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俗に大悟十八、小悟無数といわれます。
禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか
悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。
悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。

そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか
いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること
ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。
言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか

悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?

A 回答 (16件中11~16件)

参考に


悟りにはいろいろな段階があるのですね。霊界の秘密を解き明かすことも悟りですしそれを知ることにより今世の人生の目的を知り、目的を十分に達成するためにしっかり生きることも悟りですね。
人生の目的がわかれば、山にこもることも滝に打たれることもありませんね。都会で普通に暮らせばいいんですね。だてに転生しているのではないということがわかるだけでも有意義ですよね。
霊界の秘密については、釈尊のような仏陀が出現しないと到底わからないということがあり、これが経典の学びにつながるのでしょうね。
経典の摩訶不思議なことを信じることが学びなのですね。だから哲学的学びは悟りへの道には程遠くなりますね。小悟は、気付きですね。その積み重ねですね。
たとえ、その積み重ねで三明を得ても、まだ菩薩の悟りでしかなく、その上には如来、大如来と永遠に続きますね。悟りは、簡単であるが無上なんですね。法は無量、悟りは無上ということですね。3000年に一度ぐらい霊界の最上段から仏陀が生まれて法を説かれるのでその機会にみんな生まれたいと望むのですね。あたれば悟りへの早道ですね。中国の高僧天台ちぎは、そのような時代に生まれたいと祈ったといわれています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
No5の人もいってますが、経典というのはあとになって諸流が論争のために書かれた物が多く、おしゃかさまとは違うものも多くあるようです。
悟りそのものは知る由もありませんが、異常体験には違いないでしょう。最近は脳内物質が関係してるとも言います。
要は、どのようにすばらしい世界にせよ、それを得る事が目的になり、荒行などをすることが至上のものとすることに違和感があるのです。そして、その境地を得たとして、大言壮語をする禅者なるものが、わたしにはうさんくささを感じることがある訳です。


大げさと言う言葉がありますが、キンキラの袈裟をファッションショーのごとく着込んで、さも権威の象徴にしてるのも、おしゃかさまとは縁がありません。

私は盤珪の不生禅とか道元さんの修証一等が、釈迦の直系と思います。おおくの方のご意見お聞きしたいです。

お礼日時:2005/05/06 10:07

これは、私も似たようなことを考えたんですが、お釈迦さまの時代には教理教学的なものは一切なかったし、複雑に体系化された小難しい話もなかっただろうと想うんです。



なのに、多くの人に支持され、おそらく多くの人が悟りを開いたと想うんです。「テーラガータ」にも「みよ、ブッダの教えが体現されている・・」というような詩もあります。

ですから、初期教団ではいったいどんな説法がなされていたのか、とても興味あるんです。が、知る由もありません。

で、お釈迦さまの教えをチョロチョロと湧き出る源泉だとすれば、現在は大河にまで発展していると想うんです。

「水清ければ魚棲まず」という言葉もありますが、多くの人の手垢にまみれ、勝手に解釈され、時には禁止されていた他宗教と合流したり、呪術を取り入れたり、悟りにこだわってみたり・・・と、大河も下流になればなるほど汚れてしまうのは必然というものです。
でも、この流れを止めることも出来ないんだと想うんです。


お釈迦さまが「サーフィン」の考案者だとしたら、後世の人がそのテクニックを解析、分析して教理教学的に纏めたり、伝説のテクニックについて語ったり、憧れたり・・・するのも無理もないと想うんです。

さらには学問仏教と呼ばれるような、丘の上から、ただ見ているだけの丘サーファーが登場するのも必然だろうと想うんです。サーファー以上にサーフィンに詳しいのに、ただの一度も海に入らないような人も多くいるんです。


でも、そうやって多くの人が集まって、水が濁っていくから、2500年もの間、仏教が残っているのかも知れません。
逆に水が清いままだったら、とっくに仏教は消滅していると想うんです。

ですから、ご質問の意図するところはわかるんですが、自然の流れの一つだと想いますので、自然には逆らえないと私は納得することにしました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
おしゃかさまの時代というのは他教団との論争がかなり盛んだったようですよ。おしゃかさま自身は論争は無益としたのか、積極的ではなかったようです。スッタ二パータという経典は初期のものとして、近年になって日本でもひろまったようです。おもしろいのは教団の学生とのやりとりが活写されていて、熱気がつたわってきます。そこでも難かしい話はなく、とにかく自分のまわりに注意せよ、と言ってます。自分の内外、上下左右と、意識の流れというこでしょうか。
また、教団のなかには不心得の者も多くいて、毎日おしゃかさま自身大岡裁判の連続だったようで、ご苦労様といった感じです。

