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釈迦は断食などの苦行に挑んだ上でその意義を否定したといいますが、比叡山の千日回峰行や日蓮宗の大荒行は苦行ではないのでしょうか。

それとも、釈迦が否定した「苦行」と日本仏教の「荒行」は別物なのですか。

A 回答 (7件)

日本の荒行は日本独自のもので、修験道からきているのでしょう。



お隣の中国には荒行をするという修行僧というのは聞いたことはありませんし荒行ともいえる9年座禅をした達磨大師は天竺(インド)の人と伝えられています。

日本にはもともとあらゆる自然には神が宿ると考えられ、とりわけ山をご神体とする神社すらあります。いわゆる山岳信仰ですね

この山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立したのが、山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とするのが修験道です。この修験道を行う山伏の修行は、荒行と多く重なりますね。

修験道の始祖は飛鳥時代に役小角がはじめたとされ、最初は厳しい修行の末にで神通力を得るというものでしたが、そのうちに修験道は天台宗と真言宗に組織化されていきます。しかし明治時代になると修験道そのものが禁じられますが影響は残ります。

おそらく比叡山(天台宗)の荒行はこの修験道の名残でしょうし、日蓮宗の荒行は、日蓮宗発足当時に盛んだった真言宗などに対抗する意味もあったように思われます。
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> 日本仏教の「荒行」



中国には「荒行」という熟語で、修行を連想させる語はないようです。
日本で「修行」と現在いうものに、修験が「超能力の獲得を目的とする行」があるのですが、以前は「荒行」という言葉は使って表現することはなかったらしいです。
日蓮宗の関係者は「荒行」という熟語を多く使います。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://www.nichiren.or.jp/glossary/id99/
元々、難行・苦行とは人間自然の欲望を抑えて精神力を鍛えることを目的としていました。饒舌を抑えて沈黙の戒となり、食欲を抑えては断食、性欲を抑えては禁欲となります。人はこれらに耐えて精神力を涵養しますが、さらに積極的・人為的に肉体を苦しめることを奨めました。
例、灼熱の太陽の下で火を焚き暑さに耐える。真冬に水に籠もって寒さに耐える。
それらが発展し「荒行」となり、これらの身体的苦痛に耐える間に強度の神秘力や神通力を己の内に蓄積すると信じられていました。
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神秘力や神通力などを獲得することが目的なので、修験の方法を真似て・取り入れていったのが「荒行」というのが、日蓮宗の考えなのでしょう。
http://www.nichiren-saga.jp/specialedition/aragy …
日蓮宗で「荒行」を連発したので、修験の方でも、負けじ!と「荒行」といって、千日回峰行を喧伝するようになったのでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95 …

塩沼亮潤という方は、「テレビ番組で酒井雄哉師を観て千日回峰行に憧れる。1986年に東北高等学校を卒業後、資金を貯めて金峯山修験本宗管長五條順教に師事し、1987年5月6日に総本山金峯山寺で出家して修験行院に入る。2年後に正行院に入りさらに2年後に大行院に入る。1991年5月3日の戸開けから百日回峰行に入り、8月10日に達成する。1992年5月3日から千日回峰行に入り、1999年9月2日に金峯山史上2人目となる千日回峰行を達成する。2000年9月28日から四無行を満行し、2006年に八千枚大護摩供を満行した」のだそうです。

修行といっても、苦から脱却とかを目指すのではなく、自分の出来る上限を上げることにチャレンジすることが 目的化しているので、宗教といってもちょっと種類が違うような気がします。
日蓮宗の「荒行」も、「祈祷の修行の加行」という位置づけで、祈祷のパワーを得るため、あるいは祈祷のパワーや弘法のパワー獲得のために行うようです。大学院の修士研究や博士研究のようなものでしょう。
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ブッダの死後日本に仏教が入ってくるまで、幾多の変遷があった。


