●外見のファッションは それなりに意味があると感じています。
 でも 人の外見を見るとき わたしはファッションよりも服を脱いだ
 裸のほうに「重き」を置いています。
 大切なのは その人の持つエロスのスケール感と深さです。
 プラス 楽しみの余興としてファッションがあると認識しています。
●実は意識にも同じ事が言えるのです。
 みなさんが意識のファッションを強く感じる知名人を教えてください。
 またファッションを脱ぎ捨てた裸の意識とは「なんだ」と思いますか?
 この話題にまつわる雑感など 交えて教えてください。

 参考:(わたしの場合い。)
 意識のファッションを強く感じる知名人:キリスト・釈迦・ヒトラー etc
 裸の意識:「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (37件中31~37件)

 自我を脱ぎ捨てる。

それがナマと言えるかと思います。
裸の意識は、自我の無い精神体その者のことでしょうか。
自我に囚われていると、精神は発揮されません。
自我をもって伴うのは全て反応でしかなく常に限定されています。無限の快楽を得るには、無我になることが必要でしょう。それが、喜びの源泉であり、多様の源泉であり、全ては無によって成り立っています。全ての喜びは無から生まれ続け、無から消え続けます。それが、神の昼と夜です。
 
 自我という服をもってしては、「反応」としての快楽しか得られません。
至上の喜びを得るなら、神に触れ帰融すること、それでしょう。
自我によった状態でその使用による喜びに浸り続けると業が溜まるので、半作用的に精神は、その自我に溜まる業のもたらすものの虜になります。自我を脱ぎ捨てると、業、因果の連環、輪廻、そういうものから解き放たれますので、至上幸福を得れます。
しかし、至上幸福は霊によります。なぜなら、霊がその源泉(神)のかけらだからです。神は全ての体験をしますので、神に帰すると全ての喜びを無限に味わいます。飽きはありません。充たすものも無いからです。
反応としての幸福では、至上幸福は得れません。この世にいるという事は、反応、因果の世界ですので。知あるものなら、神を知って、それに帰する事で、それは初めてなされます。ですから、私は死んで成仏したいと思います。しかし、遣る事があるので、まだこの世にいます。この世に未練を残すと、輪廻します。

 自然は、霊的進化の場です。人間に宿った霊の進化は、自然界で生きる事で一番進化できます。霊の進化の最終は仏です。成仏する事が、至上の幸せでしょう。成仏すると、神(無始の仏)に帰融します。成仏した人間がこの世にいる場合、その者とあうのが幸せの一番近道です。
人間に生まれる事は、一気に神に帰融するチャンスなのです。私も、妖精や他の霊者(人間じゃない)にうらやましがられます。生まれるというのはこんなに辛いのに(笑。
神はドンドン昇っていきます。無限の喜びとともにです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

●我を忘れるとよく言いますが 自我を忘れるとは聞きませんよね。
 つまり我を忘れている感覚は自我が知覚できているわけです。
 あなたが「自我」と表記しているものは「我」ですよ。
 
 次に霊についてですが 心霊現象とかいうようにこの霊の存在は
 いまだ科学的には証明されていない概念です。
 しかし 魂という概念は 例えば「職人の技には魂がある」とか
 アントニオ猪木の闘魂とか 実生活でわたしたちが感じる「無形のなにか」を
 しっかりと捉えた概念です。したがって魂現象などとは聞きません。

 あなたが浸っている世界は 妄想というしろもので あるかないかも
 わからない世界です。その世界をファッションにするのは あなたのセンス
 ですからご自由なのですが。わたしにしてみれば あるかないかわからない
 世界に人生の貴重な時間を使うのは はなはだ ばかげていて なさけない。
 まじであれば あるほど 悲しい方だと哀れみを感じてしまいます。
 わたしが いちばん恐れている意識のファッションのひとつが
 あなたの意識を覆っています。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/03 01:22

あまり自分にはなじみのない世界なので、「そんな考え方もあるのかな」ってそれが第一感かな?


服は機能性を持つことが第一義だと思うし、ファッションはあくまでも余剰産物で人を不快にさせない程度ならOK、願いは中身が健康で美しくあって欲しいと思ってるしな
流行などは誰が決める物かは知らないが、実はとても限られた世界の出来事で、本音はそのような物に振り回されたくない自分がいる
それじゃ身もふたも無いって?

心はいつもヌーディストビーチ
押さえきれない本能の
雄叫び雌叫び冷ます為
海に飛び込む
また楽しからずや水の惑星地球号
ここらに裸の意識の「ファッション」が見え隠れ
格好つけなきゃ恥ずかしい
人と自然を分かつもの
それが無ければソドムの市
意識のファッション、おすぎとピー子
自然はそこにあるもので
嫌でもひたすらそこにあるもので
前頭葉が休む時
人も自然に返ってる
お帰りなさい
あんたまたどこ行ってたのさ

私のファッションも感じていただけたでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

●爆 おすぎとピー子 が妙にいいですね。
 「そんな考え方もあるのかな」って
 あなたは 十分わたしのこの設問の重要ポイントを
 すでに押さえてらっしゃいますよ。きっと・・・。切り口がちがうだけです。

 おすぎとピーコの部分を すこし変えてみましょう。
 ▲意識のファッション、ウサマとブッシュ
 ▲意識のファッション、釈迦とキリスト
 ▲意識のファッション、小泉と純一郎
 ▲意識のファッション、自由経済と環境問題
 ▲意識のファッション、金持ちと貧乏人
 やっぱ おすぎとピーコが いちばんいいですね。

 ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2002/04/02 11:26

乗組員は人間だけじゃないだろ?


