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●こどもも中学をこえると ひざのうえにのってこなくなり
 学校からかえったとき すぐひざの上にのっかったころに
 もっと愛すればよかったと 回想したりしています。
 ここのかきこみに於いても みなさんと考えが合うことはなかなか無く
 すぎてから もっと愛すればよかったと回想したりします。

 さて 現在はなぜ過ぎると 「もっと愛すればよかった」と
 満足の無い過去に変わる一面をもっているのでしょう。

 みなさんのお考えやエピソードなど 教えてください。

A 回答 (9件)

そのような回想は辛く胸が痛みますね。


「人間は多くの人を今よりももっと深く強く愛するようになるよう、
摂理されている。そういう少々つらい感情が起こるのはごく自然なのであり、
順調な人間的な成長なのであり、そのためのいい意味の試練なのです。」
って考えたらやっぱり何か空しいかな・・・。
人って多くのことに関心を持って過ごしているつもりでも
いかに無関心に生きているか、または関心が薄いというか、
それとも関心が違うところにあるというか・・・。
今その場で起こっているほんの些細なことすべてに、
必ずしも関心など向くはずがない。
でも常にこれを忘れていなければ、何か良さそうだなーと思うことは、
「人と人とが関心を持ち合い続けていることが如何に大切で素晴らしいか。」
当然、愛を持って、お互いの理解のために、ですが。
でもそれを人に気づかせるなんて私には難しい。
が自分自身が身近な人にそれを実践しよう。それはきっと善だと思います。
それに改めて気づく質問をしてくれて感謝です。
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>現在はなぜ過ぎると 「もっと愛すればよかった」と


>満足の無い過去に変わる一面をもっているのでしょう。

満足できなくなるのは成長したからでしょう。
愛は、いのちの光。
もっと輝きたいからでしょう。
絶対者の愛にもっと近づきたいからでしょう。

参考URL:http://www.fdt.ne.jp/clicom/column/column.cgi?fi …
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この回答へのお礼

●もっと輝きたいとか もっと近づきたいとか
 そういうアクティブで ポジティブな感覚ではないんですけど・・・。
 それは 楚々として静かで それでいてはげしい・・・。
 例えるなら 母として妻としておんなとしての自慰行為なのかもしれません。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/06/17 14:43

ちなみに、わたしはchihokoさんの質問に回答することで愛情を得ようとし、chihokoさんからお礼をいただくことでchihokoさんから愛情を得ています。

どうもありがとう。
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この回答へのお礼

●ほんの数行の言葉のやりとりですが
 そこには その人の人格の反射があり 人生の片鱗が見えるものです。
 ささいなものに 愛情という深い感情を重ねあわせるあなたは
 詩人ですね。こちらこそ どうもありがとうございます。
 ささやかですが おたがい ここに生きている今を 祝福しましょう。

お礼日時:2002/05/20 22:07

お礼ありがとうございました。

さっき回答してからこう考えました。

なぜ「もっと愛すればよかった」と思うのか?
それは、相手が自分のことを愛してくれたからではないでしょうか。
自分を愛してくれた相手は、きっと愛して欲しかったんではないでしょうか。
赤ちゃんは、愛情を求めてお母さんに笑いかけます。
お母さんは、優しく笑い返します。
赤ちゃんは、お母さんに優しくわらってもらったことで、愛情を得ます。
愛情を得た赤ちゃんは、もっと愛情がほしいので、もっとお母さんに笑いかけます。
お母さんは、赤ちゃんに笑いかけることで赤ちゃんに愛情を与え、赤ちゃんから笑いかけられることで愛情を与えられています。

もっと愛すればよかった、というのは、もっと愛されたいという感情の表れではないでしょうか。

弟さんは、誰かを愛すか誰かが愛してあげることで恐怖症を克服することができると思います。
chihokoさんが弟さんを愛していることをわかってもらえればいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>相手が自分のことを愛してくれたから
●すばらしいことにきづかれましたね。
 過去形では あっても 事実としてとても重みを感じる言葉です。
 目からウロコってやつですね。
 コロンブスのたまごですね。
 愛してくれた事実は 確かなものですものね。
 なんか また残照が尾を引いて こころを包みそうです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/20 21:54

ついこの間、一年前に別れた人からメールが届きました。

こんな内容でした。
『実家で荷物の整理をしていたら、あなたの小さい頃の写真をみつけた。これは、sakaezushi家の重要な資料だから、返したい。連絡がほしい』
うちにはネガもあるし、とっておいてもいいし、捨ててもいいし、もしも捨てるのが嫌なら送り返して欲しいと書いておきました。

すると、こんな返事が来ました。
『送り返したいから、連絡先をおしえてほしい』
ちょうどそのころ私は疲れていて、つらくてもう連絡をとりたくなかったので、捨ててもかまわない、と返事を書きました。

それから一週間たって、差出人不明の郵便物が届きました。以前私につきまとっていたストーカーが引越しをした私の住所を突き止めたのでは、と思いショックをおこしてしばらく寝込みましたが、思い切って封を開いてみると、別れた彼が送ってくれた私の小さい頃の写真でした。

複雑な気分でした。ストーカーからの手紙じゃなくてほっとしたのが第一で、彼の気持ちに対して冷たい態度をとってしまった自分が悲しくなりました。

「捨ててもいい」と書かなければよかったと後悔しています。あんな冷たい書き方をして、彼も悲しんだかもしれません。彼は正直で、しかも義理堅いひとだったので、新しい彼女ができたのか、私と別れてからちょうど一年たったしもう連絡をとってもいいだろうと思っていたのだと思います。ほんとのところは彼しかわかりませんが、そう思ってます。

