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哲学者、ショウぺんハウアーの著書『幸福について』によると
《賢者は快楽を求めず、苦痛無きを求める》とあります。
快楽を求めず、苦痛無きを求めて生きれば幸せになれるでしょうか?

どんなご意見でも結構です。回答をお待ちしております。

A 回答 (6件)

 


ショーペンハウエルという人は、かなりに利己的で自己主張が激しい人でした(何だか、わたしみたいです)。人々の称賛や名誉などが欲しかった人でした。欲望が強く、自己愛的な人だったのです。

彼は、普通の学者や専門家とは違って、標準的な学者のコースを辿ったのではないので、学会からはむしろ、外部の者とも見做されていた傾向があったはずで、このことによる鬱屈もあったはずです。

しかし、哲学史に名が残っているぐらいで、思索において優秀な人物であったことは間違いないのです。そういう意味では、彼の名誉欲や欲望はある程度満たされていたのだとも言えます。しかし、彼の自分のなかの、もっと大きな称賛や名誉や自己快楽をという欲望は、なかなか消えなかったのです。

そのため、彼は相応の成功を収めながら、なお自己の欲望の強さに苦しめられ、自己の欲望から、何とか解放されて、安らかな心境になれないかと言う「欲望」にまた取り付かれました。

伝えられているところ、彼は当時西欧にようやく紹介され始めた古代インドの思想や哲学、特に、「ウパニシャッド」思想を知り、それに感激します。《賢者は快楽を求めず、苦痛無きを求める》 というのは、禁欲的な思想で、仏陀釈迦牟尼の中庸の教えにも通じています。

「賢者」というのは、賢者の自負があったショーペンハウエルのことで、「快楽・欲望」をこれ以上求めず、欲望を求める結果、起こる、欲望が満たされないことの「苦痛」を避ける、あるいは、そもそも「快楽・欲望の実現」を求めなければ、おのずと、「苦痛や失意」も起こらないので、平穏な満ち足りた人生が送れるだろう、これが「幸福」だ、というのが、彼の言葉の意味だと思います。

快楽や欲望の実現を激しく求め、結果的に、成功も収めたが、それ以上の失意や苦痛や、憤りや、諸々の感情の苦悩を痛烈に経験した者としてのショーペンハウエルだったからこそ、こういう「幸福」の理想のあり方が出てきたのです。

結局、ショーペンハウエルはウパニシャッド思想によっても、彼の「幸福論」によっても、彼が望んだような心の平安や幸福は手に入れられなかったと思います。

「幸福」について、それなりの思想家が論じている場合は、その人の思想や、また人生などをよく考えてみる必要があります。

ただ、どうすれば幸福になれるかと言うなら、通俗的というと語弊がありますが、普通の人が書いた普通の人向けの「幸福の進め」などには、人生には山があって谷があり、悲しいことや辛いことや失意のこともあるが、だからこそ、逆に、楽しいこと、幸福なことが、実感して意味を持って来るのである、人それぞれに幸福の意味は違い、何かに打ち込んで、それで味わう苦労や苦痛は、成功が仮になくても、人生を確かに生きたという「実感」となり、それによって人は幸福を得られる……というようなことが書かれています。

上で述べたことは事実です。ただ、ショーペンハウエルに限らず、プラトーンでも、モンテニューでも、トルストイでも、それなりに思想家・哲学者として、昔から名のある人の述べていることは、人生のもっと深い「真実」を語っていることが多く、それは世界や人生や人間の多様性や、そこにある「謎」などについても語っているのです。

ショーペンハウエルの言葉は、激しい欲望追求を行い、成功も収め、それでも幸福を得ることができず、死ぬまで苦悩した人の、考えに考えた果ての言葉だと受け止められるのがよいでしょう。

古今の賢者の「智慧の言葉」というのは、人生のおりおり、違った心境や境遇の時に、読み返してみると、こういう意味があったのか、と驚くことがあります。賢者はそれだけ、欲望が深く、苦痛や悩みも多く、普通の人の何十倍、何千倍と苦悩し思索した人だとも言えるのです。

これは若い時からの人生の生き方上手、幸福になり方上手の「普通の人生優等生」では、見えて来ないことが、言葉や教えに含まれているのです。釈迦にしても、考えてみれば、誰もそんな答えはないと言っていた難問の答えが欲しいという「非常に巨大な欲望」に突き動かされて、激しい修行や苦行もし、その果てに、「平安の悟り」を知ったのです。

しかし、釈迦の人生は、悟りを開いたところでハッピーエンドではなく、その後も、彼は経験を重ね、疑問に出会い、問題や苦悩や哀しみに出会い、更に高い次元の「悟り・深い智慧」へと進んだはずです。釈迦の臨機説法というのは、また、釈迦自身の悟りの境地が高まるに連れ、考え方も変わって来た結果も入っていると思えます。

《賢者は快楽を求めず、苦痛無きを求める》……これは、「求める」ということで、更に「賢者は」となっています。賢者は「幸福な人」ではないのです。最後には、安らかな心境に達するのかも知れませんが、賢者と呼ばれる人、あるいは「真の賢者」は、悩みや苦痛や矛盾に数限りなく直面した人で、死ぬまで、そのような状態であった人だとも言えます。