いちばん大きいのは上座部仏教と大乗仏教の分離だが、この2派にとどまらず日本国内だけでも10を超える宗派が入り乱れている。
キリスト教やイスラム教のように教義の統一を図る努力はそれほどなされない。
いちばん新しい仏典は日本で大正時代に編まれた。

ブッダ自体が「対機説法」の人だった。
人に合わせて説き方を変え修行法を変えた。
法華経の中にも
「目の前の人に合わせて、ある人には四諦を説き、ある人には六波羅蜜を説き、ある人には八正道を説き・・・」
という文言がある。

仏教の本質は「変化」である。
いくら素晴らしい教えがあっても、人に合わなければ意味がないし時代に合わなければ意義がない。
人と時代に合わせて説き方を変え修行法を変えてゆく。
それが「諸行無常」「諸法無我」を教義に掲げる仏教の在り方である。

要は「涅槃寂静に至る」ことである。
そこに至れるなら、御殿場口から登ろうが吉田口から登ろうが問題ではないのである。
自分に合った道を登ればよい。

仏教は「こうせよ」とは言わない。
ブッダは「自灯明、法灯明」と言った。
「自分を拠り所にし、法を拠り所にしなさい」
ということである。
神に委ねそれを絶対の真理とするキリスト教とは、そこが決定的に違う。
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No.3です。



日蓮大聖人亡き後に、日興が身延を降り富士大石ヶ原に日蓮正宗を築く経緯を下記に示しておきます。



【身延離山】
1. 六老僧
① 日昭 弁阿闍梨
② 日朗 大国阿闍梨
③ 日興 白蓮阿闍梨 
④ 日向 佐渡阿闍梨
⑤ 日頂 伊予阿闍梨
⑥ 日持 蓮華阿闍梨

2. 背景
身延に草庵を築いた日蓮、日蓮門下は、宗門として幕府より認めて貰っていない事もあり、その生活を数少ない信徒の布施で賄っていた。しかしながら、身延の草庵での暮らしも弟子が増えるに従って、信徒の布施だけでは賄いきれなくなっていた。その為、日蓮の身辺の世話をする弟子を残して、多くの弟子が鎌倉あるいは駿河への活動拠点を移し弘教・生活をしていかざる得なかった。

3. 身延離山
身延の地頭波木井実長と学頭日向による、宗祖日蓮大聖人の教えに背く数々の謗法によって、第二祖日興上人が身延山久遠寺を離山して正応二年(1289年)春に駿河の国(静岡県)富士郡上野郷に移られたこと。

① 日興上人の身延入山
弘安五年(1282年)十月、日蓮大聖人御入滅にあたつて一切の付嘱を受けた日興上人は本門弘通の大導師として一宗の総貫主に就かれ、身延山久遠寺の院主別当となられた。弘安五年十月二十一日、大聖人の御遺骨を奉じて池上を出発され、十月二十五日に身延山に帰山し、弘安六年一月に百か日忌を修された。しかし、百か日忌以降、五老僧は身延には登山せず、墓所輪番も行わず、自然に身延を捨てた形となった。したがって、日興上人とその弟子のみが身延山を守るようになった。

② 日興上人と波木井実長の関係
波木井実長(日円)は南部三郎光行の六男で波木井三郷の地頭だった。甲斐源氏の南部の一門で四十九院の関係によって日興上人から折伏を受け入信した。

③ 日興上人と五老僧の関係
大聖人から本弟子と定められた六老僧の中の五老僧は、次第に日興上人から離れ、墓輪番制も守らなかった。日興上人はその怠慢を責められて、警告を発せられている。美作房御返事には「何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候いて、鹿かきせきの蹄に親り懸らせ給い候事、目も当てられぬ事に候・・・・・・師を捨つるべからずと申す法門を立てながら、忽ちに本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難に術なく覚え候」と述べられている。また五老僧は、日興上人が立正安国論の反響や幕府への運動の状況を知りたがっていたにもかかわらず音沙汰もなく、全く没交渉になっていた。そのうえ、五老僧は世間に迎合して天台沙門と名乗るなど日蓮大聖人の教えに背いていった。