別れた頃は彼も私もいろんなことで疲れていて、余裕がありませんでした。けんかばかりしていました。あんなに優しい人なのに、なんでもっと優しくしてあげられなかったんだろうと思っています。だから、こんど彼になるひとには優しくしてあげたいと思っています。

そんな愛情を惜しみなくあたえられる相手はいつできるのやら・・・。
過去を美化しているのが明らかな回答なような気がしますが、こう思ってますので、どうぞお納めください。
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この回答へのお礼

●わたしの弟は 大失恋のあと 恋愛恐怖症のような
 精神状態になっていて ずっと独身です。
 弟の幼い頃の写真 無邪気に笑っているその姿を見るにつけ
 とても切ない気持ちになります。
 時間とは残酷なもので だれもが余命O年という宣告を受けて
 生きているようなものだと思います。
 思い出はかけがえのない大切なものですが その思い出に浸るためにも
 大切な時間をつかってしまうわけで 限られた時間とどう過ごすのか
 わたしに とってはおおきな問題です。

 大切なおはなしをありがとうございました。

お礼日時:2002/05/20 10:42

ふぅむ?、貴方の言う「愛の残照」と言う意味で頑張って考えてみました(笑)


なんだか普通と違った空気でのやり取りがいいですね。

>さて 現在はなぜ過ぎると 「もっと愛すればよかった」と
>満足の無い過去に変わる一面をもっているのでしょう。
私はフツーの人間ですから込み入った事は言えませんが、それが後悔でなく「愛の残照」との意味で感じることならば・・・
「今はもっと愛してるから」ではないかと思います。

決して過去と比較してるのではないのでしょうけど、例えば子供を見て今凄く愛してると感じる。。過去が愛してなかったのではなく、過去が100愛してたとしたら今は120愛してる。。今は120だから過去を振り返った時に、過去の一場面を回想してその頃を120で愛したいと思ってるのかも?
だから今後130や150で愛せるようになった時はまた今を顧みてそう思うのではないでしょうか。けれど過去において100ですから後悔は無いのだと感じましたが・・・。
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この回答へのお礼

●今はもっと愛してるから・・・ ほんとうに素敵な言葉ですね。
 発想の切り替えしの素晴らしさに 敬意を表します。

 あなたの示唆する内容をふまえると 太陽は愛というよりも「生きる」
 ということになります。地平に沈んだとき 生きることのもろもろが
 隠れて 愛がより鮮明に見えてきた それが愛の残照なのかもしれません。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/11 10:58

chihokoさん、元気が無いですね、どうしたんですか?



>さて 現在はなぜ過ぎると 「もっと愛すればよかった」と満足の無い過去に変わる一面をもっているのでしょう。

その時々に、精一杯生きていても後で考えると、どうしてあんな事をしたのだろうと考えることが有るように、これは仕方無いことのような気がします。(岡目八目みたいに時が過ぎると、冷静に考える視点が出来るのかもしれません)

愛ってやっぱり所有意識ですかね、中学の子供は膝の上に乗ったら重くて困るような気がしますが。

厳しい反論お待ちしています。
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この回答へのお礼

●ははは 所有って そんなわけないじゃないですか。
 fishbowl66さんは おこさんは いらっしゃらないんですか?

 こどもは 親離れしていくものです。
 そしてどんなに 愛するひとともいずれ死により 別れがくるわけですよね。
 そんな 愛するひとと 約束をするんですよ たとえば この病気が
 良くなったらOO湖に ふたりで行こうって・・・。
 でも その約束を果たせずに 愛するひとは逝ってしまう・・・。
 のこされたわたしは ひとりその湖に佇む。
 これが「愛の残照」です。なんとなくわかるでしょ?

 いつもご回答ありがとうございます。

お礼日時:2002/05/11 01:24

 例えばどれほど愛すれば、今現在満足できたとお考えですか?仮に『愛情指数』なるものを定義するとして、実際が50なら、100愛すれば後悔は生まれませんでしたか?



 ある意味で、後悔するのはヒトという動物の公理になると思いますヨ。
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この回答へのお礼

●公理ですか かもしれませんね。

 ここで わたしの考えもすこし 発表させてください。
 ここで 提起させていただいた状況を実はわたしは「愛の残照」と
 呼んでいます。夕日の残照のように美しく味わい深いものです。

 例えば愛の残照による 人間の行為は
 お遍路であったり 懺悔であったり 仏壇に手をあわせる ことであったり
 します。わたしは たとえば ボロボロになったサッカーボールを
 静かになでがら子供達の遊ぶ姿を回想してみたりするわけです。
 
 つまり「愛の残照」とは 浸り味わうために用意された
 「時間」だと認識しています。
 また 反論・ご意見などございましたら お願いいたします。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/10 12:04

人間は、過去を振り返りそれを美化する傾向が見られがちだと思います。

私も過去を思い出し、ああすればよかったこうすればよかったと思うことがあり、やりきれない思いをしたことが何度もあります。しかし、こうした過去に満足がないからこそ、これからの人生で楽しく満足の行くようにしようという意欲が沸いてくるのではないかと思います。人生前向きにイキマショウ!!
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この回答へのお礼

●ポジティブなご回答をありがとうございました。

 わたしがここで提起している状況とは後悔では けっしてありません。
 NO2の方へのお礼にて その点を補足しておりますので
 そちらを読まれて またなにかお感じになることがございましたら
 書き込みおねがいいたします。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/10 11:57

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