「みんな教えて! 選手権!!」開催のお知らせ

俗に大悟十八、小悟無数といわれます。
禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか
悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。
悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。

そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか
いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること
ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。
言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか

悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?

A 回答 (16件中1~10件)

うーん、たぶんこれが最後かなぁ。


よくつき合ってくださったと思います。迷惑でしたらごめんくださいね。


>指摘のように、我見の多い批判めいた文になったことは認めますが、あくまで私の日頃からの禅宗に対して感じることで、真に取り組んでおられる方まで、非難めいたことを言うつもりは有りません。が、はっきり言って禅寺のあの格式はなんなんだと言う思いはあります。ですので自然言葉にあらわれてくるのでしょう。


そうなんですよねぇ。みんながそう思ってるところが、根深いんですよねぇ。みんなそれぞれもっともなことを言うんですよね。で、それなりにというか、筋も通っていたりするんですよねぇ。
あなたは○○すべきとか言ってるうちは、難しいですね。禅宗という実体で、見ちゃういますしね。そんなのないと言われても、全体としてそういう傾向がある、という思いこみ簡単に捨てれないでしょう。

みんなそうなんです。おまえから先に捨てろ、って話しが聞こえるかどうか、難しいですよね。
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この回答へのお礼

ははは(^○^)
これでおわりですか
でもまあ、これ以上のことは各人のことですからね

あなたこそよくつきあってくれました。
ひとつ教訓を得ました。とにかく言いたいことを言って見る事で自分が見えること、ですね。

お礼日時:2005/05/08 01:47

お返事了解しました。

そういうことであれば、私もあなたが禅者(仏教徒)であるかどうかはこだわる理由はないでしょう。
でも、禅者たちの態度についての認識については、あなたがそう思っているというだけのことであって、それ以上のことではないですね。間違ってるということではなくて、あなたの感想として認めます、ということです。最後の質問に対する答えにも、もう答える必要はないですね。あなたが、禅宗(教団)という狭い枠に囚われないと言われる以上、禅宗教団の構成員達の信条を問題にするのはどうしてか?という質問はすでに的が外れているのですから。じゃ禅僧のあり方にも別にこだわる理由もないわけですね。私はあなたがそこを何度も言うのでこだわってるもんだと思っていた。だからあなたの立場を聞いただけです。こだわらないのであれば、私もこだわる理由はないです。みんなものですから、あなたが発信すれば済むことですね。

>巷にあふれる禅の本といえば、悟りなくして禅にあらずといった感があるのは偏ったみかたでしょうか。

偏っているかどうかは、分かりませんが、、知らないので。ただ、そうだとして、悟り悟りとこだわっているのは、質問者様も同じかもしれませんよ。質問者が批判する悟り至上主義の悟りの意味でみんなが、あるいは本の著者が使っているのでしょうか? 反論じゃなくて、私はこの点については知らないですよ。ただ、やりとりを見ていて、先ほどの瞑想は悟りに関係ないという言葉にしてもそうなのですけど、知りもしない部分を知らないと認めないで、自分の知っていることだけで結論と批判を出してしまわれる、言葉へのうかつさ(自己へのうかつさもあると思います)を見たような感じがしました。わざと瞑想にいろいろあると言ったのはそのためです。してみれば、禅の修行と悟りにも内容的に違う部分があって、そういうのもあるんじゃないでしょうか?という反問をしたわけです。実際はどうか知りませんけどね。いろいろな質問をぐるぐるされておられましたが、そうした部分について、自分の知っていることだけで知らない部分まで自分の思いはかりだけで、論じても、話が流れるだけで中身がつまりません。

質問者の真の意図はこれですね。
分かりました。やはりあなたの意図を聞いたのは正解だったのでしょう。

>は、世の人は自分の培ってきた知識、経験、欲望、信条などが幻想であるにもかかわらず実体として、疑わないことにこの混乱のもとがあると思っています

それはあると思います。釈迦の梵天勧請を取り上げたのは、しかし、この問題に対する対処に絶対的な正解はないのでは?ということを示唆したかったからです。悟った人の「役割」と書かれていますが、その時点で、あなたの信条だと思いますけど、違うでしょうか? 少なくても言い切るのはそう簡単なことではないし、最初から決まっているような種類のことでもありません。もちろん、その上で個々が動くのであればそれはもちろんありでしょう。釈迦も、信条や感情をどなりあっているだけの一員になってしまう可能性だってないわけではなかったですけど、智慧をもって無駄な議論をさけて、実証的な「観察」を示すことで、様々な人と話してきました。悟りの販売ではなくて、観察による固定的な我の無意味さ(これなどはあなたのいう信条や知識への絶対的信頼を苦の元としたということでしょう)、苦の止滅あるいは、軽減という分かりやすい話でした。議論のための議論はしなかったわけですね。私個人的には特定の教派や集団にはこだわっていません。そういう釈迦の基本路線をもう一度、あるいはこれまで以上に見直すべきだとは思います。
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この回答へのお礼

