●外見のファッションは それなりに意味があると感じています。
 でも 人の外見を見るとき わたしはファッションよりも服を脱いだ
 裸のほうに「重き」を置いています。
 大切なのは その人の持つエロスのスケール感と深さです。
 プラス 楽しみの余興としてファッションがあると認識しています。
●実は意識にも同じ事が言えるのです。
 みなさんが意識のファッションを強く感じる知名人を教えてください。
 またファッションを脱ぎ捨てた裸の意識とは「なんだ」と思いますか?
 この話題にまつわる雑感など 交えて教えてください。

 参考:(わたしの場合い。)
 意識のファッションを強く感じる知名人:キリスト・釈迦・ヒトラー etc
 裸の意識:「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの。

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A 回答 (37件中21~30件)

No.16の返答です。



>cse_riさんのおっしゃるところの表層意識と深層意識をひっくるめて
>わたしは 意識のファッションといっているのです。

私は「表層意識」と「深層意識」を合わせた総合的な内容が「人格」で
あると考えています。ここでは
 人格=意識のファッション
としましょう。

ところで、chihokoさんは
 >はだかの意識とは その「表層意識と深層意識」を認識できる意識を
 >指して言っています。
と述べていますが、一方で
 >裸の意識:「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの。
とも書いていますね。

「エロス」や「自然と一体となろうとする領域」が裸の意識ならば、
それらが、『「表層意識と深層意識」を認識できる意識』なのですか?
少々意味不明なので、もう少し整理した内容のコメントを願います。
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この回答へのお礼

ご質問には 明確にお答えできます。

●「人格」という とてもいい言葉をだしてくださいました。
 「人格」とは意識のファッションですが 意識のファッションの最も
 気高いものです。人間はさまざまな意識のファッションを着こなすうちに
 自分オリジナルのファッションを着こなすようになります。
 その自分オリジナルのファッションを「人格」と言います。
 本来自然のなかで自然から学ぶ人間はだれもが「人格」を持てました。
 しかし 今日 ミームの渦のなかで狭い視野しか持てなくなってしまった
 現代の人間は「人格」を持てずに まるでチープなコンピューターのように
 既成の概念の中で生きざるをえない状況にあるようにも感じます。

●はだかの意識とは その「表層意識と深層意識」を認識できる意識とは
 意識の階層の位置を範疇としての話です。
 「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの。 とは
 はだかの意識そのものの内容をいっているものです。
 矛盾はまったくありません。
 参考:(意識の階層)
 自我(自分を自分と認識している意識のフィールド)真善美があるところ。
   傍観できない。すっきりしている。
 ↓
 はだかの意識(対象に真善美を照らすフィールド)もやもやしている。
 ↓
 第二の表層意識(顕在意識)すっきりしている。下の階層意識を傍観する意識。
 ↓
 表層意識(顕在意識)すっきりしている。

 深層意識(潜在意識)は意識の全ての階層にかかわっている。

 だいたい こんなところでしょうか。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/09 19:13

ここでは


 意識のファッション=表層意識
 裸の意識=深層意識
と解釈して意見を述べます。

No.11でも少し述べていますが、フツーの人は表層意識と深層意識に、ズレがあります。

フツーの人は、本音でさまざまな欲を抱えているでしょう。
金を儲けたいとか、美人(美男子)にモテたい、一戸建て住宅が欲しいとか。
しかし、人付き合いとか世間体があるので、そういう本音の欲望はうまく
隠しているか、本音の欲望を理性でなんとか抑えて生活している人が大半でしょう。
表層意識(建前の考え)と深層意識(本音の欲望)にズレがあるとは、そういうことです。

さらに本音の欲望を分析してみると、利己的な欲望と利他的な欲望に分類できそうです。
たいていは利己的な欲望の割合が多いですが、利他的な欲望というものも存在します。


ところが、聖人とか偉人と言われる人たちは、どうもこのズレがなくなる、あるい
は少なくなってくるようです。あえて言えば「言行一致」、言ってることとやって
ることの差が少なくなります。
そういう人たちの人格については、善・悪を問わず強い影響力を感じます。

知名人の名を一応挙げておきます。(とりあえず善人のみ)
世界:イエス・キリスト、釈迦、孔子、ムハンマド、モーセ
日本:最澄、空海、法然、親鸞など
近代/現代:ガンジー、キング牧師、ダライ・ラマ
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この回答へのお礼

述べられている考察はその通りだと思います。

●cse_riさんのおっしゃるところの表層意識と深層意識をひっくるめて
 わたしは 意識のファッションといっているのです。
 はだかの意識とは その「表層意識と深層意識」を認識できる意識を
 指して言っています。

 裸の意識をちゃんと持っているかいないかは 自分を生きるうえで重要だと
 感じています。イエス・キリスト、釈迦が それをもっていたかは
 知りませんし 関心もありません。
 ただ ファッションは強く感じるということで 名前をあげました。

 ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2002/04/08 11:31

太陽の子供か。


おれはただの子どもにしようかな(笑
地球が太陽より輝いてるのはなんで?太陽とともに輝いてるのはなんで?
多様性が崩れるのも多様性のうちじゃないのか?
全体を観るのに視点はいらない。
 200億?どれくらいかわからんが、そのお金が何の上に成り立つか。もはや、現代日本で足るを求め歩く時点で、様々な命を踏みつけてる。でもな、概念、言葉はただで使える。迷いも生むが、囚われをなくせる。
こう生きるべきだ!というが、すべき事は何もない。それは自然になされるから。
>デザインとは行為にコンセプト(概念)を与えることをいいます。
子どもが人生をデザインするか?大人はいつもこれだ。俺の嫌いな大人の人生に対する態度だ。コンセプトがあると、自由はないんだよ。つねに無為であるなら、人生のデザインはいらん。すでにデザインはあるし、コンセプトもある。所与で。
概念という行為。行為という行為。
人生をデザインするってのは、あるがママじゃないんじゃないのか?
計画すりゃ崩れるし、得れば失われる。まいいよ。俺はしないから。風車がまわりゃいいんだよ。俺の見方では、人生をなにかしらデザインしようとする奴は、傲慢でエゴイストだな。そして不自由。こう生きたい、ああ生きたい。こう生きるべき、君はああすべき。あるがままじゃない。例えそれが、善心からでもな。悪を討つ善心。闘う必要はない。全体を観りゃわかる。闘ってもいいが、そのときは闘うために闘わなきゃ。天下一武闘会みたいに。悟空みたいにな。
 