でも、素敵な宇宙船地球号、いい名前だな。昔のなんとかとかいう建築家の本であったな。フラーだったかな。
知も純粋さをはずしてありえない。
だから、無を知ることは、直接ナマに導かれるんだよ。ナマよりもナマにな。
無を知るという事は、全てを知ることだからな。
全てを知るのは一じゃない。 だ。
>幸福を夢見つつ 生(なま)の人間の在り様を支えに 本当の生(なま)に
 なろうと 自分で自分の皮をむき始めるエロスを知ることを・・・。
 
いたいいたい(泣。なんつって。(笑
それでも夢見てんだろ?目、覚ましとけって。今がその時だってこと、なんでわからん。いまだよ。今。たのむぜ。
でも、その夢見るの、それは人間成長が始まるってことか?いいな、それは。わくわくするな。
じゃ、俺らはもう剥けちまってるかな。皮が。大人だな。
ま、皮むくの、苦しめってことかも知れないな。びびっちまうな、みんな。
だから、勇気がいるんじゃねぇか。
初めてむくの、楽しいことじゃないからな。おトコもオンナも。
俺の剥くのは、君が手伝ってくれたんだよな。
さんきゅうです!きもちよかったよ。
みんなが目、覚ました時、しんがりと逢うな。
世界の果てで。

俺も、君の手伝おうか?
えろいぜ、俺は。(笑
オンナがむけるとすげぇらしいからな。下着つけるのもままならん。ありゃ、脱いだんだっけ?(笑
自転車もきっつい。(笑。きつくないか、びくんびくんってだけだからな。
もう剥けてる?だったら、自転車にも乗らなくていいな。歩くんだから。
 
ついで:>知性磨きがいったいどんな意味を発光してくれるでしょうか?
磨く必要が無い。汚れもつかねぇ。それが光だからだ。それを磨くって意味がわからん。すでに知ってるとはそういうことだ。わかってないな。でもな、純粋だったら知なんてパターンだ。べつに取り立てる必要はねぇ。光だったら知でも愛でもいい。無脳小児もすでに救われる。愛の光ならな。知は愛を知る。

 人間によって発生したサイバースペースが、自然発生の人間の脳に勝ると思うか?脳がドコに続いているのか、知ってるか?
オセロで勝てないのは、オセロという枠組みだから。
枠に囚われているからだよ。もし、枠組みの中で生き続けるなら、人類は終わる。
必ず。サイバースペースは死を呼ぶ化け物になるかも知れんぜ?虜になったら終わる。わくわくしてるのはマゾっ気かも知れんな。
でもな、なんも心配いらねぇ。しんがりがいるからな。
知は自由を呼ぶ。
サイバースペースは自由を呼ぶか。
それとも、愛を呼ぶか。
愛になら、囚われたいな。
自由には囚われたくないな。得た自由は捨てるべきだ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

●はなしが かみあってるんだか いないんだか?
 ま どっちでもいいんですけど。どうせ ひまつぶしだから・・・。

 ずいぶん無にこだわっているようですけど 概念にこだわるのは
 ファッションを着こなせてない ってことですよ。
 「無」に対する想いが なんにでもあてはまる精神の自由を感じてください。
 何でもいいです。そうですね 身近なティッシュでもいいですよ。
 ティッシュで 小躍りして喜ぶことも可能です。
 あなたが「無」の概念を自分のものにしたときのように。
 それも これも 概念はファッションでしか無いのです。
 それを脱ぎ捨てた 人間になにが残るのかに 着目するべきです。

 「修行層が無を悟ろうとする」
 そんなこと わたしは とうの昔に卒業しているんです。
 ファッションは 着こなしが 大切であり。
 自由に脱いで 裸になって交わる 皮膚の触感の一つひとつが
 交わる エロスを得とくするべきです。
 
 サイバースペースは死を呼ぶ化け物になるかも知れない その可能性は否定
 しません。しかし ならないことを予言しておきましょう。
 サイバースペースのなかで 悪と善の熾烈な戦いが いずれおこるでしょう。
 これは不可避のプロセスです。そして勝ち残るのは 「多様性」という善です。
 なぜなら「多様性」という善が勝つことは
 この宇宙ですでに実証されているからです。

 なにも おそれることは ありません。
 なるようにしか ならないからです。
 わたしたち人間は「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの
 のなかで 人間として存在する真の快楽をあらゆるバージョンで
 むさぼり楽しむのです。
 それはきっと尽きることのない無限の快楽世界として・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/02 11:13

わくわくしてるのか?


いいな!おれもわくわくしてるぜ。
>いずれ時代おくれになりますよ。
どうでもいいよ。なんで時代についていかなきゃなんねぇ?あと、奴らの教えは遅れねェな。古きより古く、新しきより新しいからな。宇宙のテーマだな。ただ、教えがフツーになる時は来るな(笑。
聖人、愚者、凡人、賢人、いろいろわけたがるが、みんなフツーの人だ。
ついていかなくても勝手にそのときいる時代に生きるんだから、気にしてもしょうがない。イエスや釈迦が服を着ていると思うのはいいけど、世にあるってことは服を着てるってことだろ?
 何かしらかぶってる皮は脱いだらいいんだよ。
でもな、もうチョイ。君、いい服着てるな(笑。
あいつらは君をベタほめだけど、おれはそんなことしねぇ。
>生(なま)の人間の在り様
を支えにしてたらそれにあれないじゃない。支えと同化しないと。同化。ナマにあらないと。腐ってもなまもの。言葉はいらねぇな。
正しいとかな、間違ってるとかな、どうでもいいな。あいつらはよくないというが、俺はどうでもいいよ。
行わずして行う。
それが、あるがままだよ。
>「持つものはすべてファッションだ。」
「持つ者」だよ。イエスや釈迦は何も持ってないだろ?名前も持たなくていいな。
自分が持っているもの、それを自分と錯覚する。だから、何ももたなくていい。
自分もだ。だいたい、自分なんて持てねぇけどな(笑 自分なんて無いんだから。
 ここらへんが、君には理解できんはずだ。
人前でマスもかけねぇ奴はへちょいな。 知恵の実食って、なんで前隠す?
 
