。
 人間が最初に持った物は 何か? たぶん道具と言葉だね。
 そしてずっと ずっと あとに概念を持ったんだね きっと。
 概念も服装も 世界がかきまぜられるスピードによって
 そのファッションは「はやる」だけなのだという現実に着目してほしいな。
 釈迦やキリストが裸だと感じるのは自由だけど。
 その前提に釈迦やキリストの釈迦やキリストたる所以も概念にほかならない
 という事実をしっかり認識してほしいな。
 つまりファッションでしかない。いずれ時代おくれになりますよ。
 わたしは もうその萌芽を感じています。
 人間の脳の能力を超えて 社会が動き出すそのアクティビティを・・・。
 人工知能が人間の能力をはるかに超えて「正しき」を行うその日々に
 とまどう人間たちの支えとなるのは釈迦やキリストでは きっとありません。
 その時の人間たちの支え それは わたしは すべての概念を捨てた
 生(なま)の人間の在り様だと想像して
 なんかワクワクしているのです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/01 01:02
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