あと、「No Concept but Good Design」って言うのもある。その物語に題名はない。あえて言うなら私という題名か、。そんなのもいらんけど。善悪はどっちでもいいんだよ。悪も働いてんだし。
行き当たりばったりじゃなく、すでに行ってんじゃないの?
>いままでの文化とテクノロジーと自然の融合を
 わたしなりの視点「太陽の子供の視点」で実践するものです。
 だいたい初期時点で200億くらいかかります。山とそれにつらなる
 水系と農業をすべて見直します。
 このプロジェクトには 実はMANGAが推進力となっているのです。
 まだ芽のだんかいですから いずれあなたも 影響される
 キラキラ輝くビジュアルが 羽ばたきます・・・・。
 
いいな!近い未来の感じがするな。なに?新しいコミュニティとかつくるのか?生きるべき姿の見本だからな。
じゃ、そのキラキラ光線の届く未来、俺は捨てられたものを拾おう。
期待はしなくていいが、安心はしてていいぞ(笑。
その輝く光が、万一的に影を生むなら、それに隠れてしまうものはなにかな?
でも、話聞いてたらわくわくするのは俺だけか?いいな。
>「見えないものは見る必要はない。」これがわたしのスタンスです。
そらちがうわ。そのスタンス見直してもいいんじゃない?だから目の前しか見えねぇんじゃねぇか。全体が観えないんだよ。いくらよく見えてても、そのスタンスじゃ死角が多すぎる。
でも、それもいいと思うよ。別に、全体が見えずに、なにかしらを踏みつけていようが、なにかしら人生を、多様性を実現できるならな。ボクサーのように生きるのもいいだろう。
>言葉とは記号で はじめは モノへone to oneで付与されたはずです。
なんでやねん。言い切っちまっていいのか?物へ記号を付与するにはそこに対応する概念がすでにできていないと不可能だろ。(存在)に名前はつけれないんだよ。その物をその物とする時点で、概念か言葉か知らんが、働いてる。すでについてんだから。存在するという事はそういうことだ。区別の意識が生まれるには作用としての言葉、概念が必要なんだよ。
言葉ともの(存在)は、フィールドが、一見すると違うんだよ。実際はおなじだが。
 だから、=の内を見るとか、何だとかぎゃあぎゃあゆいまくってたんじゃねぇか。あいつは。ほんまにびっくりするぜ?世界の果てが見える。果ての向こうの世界を知れる。
 
君が無を嫌がるのは、多様性とかみ合わんって印象を持ってるせいかもしれないな。
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この回答へのお礼

●あなたが なにかおいしいものをたべたとき そのものを指して「あ」と
 いってください。それが言葉です。そこには概念なんて存在しません。

●No Concept but Good Design とは「言葉の表現」でそう言っているだけです。
 無意識のうちに概念が関与しています。
 無意識の概念もない行為は 存在しません。それはもう自然でしかありません。
 
●こどもも概念によって行動することには かわりありません。
 こどもは大人の数段上の感性を持ち 知識が乏しい それがこどもたる所以です。
●ちゃんと自分で認識したファッションとデザインに基づく行為は 修正も
 できます。他者のあり方にも最大限の配慮が なされます。

●多様性が失われることも多様性の内。その通りです。
 自分にとってどの方向を選択するのか それだけの問題です。
 100の存在が10になる多様性よりも 100のままの多様性を選択している
 だけです。これは言わずもがなです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/08 11:21

おお、たくさん返事来た(笑。

俺も思うがまま?を書こう。
>どんな概念の主張も自然のそれの あしもとにも及びません。
あしもと?立ってる場所が違うんだよ。概念と自然のそれとは。表記する場合は。リアルには同時進行だがな。
俺は概念?言葉は超根源的だと思ってる。近くの酒飲み女はどうでもいいといってるな。男のセンス、女のセンスの違いもあるだろうが、語りえないもの。一緒なんだよ。言葉も、君のいう存在も。何故気付かない。言葉の存在が何故気付かれない。
 生きることを間違うって、正解あんのか?観察できてりゃいいんだよ。自分がしてる事、自分が使う服、そういうもんだ。観察者。無言で見てる観察者。私を一体化させなきゃな。多くの奴は服(想念)と自分を勘違いしてるな。自分が服着てるってのもわかってないな。着せられたのか自ら着たものか知らんが。仮面のレヴェルじゃねぇ。なりきって演るのは当然だが。死んだ時に服はあの世に持ってけねぇ。自分を服だと思ってる奴は死ぬ。でもなりきるのは大切。
俺というのは想念だからな。今、想念にしゃべらせてんだよ。
燦燦と輝く太陽のヴィジュアル?んなもん形容できねぇんじゃねぇの?誰が太陽だっつって、名前つけてんだよ。ヴィジュアルに名前はいらん。太陽のヴィジュアルはただそれが見えてるだけじゃないよ。いろんな要素あるだろ。リアルタイムは語れない。前についてる目で目の前見て、前に歩くのは当たり前。後ろ左右の様子がわかるのが耳。見えないものを見るのが概念。
霊能は聴覚的らしいしな。全体を観るんだよ。目は前だけだろ?目でしかものを見ない奴は後ろを振り返る。
絵でも無理だろ。それしかないんだから。リアルタイムで。記憶映像は概念と何ぼも変わらん。
漫画に文字がなかったらきついだろう。概念甘く見すぎ。概念の影響目茶でかい。
物語へちょったらいやだろう。最近絵はこってるがストーリーが面白くない。ぺラい。ワンピースとかな、軽い。匂いがついてない。しゃれてるだけ。引きこまれない。映画もおなじ。スターウォーズも。ダースモールはちょっとカッコよかったけど、俺が生きる現実の方がはるかに面白い。っていうかそれはあたりまえか。世界広い。リアリストってこういうことかな?物語は人生で刻めってか?夢と現実を混同しろってか?
 
