重要なお知らせ

「教えて! goo」は2025年9月17日(水)をもちまして、サービスを終了いたします。詳細はこちら>

電子書籍の厳選無料作品が豊富!

 じつはこれは、2007/2/20 20:00の「1+1はなぜ2なのか?」に投稿しようと思っていた内容なのですが、質問者さまが混乱するのでは?と思い、あらたな設問にしました。どちらかというと、上記質問への回答者の皆様への問いかけです。「1+1はなぜ2なのか?」と根は同根と思うので、真似して書きます。

 大学で、実数はなぜ連続なのか、ということを学ぶと思っていました。でもそうではないとわかりました!。

 事情はこうです。コーシー列による実数の構成を本当に理解した時には、「ふざけんじゃねぇ~ぞ!」という気になりました。収束して欲しい有理数列の同値類の全体を、その収束先とみなすからです。これはこれで、何一つ文句はつけれませんが、「こんだけ理解さすのに苦労させながら、出てきたものは結局これかい?」という気持ちが先に立ちました。これでは、物理的現実として本当に連続体があったとしても、何故それが連続であるかの根拠を何一つ示していないような気がしたからです。完備性を根拠にするのは認識論的には妥当だとしても、完備性が、数学的連続体と物理的連続体(それが現実にあったとして)との対応を保証するようには見えなかったからです。
 この手の質問の真意の底には常に、「数学の現実世界への適用を可能とする、存在論的権利根拠を示せ」という思いが、やっぱり含まれていると思います。だから、いくらペアノ公理系を丁寧に説明しても、質問者には、何か釈然としない思いが残るように思えます。皆さんの意見は、どうでしょうか?。もちろん存在論的根拠に対する答えは、ないと思いますが・・・。

A 回答 (11件中1~10件)

>「数学の現実世界への適用を可能とする、存在論的権利根拠を示せ」



「数学」にせよ「自然科学」にせよ「現実世界への適用を可能とする」かのように見えるのが曲者です。
おまけに「現実世界への適用可能」ということと「現実世界に存在する」ことは違います。
私見では、「数学」も「自然科学」もバーチャル・リアリティです。
実数という「バーチャル・リアリティ」を理詰めで考えていけば、「連続」な体系を構成せずに話を進めるのが不可能に
なるのは当然だったと思います。

哲学的論議は当方の鬼門にあたりますが、少数意見でもなさそうなので一言だけ.... 。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 質問の文面からは意外かもしれませんが、この意見には大賛成です。こういう事を思うのは、自分だけなのかな?と、ちょっと危惧していました。ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/24 13:52

追記:


連続とは不連続的な区画によって明確に分割が可能でない際に用いられる概念である。このほうが連続の定義としては明確ですね。連続を既に仮定した数直線は出てきません。

不連続的な間隔は人間の論理性と非常に良く合いますが、連続は会わない。

物理現象においても不連続的な描像が成り立たなくなると、連続的な描像が成り立つんですね。例えば張力や応力などは幾何学的に、粘性は時間分解能的な問題から、不連続的な描像では記述が不可能となりますね。

面白い質問でしたし、他の回答者の方の異見も楽しめました。
    • good
    • 0

物理的連続性が保証されないのは物質の根源が云々という話に落ち着きますが、そうであっても確率や分布などの概念は量子化が行われた後でも連続的であるとされますし、運動量に相当する演算子も連続が定義されないと保証されない量として偏微分が出てきますね。

一概に全ての真相が不連続性であるとは言えないかと思います。

逆に数直線上の議論において連続性に疑問を抱くということは、数直線を、仮定あるいは定理あるいは定義あるいは公準としている事を見落としているのでは無いかと思いますが如何でしょうか?

