ある人から、如来は男性ですか、女性ですかと尋ねられ、
男性と答えました。
理由は、当時は、男性しか修行を許されなかったから。
しかし、答えに自信がありません。
もしかした女性でも修行をされて、如来になったかたも
いらっしゃったのかもしれません。
どうなんでしょうか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (7件)

改めて、もう一度、こちらで調べてみました。



こういう問題は、現代の思想や習慣と、史実とは必ずしもそぐわないことがあります。現代の思想に相容れないから、現代の思想とすり合わせたり、改編したりして良いということではないと思うのです。キリスト教にみられる霊感などというものも、それは、信仰の問題であっても、史実から真実を求めようとする本来の志とは別ものだ、と言わざるを得ないのです。宗教には、リアリズムを描き出したものなどはありません。しかし、人間の心のリアリズムを求めることによって、初めて私たちの心に届くものがあるかと思うのです。リアリズムを求める気風を信仰の下にうやむやにして良いわけはないと思うのです。もともと、日本仏教は、仏教の名を借りた、亜宗教が日本では広まったわけであり、そこに仏教の真実を求めるなら、どれも正しくはない、とはなるのですが、それでも、少しでも、真実を求めようとする心構えは、少なくとも仏教を語るものには必要ではないでしょうか?

釈迦は、女性の入信者をなかなか認めようとはしなかったという伝説があります。フェミニストたちは、仏教に対して批判はしていますが、それは、歴史的な問題ではなく、本来、仏教の思想的な性格に、女性性(Feminie)な部分を求めていなかったに他ならないのではないか、と考えるのです。

初期仏教教団には、確かに、有名な尼僧がいたのは言うまでもありません。その中で、仏教徒なら誰でも知っている人と言えば、仏陀の妃、ヤショーダラー(麻輸陀羅)だと思います。また彼女は、仏陀の子 ラーフラの母です。しかし、その時点で、彼女を、今日、どのように理解しようとも、菩薩だの如来だのと安易に結びつけることは出来ないのです。少なくとも、菩薩や如来という概念的なものが形成されるのは、大乗仏教になってからのものであって、それを初期仏教教団にまで結びつけるには至らないのです。

涅槃経の中の 「善男子・善女子よ。----丈夫の志を立てることに勤むべし。---如来性は丈夫の法なるが故なり。女人の志は一切法に於いて多く染者を生じ---。若し、衆生の自身に如来性あることを知らざるものあらば、世間に男子と名を称すと雖も、我、此の輩は是れ女人と説く。若し、女人の能く自身に如来性あることを知らば、世間に女人と名を称すと雖も、我、此等は男子と説く」(大正新脩大蔵経 Vol12,P894)という書かれています。

如来性というのは、信仰の対象物ではなく、人の持つ解脱の内在性のことを指しています。これは、心理学者のユングの言うような、肉体的性別を越えて、内在する男性性(Masculine)と内在する女性性(Feminine)というべきものか、男性性にて、如来性があるとしていると私は解釈しています。

男性が女性に対する支配構造というのは、ある意味、我々人類が持つ永遠の社会心理的構造であって、それは、今日の社会的な権利主張とは別ものです。時々、ゴータマではなく、仏陀人間論において、大乗仏教の仏陀の肉体的性を問うのは、また同時に、大乗仏教においての男尊女卑を仏教の中で論ずるのと同じく、ある意味こっけいです。しかし、反面、現実には、今日まで、女人の五障三従という言葉も残っているとおり、多くの日本の伝統仏教では、女性の立場は低かったわけです。それは、当時の社会体制の中で、民衆の宗教として存在するための、すり合わせというよりも、女性性のリアリティにおいて、仏教では、それを求めなかった、または避けていたのではないだろうか、と考えるのです。

多くの大乗仏教にある如来像や菩薩像のような中性的(Neutral)な容姿は、反面、僧侶の脱男性を意味していても、キリスト教のようなマリア信仰のように、生殖機能を持つ女、つまり母性が現れていないところをみると、やはり、仏教は、男性性的な(Masculine)宗教であると言わざるを得ないと思うのです。したがって、大乗仏教における如来といういわば象徴的存在に、女性はないという結びになるだろうと思うのです。これは、仏教の思想的な性格によるものであって、ギリシア神話に影響を受けたキリスト教などの女神信仰や聖母マリア信仰とは同一にしてはならないものだ、ということです。ただし、言うまでもなく、本来、キリスト教は父性の宗教ではあります。仏教は、子と親という関係を持たないものだから、男性性的(Masculine) という用語を、ここでは用いています。
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「理由は、当時は、男性しか修行を許されなかったから。