ただな、この星、輝いてるな。もうそれだけでいいんだよ。誰が見ても輝いてるじゃねぇか。なんでかってな、素敵な宇宙船地球号、素敵なのは、乗組員が素敵だからだよ。輝きは中から来る。創造は無により。無なんて気にするな。ありゃ覚えるの、難しいわ。覚える時に覚える。無を目指したってな、ないんだから目指せねぇ。

>わたしは もうその萌芽を感じています。
おれ達もびんびん?になってるよ!(笑。
裸足で歩こうな!
 
ただな、チョイ追記だ。
イエスや釈迦の話は聞かなくていが、何がいわれたかは一応聞いといたほうが、いいぜ?
愛が深くなる。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

●素敵な宇宙船地球号の管理者としての人間。(まがりなりにも)
 アポロ11号で 人間は月へ行きました。アポロ号を操縦(管理)して。
 だから人類はやったんだ!という感慨があるわけです。
 ところがどうでしょう その宇宙船の管理運営・構造・技術が
 人間がいくら勉強しても把握できないレベルになってしまったら。
 それに乗ってる人間なんて「サル」となんら変わらないわけです。
 もうすぐ地球がそうなってしまうのを確かに感じるのです。
 すでにオセロでは 人間はコンピューターに勝てません。
 しょぼい話ですが 人間はなぜ勝てないのか実感としてもその全体像を
 トレースしても その理由が解らないのです。

 人間をはるかに超える知性の前で ままごとの如き人間の知性磨きがいったいどんな
 意味を発光してくれるでしょうか?そんなことするのは その未来では
 ほんの一部の「レトロあたまでっかち」だけでしょう。
 わたしは思うのです。その未来 多くの人々は すべてのファッションを脱ぎ
 「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもののなかで
 幸福を夢見つつ 生(なま)の人間の在り様を支えに 本当の生(なま)に
 なろうと 自分で自分の皮をむき始めるエロスを知ることを・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/01 23:40

chihokoお久しぶりです。

皆さんお元気そうでツイツイ回答してしまいました。

>みなさんが意識のファッションを強く感じる知名人を教えてください。

普通に考えると「意識の流行を感じる」と言うことになってしまいますが、質問の内容から考えると、ファッションを装飾・演技のような意味で使用されているようですが難解な質問ですね。

「演技する精神」と言う本を、昔、読みましたが、私たちは、そのときの、立場、立場で、演技しています、子供に対して親の立場で、愛人に対しては恋人として、社長に対しては社員として演技しているわけです、裸の意識は自分が一人でいるときではないでしょうか、こうして回答している自分も何かしら演技をしているようです。

意識のファッションと言う言葉を勝手に演技と捕らえていたらごめんなさい。以上雑感です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

●みなさんお元気そうで というよりも みなさんオヒマなのねーって感じかな。
 若い頃 映画を創りたくて演技の勉強をしました。そのときの教授が
 fishbowl66さんが おっしゃったようなことを 言ってました。
 演技の勉強とは 言い換えると人間研究ですから。

 常々思ってるんですが 人生をよりよくするためには どんな考え方が
 必要か?ってね・・・。んで デザインという考え方に行き着いたんです。
 あらゆることが デザインという範疇でくくれるんです。
 ま んで しばらくその方法で人生を構築してまして。すこし欲がでまして
 デザインの元はなんだろうと 考えて行き着いたのがファッションなんです。

 意識のファッションと演技について考察してみると
 ファッションの集合の部分集合として演技があることかな。
 演技は自分が演技していると気づかないで演技していることがあっても
 いずれ能動的なものを言いますよね 受身であってもその演技は外に向いています。
 ところがファッションは たたずむなかでの静かな意識にも入り込んでるのです。
 わかりずらいかもしれませんが ひまなときに考察してみてください。

●自分がいまどんなファッションに覆われているかが見えてくると
 自分のオリジナルのファッションがいかに大切かが見えてきます。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/01 22:57

>ファッションを脱ぎ捨てた裸の意識とは「なんだ」と思いますか?


 
 ナルシスト的発想です。
 マッチョ、ボディビルダーは、ナルシストだと云われています。
 自分は気にしていないとしながらも、逆に外面を気にし過ぎているんじゃないですか。
 それだけ、神経質だともいえるでしょう。
 自分が想うほどに、他人は気にもかけていないものです。だから逆に目立ちたいと思われてのことでしょ。
 「心の美しい人が一番美しい」という内面の美しさをもっと追求すべきでしょう。如何ですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

●美しい心 たいせつにしたい言葉ですね。
 ただ こころのもっとも深い部分にあると言われる「美」
 が どのように在るかによって そのひとの「美しい心」の認識も
 それぞれにならざるをえません。
 分りやすく言えば ウサマとブッシュでは「美しい心」の本質が
 ちがうということなんです。
 「美しい心」はとてもたいせつです。でもその前提に
 「美しい心」もファッションのひとつであることを認識していなければ
 人生をまちがう可能性があるとわたしは感じているのです。