たびたびの回答というかご意見ありがとうございます。
ご指摘のように、我見の多い批判めいた文になったことは認めますが、あくまで私の日頃からの禅宗に対して感じることで、真に取り組んでおられる方まで、非難めいたことを言うつもりは有りません。が、はっきり言って禅寺のあの格式はなんなんだと言う思いはあります。ですので自然言葉にあらわれてくるのでしょう。


>釈迦の梵天勧請を取り上げたのは、しかし、この問題に対する対処に絶対的な正解はないのでは?ということを示唆したかったからです。悟った人の「役割」と書かれていますが、その時点で、あなたの信条だと思いますけど、違うでしょうか? 少なくても言い切るのはそう簡単なことではないし、最初から決まっているような種類のことでもありません。もちろん、その上で個々が動くのであればそれはもちろんありでしょう。

もちろんどう動くべきという正解はありません。
が、禅僧になった以上なにがなんでも悟らねばという空気はあると思うのです。ちがいますか?

何番目かの回答者さんも禅の目的は悟ることとかいておられます。それ自体けっして否定はしませんが、禅宗の環境のなかではやはり、いびつなものになっているように思うのです。いびつと思えるかが問題ですが。

>苦の止滅あるいは、軽減という分かりやすい話でした。議論のための議論はしなかったわけですね。私個人的には特定の教派や集団にはこだわっていません。そういう釈迦の基本路線をもう一度、あるいはこれまで以上に見直すべきだとは思います。

禅は宗教でもなく、考え方そのものだと思っています。
そのあたりから、腰を据えていかないと街へでることもなかなかではないでしょうか。

この掲示板にもたくさんのひとの回答がきました。
不特定多数のひとが見ておられると思いますので、どうぞなんなりとお寄せください。そのなかで流れが変わってもいっこうに構いません。

お礼日時:2005/05/08 01:07

お返事見ました。


本題に入る前に少し確認しておきたいのですが、どうも私は違和感を感じていて、私の感じるのは、あなたは何をしたいの?、どうして禅者の態度を云々するの?ということなんです。
文句を言っているのではなくて、禅者の態度をあなたは間違っているのではないかと批判される。私には、これは禅を奉じるものの態度だと思っています。あなたは禅者なのでしょうか? もし「昨今の」禅者が間違っていたとして、どうなさりたいのでしょうか? 私は禅の教えと禅者の行動が離反してるとは言えますが、禅者を教え導く立場にはないので、それは控えていますが、これについて一言もらえませんか? 私に「昨今の」日本人について言わせると、仏教僧としての僧侶批判をいっぱいするくせに、信仰を聞かれると自分は無宗教という人がとても多いですが、元来これはおかしなことだと思うからです。彼らが社会的害悪を及ぼしているという観点からなら分かりますが、非信者が彼らの心のあり方を批判しているのは不思議な光景です。あなたの疑問は、禅を理解したいのか、禅僧を批判したいのかはっきりしません。何をしたいのですか? せっかく何度もお書きくださっているようですが、何がしたいのか、単に聞きたいのか、やはりわかりくいのです。

>禅的にはというのが出てきますが、これは意味がわかりません。
禅の思想に照らし合わせて、ということです。

>それと、このあたりで書いておきますが、すこし批判されて、かわいそうな禅者はいるでしょうか。

かわいそうは、主観でしかなかったですね。これは書き方が悪かったです。でじゃ言い直します。あなたは禅をどれだけ判断できる立場にいるのか?ということです。あなたは禅僧をどこまで知っていて、どの立場からものを言おうとしているの? あなたは禅宗を判断できるほど知っているのか?ということです。この文章の最初にあるのは、この疑問です。


>何回もいいますが全般に禅=悟りの公式が権威を持ちすぎていないかということなのです。いちばん権威を否定するはずの禅がです。

これは主観の問題ですね。現在の禅宗の問題点については、そうしたことがあるとは聞きますが、それ以上のことを確認する相手として私やネット上の住人はあまりふさわしくないような気がします。個人の禅僧は知っています。また多少の本は読んでいます。参禅もあります。しかし、昨今の禅僧の問題点を論じるだけの経験はないです。質問者さんは、禅門に深く関わっているのでしたら、それは一つの判断ですが、第三者には判断しようがないことです。ひょっとして臨済系の座禅道場に行かれたのかとも思いましたが、両方ともかなり行かれたのでしょうか?

>瞑想というのも言葉は同じでも内容に違いがあるようです。
そうですよね。もちろん気がついています。瞑想の重視はされていない、という書き込みがありましたので、勢いで書かれただけなのでしたら、異存はないです。瞑想は重視されていた、ということですね。

それと同時に、禅僧の瞑想がただの頭が軽くなったとかの覚醒作用と決めつけるのはどうして?という疑問もわき起こりますよね。それは自明なのですか?
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この回答へのお礼

21世紀になって、前世紀にもまして世の中険悪な状況になりつつあると感じております。科学技術や知識が発達するほど心は逆に貧しいものになるようです。

根源的な要因はなんでしょう?
禅的にいえば無明ということでしょうか。

私は、世の人は自分の培ってきた知識、経験、欲望、信条などが幻想であるにもかかわらず実体として、疑わないことにこの混乱のもとがあると思っています。

せっかく日本には禅があるのに、悟りにこだわり、近づきがたいものにしているために大いなる誤解を招いていることに、もうすこしやるところがあるのではないかと言ってみたいわけです。