お礼日時:2005/05/06 09:39

 2つのことを質問されているのようなので、分けて答えなくてはなりませんね。



(問1)悟りとは何か?
 この質問にはおそらく誰も答えることができないでしょう。なぜなら、悟りを得ていない者は悟りを理解できないからです。もし、誰か悟りを開いている人がいて、その人があなたに悟りについて説明したとします。もし、その話を本当に理解できたら、あなたは悟りを開いたことになるでしょう。しかし、大抵の場合はその話を理解することはできません。第一そんなに簡単に悟りが開けるなら、世の中は仏陀だらけです。
 ということは、つまり、悟りとは何かと他人にその答えを求めても、おそらく半永久的に満足することはないでしょう。

(問2)仏教における悟りの位置づけの問題
 仏教において悟りは大きく2つに大別することができるでしょう。1つは、自ら悟りを開く道。もう1つは、悟りを開いた人(釈迦)の教えを説く道です。前者、特に禅宗においては、当然、その目的は自らの悟りを開くことにあります。そして、質問者が指摘されているとおり、悟りを得るためには、あらやる知識から解放されなければなりません。そのため、後者の道と異なり、禅宗には中心となる経典はありません。その修行の中心は座禅が主になります。そして、座禅の真髄こそ、無心、つまりあらゆる知識、経験から離れることです。
 それに対して、後者は仏の道を人に分かりやすく説くことが目的です。決して、人々を悟りの道に導くことを目的とはしていません。仏の教えに触れることで、行きづらい世が少しでも生きやすくなれば、それで本望なのです。よって前者とは違い、そこに求められるのは、分かりやすや、親しみやすさということになります。このように、仏の道を解説したものが、種々の経典ということになります。

 結論といたしまして、質問者の疑問、特に問2に関しましては、様々な形がある仏教というものを、1つにして考えてしまったことにあるでしょう。
 
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この回答へのお礼

長文の回答ありがとうございます。
ご指摘のように問いが分れてあるようです。
そうですね、そのひとの悟りの内容はだれにもわかりません。ですから悟った人同士でもほんとうは通じてるか、わからないと思います。古今東西,覚者といわれるひとはたくさんいますが、その境地というのがおおよそ共通項があるらしいです。そのなかでも一体観とか愛とかいうものが感じられるようですね。

わたしが疑問に思うのは、仮に悟ってそのときそういう感じをもったとして、それが記憶に残り、あれが悟りの世界だと思いこむことで、またそれを経験したい、それこそが人生だなどと思ったら、結局おいしいものをまた食べたいというのと何処が違うのか。です。

禅修業中の人には手厳しいと思います。煩悩から自由になり、あるがままをあるがままに生きようとする事は尊いことですが、一部に、悟りこそ大事とする至上主義があるのは、どこかにいびつなものを感じるのです。

本来、我執のよってきたる構造を理解することで、逆らわず、育てず、無視することができれば、自ずと平常心となり、ことさらに修行などはいらぬ葛藤を生むことになりはしないでしょうか

お礼日時:2005/05/05 22:31

「当たり前」のことに感謝出来るのが


「悟り」なのではないでしょうか?

目が見える、、あぁ、ありがたい。
顔が洗える。空気が吸える。ご飯がたべれる。自分の足で歩ける・・・等々。
このあたりまえのことに天地の恵みを自覚してありがたいとわかるのが悟りなのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

まったくそのとうりだと思います。大怪我や病気などのとき、ひとは健康のありがたさが身にしみます。普段は有りがたいなどと言ってると、おかしいと思われます。あたりまえのことをあたりまえに、淡々と行って行くだけなのですね。

お礼日時:2005/05/05 22:00

私は禅修業と何の関係もありませんが、禅には興味


があります、私の調べた範囲では、
禅の目的は悟りを開くことにあります、悟りを開く
とは本来、人が備えている仏性に気ずくこと、見性成仏にほかならないといわれています。
大吾は大きく悟ること、すなわち、修行によって最終的に到達すべきぎりぎりの境地を指すことなのです。
禅は人間が到達できる精神世界の数ある修行のひとつ
の方法でほかに精神世界に到達する方法はたくさんあり、個人個人により皆違うので、自分にあったものを
取り入れるのが良いと思います。(回答になったでしょうか?)
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この回答へのお礼

わたしの疑問は、お釈迦様ははたして悟りが大事だよといったかどうかなのです。彼は確かに悟ったのかもしれないが、すばらしい世界だからぜひあなたも悟りなさいと、いったとは思えないのです。悟りは悟ろうと思うものでなく、我執からすっかり自由になれたときに訪れるものだと思うからです。

お礼日時:2005/05/05 21:52

叔父が禅宗の住職です。


「おじちゃん悟った?」と聞いたら、
「○○ちゃん、悟れないと悟ったときが悟りなんだよ」と教えてくれました。
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この回答へのお礼

うーん、このいいかただとまだ悟りに拘ってる感じですが?つまり、悟れないと悟る?人がいるうちは無ではないと思うのです。禅者から悟りをとったらなにが残るか?

お礼日時:2005/05/05 11:59

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