悩みや苦痛や苦悩や矛盾について、みずから普通の人以上に激烈に経験した人であるからこそ、その「智慧の言葉」は、色々な人生体験をしてみると、輝いて見えて来るのです。

また、悩み悩み思索した人が到達するのは、欲望は人に多くの悩みや苦痛をもたらすという真実でしょう。しかし、『旧約聖書・伝道の書』が述べるように、若いあいだに楽しめることは楽しみ、快楽の追求もまた大いに必要でしょう。その過程での苦痛や苦悩の経験も必要でしょう。

充実した人生には、そのようなものが必要だからです。

しかし、「賢者」は、欲望や苦痛や苦悩の「空しさ」を知っているとも言えるのです。若いあいだ、自分で「賢者」を名乗る人はどこかおかしいでしょう。また若くして賢者になろうというのも無理があります。

快楽や欲望や悲嘆や失意や苦痛や苦悩の若き頃の人生を通じて、人生とは何か、生きるとは何かを知り尽くした円熟の智者が賢者で、その年齢になれば、快楽や欲望への拘りは、何も意味しないと悟りが出てくるのです。

しかし、賢者は、誰よりも欲望し、誰よりも苦悩した者ですから、実は円熟の年齢となり、賢者となっても、なお、欲望や苦悩を持つのです。それが賢者の賢者たる所以です。

釈迦もソークラテースも、孔子も、悟りを開き智者と称されるようになった後でも、欲望はあり、苦悩はあり、悲しみもあったのです。まただからこそ、真の智者でもあるのです。

>快楽を求めず、苦痛無きを求めて生きれば幸せになれるでしょうか?

幸せになれないでしょう。これは「賢者は」という話です。賢者は、上に述べたように、快楽を求め、苦痛を激しく経験した人なのです。この言葉を若い人への智慧の箴言とするなら、「あまりに過剰な快楽を求めず、激しい苦痛は避け、中庸を生きれば、人並の幸福が得られる」となります。

逆に言えば、チャレンジすることには、苦痛や苦悩や悲しみが伴うぞ、という意味にもなります。人並みの幸福を避け、敢えてチャレンジしようとする人はするのがいい。しかし、それには、苦悩や苦痛や矛盾や悲しみや後悔が夥しく伴う、その覚悟はあるのか? という意味にもなります。

ショーペンハウエルは、そこでまで言っていないですが、彼も人生の賢者であり、自分の人生と思索の経験から出てきた言葉は、おのずと、そこまでの意味が含まれてきているのです。
 
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この回答へのお礼

回答を拝見して、言葉に詰まる思いです。
繰り返し、繰り返し読み返して、その度に考えさせられます。
これまで、私は自分なりに、自分に都合がいいように、本の中にかかれている言葉を解釈していました。
(申し訳ございません。ちゃんとお礼を申し上げないとならないのに、asterさんの回答に言葉を失ってしまっています。)
『ありがとうございました』(すいません。今、言葉が出てこないんです。)

お礼日時:2002/05/25 12:59

それは自分でやってみないと分りません。


やってみてください。

方法を教えましょう。
自分の考えを殺してください。
自分と考えの違う人たちとムリヤリ同じ行動をしてください。
自分のやりたくないことをやってください。
生活習慣をめちゃくちゃにしてください。
昼は寝て、夜活動してみてください。
うつ病になります。
うつ病を10年続けてください。
そして、10年経ったら心療内科に通い始めてください。
そしたら、わかります。

お勧めはしません。
死ぬかもしれませんから。
http://www.utu-net.com/

参考URL:http://www.utu-net.com/
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2002/05/25 13:00

イギリスの登山家マロリーは、何故山に登るのかを尋ねられ、《 Because it is there. 》 と答えたと言われています。


この it はエベレストを指していて、彼は1924年にエベレスト北東頂稜、八千数百メートルまで達しそのまま帰らぬ人となりました。おそらくマロリーは it のなかに、当時のエべレスト山頂に象徴される様々な事柄を重ね合わせて答えていたのだと思います。
僕自身は自然の中にいること自体が幸せで山へ行くこともあるのですが、山頂に着いたときや麓に戻った時に得られる達成感がまたたまりません。

《賢者は快楽を求めず、苦痛無きを求める》と言ったショウペンハウエルが、どのような人生を歩み、またどのような目的を持っていたのかはよく分からないのですが、もし思索をすることに意義を見出し、その妨げになるようなことを出来るだけ取り除こうとしたのであれば、この言葉はよく理解できると思います。彼は思索し何事かを解決することで達成感を得ていたのかも知れません。

またエベレスト登頂を成し遂げて降りてきたマロリーが、再び安定した教職の生活に戻って30年ののちに《賢者は快楽を求めず、苦痛無きを求める》、などと無茶をした昔を降り返るかも知れません。

幸福とはそれぞれが感じまた味わうもので、一つの言葉で括ることは難しいと思います。
ただ僕はまだ、達成感にこだわってもいます。
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この回答へのお礼