>彼らが社会的害悪を及ぼしているという観点からなら分かりますが、非信者が彼らの心のあり方を批判しているのは不思議な光景です。

回答者さんは私が信者であるかどうかにこだわっておられるようですが、禅はだれのものでもないし、経験があるから信者であるとかもないと思います。
いずれにしろ、禅を禅者の占有物とすることでもないでしょう。

巷にあふれる禅の本といえば、悟りなくして禅にあらずといった感があるのは偏ったみかたでしょうか。

さいごに、
>、これは禅を奉じるものの態度だと思っています

これについてお教えくださいませんか。

お礼日時:2005/05/07 22:53

たびたびお邪魔さまです


私の知り合いで非常に高次な悟りを得ていると思われる方が幾人かいらっしゃいます。
一人はキリスト教徒、主婦です。一人は
仏教徒、会社経営、一人は新興宗教、こちらも会社経営の方です。
全く違うように見える教えを学んでいる中で、共通する素晴らしいと思える所があります。
それは自分を良く知っているという事です。自分の心の動きを客観的に捕らえていること、いつも何を考えているか、どんな思いを出しているか?心に想い描いていることの、その善悪の判断が
はっきりしているということです。
心の実相をはっきり把握し自らコントロールしているということです。
ある意味、心が非常に自由なんです。
悪を捨て善を取る作業を常に考えているということです。目には見えない心を実態として捉え、よきもの、よき思いを積極的に出しているんですね、
間違った思いに対しては、神仏に対して、素直に反省、する習慣があります。親子関係、会社の人間関係、夫婦関係、姑関係、これは日常的に生活の場で、なされている精神活動です。
この方達の特徴は、会って話しをしているだけで、
うれしくなって、なぜか暖かい気持ちになるんです。
基本的にやさしく、すごく明るく、屈託の無いさわやかな感じがします。物事に素直な目を持っているので一見ぼ~っと見えますが、本質を見抜く力?がすごいです。こだわらず偏りがない、透明な感じ(如実智見?)
自然にいろんな事を相談したくなります。目が優しいので岐ではやりの占い師のように怖くはありません。この方たちと知り合えた事は私にとって財産であり、ほんとにありがたいことだと感謝しております。
仏教的に見ると八正道を実践し正念、正定の域に達していると思われます。それと非常に霊的で、不思議な事柄もよく聞きます(決して怪しいものではありません)(六大神通力の片鱗?)
しかしかなり修行は厳しいらしく実態としての魔との闘いは大変らしいです。(釈迦降魔成道、マーラパーピヤス、ナムチ、イエス荒野の闘い等参考に)

特に禅の坊様に限ったことではありませんが、自分は悟った特別の存在であり、えらいのだ。なんて思ってしまうと心の六大煩悩の(慢)に陥りやすいとおもいます。慢は嫌われますけど本人はなかなかわかりませんから。あと悪魔の第一の軍隊は欲望であり、性欲、金銭欲、権力欲、権勢欲、いろいろあってノーガードだったら、即、アウトでしょう。修行者はきびしい!とおもいます。
禅宗も仏陀の説いた8万4千と言われるの法の中の一つであり、他の宗派の方たちの中にも素晴らしい仏弟子がたくさんいらっしゃると思います。もちろん道元様も素晴らしいと思います。末法の時代の誤った禅坊様一人にとらわれることなく、こだわることなく、
ikkannsannさんも多くの素晴らしい教えに触れ、共通の普遍的価値観がご理解できますよう、真理は人を幸福にするのだということを確信し精進してまいられますよう心よりご祈念いたします。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

たびたびの回答ありがとうございます
そうですか、身近に暖かい人がいるのはあなたの人徳でもあるでしょう。またそういうひとの影響というのもたしかに大きいと思います。

あなたにとってすばらしいと思える人も、ほんとうはどうなのかわかりませんよね。まずあなたから、ご自分のなかの欲だとか、権威だとか、善悪観念だとか、比較、ねばならないとか、否定するので無く、いろいろの凝り固まったものをみすえることで、あるがままが見えるひとになることではないでしょうか。もちろん私も同じです。

。>あと悪魔の第一の軍隊は欲望であり、性欲、金銭欲、権力欲、権勢欲、いろいろあってノーガードだったら、即、アウトでしょう。修行者はきびしい!とおもいます

これっておもしろい言い方ですね。
ところで、ガードってあるんでしょうか?

ガードする人は大変でしょう。

お礼日時:2005/05/07 21:24

補足ありがとうございます。


と、言いたいところなのですが、分かったような分からないようなところもあります。

>疑問がどこにあるかというのがすでに、この掲示板の目的のひとつと言えると思います。

これも、すでに禅問答のようなお答え。私の理解力がないのかもしれませんが、てらいを含まず、もう少しかみ砕いていただけませんか?