 ご回答いつもありがとうございます。

お礼日時:2002/04/01 01:15

面白いこというな。


俺もその通りだと思うよ。
服を脱いだらどうなるか?それは、空になる。
服を着たらどうなるか、それが俺の夢。
持つ者は全てファッションだ。
キリストも、釈迦も、ヒトラーも、テレビも、言葉も、ファッション。
自然と一体になろうとするって、自然と一体でないとはどういう状態なんだ?
そんな状態あんのか?あえていうなら、服を着てる奴は自然だぞ。ホントの自然の本質は裸。
かぶとむしだってな、自分の穴に帰ったら、こんなだぜ?
「あ~、よっこらしょ。今日はあっついわ(汗」
つって、かぶとを脱ぐんだよ(笑。びっくりするだろ?カブトムシがカブト脱いでんだからな(爆。
自分という者、それが、表層、器、服、そういったものであるということを知ってるか?服の中身は空(から)だよ。
だから、裸に重きを置いたって、重いわけがねぇ。(笑
皆が忘れてるのは、裸の私との一体感。一体化してると重くない。軽~い、吹く風のようにな。
君が同級生だったら楽しいだろうな(笑
中身ってなんだろな。
「君、なか見た?」
もしそうなら、エロいな(爆。俺はエロイぞ(笑。
 
ついで:キリストと釈迦は裸の私と一体化してるからな、服を着てない。
奴らにそんな概念はないな。表層と一体化してんだからな。深きより深いってそうだ。古きより古く、新しきより新しい。奴らはそういう奴。だからなに?ってかんじだな(爆。
奴らが自然体じゃないと言うのはチョイきついな。君が山に入ってったら、ばきばき枯れ枝とかふんで、のしのしあるくだろ?だから、獣とか、虫とかは逃げる。
でもな、釈迦やイエスが入ってくとな、奴らは寄ってきて、教えをきくんだよ。
なんでかってな、釈迦やイエスにエゴは無いからだ。服、器、そんなものが無い。つまり一体化してんだよ。
全て抱きしめる。それが無我だ。自他が無い。自他同然。自他同全。それが自然。
べつにえさくれっつって、よってくるわけじゃない。(笑
うわさの君は、どんな返事するんだろうな。
あ、本題忘れてた。知名人か?まず、作家一般。アーティスト。それ系はみなファッション大好きだな。名前挙げたらきりがない。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

●「持つものはすべてファッションだ。」
   ↑ いいところに気が付きましたね。
 人間が最初に持った物は 何か? たぶん道具と言葉だね。
 そしてずっと ずっと あとに概念を持ったんだね きっと。
 概念も服装も 世界がかきまぜられるスピードによって
 そのファッションは「はやる」だけなのだという現実に着目してほしいな。
 釈迦やキリストが裸だと感じるのは自由だけど。
 その前提に釈迦やキリストの釈迦やキリストたる所以も概念にほかならない
 という事実をしっかり認識してほしいな。
 つまりファッションでしかない。いずれ時代おくれになりますよ。
 わたしは もうその萌芽を感じています。
 人間の脳の能力を超えて 社会が動き出すそのアクティビティを・・・。
 人工知能が人間の能力をはるかに超えて「正しき」を行うその日々に
 とまどう人間たちの支えとなるのは釈迦やキリストでは きっとありません。
 その時の人間たちの支え それは わたしは すべての概念を捨てた
 生(なま)の人間の在り様だと想像して
 なんかワクワクしているのです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/01 01:02
←前の回答 1  2  3  4

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q大阪のみやげはなんだ?

大阪出身、大阪育ちです。
こんど友人が大阪に帰ってくるので、大阪みやげを渡そうと思います。
しかし、大阪みやげというものがわからず困っています。
大阪に観光に来た方や、大阪の方大阪のみやげを教えてください。

Aベストアンサー

551の豚まんなんて、定番ではないでしょうか。
僕の周りではシュウマイと一緒に買うと、喜ばれます。
値段もそんなに高くないですから、いいのではないでしょうか。

Q《わたしがわたしである》わたしがわたしする

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。


 

6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イ
ツハリをおこなう。光も曲がる。存在もそして存在の中軸としての意志も 相対的
なもの(善)だからである。
 
7. つまりは 善なる存在は そのみづからの存在としての善をも損傷する自由
のもとにある。ウソをつきイツハリをおかす。それは やましさ(恥づかしさ)反
応で分かる。


 


8. ウソを 思惟しただけではなくヤマシサ反応にさからって実行したなら そ
のぶん もともとの(生まれつきの身と心とから成る自然本性としての)善を傷つ
ける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。
 
9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼
んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。悪は 表現の問題である。
 
10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 
善――正負の善――の関数である。




11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在で
ある。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損
傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけ
ではない。善がひがみ ゆがむのみ。

12. 人びとの中には やけを起こすわたしがいるだけのことだ。これが やめ
られないとき その悪を悪魔といった独立の存在のしわざだと見たくなる。その想
像の産物として 悪や悪魔がある。



13. 相対的な善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へそ
の曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる
存在を自治する。自己経営する。
 

14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つま
り人間の行為関係を共同自治して生きる。
 

15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集
まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよば
れる。悪の共同自治ゆえ。

16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛は
あるか。

 
17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。


18. これだけのことであると考えられるところを 世の中には――自由意志ゆ
えに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがあ
る。

19. 理念を推し出しお花畑を描くことによってのみ人間と社会の問題に発言を
おこなったり あるいはぎゃくに 世の中はチカラのみだという〔しばしば悪の〕
社会力学のみを推し出したりする。・・・


成否・当否を問います。
あるいは この《18&19》のあとを ご自分の見解で展開して行ってください。

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現...続きを読む

Aベストアンサー

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせてはいけない
殺人は取り返しがつかない
時間はもとには戻らない
家族が嘆き悲しむ
親戚が嘆き悲しむ
その人の所属している団体、すなわち会社が、学校だったりが悲しむ

たとえば旦那さんの不倫があったとする
それは奥さんが旦那さんから気持ちが離れた
旦那さんのことを気に掛けなくなった
旦那さんより自分の気持ちを優先させてしまった
一人では生きていけない
この世は支えあって成り立っている
仕事や自分の趣味等に気が行き過ぎるとよくない
バランスが大切

とか・・・。いろいろなことを教わる。
だから全ては善なんだ。

反対されるかもしれないが
こんな考え方 この世には善しかない
どうですかね?