人が、なまで、しゃべるから、言葉は存在してる。
概念なくして物語りは生まれねぇ。漫画も、人生も。
「漫画の世界も本当は 楽じゃない」←知ってる?「ゆらゆら帝国考え中」って曲の歌詞。俺らが行くのは楽じゃない人生。これ確実だよ。夢と現実混同しちまったからな(笑。
> 
霊の花咲いて、君に見えるん?
俺ン中で霊は結構好印象。ま、人それぞれだね。ようは全体だ。
> 
人生にデザインはいらん。でも、漫画のキャラは髪型とか結構気にしてんじゃないかな(笑。ただ、外見は中から来るって思うな。生き方もおなじ。自前の服。そういうのはありと思う。概念も取り込んで、ヴィジュアルも取り込んで、それを自分のものにできるかってこと。ようは、それらが内在です、を知るかって事。外も中もないって。囚われないで、振り回されないで、生きるには、間違うかどうかはしらんが、選択無用。あるがまま。どうやった幸せになるか?なんて、俺は考えません。そんな心配事で幸せになれそうにない。なるよりあれ。ってか?べつにいいんだよ。幸せ以外でも。一杯ありそうだから。
選ばずに全部体験すりゃいいんだよ。死も。大事な人の死も。成すべき事は、自然になされる。
 
物理概念、概念、ヴィジュアル、言葉、存在。
俺の使い勝手を中途にのべると、
言葉と存在は同じ。その本質は語りえないもの。見えざるもの。
「語りえないものを語るのが存在。見えないものを見るのが言葉。」←これいいたい。
どっちが上下大小の問題じゃない。両方の問題でもない。
全体の問題だよ。全体把握。全体感。
両者体験可能、体験中。両者に命あり。
概念って言葉はめんどいよな。使うのやめよっかな。
言葉って言葉で全部事足りるだろうに。

>裸のヒトラーは 子供の無邪気なヒトラーです。
裸のヒトラーに名前はいらん。ヒトラーじゃないんじゃない?あるがままだから。
チョビひげはえてるかな(笑。
 
漫画は好きだけど、もうジャンプは読まん。リアリティがないから。
夢を目の前にぶら下げて、体験できないのは虚夢だ。たとえ明るい色のミームをもっててもな。
俺がみるのは夢現(笑。ちょいやばくなってきたかな。ま、いいよ。
危ない橋も渡らないとな、たまには。リスクなんてはかってられん。
人生失敗するかもなんてな。そんなの杞憂。失敗もなにもない。
行けばいい。待てばいい。迷えば、いい。
 
言葉は何も主張しない。自然もおなじ。誰も、主張なんかしてる奴いない。あるがままにあるだけ。
主張するのはエゴイスト(人間)だけ。
 
あるだけにありたいな。今、そう思った自分に気付いた。
たくさんよませちゃて、ありがとな。
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この回答へのお礼

●デザインとは行為にコンセプト(概念)を与えることをいいます。
 人生をデザインできないひとは 人生をいきあたりばったり(適当)にしか
 あつかっていないということです。人生のいろいろなファクターもデザイン
 できるでしょう。いちばん大切なのは 人生のすべてのファクターに
 通ずるデザインです。それを成すには しっかりとしたファッションが
 必要です。わたしのそのファッションは「太陽の子供」です。
 言葉で言い表すと 地球上の命はみな 太陽の子供として生まれた。
 といった感じです。
●言葉と概念はちゃんと区別するべきです。
 言葉の集合は概念よりも大きく はじめには言葉が発生しているはずです。
 言葉とは記号で はじめは モノへone to oneで付与されたはずです。
 そのうち言葉で言葉を示せるようになり 言葉は意味を内包するように
 進化したはずです。それが概念です。
●概念は「見えないものを見る」とはとてもいいところに気が付きましたね。
 だから概念はあぶないんですよ。
 「見えないものは見る必要はない。」これがわたしのスタンスです。
 「見えないものを見る」のは単なる楽しみでしかないと知るべきです。
 それはファッションのひとつであり 本質とは別のものなのです。
●なぜ「まちがわない」必要があるか。
 まちがって生きている人間は ほかの生物に迷惑をかけているからです。
 まちがったままを放置すると多様性がくずれます。
 いま わたしがとりくんでいるのは こう生きるべきだ!という見本を
 作り出すことです。いままでの文化とテクノロジーと自然の融合を
 わたしなりの視点「太陽の子供の視点」で実践するものです。
 だいたい初期時点で200億くらいかかります。山とそれにつらなる
 水系と農業をすべて見直します。
 このプロジェクトには 実はMANGAが推進力となっているのです。
 まだ芽のだんかいですから いずれあなたも 影響される
 キラキラ輝くビジュアルが 羽ばたきます・・・・。
 ご期待ください。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/07 08:49

おきた?いいよ、こっちに続きかいて。

スヤスヤ、、なんて、なにいきなりかわいくなってんだ?(爆。ま、サテン気分だからな(笑。
何も言わずに、通じ合えたら、たぶん素晴らしいだろうってゆうけどな、マジでそれができるのは一体化だと思ってるな。次元越えるから、一体化する。概念は次元越えれる。深さはどうだろな。名前なんてどうでもいいんだよ。直接的に概念を把握できるかってこと。息のある言葉を使えるのかってことだ。ビジュアルに名はない、すでについてるからな。ビジュアルでとらえるものはすでに生きてるものだ。だから深いのかもな。ビジュアルには代わりがないんだよ。リアルタイムだし。概念にはある。嘘がつけるからな。でもな、代わりのない概念把握って言うのがあんだよ。ビジュアルは刺激、反応だろ?概念は伝わる、だろ?比べれんのか?五感か、六感の違いじゃないの?
それに、ビジュアルの体験や想い出って、劣化すんじゃないの?
時とともに。
あっ、昼寝の間に突っ込んじまった。ま、いいか。サテンだしな(笑。
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この回答へのお礼

では こちらに つづきを思うがままに書かせていただきます。

●まず 概念のファッションについてその弊害を述べたいとおもいます。
 わたしが常々危惧していることは。
 衣服のファッションでは コスプレがあるように また 馬子にも衣装と
 言われるように そのファッションでその気になってしまう人間の性(しょう)
 を 「意識のファッション」にも感じていることなんです。
 たとえばヒトラーです。ヒトラーはヒトラー独自のファッションにより
 自分の行動をデザインし 実行したのでしょう たぶん。
 はたして ヒトラーは 自分がファッションで その気になっちゃってたことに
 気が付いていたのでしょうか? 裸のヒトラーは 子供の無邪気なヒトラーです。
 現代人には そこにちゃんと気づいて 自分がどんなファッションで
 人生をデザインしているのか 折に触れ反芻して欲しいのです。
 生きることをまちがわないために。