以下の部分に関しては、分かりました。
「端的にいえば悟りというものが、通常得がたい境地としてなにか自分とは縁遠い神聖なものと思われているが、はたしてそうであろうか、またそうしたものという固定した考えの上に昨今の禅者はあぐらをかいていないか、ということです。」


これはまず禅的にはそうではないでしょう。先にも書きましたね。哲学的に疑問としているわけではないのですね? 単なる質問者の会われた「昨今の」禅者の勘違いだと思います。でも、ご自身、禅にも仏教に詳しくはないと断っておられるのですから、「昨今の禅者」として、まとめられちゃ、ちょっと可哀想な気もします。確かに座禅の境地を自慢する人とかいて「おら、三十年も座ってきたんだ、ホン」とか言う人もいますけど、ホントにそんなにまとめて言い切れるものなかなぁ。

釈迦だって、誰も得られないような境地を説いたわけではなくて、たくさんの方が阿羅漢の境地(初期仏教では釈迦と同じ境地を指します)へ至っているようですが、ただ出家主義ではありますよね。滝に打たれたり荒行は全然必要ないですが、出家して、頭陀行したり、糞雑衣着たり、戒律守ったりして、自己を統御することはきっちりやらないとダメだという点はありますね。誰でも悟れる、遠くない、と言ったて何もしなくても悟れるわけでも、頭で理解さえすればそれだけで悟れるというのとも少し違うんですよね。もちろん先の回答にも書いたように、理解する面は重いのですけどね。また在家には在家の悟りがある点は、先ほども書いた通り。悟りは強制されるものではないですから。

それと固定概念を否定されていますが、結構覚りとか瞑想について、決めつけてたりしないでしょうか? 

釈迦だって瞑想を軽んじたわけではないですよ。それどころか瞑想って重要な一部を構成していますよね。ただ心身を観察をする瞑想を勧めますから(ヴィッパサナーとか言って最近もてはやされている瞑想ですけど。広くは不浄観なども含むと思います)、その意味では質問者の言うことと違いませんが、縁起の法もそうした瞑想で観察された真理ですから(原始仏教の縁起と大乗仏教の縁起はちょっと違いますから十二支縁起というのを見てください。感官、心の観察、瞑想と関わって観察されているのが分かると思います。これをまぜこぜにして宇宙の成り立ちとかやって論じてしまうと、釈迦の論じた範囲を大きく踏み越えてしまうことになります。もちろん宇宙の成り立ちを論じたという解釈も否定しませんが今は史上説かれた十二支縁起を見てください)、どうでもいいというわけではないと思うんですが、瞑想が自己陶酔という規定は、失礼ながら質問者の思いこみだと思うんです。陶酔を破るために必要とされた、あるいは覚めるための瞑想もあるということです。

>禅者、あるいは実相を覚った者の役割はなんだろうか?
これも疑問のひとつであります。

梵天勧請の説話をご存じでしょうか?
釈迦が成道後に、梵天から説法をすることを要求されるというあれです。
あそこで釈迦がもし涅槃に入ることを選んだら間違いであった、と質問者さんは考えますか? 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

分かりにくい点あるかと思います。
ですが私の疑問としては先に何回か書いてあります。

禅的にはというのが出てきますが、これは意味がわかりません。それと、このあたりで書いておきますが、すこし批判されて、かわいそうな禅者はいるでしょうか。

>それと固定概念を否定されていますが、結構覚りとか瞑想について、決めつけてたりしないでしょうか? 

私はきめつけは有ると思います。だからこそ自分のなかの決めつけが見たいし、見えたぶんだけ視界が広がると思います。何回もいいますが全般に禅=悟りの公式が権威を持ちすぎていないかということなのです。いちばん権威を否定するはずの禅がです。

瞑想というのも言葉は同じでも内容に違いがあるようです。私の言ったのはたんに頭が軽くなったとかいう一種の覚醒作用を目的としたものでなく、起こることに一切逆らわずといった、知覚を重んじるもののことです。否定することはありません。

>梵天勧請の説話をご存じでしょうか?

そうですね、おしゃかさんは悟ったのち、このことを伝えるのにあまりの困難を予想して諦めかけたとか。
実際にどういう心境で毎日、出来の悪い弟子相手に説教なされたのか、興味はあります。しかし、おっしゃるように2600年も生きつづける教えは、人の可能性を信じさせるに余りあると思います。そのことがおシャカさんの描いたことかもしれません。

