
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
物事の境界は、曖昧蒙古としていますから、はっきり分けることはできませんが、やはり、数学は、学問ではありますが、科学ではありません。
自然科学は、自然に属する諸対象を扱いますが、数学が対象としているものは一体何でしょうか?数学とは、言わば、人間の精神活動です。こう意味では、数学は、文学に近いとも言えます。人間は、言葉をもっていますし、論理をもっています。そして、真偽を判別することができます。元々、そのようにできているわけです。自然を観察することによって、ピタゴラスの定理は、発見されたわけではありません。古代から現代まで、数学は、人間の思考力によって築かれてきました。物理法則は、”自然のうちに”発見されますが、数学の定理は、自然のうちに発見されるわけではなく、”数学のうちに”発見されるのです。
説得力があるお話ですね。どうもありがとうございました。
「科学ではない」というのは,すぐには受け入れにくいのですが,
私ももう少し勉強して考えてみます。
No.4
- 回答日時:
数学とは何か、というのは難しい問題です。その「抽象形式」だけで見ていますと、人間の数学的知性だけが直観できる「数学構造」の形式の理論であると見えます。
難しい話になりますが、数学の真理とは、「イデアーの構造」なのか、または「マテリア(材料)的実体の存在様態の構造」なのか、という対立した見解があります。無論、この中間や混合した考えもあります。
もう少し分かり易く言いますと、「イデアーの構造」の場合、人間が思考するとかしないとか、自然がどうあるかないかに関係なく、「永遠に、この世界を越えた、どこか彼方の普遍の世界の真理」として数学の理論はある、という考えです。
これと対立するのは、物理的自然や、材料的自然(いわゆる普通にいう「自然世界」と思ってください)や、また人間の「心」という自然のなかに内在している構造が、数学の理論だというのが、後者の考えです。
数学の構造や真理は、自然のなかにあるのであり、人間は初期の頃は、自然から数学の構造を学び、段々、心のなかにある数学の構造に気づき、それを探求していると、そういう構造が自然のなかにあると気づくことがあります。
例えば、虚数というのは、人間が頭のなかで、こしらえたもののように思えますが、自然の色々な現象をモデルにする時、複素数を使った理論モデルが妥当する場合が多いのです。この時、人間は、虚数や複素数を自分で「発明」したと思っていたが、そういう構造が、自然の中にすでにあったことになります。
>数学における問題は,数学者が自然の中から見出しているのですか?
>人間が新しい問題を作り出していますか?
「人間の思考」も、実は、「自然」に含まれるのです。意識や精神は物質現象だという確証はありませんが、精神の実体を考えても、物質の実体同様、それは、自然(本性 natura, nature)を持ちます。外の自然世界のなかに、数学のモデルや問題を古代では見つけていたのですが、時代が進むに連れ、人間の心や精神の事実の実体という「内なる自然世界」のなかに、数学のモデルや問題が探求されるようになりました。
しかし、それでも、自然がモデルとなって新しい数学が造られるのです。例えば、「超関数理論」という数学は、こんな数学はなかったのですが、物理学者のディラックが、物理理論を築くため、数学上そんなものはないはずの「ディラックのδ関数」というものを定義したのが始まりです。
物理学者は、便利なので、ディラックの関数と似たものをたくさん造り、公式のようなものまで造ったのですが、数学者は、そういうおかしなものは「ない」という意見でした。しかし、あまりに普通に物理学で使われるようになった為、だいぶしてから、ブルバキのメンバーだったシュヴァルツなどが、「超関数の理論」というものを造り、数学的な基礎付けを与えました。
数学の理論は、膨大な範囲に渡り、全体的には超巨大なジグソー・パズルのようにも喩えることができます。数学者は、それを少しづつ解こうと努力しているのですが、解こうとすると、新しい数学の領域が必要だとなって、数学の分野が拡大することがあります。
また、この超巨大なジグソー・パズルは、数学者の思考のなかで閉じているかというと、そうではないので、ディラックの例のように、物理学者や、その他数学を使って理論を築く人たちが、勝手に、自然の現象のモデルを造るため、「数学の拡張」を行うことがあります。
すると、このようにして拡張されたものを、数学的にどう位置付けるかで、かなり時間がかかることがあります。結局、位置付けることができない場合もあります。
数学の真理は、「イデアー的構造の真理」と、「経験的操作的構造の真理」の二つが重なっているというか、相互補完的だと思います。
数学は、従って、自然科学です。哲学的部分は無論ありますが、それを言えば、物理学でも生物学でも哲学的部分はあり、科学の哲学が問題になります。数学の哲学的基礎付けというのも問題としてあり、こういうレヴェルから見ると、数学は、自然科学です。
>数学における問題は,数学者が自然の中から見出しているのですか?
現代の数学者は、あまりそういうことはしません。物理学者などが、そういうことを行うでしょう。
>人間が新しい問題を作り出していますか?