④ 民部日向の登山
弘安八年(1285年)ごろに民部日向が登山してきたため、日興上人も喜ばれて学頭職に迎えたが、鎌倉風の世間に迎合して軟化した教学を身につけていた日向は、波木井実長に四箇の謗法を許した。日興上人は再三、戒められたが聞き入れず、それが身延離山の大きな原因となった。

⑤ 身延離山の動機
1. 波木井実長(日円)の信心
波木井実長は鎌倉に在住していることが多かったため自然に鎌倉の軟風に染まり、立正安国論の厳戒についても、ゆるやかに考えるようになった。特に日向が学頭になると弱信の姿が現れ始めた。
2. 波木井実長の謗法
身延離山の根本原因は日向が認めて波木井実長が数々の謗法を行ったことによる。原殿御返事には「総じて此の事は三の子細にて候。一には安国論の正意を破り候いぬ。二には久遠実成の如来の木像最前に破れ候。三には謗法の施始めて施され候いぬ。」と述べられ、また同書に「この事共は入道殿の御失にては渡らせ給い候はず、偏に諂曲したる法師の過にて候えば」と指摘されている。また富士一跡門徒存知の事には「一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道は日興最初発心の弟子なり、この因縁に依って聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後その年月義絶する条条の事。釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ(福士)の塔を供養奉加・之有り是三。次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云々。此の義に依って去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ」と実長が犯した四箇の謗法が明かされている。

⑥ 身延離山の決意
学頭日向は地頭・波木井実長に謗法を行わせたのみでなく、絵曼荼羅を書かせたり、一日一夜の説法をして布施を受けたり、大師講で学頭として読み上げる啓白文で国禱を行っている。そのためついに日興上人は謗法の地には住まずとの大聖人の御遺命を守って身延を捨て、清浄の勝地を選んで移る決意を固められた。

⑦ 身延離山の経過
正応二年(1289年)春に本門戒壇の大御本尊をはじめ大聖人の御遺骨、御本尊、御書等の重宝を奉持して身延を離山された日興上人は、駿河の国(静岡県)富士郡河合へ立ち寄った後、南条時光の懇請により上野郷の南条家に入られた。そして翌正応三年(1290年)十月に大石ヶ原に大坊を建立して移られた。

4. 身延相承書
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらめべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日                日蓮 在御判
                          血脈の次第 日蓮日興

5. 池上相承書
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日               武州池上
                          日蓮 在御判
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>比叡山の千日回峰行や日蓮宗の大荒行は苦行ではないのでしょうか。



苦行です。

仏によって『法』が示された今、荒行をしても無意味です。


因みに、、、

★天台宗は、第二代円澄、第三代円仁の世に真言宗の教義を取り入れて、天台宗を邪宗としてしまいました。よって、功徳はありません。

★日蓮宗は、身延の地頭:波木井実長と日向がでたらめな本尊濫用の末に築き上げた宗派で、これも邪な教えです。もちろん功徳はございません。
中国製の偽物ブランド品のように、見た目は似ているけれども語るも犯罪といったレベルです。人々をだまして金を取るなんて言うのは、日本の仏教というよりは統一〇〇さながらの悪法です。
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釈迦は山にこもって6年間の苦行をし、このまま続けても


悟りは開けないと判断して、山を下り栄養をとって瞑想に
入って悟りました
釈迦は、苦行がダメだと言ってるのではなく、苦行だけでは
ダメだと言っています

釈迦のような優れた人でさえそうなので、我々のような凡夫は
なおさら楽をして悟りは開けません
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苦行したところで体が蝕まれ妄想しか浮かばないでしょう。

千日回峰のドキュメンタリー見ましたが何のありがたみも感じませんでした。マウント取るためでしょう。幼稚です。
日本仏教は仏陀の教えとまったく違うと思います。お釈迦さんの教えは現実はどうにもならない諦めよです。
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