●概念とビジュアルの 意識における深さと大きさについて。
 わたしは いままで生きてきて 概念とはファッションでしかないと感じています。
 言い換えると概念とは 意識のうわべでしかない ということです。
 その概念は わたしというフィルターを通過して こころの奥で
 真善美という感覚基準に影響をあたえています。
 どんな物理概念でも 太陽のサンサンと輝くビジュアルにはかないません。
 また無言で繰り返される「自然の命の営み」から受ける影響は
 どんな概念の主張も自然のそれの あしもとにも及びません。

 概念は忘れるし 極論すれば どうでもいいことです。
 ビジュアルも忘れます。でも なぜか 優れたMANGAのビジュアルは
 忘れずにこころに残っているのです。アトム どらえもん あしたのジョー
 力石徹 エイトマン アッコちゃん 星飛雄馬 タイガーマスク etc
 忘れられない これはMANGAが ビジュアルのエッセンスを抽出する
 作業の成果だということに由来していると認識しています。
 わたしの「真善美」にとって MANGAが もっとも影響をあたえる
 要素である可能性は否定できません。(きっとみなさんもそうですよ。)

●霊能力者は超能力者よりもまだ 役に立ちません。
 脳の働きが不安定で幻覚をよく見る方も 霊能力者になっちゃいます。
 超能力者は マジシャンか本物かです。
 数で言うと 霊能力者のほうが格段に多いのです。その手の人が多すぎる場合い
 普通の感覚なら 本物ならば 別の呼称を考えるはずです。
 自分は真に本物なのですから。でもあえて「霊能力者」を名乗っていると言うことは
 自分とて ほどほどで はっきり自分の能力を見極めていない証拠です。
 本物なら「超霊能師」とでも名乗って 霊の花でも咲かせてほしいものです。
 霊が見えるくらいじゃ たとえ本物の霊能力者であったとしても
 ふつうの「精神不安定者」となんらかわりませんし 区別できません。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/07 01:07

俺、俺だよ。

無、空の話はもう止めるわ。トートロジーの内はな、空でも無でもあるし、それらでないから。隙間なく光る光だとか、形容いろいろされてるけど、ほんとは何も言えん。
 割り込むけど、俺は「天空の城ラピュタ」がいいな。宮崎駿は俺らの世代、上下かなりの範囲で影強大だな。俺は霊に関しては何も言わんとこう。興味は大ありだけどな。

なんか、負けず嫌いっぽいな。かなりの(笑。
霊の概念よりもはるかに大きいんだって、霊を知らん奴(興味ねぇ)の言える言葉じゃねぇじゃねぇか。霊の概念もかなり影響あると思うぜ?漫画にもよく出てるっぽいし。今も人気あるだろ?霊の概念。映画にもなってるし。いちいち比べるなよ。どっちが大きい、小さいじゃねぇよ。ようは全体がどうかだ。概念なんて一つ、取り沙汰してもあんま意味無いんじゃないの?
ところで「十四郎」って名前きいたことあんだけど(笑。ま、いいや。
  
 裸の意識、「自然体」ってのは?それか、意識しない意識。「意識しすぎじゃないの?」って言う突込みに対して、どうでもいいよ。って返事するような意識。ピュアな意識かなぁ。無気力、無関心な意識かも。
裸の意識、言うのは簡単だから、到達するのも簡単なはず。ためす価値ありだな。むしろためさせろ!だな。
 ひまつぶすんだったら喫茶店の気分でつぶそうぜ。そのほうがいいわ。
 
漫画で広まる意識はファッションだろ?俺の意識のファッションは漫画由来だと思うな。それを捨てたくはないな。でも、ナマの世界に裸足で飛び出したいな。裸か、裸足か、ちょいちがう。
 自然体と裸の意識について。
裸の意識で生きれたら自然体で生きれてるって事かな。
自然体の方が、裸の意識より高度だな。高い低いといいたくねぇが。
自然体と裸の意識。
裸の意識って実は、取り込まれたファッションを総体化?することで近くなるのかもしれないな。脱いじゃったらなんか違うぞって思う。ファッションを自然体でって言うのは着こなすってことか?だったら、総体化じゃないな。一体化か?
 
あとな、ヴィジュアルの影響力と概念の影響力と、そんなの人によるんじゃねぇのか?俺は概念の影響力大だぞ。概念を体験すんだよ。それは、海で遊ぶのと同じように影響大。言葉大好き。いつか必ず、完全に言葉をものにする。俺にはそれができる。ヴィジュアルは飽和しちまえばおわりだ。最近はアニメも映画も、ゲームも無縁だよ。たいして興味なくなった。リアリティが無いからな。概念ドンドンきてくれって感じだ。あえてミームだな(笑。概念はリアリティを持ってることに気付いた。俺が、今、考えてんだから。リアルな思考だ。アニメは違う。リアリティが無い。映画も。平面だし。3Dになってもおなじだ。リアルなのは、俺が今、それを見ているってこと。主人公になったつもりでもいいが、やっぱ嫌だ。映画で自分は生きれん。リアルを再現できるヴァーチャルは無い。実現できない。そういう思いが強いな。まじで霊とか関わってくるかも。
概念は死も呼ぶが生も導ける。ヴィジュアルも概念の一種と見れるかもな。反応としての概念。生死を越えるのも概念。越えて意味あんのかはゆわん。やいこしいしくどいから。
ヴァーチャルにはのめり込めないな、もう。大人になっちまったのか!?
 
もうちょい、ある体験したら、人ん中でそれがミーム化するパターンと、そのまま血肉?になるパターンとあったりする?両方の処理が同時に行われてるよな。ちがう?
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この回答へのお礼

●ご回答 ありがとうございました。
 わたしは 霊とMANGAをくらべているのではなく。
 「概念」と「ビジュアル」の 人間のこころの深い部分に及ぼす影響を
 考察して 「ビジュアル」のほうが大きいぞ!と言っているわけです。
 何故なら 概念は容易に概念により修正できるのですが ヴィジュアルの
 及ぼすこころの領域は コントロールするメソッドすら みあたらないからです。

 ちよっとお昼ねタイムなんで つづきは夜 補足としてかきますね。
 では スヤスヤ・・・。

お礼日時:2002/04/06 13:47

>意識のファッションを強く感じる知名人:キリスト・釈迦・ヒトラー etc


>裸の意識:「エロス」と「自然と一体となろうとする領域」を揺れるもの。

私の解釈では、
 意識のファッション=表層意識
 裸の意識=深層意識
と思います。

chihokoさんの言うところの「エロス」というのは、フロイトがいうところの
「性の衝動」ですね。それからもう一つの「自然と一体となろうとする領域」
は、たぶん超自我(スーパーエゴ)かと思います。