は間違いですね。釈尊の時代でも女性の僧(弟子)はたくさんいました。比丘(男性)、比丘尼(女性)と呼ばれていたのですね。
その上で、女性の如来はいるかといえば、如来格の女性霊はいますね。大乗の祖といわれる文殊菩薩は、菩薩とよばれていますが如来格の女性ですね。
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思い出したことですが、竜樹(ナーガールジュナ)の『大智度論』の中の、如来の三十二相がありますね。

明らかに男性の特徴を持っています。しかし、大乗仏教の世界では、如来が、性別をどちらかというのも、おかしいのかもしれません。

ただ、如来というのは、大乗仏教では、仏教世界のトップの地位にあるのですから、人間界でどんなに実績を積んでも、人が直接如来になるというのは、何かの誤解かと思います。一般の大乗仏教の中では、現在までの仏教信仰では、如来が菩薩に下りることはあっても、菩薩が如来になることもないように思います。俗に、男性からみた若い美しい女性(身)に如来と呼ぶことはあるようですが、仏教とは直接関係がないはずです。

私の創作ですが、仏を会社組織に考えてみました。仏教世界のヒエラルキーがあります。ただし、これは、大乗仏教のみになるかと思います。

最初の役職は、係長の羅漢からだと思います。天は、警護隊長(昇進はありません)、ここと同じクラスに入るのは、鬼(例えば、鬼子母)と言って、人間界で悪さしたものたちで、仏陀によって改心したものが含まれます。実は、ここのクラスにいるのは、多くはヒンズーの神々のことです。独立した一派で、日本でも、人気が高く親しみやすく、やはり神頼みは、こちらに行くほうが多いように思います。私個人も、鬼子母神の縁日や、仏教徒や神道ではない者にとっても、葛飾の帝釈天や、鎌倉の銭洗弁天とか、お寺さんや神社と違う雰囲気を醸し出して、行きやすいです。

明王は、課長・部長クラスで、如来の個々の命令の実行部隊、菩薩は、取締役部長(平取)クラスです。

菩薩は、人間界で直接の実務(慈悲利他行)をしているわけです。一番、働いているものたちかもしれません。この菩薩にも階位があり、遠い将来には、如来になるかもしれません。非常に長い修行が必要だそうです(『十地説』)。 如来クラスでも下りてきて、菩薩で仕事をしているものもいるわけです。

如来は、専務・常務クラスです。場合によっては、トップも含まれます。いわゆる経営方針は立てて、命令をする側です。しかし、今のお釈迦様の立場は代表取締役でも、直接陣頭指揮に立ちません。一般的には、大乗仏教では、如来と釈迦は同一視されることが多いようです。なお、仏弟子たちは、菩薩の地位までは得たようです。

これは、大乗仏教の考え方ですが、一部では、こうした外部に実体化した存在を立てることを禁じている場合もありますから、これがすべてだとはいいません。一応、松濤弘道翁の著書を参考にしました。また、上座部仏教の場合は、羅漢の上の阿羅漢が、人間の到達できる最高位です。

如来は、多くは、概念的なものを具象化していることが多いので、密教系の毘盧遮那(びるしゃな)如来や大日如来、浄土系の阿弥陀如来、弥勒如来(菩薩)には、性別らしき性別というものがありません。大乗仏教では、また「空」を具現化したものが如来とするわけで、そういう性別という人間界の対立の世界にはない、と言えば、また、それも事実なのでしょう。

ただし、釈迦牟尼如来は、伝説としても、史実としても、男性であることは言うまでもありません。

[三十二相]

参考URL:http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/32sou. …
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如来は性別を超越した存在であり、男性でも女性でもないと聞いた覚えがあります。

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如来だったか菩薩だったか忘れましたが、チベット仏教のターラーは女性です。

作者が幼い頃に分かれた母親を思って作ったと聞きます。
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こんばんは。