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせては...続きを読む

Q大阪市の住民投票は大阪市民だけ、、、他の大阪府民の意見は?

大阪都に関する住民投票は大阪市民だけが対象だそうですが、賛成が上回って
実際に大阪市が解体された場合、大阪市以外の大阪府民には影響は少ないの
でしょうか?
大阪市以外の大阪府民の意見は聞かなくてもよいものなんでしょうか?

Aベストアンサー

もともとの構想は、大阪府・市を廃止して大阪都を設置し、市内に都市区を設置するというものでした。(画像参照)
ですが、2013年堺市長選挙で、大阪都構想に反対する候補が当選したことにより、初期構想につまづきが生じた結果、まずは中心の大阪市だけ先に住民投票で賛否を問うという形になりました。
なので、大阪市が賛成となれば、それ以外の市に関しては改めて協議という形になるでしょう。その際には当然各市において、住民の意見を問う活動が予想されます。

Q哲学アンケート:他我意識

哲学アンケート:他我意識

みなさんは「他我意識」という記号から、どんなイメージを持ちますか?

(ちなみに当カテではアンケート目的の質問投稿は、管理担当者により認可されております)

Aベストアンサー

哲学の歴史の中で、他我認識の問題を初めて取り上げて問題にしたのが、現象学の創始者フッサールで、その「デカルト的省察」においてでした。
私たちは外的対象ならば、見ることができるから認識できますが、他我、すなわち他人の心は私からは見えないから、直接的に認識することはできません。
私の心は直接知ることができますが、他人の心は間接的にしか、例えば他人の振る舞いや仕草や表情の向こうにあるものとして単に想像するしかありません。
フッサールはこれを「間接呈示」と言っていますが、私たちは「間接呈示」を通して、感情移入によって私の心を他人の身体の内に「投げ入れる」ことによって、他人の心というものを認識します。
フッサールの用語ではこれを「類比的統覚」と言っていますが、私の心に類似したものとして他人の心があるということです。
しかし、他人の心というのは私の心を他人に「投げ入れた」ものですから、いわば私の心の「投影」です。
したがって、この世界には心というのは私一人にしかなく、他人は機械であって、ロボットかゾンビに過ぎないと考えることもできます。
これが「独我論のパラドックス」で、世界に心は私の心一つというのはひじょうに常識に反します。
常識では、私に心があるのと同様に他人にも心があるというものです。
しかし、哲学的に考えると「独我論」にならざるを得ません。
パラドックスになります。
いったい、常識が正しいのか、「独我論」が正しいのか?
もし、常識のいうように他人にも我が、他我が存在するというのなら、私たちはそれをどのようにして認識しえるのでしょうか?
そしてフッサールは「デカルト的省察」では他我認識に失敗し、破綻しました。
晩年にフッサールは「独我論のパラドックス」を解決するために、新たに「間・主観性」という考えを持ち出すに至ります。
フッサールによれば、他我認識が難しいのは近代哲学の以下のような前提に私たちが呪縛されているからだと言います。

(1)私の心は直接的に知ることができるが、他人の心は間接的にしか知ることができない。
(2)心は各人の身体の内側にあり、外からはそれをうかがい知ることはできない。

この二つの前提を放棄しない限り、他我認識は失敗する、というのがフッサールの診断です。
それに代えて、フッサールのいう「間・主観性」というのは、心とか主観とかいうものは人間の身体の内側にあるのではなく、人間と人間の中間にあるという考えです。
各人の心はその「間・主観性」が枝分かれして各人の身体の内側に定位したもので、だから心とは「共同心性」なのだ、ということ。
心は実体的な概念ではなく、関係的な概念だということです。
これを逆にいうと心というものは人間と人間が共同して作り上げているものということができます。
人間の本質は共同存在にあり、孤立した存在ではないということがそこから帰結します。
他我というのは共同の心性を各人の身体の内側に「投げ入れて」そこにあるものとして私たちが認識するものです。
そして他人からすれば、私の心は同じように共同の心性を私の身体の内側に「投げ入れたもの」ですから、私は私の心と他人の心を「類似」したものとして認識し、理解することができます。
共同の心性というのは私と他人だけが作り上げるのではなく、社会的・文化的に作られるものだというべきです。
たとえば一定の共同体に生きている人間は、その共同体の固有の心性を持つことができます。
私たちが他人の心を理解できるのは私と他人が共に同じ共同体に生きているからです。
当然、同じ共同体に生きていない人間同士では、互いに理解できないということが起きます。
共同心性が作られていないから。

以上のようにフッサールは「間・主観性」をもって、近代哲学の「独我論のパラドックス」を克服できると考えました。
果たして、本当にそれが克服になるのか、私はじゃっかん疑問を抱いていますが。

哲学の歴史の中で、他我認識の問題を初めて取り上げて問題にしたのが、現象学の創始者フッサールで、その「デカルト的省察」においてでした。
私たちは外的対象ならば、見ることができるから認識できますが、他我、すなわち他人の心は私からは見えないから、直接的に認識することはできません。
私の心は直接知ることができますが、他人の心は間接的にしか、例えば他人の振る舞いや仕草や表情の向こうにあるものとして単に想像するしかありません。
フッサールはこれを「間接呈示」と言っていますが、私たちは「間...続きを読む

Q大阪市立大学と大阪経済大学について質問です。

大阪市立大学と大阪経済大学について質問です。

大阪市立大学と大阪経済大学の雰囲気や1970年代からの評価、就職状況など地元大阪府の人教えてください。
又看板学部は大阪市立大学の場合商学部になるんですかね?