この2つの間を行き来しているのがフツーの人間らしいですから(フロイトの
深層心理学によれば)、まぁchihokoさんはフツーみたいですね。


ちなみにフツーの人は、表層意識と深層意識の間にズレがありますが、聖人に
なってくるとこのズレがなくなってくるみたいです。
個人的な見解ですが、人間の心の力は深層意識にありますので、表層意識と
深層意識のズレがなくなってくると、表層意識と深層意識を合わせた人格全体が
光り輝いてくるようです。


蛇足ですが、tooshirooさんの言うことをあまり馬鹿にしない方が、あなたの為ですよ。
物質文明全盛の時代に、霊だの霊界だの信じる方が無謀と思えるかもしれません
が、しょせん今の人間はたいしたことは知らないのです。科学全盛の時代ですが、
未だに人間は物質や力の根本について解明ができていません。
chihokoさん自身、宇宙の真理をどれだけ知っているのでしょう。

霊の存在については仮説レベルですが、私は存在すると思っています。今の科学で
は霊を検知できないので仮説の検証ができないのですが。
(噂ですが、霊を見る機械がアメリカに既にあるとかないとか?時間をみつけて調べてみます)
また、tooshirooさんの発言は私には非常に興味深く感じました。幾つかの文献か
ら調べた内容と、かなりの割合で一致していましたので、まったくのデタラメを
言っているようには思えません。

これまた仮説の段階ですが、20世紀は物質文明の時代、21世紀は精神文明さらには
霊性の時代に突入すると読んでいます。推測ですが、今の時代の若者が年老いて死
ぬまでには、その時代の雰囲気の何割かを実感できるでしょう。
人類が行く道を誤ったら、人類滅亡ってシナリオもありえるんですけどね。
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この回答へのお礼

●わたしのことを普通と感じるあなたは わたしレベルに物事を見れているか
 わたしより高いところで見れているかどちらかでしょう。
 わたしと深く話し込んだ方々からは わたしはいちばんマトモだと批評いただいてます。
 
●さて tooshirooさんのことはバカにしていません。
 もいちど読み返してみてください。わたしは普通に感じたままを述べています。
 
●霊に関してですが あまりにも あきらかな誤認が多すぎるのです。
 霊を科学するのなら いっぱんに言われている霊とは べつの言葉を用意
 するべきです。なにも知らない人間だからこそ「寄らば大樹の陰」として
 なにかおおきなものに寄り添いたいものなのです。
 その人間の心理にあてこんだバカが多すぎるのです。
 ましてや マイナスを抱えた方々を食い物にするヤカラは わたしの敵です。

●霊にかんして論ずるなら 具体的にいきましょう。
 科学とはそういうものです。スーパーカミオカンデでもつまみにして・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/06 13:36

霊を別の言葉に置き換える事は難しいです。

英語ではspiritになりますか。
質問の本題とはずれ、寄り道になりますがどうぞ聞いてください。裸の意識の説明にも霊は関わっていますから。
霊がへぼいとおっしゃるとは、。ずばっと言いますね(笑。
その方がいいです。現代日本は、怖気づく?人間が多すぎます。
でも霊が見えると楽しいこともありますよ。神社などに行くと、大きい楠などにからす天狗などが一杯います(植物の成長をつかさどっています)。時には竜神が、竜神雲となってあいに来てくれます。彼は、物(鉱物等)の霊が進化して神(高次の霊)になったものです。もちろん高い知能と意識、霊力をそなえています。
宮崎さんの「トトロ」、信じてますか?
ああいう妖精は、姿形はともかくもいるんですよ。実際に。実在として。
彼らとともに、自然の中で生きることが、すごく幸せです。風の妖精に触れたときなど、すごくいいです。同時に、季節が何時変わるのか、教えていってくれます。その通りに花が咲きます。それで、季節に適した「生活」を考えれるわけです。種は何時まこうか、雨は何時降るのか、収穫はいつか。農耕民族の日本人には、霊とのふれあいは欠かせません。霊に声をかけてもらっているのに無視してしまうのは、霊を疑って信じないからです(霊性の低下による)。低下して、見えなくなって、又信じなくなります。又低下します。悪循環です。風の妖精(精霊)などは事実、皆に声をかけています。
 
 他の霊現象では、類魂の隙間、身体と霊がずれている。つまり、現代人のように心にたくさん穴があいていると、その穴をいろんな霊が通り抜けます。その時、悪霊が通り過ぎると、いわゆる「魔が差す」と言う状態になります。
いろんな現象、心象の原因が、霊であるのです。あなたは自然への意識が高く、屈託の少ない精神の持ち主のようですから、そのうち自分自身の霊性を甦らすでしょう。もう甦ってるかもしれないですね。その時、多くの霊の手伝い、支え、導きがあったという事実に触れます。人間の思考にも、行動にも、霊が必ず関わっているのです。あなたにも守護霊がいます。それに気付けると幸せでしょう。ですから、お墓参りも大切ですし、靖国神社に参拝するのも大切な事です。ただ文化ではなく、何故その文化があるのか、現世とあの世、霊界と現界、世界は見えているよりもずっと広いのです。そのほうが、わくわくするでしょう?死んで終わりではありません。死んだ後は、がんばって瞑想すればわかります。私は霊能力により知っているのですが(笑。今の生に囚われず、過去、未来も見ようとするのは大切です。
 裸の意識とは、本来の霊(本当の自分)を現している状態かと考えます。霊は、身体をもって自分になります。心に隙間がない、。裸、悲しむ時に悲しみ、笑うときに笑える人間の意識状態でしょうか。荒れた都市の廃墟で、終末の世紀を生きる人々にも、裸の意識はありえるでしょう。現代では、裸の意識の人間を探すことは難しいですね。小さな子どもぐらいでしょうか。いろんなことに左右されない、いろんなことを見つめれる、自由な精神が、裸の意識には伴うのでしょう。以前の、無我、神でのアプローチによる話は忘れてください。闘魂の話を出されましたが、おっしゃるように霊と魂は違います。闘魂はむしろ、精神といったようなものではないですか?霊は、霊界、といった風に、別の世界のものです。様々な世界の織り成す模様が、世界です。科学的に言うなら、周波数の違いでしょうか。現界も、霊界の一種といえます。
自分の霊の周波を意識的に調整し、未来を見たりすることも可能です。
霊は、あり方をきめます。自分のあり方を変える事で、意識を別の次元にとばす(別のあり方になる)ことができます。
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この回答へのお礼