お礼日時:2005/05/07 20:58

ikkannsannサンの質問を「禅寺の坊さんの求めている悟りに対して向けられているもの」と勝手に解釈して、自分なりにまじめに答えさせて頂きます。


そもそも釈尊は釈迦族の王子から出家し数年の肉体行ののち肉体行を否定し菩提樹の元、数十日自らを振り返り四諦を悟ったんです。(大悟、宇宙即我、宇宙の真理)
その後瞑想修行によって悟りを深め人類史上最高の悟りを得、さらに弟子たちに数多くの「法」を説き続けました。
(久遠の本佛、永遠の仏陀、の説法)
まず釈迦族の王子は、修行によって悟り、仏陀となられたのです。悟らなければ仏教は残ってません。
まず釈尊の悟りから始まっているのです。弟子は皆、師をまねます。師の後ろ姿を見、師の瞑想する姿を見自らも座ります。師の説く法を聞き、学び、実践します。キリスト教しかり、イスラム教しかり。
禅寺の坊様の多くはこのプロセスのところで哲学的迷路に右往左往しているように感じられます。
本物の悟りは大きな救済力を伴うものであって知識の遊びではありません。
禅問答とは、本来相手の自己変革のきっかけとなるような、魂の向上につながる悟りのヒントとしての一転語だったわけです。現代の禅の間違いの根底には達磨自身の中に心というものを物質的、物体的な比喩に微妙にすり替えているところがあります。
五祖弘忍の後継者となる慧能の頓悟禅も大きく影響しています。言葉に表せないものとしての悟り、わけのわからない言葉としての悟り、自分が思いついた悟りをさまざまな形で提示しそれぞれの宗派を作りました。
が、あの世の観点、霊的側面をないがしろにしてきた事が仏の教えを唯物論に落とし込め、禅寺の坊様以外理解できない、狭い意味での唯物的哲学という非常につまらないカテゴリーを作ってしまいました。
信仰心とはこの世を越えた尊い物を信ずることです。
この世の価値観で信仰は成り立ちません。
仏教大学などで一番大切な霊的価値観が理解できてないことは悲しい事です。自灯明とは唯物論的無明の自分を信ぜよ、とは言ってません。法を学び、悟ったならば、その悟りの光を高く掲げて光をひろめよ、ということだとおもいます。
三宝帰依とは、仏、教え、サンガ、に帰依することです。仏陀が地上におりられた時は、仏の教えに従い、(阿羅漢が多数出現した。また在家菩薩も多数出現)
仏、地上にいないときは残された法を拠り所とし、修行するということです。うまずたゆまず精進することを基本的には求めていたのです。
釈尊の説く法は頓悟的ではありません。
言葉で表せないものもあるでしょうが、釈尊が説法によって悟りを表し、人々を教え導いたことは事実であります。数えきれない対機説法によって多くの法「真理」を残しました、かなり精力的な伝道の旅に出ております。精舎に篭って禅問答をしていたわけではないのです。哲学遊びをしてたわけでは絶対ありません。
釈尊は全精力を(知恵と慈悲)ものすごい情熱を衆生救済のために捧げた方であるのです。
2600年の歳月の中、時は流れ、末法の時代です。末弟子の解釈論は聞くに値しません。言葉の遊びをしている暇は無し、です。ikkansannが思われている禅に関して私も多くの疑問?を持ってはいますが、禅宗にとどまらず、仏教にとどまらず世界の宗教の共通する普遍的真理を理解したいと心より願っております。
目を凝らせばそこにもあそこにも真理が輝いています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうですね、釈尊は寺をまもるため悟りを開いたのではないのです。
>信仰心とはこの世を越えた尊い物を信ずることです。
この世の価値観で信仰は成り立ちません。

このところ私にはよくわかりません。

たしかにこの世の価値観はすべて幻想のうえに成り立ってますから、まずこのことを理解することから始めるべきでしょう。即座に理解できることです。が、なかなかそこに思いが至りません。

理解することは難しいことでも神聖なものでもありません。なにか悟りというものが神聖で近寄りがたいものとする観念が、自分の事とするのに障害になってませんか。

もっと悟りや覚りを身近に引き摺り下ろすことがあってもいいのではないでしょうか。それができるのは禅者であり、覚者であるとおもうのです。そのためには自らが覚りについての固定した考えをまず捨てることが肝要ではないでしょうか。

お礼日時:2005/05/07 15:16

悟りを目的にすることが是か非かといえば、「誤り」といわざるを得ないでしょう。

その意味で、質問者氏のもともとの疑問は的を射たものだと言えると思います。

大乗仏教の思想の根本には、観念の実体視が人間の苦しみを招いている、という基本認識がありますが、この「観念の実体視」には当然「悟り」も含まれます。つまり、「悟りという実体はない」という認識は、大乗仏教ではゆずれない一線なのです。

「悟り」という言葉が厳然とある以上、このことは一見奇妙に思われがちですが、虚心に経典や論書を読むと、随所にこの考え方が表明されていることに気がつくはずです。

例えば、大乗仏教理論の最初にして最大の立役者、竜樹(ナーガールジュナ)は『中論』の中で、「如来の本質はこの世間の本質であって、それらは共に本質を持たない」と書いています。また、「無明を縁として生じるものには、正しい知識をもって観察するとき、生も滅も認識されないだろう。それこそが現在世における涅槃である」(『六十頌如理論』)とも書いています。
悟りというものは本質がないという点において世間すべてのものと同じなのである、そのことを如実に知るのが悟りである、ということです。従って彼は、「悟りを見るものは、実は悟りを見ていないのだ」という意味の逆説を各所で説くわけなのです。

あるいは、『大乗起信論』という有名な論書には、「一切の衆生は本来常住にして涅槃に入れり。菩提の法は修すべき相にあらず、作すべき相にあらず、畢竟して無得なり」とあります。人はすでに悟りの中にいるのであって、ことさらに修めるべきものは何もない、というのです。本来過不足ない状態にある人間が、かえって悟りを求めて苦を招いているというわけです。