連続に関する極限的な議論自体も一見つじつまがあっているようで、実際は不連続に領域を分割している事から、連続という本質を見失っているという可能性も否定できませんね(出来るのかも知れませんけども)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>数直線を、仮定あるいは定理あるいは定義あるいは公準としている事を見落としているのでは無いかと思いますが如何でしょうか?
 それはわかっているつもりなんです。でも、なお残るんです。釈然としない思いが。私はもう結構な歳ですから、このような事には慣れっこです。でも「1+1はなぜ2なのか?」という中学生時代の気持ちは、きっといくらペアノ公理系を説明されても納得できるものではありません。言ってしまいますが、そのような気持ちを「あんまり冷酷に切り捨てないで下さい」という事です。お願いします。

お礼日時:2007/02/25 15:52

人は何のために数学を研究するのでしょうか。



もちろん、個人レベルでは様々な動機があるのでしょう。
しかし、数学の研究に国家や企業が予算を投じているのは、現実世界との接点があるということの間接的な証拠のように思われます。

確かに、現実世界を抽象化してとらえ、その抽象概念だけを使って、現実にはありえない世界も射程に入れた論議をするのが数学の仕事です。

けれども、その成果が、意外なところで現実の役に立ってしまうことがあるのが不思議なところです。

昔読んだ本の印象的な内容を書きます。

 数学者は現実世界に合わせた数学理論を研究する。それは、洋服屋が客の体型に合わせて洋服をつくるようなものだ。
 しかし、客が無いときでも、洋服屋は「こんな体型のお客が来るかもしれない」とレディメイドの服をつくる。
 それと同じように、数学者も、現実世界を離れて独自の数学理論を研究するものだ。
 売れるかどうかはわからないが。

「物理的連続体が存在している」のは錯覚ではないと思っています。
存在する場面で実数の性質を知っていることが意味を持つから、実数の研究は「必要」なのでしょう。
そして、そういう場面が多いから、教育現場では、虚数に入る前に実数の勉強をていねいに取り組むのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 確かに印象的な内容だと思います。「物理的連続体が存在している」のは錯覚かもしれない、というのが私の思いです。それで「物理的連続体が(あったとして)」という物言いをしました。なので、例えばn次元や無限次元の直交基底、つまりヒルベルト空間については、洋服屋のたとえ話がとても素直に納得できますし、それが数学の本来の一つの任務ではないかと思っています。

お礼日時:2007/02/25 15:39

原子は分子モデルのような粒粒の


世界観を数学に反映したモデルは
超準解析
だと思います。
 感覚的には
実数が粒粒になっているように見えます。
古い世界観を反省した実数が連続的で
量子力学的世界観を反省した実数は
粒粒です。
もちろんそう感じただけですが。
ロビンソンのNon standard analysys
はいががでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 物理的宇宙が、量子化されているかどうか?、そこまでの話になるとは正直思っていませんでした。そこまで踏み込む気はなかったのですが、確かにペンローズは、現在の集合論や実数論が不十分だと言っていた気はします。
 超準解析についてですが、かなり違う感覚を持っています。カントルの対角線論法を調べていた時ですが、対角線背理が成り立つ本質的理由は、実数の無限小数展開の桁数が、可算無限に制限される事にあると思いました。可算無限を超える展開を許したときに、超実数が現れるのかな?、と思っています。
 現在、Non standard analysysを読める状態にはありませんが、いつかは読みたいと思っています。その時に、このようなお話を再びできれば、幸いです。

お礼日時:2007/02/25 15:16

Q:実数はなぜ連続なのか?


A:そう定義したから。

”実数”というものが元々存在しているのではなく、人間が作った架空の概念です。犬を犬と言ったり、水を水と言うのとは違います。それを現実のものと対応させようと躍起になると、無駄な疑問が湧き出します。
人はそれを哲学という

この回答への補足

>犬を犬と言ったり、水を水と言うのとは違います。
その通りだと思います。

>無駄な疑問が湧き出します。人はそれを哲学という
 次の例はどうでしょうか?。実数の構成には、代表的なところで、デテキントの切断とコーシー列による構成の2つがあります(考えようによっては、無数にあります)。この2つは、次の構成原理に基づくと思えます。

 (1) デテキントの切断:順序構造の位相的性質に基づいて、実数体の連続性を示す.
 (2) コーシー列による構成:人間が可算操作以外はできないことに基づき、実数を定義し完備性を示す.