『幸福とはそれぞれが感じまた味わうもので、一つの言葉で括ることは難しいと思います。』
皆さんに幸福についての解答を頂き、このお言葉を痛感しております。
私は、たった一つの言葉から幸せというものを見出そうとしていたのかもしれません。
達成感・・・。これまでの私には経験が無いように思います。
成し遂げる前に、諦めていたのだと思います。
自分自身を見つめなおし、これまでの自分について考えさせられます。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/25 12:19

ショウペンハウアーって


デカルト・カント・ショウペンハウエルの3人で「デカンショ節」と
歌われた、あの人のことですよね?
(私が習った頃は、ショウペンハウエルでした)
個々の意思が衝突する結果、苦痛に満ちた人生を送らなければならない。
とかって感じだったように思います。(思わず昔の教科書見てしまいました。)

人間関係が複雑になればなるほど、その軋轢で苦痛を感じることも
少なくないと思います。
刹那刹那の快楽で、その苦痛を忘れさせられるものなら、
快楽を追求したっていいのではないでしょうか。
君子危うきに近寄らず・・・で、リスキーな快楽を求めることはせず
清く正しく生きていけば、苦痛は感じないというものでもないでしょう。

痛くも痒くもない人生が幸せだとは思えないんですが・・・
それで得られた幸せは、退屈なものだと思うのです。

ところが、ショウペンハウアーはこうも言ってますよね。
     「人間の幸福の敵は、苦痛と退屈である」

これだから、哲学者ってワケわかんないんだよねぇ(笑)。
生きていけば、嫌なこともある、ツライこともある。
でも、楽しいことや嬉しいこともあるから、それがいいんだって
それを幸福感と思えるかどうかは、そこに至るまでのプロセスの
違いなんじゃないかなって、なんかワケのわかんない回答でごめんなさい。
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この回答へのお礼

『痛くも痒くもない人生が幸せだとは思えないんですが・・・
 それで得られた幸せは、退屈なものだと思うのです。』

おっしゃる通りだと思います。これまでの私の人生です。
回答を何度も何度も繰り返し拝見しているうちに、自分の悩みも考え方も
小さく狭いもののように思えてきました。

ありがとうございました。

お礼日時:2002/05/25 12:06

>快楽を求めず、苦痛無きを求めて生きれば幸せになれるでしょうか?



どうなんでしょうね~。
私も時々そんなことを考えたりするんですよね。
ショウぺンハウアーと言う名前は初めて聞きましたが、「賢者は快楽を求めず、苦痛無きを求める」っていうのは、私もNo1のアドバイスをされた方と同じで平坦な人生だと思います。
すっごいつらいときは「こんなにつらい思いをするなら何もなかった方が良かった・・・。」って思い、いざ何もない生活に慣れてきてしまうと「なんかドキドキしたいな~。」って思ってしまう私です・・・。 (^_^;
でも、よくよく考えてみると、つらいと思うこと、幸せに思うことはセットでおきているような気がするんですよね。
言い過ぎかも知らないけど、その大きさも比例する気がする。
だから私としては、苦痛がないようなことに幸せはないと思うんですけどね。
あくまで個人的な意見です。
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この回答へのお礼

『苦痛がないようなことに幸せはないと思うんですけどね。』
このお言葉はこの先ずっと私の胸に刻まれそうです。
ありがとうございます。
私は、これまで小さな苦痛から逃げ出すために大切なものをたくさん失ってきたような気がしました。
ショウぺんハウアーは苦痛の積極性と快楽の消極性ということを解いています。
どんなに幸せな時間を過ごしている間でも、靴の中に入った小さな石ころの苦痛が気になってしまうと言ったように、どんなに幸せなときでも些細な苦痛には勝てないと言っています。苦痛から逃れることばかり考えていましたが、幸せと苦痛はせっとなんだと思えば、幸せを守るために苦痛を乗り越えなければならないんだと思えるようになってきました。ありがとうございます。

お礼日時:2002/05/24 22:04

幸福と不幸は山と谷のようなものですから、山を削って谷に埋めてしまえば平坦になりますよね。


その平坦をショウペンハウアーは幸せと呼んだのでしょう。

ある寺の住職に言われた言葉で反論します


「...欲を捨ててはいけない。欲を捨てることは人が人で無くなる事。
欲があるから葛藤も苦しみも悲しみも憎しみも嫉みも生まれるけど
その苦しみから逃げることは死ぬことで逃げること。」

「自分が自分で醜いと思っている「欲」というものを
「夢」と読み替えてみなさい。自分だけでない、人の「欲」も「夢」と
読み替えてみなさい。欲は人間が「よりよく生きたい」と思う心から
出てくるもので自分の欲も人の欲も何ら醜いものではない。」
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私は、ある幸せを維持するためには悲しみが伴うことで、その幸せを自ら絶ってしまおうかと悩んでいます。

単純な質問に、心の中を見透かされたような、回答を頂き驚いています。
貴重なお言葉を頂き心から感謝しています。

お礼日時:2002/05/24 18:45

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