●霊があろうと なかろうと わたしはぜんぜん霊には興味ありません。
 自然のなかの霊からさまざまな情報を得てらっしゃるようですが。
 たとえばこんなことを知っていますか?
 「さくらの花になるつぼみと葉になるつぼみの違い。」
 花のそれは葉のそれより丸くふっくらしているんですよ。
 風はどのくらいのかたまりで動くかわかりますか?
 どんなに強い風でも十メートル単位のかたまりなんですよ。
 ほんの十メートル位置がずれると もう他の風が吹いているんですよ。
 季節のうつろいなんて霊によらずとも 自然そのものが 先を読んで
 備えをしているものです。その備えをみればわかるものです。

●宮崎駿の作品は 風の谷のナウシカ がマイベストです。
 あなたは霊と霊にまつわる概念にとらわれすぎているようです。
 概念の人間に及ぼすパワーは ビジュアルのそれには到底及ばないことを
 知っていますか? 宮崎監督のビジュアルにおいてトトロは最高傑作だと
 感じています。オリジナルなビジュアルは人間に新たなこころの領域を
 もたらします。その領域の確かさ大きさは概念のそれの比でなく大きいのです。
 例えば 鉄腕アトム ニャロメ ケムンパス 孫悟空 ドラエモン etc
 これらのビジュアルの人間にもたらす領域は 霊の概念のそれとは
 くらべものにならないくらい大きいのです。
●現代人が希求するビジョンは おどろおどろしい霊のそれではなく
 こころが ほっとする だれもが平和をだきしめたくなるビジョンなのです。
 いま 日本の「MANGA」が そのビジョンにより世界に前代未聞の
 平和のこころの領域をもたらそうとしています。
 キラキラと輝きを放ちながら 沢山の才能がすくすく育っています・・・。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/04 23:28

私の心配はなさらなくてかまいません。

そのためにお心裂いていただき、ありがとうございます。
私は霊能者ですから、今の物理科学信仰では、そういう見方で見られてもしかたありません。ですが、将来、霊性科学、という科学分野が人類社会の表に出てきます。現代、その礎のために私ども霊能者の多くはこの世に来ています。あなたが物理科学を疑わないのでしたら大丈夫です。霊が科学に歩み寄り、科学は霊に歩み寄り、組み込まれるからです。ただ、わからないものはわからないものとして受け止めておいてください。妄想などとは言わずに、小耳にはさんでいただけると、心外、回答させていただいたかいがあります。自然への意識が高いようですので、あなたのような方々をもっと増やそうと、わたしたちは思っております。自然にも、例外なく霊が深く関わっていることを知っておいて下さい。その事で、霊性が取り戻されます。人間は、太古から、自然、霊なしで生きてきた事は無いのです。自然もそうですが、宇宙も霊なしではありえません。
だから、その通りある自然も、霊と深く関わるために崩れているのです。これらは、霊界では予定されていた事ですので、心配は要りません。ただ、霊の働きを最大限効率よくするために、これからの科学技術は発展していきます。それが、みなの幸せのためです。
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この回答へのお礼

●あなたのいうところの霊をつぎの言葉に置き換えてみてください。

 ■フォース
 ■マトリックス
 ■闇
 ■膜間波動エネルギー
 ■真空のエナルギー
 ■無のエネルギー

 ま いろいろ言えるんですけど なんか「霊」ってへぼい感覚あるんですよ。
 脳が不安定な方々が見る幻覚が「霊現象」ってことが多すぎます。
 もすこし目新しい発想をしたほうが ウケルと思いますよ。
 
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/04 01:43

裸の意識、それは、差別ない意識ではないかと思います。


その人にはその人の悟りがあり、その体現をファッション、サーフィスと見るか、その人そのものの現れと見るか、それは、見る人によると思います。そんなことを考えないでみるのは、子どもならばそうかも知れません。
 僕の場合では、服を着ていない人間を見た事はありませんが、そんな中で、裸で歩いて目立つのか、派手な服で歩いて目立つのか、どちらにせよ、視線を気にしない人が裸であると思います。遊ぶために遊ぶ、仕事のために仕事する、自分をさらけ出している。そこらへんが、裸人間ではないでしょうか。差別ない意識とは言いましたが、裸人間、裸の意識を別に形容する言葉は実には思いつきません。きっと、ある言葉は、他の言葉にできないのでしょう。言葉は一言ですますべきだと思うこのごろです。
 
 話がかみ合っているのやらいないのやらという所ですが、糸は失っていないと思います。
 
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この回答へのお礼

●差別という概念を持たない意識ですね。いいところに着眼しましたね。
 「差別なしであらゆることを 見聞きできる人間。」
 わたしの最も大きな目標の一つです。
 おおくの人々と分かり合えて おおくの人々に深く理解される人物像の
 それは ひとつの要素だと感じています。
 わたしの考慮では 差別という概念を持たない意識とは 裸の意識より
 かなり高度なところにあって 十分というところにあります。
 ただむずかしいですよ 差別という概念を持たない意識は・・・。

 とりあえず意識を裸にしてからかなっ て感じです。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/04 01:31

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Q《わたしがわたしである》わたしがわたしする

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。


 

6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イ
ツハリをおこなう。光も曲がる。存在もそして存在の中軸としての意志も 相対的
なもの(善)だからである。
 
7. つまりは 善なる存在は そのみづからの存在としての善をも損傷する自由
のもとにある。ウソをつきイツハリをおかす。それは やましさ(恥づかしさ)反
応で分かる。


 


8. ウソを 思惟しただけではなくヤマシサ反応にさからって実行したなら そ
のぶん もともとの(生まれつきの身と心とから成る自然本性としての)善を傷つ
ける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。
 
9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼
んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。悪は 表現の問題である。
 
10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 
善――正負の善――の関数である。




11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在で
ある。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損
傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけ
ではない。善がひがみ ゆがむのみ。

12. 人びとの中には やけを起こすわたしがいるだけのことだ。これが やめ
られないとき その悪を悪魔といった独立の存在のしわざだと見たくなる。その想
像の産物として 悪や悪魔がある。