 (1)と(2)は論理的には同値ですが、原点のアイデアがよって立つ土俵、敢えて言いますが、その存在論的根拠は全然別物と思えます。あくまで数学内部に限った話ではありますが、このような哲学的議論は可能であるし、このような理解は、数学を理解するのにも役立つと思えます。これは違うでしょうか?。

補足日時:2007/02/24 14:40
    • good
    • 0

数学は自然界や現実世界の真実を探求するためのものではありません。


同じことですが、数学は科学ではありません。
(科学は、なんらかの対象の真実を明らかにするため、仮説を立て、実験し、
 反復して検証や反証が可能な手続きだと考えています)

数学は、勝手に考えたルールの下で、そのルールに従ったとき導き出される
性質を研究するもので、その世界と現実世界を結びつけることには数学者は
興味を持っていません。
数学の世界でルールを構築するとき、現実世界で成り立っているだろうルール
を参考にすることが多いですが、あくまでも参考にするだけで現実を再現する
ためにしているわけではないのです。

おそらく、量子論などで明らかになりつつあるよう、現実世界は連続ほどべったりした
世界ではなく実は離散的な世界なのかもしれませんが、数学からみれば
そんなことはどうでも良いことです。

自然数の加法で、1+1が2であることはしかるべき公理と、それなりの定義
によって証明できることですが、右のカゴのりんご1個と、左のカゴのりんご1個とで合
わせて2個になることは数学の対象ではありません。

2つのカゴに入っているりんごの合計の個数を求めるのに、自然数の加法を適用すれ
ば良いというのは「法則」であって、数学の世界では決して示されることはありません。

この回答への補足

>数学は自然界や現実世界の真実を探求するためのものではありません。同じことですが、数学は科学ではありません。
 御幣を恐れずに言えば、自分は数学も一種の実証科学だと思っています。
[数学は、なんらかの対象(それには関係も含まれます)の真実を明らかにするため、仮説(数学的理論予想)を立て、実験(例えば数値実験)し、反復して検証し(反復して証明をやり直し)、反証が可能な(反例が可能な)手続きだと考えます]

>数学は、勝手に考えたルールで、その世界と現実世界を結びつけることには数学者は興味を持っていません。
 たぶん職業数学者はそうですよね。でも、そうでない人もいらっしゃいます。ただ回答者様の意図はわかります。

>数学は現実を、あくまでも参考にするだけで現実を再現するためにしているわけではないのです。
 職業数学者の意識としてはそうかもしれません。しかし微妙にずれるかもしれませんが、この意見には承服しかねます。何故なら「公理的ごみ屑」という言葉があるからです。数学は10数世紀にわたって、現実世界の要求により鍛え抜かれた学問です。結局、数学内部においてさえ「公理的ごみ屑」であった理論は、現実への応用においても「ごみ屑」であったように思えるのですが、違うでしょうか?

>「超数学法則」は、数学の世界では決して示されることはありません。
 超数学は私が勝手につけましたが、上記はわかっているつもりです。

補足日時:2007/02/24 14:37
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 すいません。忘れ物があったので、ここに書きます。

 無限公理を、どう思われますか?。私は無限公理は、「人間は有限操作しかできない」という物理的現実を認めた、数学では珍しい現実世界を考慮した公理に見えます。珍しいから、一見数学は物理的現実世界と無関係に見えますが、最終的には現実とは無関係ではいられなかった事の証左ではないのでしょうか?。それが現代数学の基礎に横たわっています。