人間が造っているように思えて、実は、問題は、そこにあったのを、「発見」しているのだとも言えます。イデアー的にも、経験的操作的にも、こう言えます。
少し難しい話ですが、やさしく説明できる問題ではありませんし、適切な比喩も見つかりません。しいて言えば、上で、「超巨大なジグソー・パズル」と言いましたが、これが数学のイメージです。
誰がこんなジグソー・パズルを問題として出したのかと言うと、「自然」なのです。人間の思考も「自然」の一部なのです。そうでないという立場が、「イデアー的真理」の立場ですが、この場合でも、「経験」の真理はあります。
比喩をすすめれば、このジグソー・パズルは、時間がたって行くに連れ、解決する部分もあるのですが、段々全体が大きくなって行き、細かく、複雑になって行っているようだと言えます。
回答していただき,どうもありがとうございました。
私には少しむずかしかったのですが,非常に勉強になりました。
>例えば、虚数というのは、人間が頭のなかで、こしらえたもののように思えますが、自然の色々な現象をモデルにする時、複素数を使った理論モデルが妥当する場合が多いのです。この時、人間は、虚数や複素数を
>自分で「発明」したと思っていたが、そういう構造が、自然の中にすでにあったことになります。
「自然の中にすでにあった」というのは,人間がある構造を定めたあとで,気づいたことですよね。ある構造・法則性を見つけ出すまでの思考過程を考えれば,それは,純粋に人間の精神活動の中から生み出されたと言えるのですか?物理や生物学などのように,ある自然現象を調べることによって,その中から法則などが導き出せたわけではないですよね?
ただ,asterさんが言われるように,「人間の思考も自然に含まれる」のだとすれば,やはり,「自然の中から」新しい事実を見出したことになりますね。「内なる自然世界」とありますが,自然科学において,研究の対象と認識者が同じ人間と言うのが,私には少し理解しにくいのですが,興味深いと思いました。
No.3
- 回答日時:
私の場合、具体的にどうやって問題を見つけるかと言うと、
もとねたがある場合、
1.何かおもしろそうな定理をみつける。
2.その定理の仮定を一つづつはずしてみる。
3.逆、裏を考える。
4.どこまで拡張できるかを考える。
有理数で成り立つ定理なら、実数でも成り立つか、とか。成り立たないならなぜか、とか。
もとねたがない場合、
ある時、突然、問題が浮かぶことがあります。
どうやって問題を作っているのでしょうか?
私にも分かりません。
ちなみに私は数学者ではないですけど、趣味でやってるときはこんな感じです。
どうもありがとうございました。
現在数学をやる上では,すでに「公理」というようなものが存在して,
それによって形成された体系の中で何ができるか…
というようなことを研究しているのですか。
No.2
- 回答日時:
数学は微分方程式のように、物理学・工学に応用されたりして、
自然科学という側面は確かにありますが、それよりも哲学と考える方が
ピッタリする感じがします。
古代ギリシャ時代から数学の研究がされていましたが、
この時代の数学者は同時に哲学者でもありました。
今でも西洋の大学では、数学は哲学のジャンルに入っていたはずです。
応用数学はともかく、理論数学は100%哲学のように思います。
素数分布を調べたり、多様体(高次元の図形と考えてください)の構造を
調べたりして、果たして自然現象の解明に役立つでしょうか?
これらを応用して物理学者等が自己の研究に役立てることはありますが、
それは物理学者の仕事。数学者はその理論が応用されることを期待せずに
研究をしています。正に哲学でしょう。
Mell-Lilyさんが言われているように、数学上の難問として未だ解決されていない
未解決問題があります。
素数分布の研究から発生したリーマン予想、多様体に関するポアンカレ予想など、
およそ自然科学と呼ぶにはふさわしくない極めて抽象的な問題が多くあります。
参考URLとして、トポロジー誕生のきっかけとなったケーニヒスベルクの
橋の問題を挙げておきます。初めは頭の体操的なパズルとして考えられた
問題が、後に数学の一大分野になるとは、オイラー以外の誰も想像できなかった
でしょう。この問題の発生経緯は、他の問題と違い、少し異例かとは思います。
参考URL:http://www1.sphere.ne.jp/mote/suugaku/ke.htm
>これらを応用して物理学者等が自己の研究に役立てることはありますが、
それは物理学者の仕事。数学者はその理論が応用されることを期待せずに
研究をしています。正に哲学でしょう。
この部分が印象的でした。どうもありがとうございました。
それから,数学を自然現象の解明に役立てるかどうかは別として,
数学において,理論の「前提」となる公理(?)が人間の外の自然世界から
導きだされたものであるのかどうか知りたいです。
数学を支えている基礎には,やはり「自然」が存在しますか。
No.1
- 回答日時:
数学の知識は実験によって確かめられるものではないという意味で、数学は自然科学ではないと考えることができます。
普通、数学者には、自然を制御しようという意図はありません。実際、数学の発見が、技術に直結するということはありません。一般的には、数学の問題は、数学者が自然の中から見出しているわけではありません。数学においては、常に未解決問題が存在していますが、これは、数学者の好奇心が問題を作っているといっていいでしょう。まさに、人間が新しい問題を作り出しています。基本的に、数学は、純粋に人間の精神的な所業です。
例えば、代数方程式の解の公式の発見の歴史をみてみれば、中世までに、一次方程式と二次方程式の解の公式が発見され、ルネッサンスに、三次方程式と四次方程式の解の公式が発見され、19世紀に、五次以上の方程式の解の公式の不可能が証明されました。これなどは、自然と直接の関係はなく、純粋に人間の頭脳の所産です。
逆に、数学の理論が自然の中に見られるということはあります。この例では、フラクタルという分野が有名です。
実験によって確かめられないものは自然科学ではないのですか?
例えば,生物学において,生物進化の研究は自然科学ではないですか。
それから,「自然を制御」できるかどうかは「技術」の問題であり,「科学」が
扱うものではないと思います。数学は科学として,「自然現象を説明」しようと
しているかどうかについて知りたいと思いました。そして,回答を頂いて
数学は,やはり物理や生物学,地学などと根本的なところで
少し異なっていると分かりました。ありがとうございました。
ただ,今の数学は別として,過去の歴史において,数学的な事実は
自然から直接,発見されたものでしょうか?
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