仏像などは、顔つきが優しいとか女性的ですが、如来の性別がどちらかと言えば、やはり「男性」です。原語のtathagata は、真実より来たれる者は、仏陀と同意語で、男性名詞です。女性は、女性のままでは、悟りに至れないとされています。

仏教というのは、男尊女卑の社会に支えられて広まった宗教なのだから、それは、後代に大乗仏教の信仰の中で変化しても、元は、そういう考え方なのだと思います。
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私の理解では如来となったことで、性の属性が消えるので、如来は男でも女でもない と思っているのですが、如来になる前 女性の属性でいたものは というと、海部厳子。



物語では大うわばみが住む山に入り、21日の行を成し遂げ山を出てきた。
(つまり生命の樹に到達したので、永遠の命を得たと解釈されたのではないかと。)
831年3月20日弘法大師の座す南方に向かって合掌して座し、如意輪観音の真言を誦しながら、そのまま紫雲に乗って還化した という話があるそうです。
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Q弥勒菩薩と観音菩薩と薬師如来の違いをご存知?

弥勒菩薩と観音菩薩と薬師如来の違いって、普通の人は違いを知っているの?あなたに関してはどうですか?

Aベストアンサー

 ふつうの人は知らないでしょうね。

 私は、須彌山世界で阿修羅軍と仏軍の戦う小説を書こうとしたことがあって、仏教からインド神話からぜんぶ自作のデータベースにしてありますが (^_^; 。はっきり言って、異常です。

 えええ・・・ 違いはたくさんあって、何を書けばいいのやら。人間とはなんですか?、みたいな。

 まず、如来と菩薩はまるで別です。えっと、何が知りたいんでしたっけ。

 仏「像」の違いではなくて、能力ですか?

 像なら、薬師如来は両脇に日光菩薩と月光菩薩を従え、周囲に守護神の12神将をはべらせる。右手は施無畏印、左手は与願印を組み、その上に「薬壺」を載せる。薬壺(やっこ)が特徴。持っていない場合は「印」で釈迦如来と区別。薬師三界印を結ぶ。光背は独特。
 奈良元興寺のそれは左手で薬壺を持ち、右手はあまねく照らすように高く掲げる。

 なんて具合ですが、つまらないでしょうね (^_^;

 力で言えば、如来は「仏」様(悟った人)ですが、菩薩は、如来になるために修行中のおかたです。悟った人の一歩手前、悟りを目指す人。

 薬師如来は、現世で、病気などで苦しんでいる人を助ける存在です。死後を担当する阿弥陀如来と対照的ですね。

 弥勒菩薩は今、須彌山上空の「兜率天」という所で、56億7000万年後に、人間界に降りて人々を救うために修行していらっしゃいますが、ただ、問題があって、弥勒菩薩の寿命は5億6000万年ほどなので、人間界に降り立つ前に自ら死亡されるんで、どうなっているんだろうという疑問があります。

 観音様が、一番ポピュラーでしょう。俗に6種の観音があり、「観音信仰」というものがありますが、もともとは、阿弥陀如来の脇に立つ存在です。観音様の名前を唱えると、大火の難、大水の難、羅刹の難、刀杖の難、悪鬼の難、・・・ さまざまな難から逃れられると言われています。

 うーん・・・ 、たぶん、質問の意図をはずしていますね (^o^;

 いろんな説がありまして、このお三方の話を書くだけで、ちょっとした本が書けるくらいなんですよ。もっとしぼってお尋ねになるほうがよかったですね。

 ふつうの人は知らないでしょうね。

 私は、須彌山世界で阿修羅軍と仏軍の戦う小説を書こうとしたことがあって、仏教からインド神話からぜんぶ自作のデータベースにしてありますが (^_^; 。はっきり言って、異常です。

 えええ・・・ 違いはたくさんあって、何を書けばいいのやら。人間とはなんですか?、みたいな。

 まず、如来と菩薩はまるで別です。えっと、何が知りたいんでしたっけ。

 仏「像」の違いではなくて、能力ですか?