13. 相対的な善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へそ
の曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる
存在を自治する。自己経営する。
 

14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つま
り人間の行為関係を共同自治して生きる。
 

15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集
まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよば
れる。悪の共同自治ゆえ。

16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛は
あるか。

 
17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。


18. これだけのことであると考えられるところを 世の中には――自由意志ゆ
えに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがあ
る。

19. 理念を推し出しお花畑を描くことによってのみ人間と社会の問題に発言を
おこなったり あるいはぎゃくに 世の中はチカラのみだという〔しばしば悪の〕
社会力学のみを推し出したりする。・・・


成否・当否を問います。
あるいは この《18&19》のあとを ご自分の見解で展開して行ってください。

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現...続きを読む

Aベストアンサー

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせてはいけない
殺人は取り返しがつかない
時間はもとには戻らない
家族が嘆き悲しむ
親戚が嘆き悲しむ
その人の所属している団体、すなわち会社が、学校だったりが悲しむ

たとえば旦那さんの不倫があったとする
それは奥さんが旦那さんから気持ちが離れた
旦那さんのことを気に掛けなくなった
旦那さんより自分の気持ちを優先させてしまった
一人では生きていけない
この世は支えあって成り立っている
仕事や自分の趣味等に気が行き過ぎるとよくない
バランスが大切

とか・・・。いろいろなことを教わる。
だから全ては善なんだ。

反対されるかもしれないが
こんな考え方 この世には善しかない
どうですかね?

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせては...続きを読む

Q哲学アンケート:他我意識

哲学アンケート:他我意識

みなさんは「他我意識」という記号から、どんなイメージを持ちますか?

(ちなみに当カテではアンケート目的の質問投稿は、管理担当者により認可されております)

Aベストアンサー

哲学の歴史の中で、他我認識の問題を初めて取り上げて問題にしたのが、現象学の創始者フッサールで、その「デカルト的省察」においてでした。
私たちは外的対象ならば、見ることができるから認識できますが、他我、すなわち他人の心は私からは見えないから、直接的に認識することはできません。
私の心は直接知ることができますが、他人の心は間接的にしか、例えば他人の振る舞いや仕草や表情の向こうにあるものとして単に想像するしかありません。
フッサールはこれを「間接呈示」と言っていますが、私たちは「間接呈示」を通して、感情移入によって私の心を他人の身体の内に「投げ入れる」ことによって、他人の心というものを認識します。
フッサールの用語ではこれを「類比的統覚」と言っていますが、私の心に類似したものとして他人の心があるということです。
しかし、他人の心というのは私の心を他人に「投げ入れた」ものですから、いわば私の心の「投影」です。
したがって、この世界には心というのは私一人にしかなく、他人は機械であって、ロボットかゾンビに過ぎないと考えることもできます。
これが「独我論のパラドックス」で、世界に心は私の心一つというのはひじょうに常識に反します。
常識では、私に心があるのと同様に他人にも心があるというものです。
しかし、哲学的に考えると「独我論」にならざるを得ません。
パラドックスになります。
いったい、常識が正しいのか、「独我論」が正しいのか?
もし、常識のいうように他人にも我が、他我が存在するというのなら、私たちはそれをどのようにして認識しえるのでしょうか?
そしてフッサールは「デカルト的省察」では他我認識に失敗し、破綻しました。
晩年にフッサールは「独我論のパラドックス」を解決するために、新たに「間・主観性」という考えを持ち出すに至ります。
フッサールによれば、他我認識が難しいのは近代哲学の以下のような前提に私たちが呪縛されているからだと言います。

(1)私の心は直接的に知ることができるが、他人の心は間接的にしか知ることができない。
(2)心は各人の身体の内側にあり、外からはそれをうかがい知ることはできない。

この二つの前提を放棄しない限り、他我認識は失敗する、というのがフッサールの診断です。
それに代えて、フッサールのいう「間・主観性」というのは、心とか主観とかいうものは人間の身体の内側にあるのではなく、人間と人間の中間にあるという考えです。
各人の心はその「間・主観性」が枝分かれして各人の身体の内側に定位したもので、だから心とは「共同心性」なのだ、ということ。
心は実体的な概念ではなく、関係的な概念だということです。
これを逆にいうと心というものは人間と人間が共同して作り上げているものということができます。
人間の本質は共同存在にあり、孤立した存在ではないということがそこから帰結します。
他我というのは共同の心性を各人の身体の内側に「投げ入れて」そこにあるものとして私たちが認識するものです。
そして他人からすれば、私の心は同じように共同の心性を私の身体の内側に「投げ入れたもの」ですから、私は私の心と他人の心を「類似」したものとして認識し、理解することができます。
共同の心性というのは私と他人だけが作り上げるのではなく、社会的・文化的に作られるものだというべきです。
たとえば一定の共同体に生きている人間は、その共同体の固有の心性を持つことができます。
私たちが他人の心を理解できるのは私と他人が共に同じ共同体に生きているからです。
当然、同じ共同体に生きていない人間同士では、互いに理解できないということが起きます。
共同心性が作られていないから。

以上のようにフッサールは「間・主観性」をもって、近代哲学の「独我論のパラドックス」を克服できると考えました。
果たして、本当にそれが克服になるのか、私はじゃっかん疑問を抱いていますが。

哲学の歴史の中で、他我認識の問題を初めて取り上げて問題にしたのが、現象学の創始者フッサールで、その「デカルト的省察」においてでした。
私たちは外的対象ならば、見ることができるから認識できますが、他我、すなわち他人の心は私からは見えないから、直接的に認識することはできません。
私の心は直接知ることができますが、他人の心は間接的にしか、例えば他人の振る舞いや仕草や表情の向こうにあるものとして単に想像するしかありません。
フッサールはこれを「間接呈示」と言っていますが、私たちは「間...続きを読む

Q現象的意識と反省的意識

デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?

そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね?
「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか?
もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか?

あともう一つ、現象的意識が「現れる」という表現がよく見受けられますが、
現象的意識を「感じる」「受け取る」という言い方は不適切なのでしょうか?