Aベストアンサー

大阪市立は3商大として名門でした。
(一橋大、神戸大、大阪市立大)
誤算だったのは、近くに名門国立大である阪大、京大があったこと。
またバブル期の80年代に私大志向が高まったことでどんどん陰りが見えて来ました。
90年代の不況で漁夫の利的に、一時期は人気も出たのですが、特に対策も取らずにのほほんと来たが為にずっと下がり続けていると言う感じですね。
問題は校風だと思います。
ランク的に、京大落ち、阪大落ちが多く、「落ち」と言うものの、要は
センターの結果から安全策を取った回避組です。地元公立進学校の生徒が多く、そこそこ優秀であることと、「受験に失敗した」わけでもないので入学後に猛勉強をすると言うような校風でもありません(例えばランク的に同程度と思われる中央なら早稲田や東大落ちが多く、必死にやって5年後、10年後にたくさんの人が司法試験に受かります。)
そこそこでやって来た人が入って来てそこそこやって卒業していく感じですね。多くが公務員や地元金融機関に進みます。何人も知っていますが、温和なノリですが、あまりパワーは感じません。
やはり浪人を避けて第一志望を回避して来た人が「しょうがなく入る」のが入学後も響いてる気がしますね。
「昔は良かったんやけど」と言うのが地元の人の感覚です。余り優秀でないわけですから、それを自覚して活動すべきなんだけど、何せ阪大や京大を「目指してた」わけですからその感覚がなかなか抜けないようです。
親である大阪府、大阪市の酷い財政状況や不祥事と合わせて辛い時期だと思います。

大阪経済大学は詳しく無いですが平凡な2流私大と言う気がします。

大阪市立は3商大として名門でした。
(一橋大、神戸大、大阪市立大)
誤算だったのは、近くに名門国立大である阪大、京大があったこと。
またバブル期の80年代に私大志向が高まったことでどんどん陰りが見えて来ました。
90年代の不況で漁夫の利的に、一時期は人気も出たのですが、特に対策も取らずにのほほんと来たが為にずっと下がり続けていると言う感じですね。
問題は校風だと思います。
ランク的に、京大落ち、阪大落ちが多く、「落ち」と言うものの、要は
センターの結果から安全策を取った回...続きを読む

Q現象的意識と反省的意識

デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?

そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね?
「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか?
もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか?

あともう一つ、現象的意識が「現れる」という表現がよく見受けられますが、
現象的意識を「感じる」「受け取る」という言い方は不適切なのでしょうか?

質問ばかりで申し訳ありません。
宜しくお願い致します。

デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?
...続きを読む

Aベストアンサー

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識によるからです。ですから、物事の意味理解は全て反省的意識によると見てよいのではないかと思われます。私には、反省的意識と機能的意識は同一としか考えられません。


例えば生まれたての赤ん坊の意識はほとんど純粋に現象的意識でしょうし、
5+7=12などの単純な計算はほとんど純粋に反省的意識によるのではないでしょうか。


>「質感を持たない主観的体験」
難しいですが、無いように思います。


感覚ではなく現象、感じるではなく現れる、と表現するのは現象学や純粋経験論的立場をとっているためではないでしょうか。
感じる「私」の存在は実は前提ではなく、ただ経験(現象)あるのみとしか言えないというアレです。


参考になる所があれば、ぜひしばらくお付き合いください。

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識による...続きを読む

Q今の大阪どうなんでしょう?

当方大阪出身で大学の進学から大阪を出たまま、10年以上経ちます。
大阪が大好きです。高校時代は探偵ナイトスクープに何度も投稿しました(笑)。もちろん今でも大阪弁です。

さてテレビ、新聞で見る大阪と言えば「痛ましい事件」「企業の大阪離れ」「シャッター商店街」などあまりいいものを目にしません。
実に「えー?どこ?うーわ、また大阪やん。」と思うことが多いです。
最近橋下知事の話題がようやく入るようになった程度。大きく変わったことは阪神が強くなった程度です。
よく全国ネットのニュースの最後の1分ぐらいに流される
「これはxx県の映像です。昔から伝わるxxxという行事です。子供たちが楽しそうに遊んでいます。」
こういう映像で大阪を見た事が一度もありません。

年末年始帰省しても、大都市って年末年始はガラガラ、ラッシュになると戻って来る人で混雑するはずですが。今の大阪は年末年始になるとどっと人が増え、本来の大阪の姿になります。逆転現象です。
実際私の中学・高校時代の同級生の多く大阪から離れていっています。
大企業になるほど大阪離れ顕著です。

隣の韓国のソウル一極集中もすさまじいですが、プサンと同様大阪も完全に日本で一番大きい地方都市化してしまいました。

実際に大阪に在住の人に質問です。
大阪は今でも活気があると思いますか?実際住んでいて大阪ってどうでしょう?住みやすいと思いますか?

当方大阪出身で大学の進学から大阪を出たまま、10年以上経ちます。
大阪が大好きです。高校時代は探偵ナイトスクープに何度も投稿しました(笑)。もちろん今でも大阪弁です。

さてテレビ、新聞で見る大阪と言えば「痛ましい事件」「企業の大阪離れ」「シャッター商店街」などあまりいいものを目にしません。
実に「えー?どこ?うーわ、また大阪やん。」と思うことが多いです。
最近橋下知事の話題がようやく入るようになった程度。大きく変わったことは阪神が強くなった程度です。
よく全国ネットのニュ...続きを読む

Aベストアンサー

たしかに活気が減っているのは事実です。
根幹には日本の場合、政治・経済共に東京への極度の一極集中化がされている為です。少し前なら、その状況下でも大阪は独自の経済圏を持ちえましたが、これだけ不況が続き、地方の活気がなくなると大阪にも影響が出てくるのは自明の理です。