 像なら、薬師如来は両脇に日光菩薩と月光菩薩を従え、周...続きを読む

Q仏像(仏陀)には男女の区別はなぜないのでしょうか。

表題のとおりです。参考文献があったら教えてください。

Aベストアンサー

浄土真宗の寺の者です。
適当な参考文献は思いつかないのですが・・・。
もともと仏教はインドのものですから、背景としてカースト制があります。カーストの考えはもともと根強い男尊女卑に支配されており、卑しい存在である女性は、現世では悟りを得ることができないとされています。そのため、女性が悟りを得て救われるために、仏として浄土にいけば男女の区別がなくなり、誰でも悟りを得ることができるという教えになったわけです。仏像の多くに男女の区別がないのは、そういうわけです。
ただし、全ての仏像に男女の区別がないかというとその限りではなく、例えば弁天様(仏教に帰依した神様)は女性です。また、釈迦如来をはじめとする仏像には三十二の”人間と異なる相”があり、そのひとつは性器が体内に隠れた状態で、外見上は区別が付かないという場合もあります。

Q仏教に於ける如来、菩薩、その他の階位について

菩薩は日本に4人いるそうです。行基は誰が菩薩にしたのですか(聖武天皇)。菩薩の任命者(?)は天皇ですか?お釈迦様は如来を任命したのですか?阿修羅はヒンズーの神であったのが
仏教に帰依したと聞きます。処が 仏教が誕生した国、インドでは衰退しヒンズー教が残っています。それでは阿修羅等のヒンズー出身の神々はヒンズーには戻っていないのですか?
お釈迦様が仰ってないことが多く、その後に伝えられているのではないですか?弥勒菩薩の56億7千年後に如来となって現れるとか?

Aベストアンサー

仏教で菩薩というのと、誰かを○○菩薩というのと同じかどうか、わかりません(同じでないかもしれないし、同じかもしれません)
 次のサイトに、一つの説明があります。 http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8850/885099.htm
菩薩号は、後伏見天皇の時、西大寺の僧叡尊に興正菩薩の五を賜りしを以て始とす。蓋し叡尊は菩薩戒の師たるを以ての故ならん。(叡尊が菩薩号を送られた最初の人:死後です)
是より前に、僧行基等を菩薩と称せしことありしかど、当時其の人を尊敬するに出でたる称にて、朝廷の賜ふ所にあらざるなり。世行基を以て菩薩号の始としたるは誤なり。(行基を菩薩と呼んだのは、人々の尊称です。女を菩薩と思う男も多いです)
叡尊の後、後醍醐天皇の世に、応量に大悲菩薩の号を賜れり、また律僧なり。
尋で光明天皇の時、日蓮に大菩薩の号を贈れり、是れ大菩薩号の始にして、また諡を賜はずして単に菩薩の号を贈る始なり。(日蓮は大菩薩)
徳川幕府の時に至りても、此事猶ほ行はれて、役小角に神変菩薩の号を賜へり。
 
徳一菩薩というのも結構昔は有名でした。(実は空海、最澄と並べても良いほどの高僧です) http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/iwataka.html http://tokuitsu.giving.officelive.com/default.aspx
 
「菩薩戒を受ける」というのは、大乗仏教における菩薩僧に与えられる戒律です。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/81f447994409c07b283e97df920b084d
菩薩僧や僧でなくても菩薩戒を受けて悪をとどめ善を修め人々のために尽くすなら菩薩というのかもしれません。叡尊(後の興正菩薩)は多数の人に菩薩戒を授けています。
http://urano.org/kankou/topics/eison/index.html
なお、今でも、比較的簡単に菩薩戒を受けることも可能です。
http://www.potala.jp/news/1104class/tokyo/bosatsu.html
 
なお、仏教とは関係がないのですが、八幡大菩薩のような菩薩もあります。
民間にも、周囲の人から菩薩とあがめられている人はいるでしょう。女でないと菩薩になれないわけではないと思います。
 
地蔵菩薩は、元は仏教に起源があるにしても、仏教とは関係が薄いお助けの(ほとけさま・かみさま)のようなもので、好き勝手にいろんなバリエーションがあります。
 
まったく見当違いかもしれませんが、幸福の科学:大川隆法では「光の菩薩」というのがあるそうです。誰が認定するのかわかりませんが、次のブログもあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/kazu29750109/2382012.html
http://elcantare7v.seesaa.net/article/158646821.html
 