こういった考えは大乗の根幹となっていて、よく知られている「諸法実相」だとか、「煩悩即菩提」、「生死即涅槃」、「娑婆即寂光土」といった言葉と脈を通じるものです。このようなことが大乗で言われだしたのは、悟りや煩悩を実体視する実体論者への対抗運動という歴史的側面がありました。
しかし、現代の我々もやはり実体論に多かれ少なかれとらわれているわけです。その典型がこの悟りの問題で、多くの人は悟りだ解脱だというと、特別な世界が開けて煩悩も起こらず生死も超越する、という考えを持ちがちです。しかし、もちろんそんなわけはありません。
この自分の生きる現実のほかに、特別な悟りがあるのではなくて、生きている自分も自分の煩悩も縁によって生じ滅するものである、ということを正しく理解した時、それを悟りというわけです。無明によって、私という個人や煩悩が存在すると思い込んでいるわけで、それを正しく見つめる。端的にいえば、よそに悟りを求めない得心ができれば、それこそが悟りと呼ぶべき事態なのです。
(もちろん、ここでは便宜的に「悟り」と呼ぶだけで、本来なら悟りという必要もないし、実際その認識は滅却されるわけです。そういう分別を超えた状態を、例えば空を説く経典なら「如来の説く智慧の完成は、智慧の完成ではない。これを智慧の完成というのである」(『金剛般若経』)などと、少々舌足らず気味に説明しています)

悟りとはそのような事態ですから、当然、悟ったところで痛みや暑さ寒さを感じなくなるわけではありません。悟りを開いたお釈迦さんですら、感覚としての痛みや苦しみはやはりあったわけです。雑阿含経「箭経」には、次のような例が記されています。
悟りを開いた仏の感じる“苦楽”と凡夫の“苦楽”とは同じなのか、それとも違うのか、という質問に、お釈迦さんが矢を例にひき、「矢が刺されば誰でも痛い。それと同じで、自分も痛いときは痛い、苦しいときは苦しい」という意味の答えをするのです。
しかし違いはその先にあって、「凡夫は身受だけでなく心受によって苦しむが、如来は身受だけで心受がない、自分には第二の矢が刺さらない」という意味の説法をしています。つまりお釈迦さんは、悟りを開くというのは痛みから自由になることではなくて、痛みを痛みそのままに受け止められることであって、心受、つまり痛みから二次的に生まれる諸々の恨みや憎しみ、過去の想念だとか未来への絶望だとか、そのようなものから自由である、ということを明らかにしているわけです。仏教において「現象をあるがままに知覚する」とは、本来このようなものです。

同じように、死を超越するという悟りの本当の意味は、もちろん不死になることではありません。誰にとっても体験不可能な死は観念としてしかあり得ないわけですが、それにとらわれて生をおろそかにすることがなくなること、ある禅者の言葉を借りて言えば「死ぬまでは生きている」という自然な納得ができることをさすわけです。ネット上では、この「悟りによる不死」を「瞑想によって死を感覚的に体験すること」(!)などと論じているものすらありますが、これ自体非常に観念的な、恐ろしいまでの誤解です。

実際、禅に対する誤解は広くあります。世間一般では、「禅宗は悟りを求めるもの」という理解が蔓延していますが、これは非常に皮相的な見解です。大乗仏教の根幹に「悟りを求めない」ことがある以上、それは本来あり得ないことだからです。
事実、曹洞禅では、質問者氏の書いておられたように修証一如(一等)などといって、悟りをことさらに取り上げませんし、僧堂に何年いようと「悟り」という言葉を聴くことはまずないでしょう。
一方、臨済禅は確かに「悟り」をうるさくいうのですが、それは「悟り」という実体を求めて修行するのではなくて、「悟り」というテーゼを執拗に反芻することで修行者の中に疑問を高めるという、一種の反面教育ともいうべき手法をとるからに過ぎません。効果は大きい分、逆にこの中途の時点で肥大した自己にとらわれてしまうと、悟りを吹聴するような生半可な人間が生まれやすいとも言えますが。

悟りという実体がないと知ることが悟りである、というのはどのようなことか。その理解の一助として一例を挙げます。曹洞宗の開祖道元から四代目の瑩山が師匠の義介から力量を認められた際のエピソードです。
「平常心」の大義を一言で示せと義介に言われ、瑩山は「黒漆の崑崙夜裏に走る」と答えます。真っ暗闇のなかを真っ黒の玉が転がるようなものだ、つまり主体・客体という認識の構造を離れたところで動く働きに言及したわけですが、師は、十分ではない、さらに一句をと求めます。そこで瑩山が答えたのが「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という言葉です。自分の生きる日常を離れて悟りはないということがいかに得心できるかというポイントが、自然かつわかりやすく表れているのではないかと思います。ちょうど十牛図で、最後は牛を曳いて何事もなかったかのように巷に帰ってくるようなものですね。

ここでテーマとされた「平常心」という言葉は、南泉と趙州の問答に出てきた言葉です(弟子の趙州が「仏道とは何か」と尋ねたところ、師の南泉が「平常心のことだ」と答えたというもの)。
禅では、このように祖師の語録に参じて研鑽を深めることは日常底に行っていたわけです。こういう典籍の参究に意味があるのかと問われれば、結局他人の体験ですから、よくいうように「月そのものでなく、月を指す指に過ぎない」のは事実でしょう。しかし、指であってもそれを学んでいれば、少なくとも全く違う方向を指す指が出てくればすぐわかるわけです。ネット上で体験の裏づけの全くない、禅にまつわる戯論が横行する現在、その意義はむしろかつてより大きいのではないでしょうか。解説でなく、祖録そのものに参じることは大事なことだと思います。