お礼日時:2007/02/24 15:16

きっと現実世界にも「連続な実体」があって、我々は直感的にその存在を知覚しているのだと思います。


なぜなら、これだけの人間がいながら「連続体」と聞いて思い浮べるものに大きな差異はないように思われるからです。

しかし、数学的な議論を進める上ではその「共通認識」を何らかの形で定式化する必要があります。その一つがコーシー列による「定義」です。

ただし、数学者とてコーシー列の同値類として実数を把握しているわけではなくて、そのように定義した「数学的実体」が各人の直観の中にある「実数体」と齟齬がない(例えばデデキントの切断が成り立つ)ために、その定義をもって実数としているということだと思います。

数学者にとっては、物理学への適用もその直観に対する齟齬がないことを確認する一つの材料でしかないのでしょう。あとは物理学者さんのお仕事。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 どうでもいいような質問に、回答ありがとうございます。同意見です。

お礼日時:2007/02/24 14:06

実数の連続性の議論として、最も根っこにあるのはデデキントの切断


ではないでしょうか。
実数全体Rを、次の条件を満たす2つの空でない集合AとBにわける。
・R=A∪B、A∩B=φ
・Aの各数は、Bの各数より小さい。
これを実数の切断(A,B)と書く。
このとき、次の3つの場合が考えられる。
(1)Aに最大数があり、Bに最小数がない
(2)Aに最大数がなく、Bに最小数がある
(3)Aに最大数がなく、Bに最小数がない
(Aに最大数があり、Bに最小数があるというのは、A∩B=φに反する)
(3)があり得るとすると、新しい数が定義できることになるが、
これは、あり得ないということをデデキントが証明した。
(詳細は知りません。)

これを基にして、アルキメデスの公理もつかって、区間縮小法の原理、
上限・下限の存在、単調有界数列の収束などが出てくるのではないでし
ょうか。そして、これらは同値だということも示される。

その上で、有界数列の集積点の存在(ワイエルシュトラスの定理)、
収束列=コーシー列が出てくるのだと思います。

詳細な証明などは忘れましたが、たぶんどこから始めても同値なのだと
思います。実数においては連続と完備ということが同じだったかな?
もうここまで原点に戻って考えれることはなくなったので、詳細は忘れ
ましたが。

あまり気になるようでしたら、デデキント関連で調べてみると良いので
は。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 どうでもいいような質問に、回答ありがとうございます。

 私の勝手な言い方「存在論的根拠」に対して、デテキントの切断方式は、はなからそれを相手にしない公理方式であることは、初見でわかりました。そういう意味では、デテキントの切断方式を我慢して読み通し、もう少し現実に近そうなコーシー列方式に期待しました。
 過去質問「1+1はなぜ2なのか?」を読んだときに、まさに中学生時代の気分を思い出し、この質問に及びました。いずれにしろ、ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/24 14:03

質問者さんは一番初めの部分で間違っているんじゃないかと思います。


そもそも物理的現実としての連続体など存在するのでしょうか?
連続体なんてものは理論構築に便利な道具、物理的現実に対する近似物(モデル)なのではないですか。
実数が連続なのは正に連続だと便利だから、数直線上に穴が開いていると理論構築が面倒だからでは? コーシー列が全て収束するようにしても矛盾しない。だから実数はそういう性質(完備性)を持つように構築した。それだけのことでは?

この回答への補足

 この手の質問は、なかなか真意が伝えるのが困難だなと思いました。「どうでもいいような事なんですが」と質問冒頭に書けばよかったと、今では反省しています。
 もともと物理的連続体があるとは思ってません。それが仮にあったとしても、実証される日が来るなんて事も信じてません。数理解析を行う上での便利な道具として実数は導入された。それはわかってるんです。ただそうやって導入された道具が、余りにも上手く現実に適用されるように見える(そりゃそ~だ。そういう風に作ったんだから・・・)。
 そういう時に、本当に物理的連続体が存在しているというような錯覚を抱かないのかな?(自分は良く抱きます)と質問してみました。過去質問「1+1はなぜ2なのか?」と同根とは、そういう意味です。

補足日時:2007/02/24 13:17
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!