シャカがなにを述べたのかはわかりません。現在日本の仏教宗派で信者や葬儀参列者に説明していることの大半は、シャカが死んだ後で自分の宗派を作った人や、宗派の拡大に成功した人が適当にアレンジしたものや作ったものを、今の僧侶や宗教家がされに今の人に言ってそれらしく聞こえることをさらにアレンジしたものです。今の僧侶は、「弥勒菩薩の56億7千年後に如来となって現れる」とかは言わないのが多いのではないですか。そうした先の救済や輪廻を期待して聴く人がいないから、もっと違うことを言うことが多いと思います。1200年前と、400年前と、今とでは、僧侶が言うことは違います。

仏教で菩薩というのと、誰かを○○菩薩というのと同じかどうか、わかりません(同じでないかもしれないし、同じかもしれません)
 次のサイトに、一つの説明があります。 http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8850/885099.htm
菩薩号は、後伏見天皇の時、西大寺の僧叡尊に興正菩薩の五を賜りしを以て始とす。蓋し叡尊は菩薩戒の師たるを以ての故ならん。(叡尊が菩薩号を送られた最初の人:死後です)
是より前に、僧行基等を菩薩と称せしことありしかど、当時其の人を尊敬するに出でたる称にて、朝廷の賜ふ所にあ...続きを読む

Q大日如来様とはどんなお方なのですか?

私は浄土真宗ですがご説教の中に大日如来様の話が出て詳しくしりたいと思いました。

もしよければ教えてください。

Aベストアンサー

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一目見た中国真言宗の最高僧が、「遅し!我、汝を待つこと久し!」と叫んだという逸話があります。

 勉学に励んだ空海は真言宗のすぐに最高位に就き、奥義や仏典などを全部日本に持って帰ったために、以後、中国では真言宗は廃れました。数年前、中国に空海像が里帰りしたような記事を見た記憶があります。


 密教では当然、大日如来は宇宙(宇宙を描く曼荼羅)の中心であり、諸仏(如来その他)も大日如来から産まれるものとされています。それ故、諸仏の王とされて王冠を被って描かれたり、彫られたりします。場合によっては装身具も身につけます。

 大本の思想は、帝釈天と戦った阿修羅系の神だそうです。ゾロアスター教のアフラ・マズダ(全生命の根源)・・・ そのものではないようですが、思想的には同系だとのこと。

 一神教は、他宗教信徒に対して「受け入れ」を求めるだけ(拒否すれば死)ですが、仏教のように平和的な宗教では、相手の言い分を認めて受け入れなければなりません。

 有名なところでは、阿修羅は帝釈天と何度となく戦った後、仏教に帰依したことになっています。これなどは、阿修羅を信じる者に、「阿修羅でさえ帰依したんだから、おまえたちも」と言うための方便だったものと思います。

 そう説得するためには、まず阿修羅の存在を認め、次に仏教の中に受け入れなければなりません。

 つまり、平和宗教というのは、いろんな宗教からの影響を受けざるを得ないのです。で、その一つが、大日如来。

 大日如来は、万物の根源であり宇宙そのものですので、かくかくしかじかの容姿であった、こう考えた、というようなことはおそらく伝わっていないものと思います。

 その代わり、というわけではないのでしょうが、金剛界や胎蔵界のそれぞれで、さまざまな仏や菩薩、明王などに変身して人々を教え導くとされています。例えば、不動明王も大日如来の変身姿の一つ(教令輪身)です。

 従って、大日如来そのものを直接知るのではなく、それぞれの仏などの教えや特徴を知って積み上げていくしかないのではないかと思います。
  

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一...続きを読む

Q関西で虚空蔵菩薩と大日如来がいるお寺

関西で虚空蔵菩薩と大日如来、両方見れる真言宗系のお寺を教えてください。
できれば大阪にあると嬉しいんだけど・・。

Aベストアンサー

京都の東寺さんは如何ですか。

大日如来は講堂の立体曼荼羅のご本尊ですし、境内にある観智院には五大虚空蔵菩薩が安置されています。

ただ、観智院はふだん公開されておらず、期間限定の公開のようですし、講堂の立体曼荼羅も中に入って間近に見られなかったような……(東寺さんにお参りしたのはもうずいぶん前なので、どういう拝観方法だったか失念しました)。

あまりドンピシャな回答にはなっていないかもしれませんが、ご参考までに。

http://www.toji.or.jp/
http://www.toji.or.jp/mandala.shtml
http://www.toji.or.jp/kanchiin.shtml

Q神社参拝の際、「祓い給い 清め給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?