あとは言い訳をしていきましょう
「痛ましい事件」
一般に大阪以外で大阪の細かなニュースが全国展開で流れることはありません。(それは各地方でも同じです)従って、大阪以外の地域で大阪のニュースが大きく取り上げられるとどうしても「痛ましい事件」が多くなります。別に大阪だけでで痛ましい事件が多発しているわけではありません。

「企業の大阪離れ」
これは確かにそうですが、今に始まったことではなく、大半の企業は平成始めごろまでに「離れて」しまっています。

「シャッター商店街」
大阪でも見られますが、やはりその惨状が酷いのは各地方都市です。首都圏も例外でなく、千葉・群馬・栃木・茨城辺りでは簡単に見られます。少なくとも京阪神近郊に限定すれば他地域よりもましな印象があります。

「こういう映像で大阪を見た事が一度もありません。」
そんな扱いをしたら関西圏の人が田舎扱いするなと怒るのでは?
という冗談はさておいて、各地方に見られる「ほほえましい」風景というのは東京等の都会から見た視点で放送されており、関西特に京阪神近郊は都会的要素が含まれるため、東京から見て「ほほえましい」「懐かしい」と感じるほど田舎的要素が見られないためと個人的には考えられます。
また、年中行事の大半は京都を中心とした地域の伝統が源流にあるため、源流であるゆえ「珍しい」と感じる要素が少ないことも理由と考えられます。
有名行事なら、ニュース最後の暇ネタではなく、本編で堂々と紹介されていたと思いますが…

>今の大阪は年末年始になるとどっと人が増え、本来の大阪の姿になります。逆転現象です。
大阪離れが進んでいることを自覚しているなら当然の現象です。大阪離れが進むほど東京から「帰省先」が大阪になる人が増えてくるのは当たり前の話です。

関西人は関西は東京に次ぐ第二の経済圏と信じて生きてきますが、一旦東京生活をすると、大阪とて他の地方都市となんら変わりないのだという「現実」に気づいてしまいます。
その現実を受け入れれば、特に悲観することはありません。上述の不満も他の地方都市に比べれば多くは「まし」なのです。

ただ、多くの関西人は田舎と都会のよさが適度にブレンドされた関西圏を愛し続けると思いますよ。

最後の質問ですが、特に住みにくいとは感じません。

たしかに活気が減っているのは事実です。
根幹には日本の場合、政治・経済共に東京への極度の一極集中化がされている為です。少し前なら、その状況下でも大阪は独自の経済圏を持ちえましたが、これだけ不況が続き、地方の活気がなくなると大阪にも影響が出てくるのは自明の理です。

あとは言い訳をしていきましょう
「痛ましい事件」
一般に大阪以外で大阪の細かなニュースが全国展開で流れることはありません。(それは各地方でも同じです)従って、大阪以外の地域で大阪のニュースが大きく取り上げられると...続きを読む

Qヘーゲルの自己意識にとってのもう一つの自己意識とは?

◆「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。
第二に、自己意識はそうすることでもう一方の相手を破棄している。
というのは、それは、相手を実在としてみるのではなく、むしろ自己自身を相手のうちに見出すからである。」(141.109-19)

ヘーゲルは、「自己意識が二重になりながら統一を成しているという概念」(141.109-9)に、「自己意識で実現されている無限性」をみる。
自己意識が二重になりながら統一を形成するというのは他者と人間関係を結ぶ中でこそ、自分に対する期待、自分の果たすべき役割、自分のなしうることなどについて、意識されるからである。
(加藤尚武編『「精神現象学」入門より』)

という事は、自己意識にとってのもう一つの自己意識とは他者なのでしょうか?
また他者は如何に、どうやって自己意識に把握されたのでしょうか?

Aベストアンサー

相互承認の部分ですね。

> 自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。

まず最初、自己意識は〈自分だけの存在〉としてあります。自分の中から、他者のすべてを排除する活動によって「これが自分だ」という意識が生まれる。
この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我にあらざるものすべてに対立する自我」)です。

「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する」というのは、一人の個人がもうひとりの個人に相対している、ということです。
けれども「もう一つ別の自己意識が存在する」というのは、このふたりを俯瞰する位置にあるわたしたちに言えることであって、この人はまだそう思ってはいません。ただ、「自分ではないやつがいる」と思うだけです。
同時に、この人の内部でも、主観的には自己自身を確信しているけれども、他者に対してそれが通用するかどうかわかっていない。そのために、この自己確信は単なる主観的確信に留まっている。

したがって、自分の持つ自己意識の観念を、自分以外の人間にも認めさせなければならない。その人が人間として価値を持ち、実在性をもつ、ということを、他者に認めさせなければならない。つまり、その人の生命の意味は、この他者が握っているのです。
だから「自分の外に出ている」。

他者に相対したときの「自己意識」は〈自分だけの存在〉ではありません。
それが「自己意識は自己自身を失っている、ということである」ということ。

「自分をもう一つの他の実在として見出す」、これは、相対する他者を、〈わたし〉となんらかのかたちで〈おなじ〉存在の次元に属するとみなしつつ、〈わたし〉ではない、〈ことなって〉いると見なす、つまり、現前しているのは、他者であり、しかももうひとつの「自己意識」として見出すこと。

そのことによって、自己意識は初めて真に存在することになるのです。
ここからは熊野純彦の『ヘーゲル 〈他なるものをめぐる思考〉』(筑摩書房)がわかりやすいので、そこから引用しましょう。

---p.177-p.178-----

つまり、自己意識にたいして他の自己意識が存在するとは、自己意識がみずからとひとしいものを、自分の外部に見いだすことである。つまり「みずからとはことなった存在において。じぶん自身とひとつである」ことである。自己意識は自己を他者として、他者を自己として見いだしている。他者が私でもあり、私は他者でもある。