(ちなみに、上の「平常心」のはなしの続きも面白いのです。
趙州「それに向かって修行すべきですか」
南泉「向かおうとすると、かえって離れてしまうぞ」
趙州「なら、どうやって『これが仏道だ』とわかるのですか」
南泉「仏道は、知・不知に属さないのだ。知は妄覚だし、不知は無記だ。本当にわかるところまで達すれば、からりと広いところへ出て、是非を分ける必要がなくなるのだ」
この問答で、趙州は悟りを得た、とされています)

長くなったのでやめますが、このような悟りの理解は、大乗仏教の根幹ではありますが、原始仏教以来、世の中を「あるがままに見ることで苦から抜けだす」ことは仏教の基本だったわけで、悟りを日常の生活の中に取り返そうとしたということは、いわば仏教のルネッサンス運動とも言えるでしょう。
以前、悟りの中身について、原始仏教の理解を中心に回答したことがあります。よろしければご参照ください。
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=550238 「悟りとは?」
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この回答へのお礼

大変長文の回答ありがとうございます。
お断りしておきますが私は仏教や禅に関してまるで無知でございます。しかし禅者といわれ、尊敬もされてるひとのなかにガッカリするような人物を見るにつけ、はたして彼らが至上のものとしている悟りとはいったいなにを意味するのだろう?と思うしだいです

>つまりお釈迦さんは、悟りを開くというのは痛みから自由になることではなくて、痛みを痛みそのままに受け止められることであって、心受、つまり痛みから二次的に生まれる諸々の恨みや憎しみ、過去の想念だとか未来への絶望だとか、そのようなものから自由である、ということを明らかにしているわけです。仏教において「現象をあるがままに知覚する」とは、本来このようなものです。

おそらく上の文は覚りをよく表しているものと思います。

そこには荒行だとか、瞑想だとかの必要性は強調されていません。荒行や瞑想はそれ自身のもつ自己陶酔性を目的としたもので、あるがままを知覚することとはそれとは異なり、自己の精神に蓄積してきた、無自覚の有り様を知覚することではないかと考えます。


>世間一般では、「禅宗は悟りを求めるもの」という理解が蔓延していますが、これは非常に皮相的な見解です。

これも私が疑問に思うことです。禅者の話はほとんど、悟りがなかったら通じないとか、ことごとく否定することで、とにかく悟りを強調します。経典を持ち出すことに何の意味があるでしょう?

仏教職をはなれて、真に人々が無明に気づくよう導くのが覚者のはたらきではないでしょうか。今のように悟りを至上のものとしていては近づきがたいもので終わってしまいます。寺を守るのが覚者でしょうか。

かさねて言いますが、悟りはけっして厳しい修行で得られるものでなく、立ち止まって己のありのままを見つめることだけだと思うのです。

お礼日時:2005/05/07 14:14

かなりお詳しい方のようですが、補足見ました。

どこを問題にしたいのかよくわかりませんでした。

>そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか
いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること
ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。
言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか


これはもともと禅者が主張したことですよね。質問者さんも道元をほめておられますが、ご存じですよね。現在の禅者に、悟り体験至上主義が問題点としてあることはわかりますが、それはただの弊害だと思いますが、あるいは何か思想的欠陥を見いだしておられるのでしょうか? 体験至上主義になったのは、言葉や経典を否定しすぎたからでしょうね。1さんとのやりとりなど拝見しましたが、禅者風のこういうやりとりは、やり出したら結局黙るしかありません。なお、道元は経典を否定している「だけ」の禅者は批判しています。こだわりがないだけで、なんでもいいのとは違うんですよね。だからそういう悟りとか言葉とかを否定すること「しか」できない禅者には厳しい批判をしてはばからないわけですね。それはただの鸚鵡返しで、とらわれですからね。

それで、悟り至上主義は間違っている、悟りは日常の自然な生活にあると言うことで、禅的には答えは出ていると思うのですが、何が疑問なのですか?

次ですが、

そうじゃなくて、釈迦の説いた「悟り」を問題にしたいのですか?
だとしたら、悟りの体験についてだけ問題にしていても答えは出ないと思います。そもそも体験としての側面だけに注目してますけど、それも思いこみかもしれない気がします。釈迦はなんで出家したのでしたっけ? その解決となったのが、悟りの内容ですよね? 体験でもいいのですけど。縁起とか四諦とかとしてまとめられた教えです。そのための方法が八正道でしたね。たしかに仏教経典はいろいろ雑多なものが入っておりますが、問題意識(苦の自覚)と解決とその方法としての、修行と悟りの関係がはっきりしていますから、悟り至上主義などと言われても、初期仏教の修行者には、その批判がどこから来るものかすら分からないでしょう。問題意識(苦の自覚)の無い人にまで出家をすすめるわけではないし、非生活者だけのものなのか、というのも問題設定が初期仏教の時代には合わないでしょう。でも、在家の人間だって同じような悩みを持つこともあるでしょうし、問題意識を持つこともあるでしょうから、それはそれとしてちゃんとそれなりの悟りの果は得てる人もたくさんいるんじゃないでしょうか? 幻覚だとか自我が無くなくなるとかそういうものとして捉えるのも神秘的な一面にだけ注目したもののように思います。でも、完全に我執を離れることは、商売したり財産の管理をしていては難しいという、それはあるでしょうから、元来はそのことを言っているだけで、それだけの話しだと思います。