神社参拝の際、「祓い給い 清め給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?

以下のホームページを見ると、次のような神拝詞(となえことば)があるようです。
http://allabout.co.jp/gm/gc/4971/2/

<神拝詞(となえことば)>
祓い給い 清め給え(はらいたまい きよめたまえ)
神ながら(かむながら)
奇しみたま(くしみたま)
幸え給え(さきわえたまえ)

そこで、質問です。

神社参拝の際、上記の「祓い給い 清め給え・・・(中略)・・・幸え給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?
また、個人的なお願いごとは、上記の神拝詞(となえことば)を唱えたあとに、お願いすればいいのでしょうか?

それとも、個人的なお願いごとをする場合は、上記の神拝詞(となえことば)を唱えなくてもよいのでしょうか。よく、神社やパワースポット関係の本には、参拝作法に、上記の神拝詞(となえことば)を唱えなさいと書かれていないと思います。

ただ、時々、神社に行ったとき、拝殿の御賽銭箱の近辺に、上記の神拝詞(となえことば)のうち、
「祓い給い 清め給え(はらいたまい きよめたまえ)」と書かれた表示物を見たことがあります。

そもそも、参拝の際に、神前での願い方について、何を唱えればいいか、何が正しいかわかりません。

よろしくお願いします。

神社参拝の際、「祓い給い 清め給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?

以下のホームページを見ると、次のような神拝詞(となえことば)があるようです。
http://allabout.co.jp/gm/gc/4971/2/

<神拝詞(となえことば)>
祓い給い 清め給え(はらいたまい きよめたまえ)
神ながら(かむながら)
奇しみたま(くしみたま)
幸え給え(さきわえたまえ)

そこで、質問です。

神社参拝の際、上記の「祓い給い 清め給え・・・(中略)・・・幸え給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?
また、個人的なお願...続きを読む

Aベストアンサー

私は、宗教が神道ではない者として、口を挟むつもりはありませんでしたが、書かざるをえない気がしました。出来れば、新興宗教の方は、その身分を明らかにしてほしいものです。知っている人には分かります。教義に書かれていた内容は、必ずしも一般的な情報とは違いますから、読み手は間違った認識を持ってしまいます。私自身は宗教団体には関係してませんが、生まれながら、仏教と神道の狭間で、相矛盾した中で割り切れない問題を背負って育ってきましたが、ある意味で時代に翻弄された一人だというしかありません。

昨年でしたか、大相撲の朝青龍が、手刀を切り、懸賞金を左手で受け取り、大ひんしゅくをかいました。相撲というのも、神の御前でする神事ですが、形から入り、心が入り、そして、そこに美と調和が生まれるわけです。これを「様式美」と言い、ただ、勝てばそれで良いというわけではない、という端的な例を表しています。

神社では、鳥居の前で脱帽し、礼をし、二礼二拍手一礼のマナーというものがあります。また、手水舎(てみずや)で片方ずつ手を清め、口をすすぐというのは常識ですが、直接、ヒシャクに口をつけてはいけません。今は、常識が常識でなくなってきているようです。確かに、出雲大社などでは違う作法があるところもありますが、それは注意書きが入っていたはずですし、こういう作法は、混沌としているということでもありません。明治以降、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)を一般としてしてきているわけですから、それに従えば済むことです。知らなければ、覚えれば済む話です。この作法は、明治時代に作られた「神社祭式」を根拠としています。

また、女性は、柏手(かしわで)を鳴らさないというのは、占い師の細木数子氏が言ったそうです。しかし、女性は鳴らさないというようなことはありません。柏手は、神様を呼び出すという意味を持っているのですから、死者の前(葬式やお墓)では鳴らさない時(しのび手)があるという常識さえ知っていればよいことです。また、お寺では、二礼二拍手一礼はしないということも心がけてほしいものです。

それが、いつの時代に作られたものであれ、統一されたものなら、それに従わないということはありません。マナーのひとつとして、ぜひ、守って欲しいものです。それを守らなかったら、どうにかなるということではありません。日本的な表現ですが、「美しくない」ということです。