 他者は他者であるとともに他者における自己でもあるのだから、他者を否定して自己を肯定することは同時に自己を否定することであり、逆もまた同様である。かくして、他者と私との「両者はたがいに承認していることを相互に承認しあっている」。自己意識は、かくて「承認されたもの」としてのみ存在する。
-----

(※なお、コジェーヴは主奴論とからめながらこの部分を非常に精緻に展開していっています。もし興味があれば、コジェーヴの『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』をお読みください)。

相互承認の部分ですね。

> 自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。

まず最初、自己意識は〈自分だけの存在〉としてあります。自分の中から、他者のすべてを排除する活動によって「これが自分だ」という意識が生まれる。
この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我...続きを読む

Q無謀ですか?大阪周遊パス

大阪周遊パスを使って、大阪観光をしたいと思ってます。

歩くのは苦じゃない二人組です。

大阪から移動して9:00着周辺の4箇所を回る
 大阪城天守閣、大阪城西の丸庭園、大阪歴史博物館、大阪国際平和センター

移動して天王寺 四天王寺、大阪市立美術館、通天閣、天王寺動物園

移動して天保山 サンタマリア乗船(45分)、天保山観覧車、大阪府咲庁舎展望台

移動してなんば とんぼりリバークルーズ(30分)

移動して堂島 大阪市立科学館

移動して天神橋 大阪くらしの今昔館 16:30までに入場

最後の大阪くらしの今昔館に16:30までに入れますか?

通天閣、動物園、展望台等はさくっと回る感じです。
アドバイスあれば教えて下さい。

Aベストアンサー

大阪在住で、ほとんどの施設に行ったことがある者です。

「まわること」だけが目的ならば可能だと思います。
ただし、観光が目的ならば疲れるだけで無意味な物になります。
「大阪周遊パスで利用できる施設」を羅列しているだけのように見えます。

A.大阪城天守閣、大阪城西の丸庭園、大阪歴史博物館、大阪国際平和センター
B.天王寺 四天王寺、大阪市立美術館、通天閣、天王寺動物園
C.天保山 サンタマリア乗船(45分)、天保山観覧車、大阪府咲庁舎展望台
D.なんば とんぼりリバークルーズ(30分)
E.堂島 大阪市立科学館
F.天神橋 大阪くらしの今昔館

それぞれに移動時間が30~60分くらいです。
全部で3時間ちょっとだとすると、観光に使える時間は4時間です・
1カ所を30分程度で廻るならば可能でしょう。
それから、リバークルーズやサンタマリア、観覧車、通天閣は60分程度の待ち時間が
発生することもあり、待ち時間が長いと無理です。

また、大阪くらしの今昔館にこだわっておられますが、大阪市が三井住友銀行との
タイアップで作った施設でたいした展示はしていません。(私は個人的に好きですが)
これをはずすだけで、Dのなんばでもう少し時間がとれるでしょう。

A・9:00~10:30 大阪国際平和センター除外
B・11:00~14:00 動物園または四天王寺を除外 
C・14:40~16:20 大阪府咲庁舎展望台除外 
E・16:50~17:30 全て除外してもいいですが
D・18:00~

大阪在住で、ほとんどの施設に行ったことがある者です。

「まわること」だけが目的ならば可能だと思います。
ただし、観光が目的ならば疲れるだけで無意味な物になります。
「大阪周遊パスで利用できる施設」を羅列しているだけのように見えます。

A.大阪城天守閣、大阪城西の丸庭園、大阪歴史博物館、大阪国際平和センター
B.天王寺 四天王寺、大阪市立美術館、通天閣、天王寺動物園
C.天保山 サンタマリア乗船(45分)、天保山観覧車、大阪府咲庁舎展望台
D.なんば とんぼりリバークルーズ(30分)...続きを読む

Qへびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○ 《へび》についての参考資料:~~~~~~

 星を散りばめたこんな時間に 独りして
 そこで
 もし風の音でないとすれば 泣いて
 いるのは 誰かしら

 今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで
 いったい 誰が 泣いているの?


 何か心の深い意図に対して憑かれたかのように
 わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて
 わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から
 一滴のしづくがこぼれるのに
 触れたように思っている。

 〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて
 《もっとも純粋なるもの》が
 静寂のかなたから
 この傷ついた心を照らし出してくれることを
 待っている。

 〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕
 咎めのうねりを囁いている。――

 岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを
 ものを苦々しくも呑むことになったような
 心を締めつける嘆きをざわめかせ
 送りやっている。

 
 髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは
 何をしているの?
 あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な
 風に吹かれた落ち葉がざわめき
 つづけるのは
 何故なの?

 この未知の天空につながれて
 わたしは きらめいている。

 災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は
 輝いている。

 ・・・

 わたしは ここまで
 わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。
 ・・・

 (ポル・ワ゛レリ:若いパルク La Jeune Parque )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * あるいはつまり

 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○...続きを読む

Aベストアンサー

>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、
 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。

>つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。
 私は、縁起共生という場合、《わたし》の独自性が極一部として、その全体の中に残っていると《わたし》が知っている《わたし》の生きる動態で、
 空観は、その独自性が全体の中に溶解消失するとみる《わたし》の生きる動態かと感じていました。

>一人ひとりの地道な努力としての《回転》の積み重ねでありこれが 社会全体としての動態的な過程に現われてくることであろうと。

 誰からみた場合でしょう。一人が、《回転》したなら、その人の社会は既に劇的に変容しています。本当に起こるかどうかはわかりませんが。
 それを知った他人からみたら、社会がほんの少し変わったことになります。
 何も知らない他人からみれば、社会はまったく変わっていないでしょうが、どんどん積み重ねられて、周りと話などをするにつけて、
 《回転》の香りが漂うようになれば、彼にも《回転》が起こるのかも知れません。

>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、
 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。

>つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。
 私...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報