それで結局どこが問題になっているんでしったけ?
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この回答へのお礼

疑問がどこにあるかというのがすでに、この掲示板の目的のひとつと言えると思います。

端的にいえば悟りというものが、通常得がたい境地としてなにか自分とは縁遠い神聖なものと思われているが、はたしてそうであろうか、またそうしたものという固定した考えの上に昨今の禅者はあぐらをかいていないか、ということです。

禅者、あるいは実相を覚った者の役割はなんだろうか?
これも疑問のひとつであります。

お礼日時:2005/05/07 13:13

悟りはこれ日々の発見なり、感動なり、


精進なくして悟り無く、慈悲無く、仏に至る道なし。悟りに大小あり、深浅あり、広狭あり、
日々に小悟を積み重ね、日々法雨にうたれたならば、大いなる仏国土への扉、開かれん。

己の心を八正道にて振り返り、
見つめ、見つめ、見つめ、
執着を執り、心と行いの過ちを魂にて反省し
宝石のごとき、金財宝のごとき、輝きを発見したならば、それこそ仏性の輝きなり。
この輝きこそが悟りの根源、仏子の証拠なり
この世とあの世を貫いて、
幸福の大海を泳ぐなり。
 
必ず、悟りに応じた環境が現れ、利他に生き、
愛に生き、多くの衆生を幸福にしていく。
知恵と慈悲、愛と勇気、を武器に全人類救済を誓って
進軍するものなり。

*修行者は悟るために修行します。悟りはそもそも目的であります。「法」を学び実践することで少しずつ悟っていきます。大悟しますと、必ず救済力として現れます。幸福に満たされる人がたくさん出現するということです。
*対機説法とはどんな相手であってもその方の機根に合わせて縦横無尽に法を説くことです。
*禅寺の坊さんの救済力はどれほどかはわかりません。
*悟りが進むとこの物質世界ではない目に見えない価値観、精神的なもの、霊的なものの本質、神の御心、仏の大悲と同通してきます。霊的覚醒なくして悟り無しです。
悟りのテーマで思いつくまま書いてしまいました。
少しでもなにかのきっかけになれば とおもいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました
悟りが目的ということについての疑問というのが質問の趣旨でした。

お礼日時:2005/05/06 20:32

仏陀の悟りとは苦はどうして起きるのか、どうすれば乗り越えられるのかという事でした。

 ゆえにNo6さんの言うような「霊界」などについて仏陀自身は一言も言ってません。
はるかな過去にも同じように考えた方がいたようなので引用しましょう。

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち --- 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう・・・。もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

(マッジマ・ニカーヤ 63)

悟るとは知ることです。 知る者と知らない者が問答にならぬのは道理ではありませんか? だからといって悟る事だけを目的とする仏教も仰る通り「いびつ」なものです。
皆が仏陀になれるわけではないのですから…

では、どうすれば良いのか? 仏陀の言葉から引用してみましょう。

アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに八十となった。たとえばアーナンダよ、古き車が革ひもの助けによって行くがごとく、そのごとくアーナンダよ、思うに、わたしの身体は、革ひもの助けによって、わずかに保っているに過ぎない・・・。それゆえ、アーナンダよ。なんじらは、これからは、自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、他を拠り所とせず、生きていきなさい。
(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

>悟るとは知ることです。

知るとは、自我がなくなってはじめて観えることだと思います。

>自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、他を拠り所とせず、生きていきなさい。

ということは仏陀をも拠り所にしないと言う事ですね。
悟りとは、ものごとをあるがままに観るということであれば、観る事が全てであるわけですね。

あるがままに観ることが出来る為には、他人や自己の経験、記憶を拠り所にしてはそれは,あるがままではないわけです。つい他を拠り所に頼ってしまいがちですが、方法を学んで悟りが開けるわけがないのですね。

私がこの疑問を呈した訳は、長年の葛藤だらけの修行による悟りとやらが幻覚にすぎないものならば、ましてはそれを至上のものとの思いこみがあるならば、それはいったいなんであろうかということです。これについて多くの人の考えがでてくればなにか見えてこないだろうか。

悟りは一部の非生活者だけの占有なのだろうか。
重ねて言えば、悟ることが重要なのではなく、自らの中に形成された常識、知識、経験、権威、自己中心的価値観、などがいかに我執となって凝り固まっているか、それの構造を知る事がそれらからの自由への道であるということであり、沈黙し、内面をみつめることであるいはあるがままを観ることが可能なのではないでしょうか。

お礼日時:2005/05/06 14:12

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