それから、祝詞というのは、簡単にいうと、「かむながら」という言葉がある通り、「神の御心のままで」という意味ですから、もともとは、「神の言葉として上から下に申し伝える言葉」だったわけです。唱え詞(となえことば)で一般的に知られているものは、

「祓い給へ 清め給へ 守り給へ、幸(さきは)え給へ」
というものです。私は、特に参拝客が声を上げて唱えるという話は聞いたことがありませんが、神社に詣でたときに、どこかに書かれていたら、黙読し、心の中で、「清い心で、神様の御心のままに、みなを守り、みなが幸せになれますように」と祈ればよいと考えています。

なお、浄土真宗の話に触れておきます。
日本の宗教の中で、戦前戦後、妥協を許さなかった宗教であり、西洋哲学でいうなら、日蓮宗が日本型の強者の理屈を持つ宗教なら、(浄土)真宗は、それに対抗する弱者の宗教です。

浄土真宗は、現代まで靖国神社を反対している唯一の仏教団体です。ここでは、日蓮系の新宗教団体は除きます。明治政府は、事実上、仏教と神道を分離しました。祝詞を唱えると願いが叶うという発想は、空海の真言密教を起源とする両部神道であるかもしれませんが、仏教色が残るものとして、これ自体も廃仏毀釈運動によって排斥されました。

浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と唱えることは、日蓮宗のように題目を唱え利益(りやく)が得られるというような意味合いを持ちません。念仏は念仏を唱えること自体に意味を持ちません。それは、信仰そのものの現れだと考えています。

真宗大谷派大阪教区『銀杏通信』靖国神社に対する考え方。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_042.htm

明治の初期、森有礼の建白書や浄土真宗の島地黙雷僧侶が、明治政府に信仰の自由を訴えましたが、逆に神道側は、その体制を整えることになりました。

明治憲法が発布されたとき(明治23年)に、神道とは国家神道として、別格な地位を得て、「国民の道徳」としました。断じて、浄土真宗が、神道に影響されたり、政府に擦り寄り、神道に影響を与えたなどということはありません。

また、見えない霊自体を肯定するかどうかは別としても、霊体が危害を加えようとするという、オカルティズムは、私たちの一般社会には馴染まない考えだと思います。

参考:国家神道

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93#cite_note-6

私は、宗教が神道ではない者として、口を挟むつもりはありませんでしたが、書かざるをえない気がしました。出来れば、新興宗教の方は、その身分を明らかにしてほしいものです。知っている人には分かります。教義に書かれていた内容は、必ずしも一般的な情報とは違いますから、読み手は間違った認識を持ってしまいます。私自身は宗教団体には関係してませんが、生まれながら、仏教と神道の狭間で、相矛盾した中で割り切れない問題を背負って育ってきましたが、ある意味で時代に翻弄された一人だというしかありませ...続きを読む

Q菩薩と如来

菩薩と如来はどう違うのでしょうか。どちらも仏像だと思ってしまうのですが…
調べでも難しく書いてあってよく分かりません。お願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。
如来は、梵語Buddhaの音訳で、
真理を体得した者、つまり仏のことです。
代表的なものは、釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来等。
それぞれが仏国土(浄土)を持っています。
如来は出家の姿であるので、
法衣を身につけているだけで何の装身具もありません。

菩薩は道を求め修行する者で、釈迦の出家前の姿で温顔、
上半身裸で多くの装身具を身につけています。
代表的なものは、観世音菩薩、文殊菩薩等。
ただ(宗派によって多少異なるかもしれませんが)、
例外的なのが地蔵菩薩です。
地蔵菩薩は地獄に落ちた人でさえも救いたいと欲し、
地獄をも住みかとしているそうです。
という訳で、他の菩薩と違い装身具はつけていません。

今度お寺に行かれたら注意してご覧になってみて下さい。

Q「大仏」は如来像だけ?地蔵や菩薩像も含まれる?