質問ばかりで申し訳ありません。
宜しくお願い致します。

デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?
...続きを読む

Aベストアンサー

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識によるからです。ですから、物事の意味理解は全て反省的意識によると見てよいのではないかと思われます。私には、反省的意識と機能的意識は同一としか考えられません。


例えば生まれたての赤ん坊の意識はほとんど純粋に現象的意識でしょうし、
5+7=12などの単純な計算はほとんど純粋に反省的意識によるのではないでしょうか。


>「質感を持たない主観的体験」
難しいですが、無いように思います。


感覚ではなく現象、感じるではなく現れる、と表現するのは現象学や純粋経験論的立場をとっているためではないでしょうか。
感じる「私」の存在は実は前提ではなく、ただ経験(現象)あるのみとしか言えないというアレです。


参考になる所があれば、ぜひしばらくお付き合いください。

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識による...続きを読む

Qヘーゲルの自己意識にとってのもう一つの自己意識とは?

◆「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。
第二に、自己意識はそうすることでもう一方の相手を破棄している。
というのは、それは、相手を実在としてみるのではなく、むしろ自己自身を相手のうちに見出すからである。」(141.109-19)

ヘーゲルは、「自己意識が二重になりながら統一を成しているという概念」(141.109-9)に、「自己意識で実現されている無限性」をみる。
自己意識が二重になりながら統一を形成するというのは他者と人間関係を結ぶ中でこそ、自分に対する期待、自分の果たすべき役割、自分のなしうることなどについて、意識されるからである。
(加藤尚武編『「精神現象学」入門より』)

という事は、自己意識にとってのもう一つの自己意識とは他者なのでしょうか?
また他者は如何に、どうやって自己意識に把握されたのでしょうか?

Aベストアンサー

相互承認の部分ですね。

> 自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。

まず最初、自己意識は〈自分だけの存在〉としてあります。自分の中から、他者のすべてを排除する活動によって「これが自分だ」という意識が生まれる。
この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我にあらざるものすべてに対立する自我」)です。

「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する」というのは、一人の個人がもうひとりの個人に相対している、ということです。
けれども「もう一つ別の自己意識が存在する」というのは、このふたりを俯瞰する位置にあるわたしたちに言えることであって、この人はまだそう思ってはいません。ただ、「自分ではないやつがいる」と思うだけです。
同時に、この人の内部でも、主観的には自己自身を確信しているけれども、他者に対してそれが通用するかどうかわかっていない。そのために、この自己確信は単なる主観的確信に留まっている。

したがって、自分の持つ自己意識の観念を、自分以外の人間にも認めさせなければならない。その人が人間として価値を持ち、実在性をもつ、ということを、他者に認めさせなければならない。つまり、その人の生命の意味は、この他者が握っているのです。
だから「自分の外に出ている」。

他者に相対したときの「自己意識」は〈自分だけの存在〉ではありません。
それが「自己意識は自己自身を失っている、ということである」ということ。

「自分をもう一つの他の実在として見出す」、これは、相対する他者を、〈わたし〉となんらかのかたちで〈おなじ〉存在の次元に属するとみなしつつ、〈わたし〉ではない、〈ことなって〉いると見なす、つまり、現前しているのは、他者であり、しかももうひとつの「自己意識」として見出すこと。

そのことによって、自己意識は初めて真に存在することになるのです。
ここからは熊野純彦の『ヘーゲル 〈他なるものをめぐる思考〉』(筑摩書房)がわかりやすいので、そこから引用しましょう。

---p.177-p.178-----

つまり、自己意識にたいして他の自己意識が存在するとは、自己意識がみずからとひとしいものを、自分の外部に見いだすことである。つまり「みずからとはことなった存在において。じぶん自身とひとつである」ことである。自己意識は自己を他者として、他者を自己として見いだしている。他者が私でもあり、私は他者でもある。

 他者は他者であるとともに他者における自己でもあるのだから、他者を否定して自己を肯定することは同時に自己を否定することであり、逆もまた同様である。かくして、他者と私との「両者はたがいに承認していることを相互に承認しあっている」。自己意識は、かくて「承認されたもの」としてのみ存在する。
-----

(※なお、コジェーヴは主奴論とからめながらこの部分を非常に精緻に展開していっています。もし興味があれば、コジェーヴの『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』をお読みください)。

相互承認の部分ですね。

> 自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。

まず最初、自己意識は〈自分だけの存在〉としてあります。自分の中から、他者のすべてを排除する活動によって「これが自分だ」という意識が生まれる。
この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我...続きを読む

Qへびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○ 《へび》についての参考資料:~~~~~~

 星を散りばめたこんな時間に 独りして
 そこで
 もし風の音でないとすれば 泣いて
 いるのは 誰かしら

 今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで
 いったい 誰が 泣いているの?


 何か心の深い意図に対して憑かれたかのように
 わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて
 わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から
 一滴のしづくがこぼれるのに
 触れたように思っている。

 〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて
 《もっとも純粋なるもの》が
 静寂のかなたから
 この傷ついた心を照らし出してくれることを
 待っている。

 〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕
 咎めのうねりを囁いている。――

 岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを
 ものを苦々しくも呑むことになったような
 心を締めつける嘆きをざわめかせ
 送りやっている。

 
 髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは
 何をしているの?
 あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な
 風に吹かれた落ち葉がざわめき
 つづけるのは
 何故なの?

 この未知の天空につながれて
 わたしは きらめいている。

 災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は
 輝いている。

 ・・・

 わたしは ここまで
 わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。
 ・・・

 (ポル・ワ゛レリ:若いパルク La Jeune Parque )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * あるいはつまり

 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○...続きを読む

Aベストアンサー

>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、
 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。

>つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。
 私は、縁起共生という場合、《わたし》の独自性が極一部として、その全体の中に残っていると《わたし》が知っている《わたし》の生きる動態で、
 空観は、その独自性が全体の中に溶解消失するとみる《わたし》の生きる動態かと感じていました。

>一人ひとりの地道な努力としての《回転》の積み重ねでありこれが 社会全体としての動態的な過程に現われてくることであろうと。

 誰からみた場合でしょう。一人が、《回転》したなら、その人の社会は既に劇的に変容しています。本当に起こるかどうかはわかりませんが。
 それを知った他人からみたら、社会がほんの少し変わったことになります。
 何も知らない他人からみれば、社会はまったく変わっていないでしょうが、どんどん積み重ねられて、周りと話などをするにつけて、
 《回転》の香りが漂うようになれば、彼にも《回転》が起こるのかも知れません。

>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、
 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。

>つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。
 私...続きを読む


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