大仏と言ったときに通常思い起こすのは、パンチパーマで布を羽織った巨大な如来像かと思います。

しかし、辞書で大仏を調べると単に「大きな仏像」と書かれています。

そうしますと、巨大な地蔵や菩薩像・明王像など、大きな仏像一般を「大仏」と言って良いのでしょうか?
それとも、大仏といったら如来像だけに限られるのでしょうか?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

はい

巨大な地蔵や菩薩像・明王像・弁財天など、大きな仏像一般を「大仏」と言っていいです。
大仏基準法なるものもありますが、大きい仏像はすべて大仏ですよ。

ちなみに『大辞林 第二版』に“仏”は
“仏・菩薩およびそれに準ずる優れた聖者・高僧”
と、あります。
つまり、巨大なお大師様やお祖師様の像も大仏ですね。

合 掌

Q【宗教・仏教・菩薩信仰の嘘】当時の菩薩の称号権威は金を出せば買えた。 菩薩も如来もいっぱいいた。お金

【宗教・仏教・菩薩信仰の嘘】当時の菩薩の称号権威は金を出せば買えた。

菩薩も如来もいっぱいいた。お金を出して買う位だった。今でいう死んだらお金を出して買う戒名と同じ仕組みだった。

だから京都にある○○菩薩像は金持ちの肖像画や自画像を金を出して作って貰った自分の銅像だ。全然神様仏様ではないただの成金バカ国王と王子の自慢の富の象徴で作った像なだけで何も御利益はない。


菩薩を仏として神讃えているが菩薩の産まれを見ると賄賂で作られた権威であったことが分かる。


いま菩薩を仏として有難がって拝んでいるが、菩薩の産まれは莫大な富を持つ王国の王子として産まれた。

その王国の担当占師がバラモンで菩薩が産まれたときに大富豪の王から金銀財宝をたくさん与えられた。

菩薩は人々を祝福する王子が神になったのではなく、大富豪の王から祝福を受けて産まれてきた王子がバラモンに多額の資金援助してバラモンは見返りに菩薩を神として扱った賄賂で入学した不正受験の裏口入学で仏の神の座に上がった王子だった。

王子は産まながらにしていきなり仏の神として扱われ神格化された不正仏である。

そして菩薩はハスの花の上に産まれたという逸話も国王の宮殿の池にハスがありハスの花の咲く季節の時期に産まれたので宮殿の下にあるハスを使ってハスの上に産まれたとお金をたんまり貰ったバラモンはお世辞で王子の誕生を褒め讃えたお世辞の逸話から来ている。

菩薩の産まれと育ちを見ると仏の神の座に登れたのは多額の父親のバラモン教への献金があったからこそであり今でいう大企業の息子が有名大学に裏口入学するような感じで就職先は大学が用意した感じと同じ構図である。

お寺に行って菩薩を有難がって拝んでいる人を見ると笑えてくる。

【宗教・仏教・菩薩信仰の嘘】当時の菩薩の称号権威は金を出せば買えた。

菩薩も如来もいっぱいいた。お金を出して買う位だった。今でいう死んだらお金を出して買う戒名と同じ仕組みだった。

だから京都にある○○菩薩像は金持ちの肖像画や自画像を金を出して作って貰った自分の銅像だ。全然神様仏様ではないただの成金バカ国王と王子の自慢の富の象徴で作った像なだけで何も御利益はない。


菩薩を仏として神讃えているが菩薩の産まれを見ると賄賂で作られた権威であったことが分かる。


いま菩薩を仏として有...続きを読む

Aベストアンサー

えーっと、簡単に説明すると、菩薩や如来というのはインドの釈迦族のゴータマ王子が修行中の時の姿を菩薩、悟りを開いた状態の姿を如来と言います。
ゴータマ王子が修行中には菩薩や如来という概念はありません。
で、ゴータマ王子が悟りを開いて、いわゆる「お釈迦様」になって、いろいろな教えを施したものが仏教です。

釈迦が入滅後、随分たってから仏教もいろいろな形を変えて、いわゆる上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教と2つに別れ、日本には大乗仏教が伝えられました。
釈迦が亡くなってから800年ほど経って日本に伝えられました。

仏像の如来や菩薩や明王や天などについては、また今度の機会にでも(笑)

Q「一切智威如来」と「地蔵菩薩」について

Wikipediaの「地蔵菩薩」の項に以下の記述がありました。

「過去久遠の昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいた。
 一人は自らが神となることで人を救おうと考え、一切智威如来という神になった。
 だが、もう一人の王は神になる力を持ちながら、あえて神となることを拒否し、自らの意で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩とさ迷い続ける魂を救おうとした。
 それが地蔵菩薩である」

この出典を教えてください。

Aベストアンサー

『地蔵菩薩本願経』です。


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