お世話になります。
伝教大師最澄の高弟泰範が、弘法大師空海の下に派遣された後、最澄の下に戻らず、そのまま空海の弟子となった、いわゆる「泰範事件」に関して、いくつかわからない点・知りたい点がありまして、投稿しました。よろしくお願いします。
(1)入唐前の空海と泰範の接点について
南都出身の泰範が、入唐前に南都あたりを中心に動いていたと思われる空海を知っていた、あるいはなんらかの接点があったのではないかという説・考え方について、実際のところはわからないものと思いますが、可能性としてはどうなのでしょうか。説として無理はないものでしょうか。
(2)転宗後の泰範への反応について
泰範は後に空海の下で活動するわけですが、完全に転宗した後の泰範に対する最澄や天台宗側の反応や評価などは伝わっているのでしょうか。
(3)「事件」なのか?
当事者を除いた、南都の僧侶たちや当時の文化人たちが、この一件をどう見ていたのか、何か記録されているのでしょうか。
「宗派」形成前夜であり、南都では兼学が当たり前だったこの頃、泰範事件は当事者以外には、どれぐらいの大きさと重さがあったのでしょうか。
(4)結局のところ、泰範の真意とは・・・
実際のところ、泰範の真意はどういうところだったのでしょう。「ついていけなくなった」?
情報、ご見解をお持ちの方、もちろん項目一つでも構いませんので、お願いいたします。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
回答の補足をさせて下さい。
教義と書きましたが、私は密教の部分において、空海の密教がその時点では最澄の密教に優っていたと考えています。実際、最澄は密教については、空海から灌頂を受け、書物を借りて勉強しています。その後、両者の仲が悪化した為、それ以上、空海から学ぶ事ができず、天台宗では密教の充実が問題となっています。後に慈覚大師円仁と知証大師円珍が中国に留学し密教を学んできた事により、天台宗の密教は完成していきます。
つまり泰範は完成した天台宗の密教には触れてない訳です。それ以前に空海に師事している訳です。師事した時点では天台宗には不完全な密教しかなかったと考えます。もともと泰範が空海のもとを訪れたのも、密教を学ぶためだったと聞いています。空海の密教に魅せられたのではないかと私は考える訳です。
組織について言えば、真言宗は天台宗に比べ無いも同然だったでしょう。だからこそ泰範はそこに希望、あるいは夢を見たのではないかと考えています。空海の下で一から理想の組織を築き上げる事ができる、目指す事ができると考えたのではないかと思うのです。だから高野山開創にあれだけ尽力したのではと考えるのです。
天台宗の内部紛争に失望して一度は隠遁した泰範ならば、そういう考えを抱いても無理はないと思うのです。
もう一つ考慮したいのは、他宗に対する姿勢です。泰範が天台宗にいた時は、まだそれほど激しいものではありませんが、最澄は後年、奈良仏教に対し「対決姿勢」をとります。一方の空海は「融和姿勢」をとっています。もしかしたら、こうした姿勢にも泰範としては考えるところがあったのではないでしょうか。泰範は内部紛争が嫌で隠遁するような性格の人です。最澄の奈良仏教に対する「対決姿勢」とは相容れない人だったのかもしれません。
結局、遥か昔の人の事なので、残念ながら確実なところはわかりません。
再度のご投稿感謝いたします。
「密教」という点に関しての状況は、おっしゃる通りだと思います。
どうしても自分が、「泰範が密教に魅了された」という見方を留保してしまう(反対というわけではない)のは、泰範は内部紛争に「失望した」というより、すでに「帰るところをなくしていた」のでは?と思うからで・・・同じことか・・・(苦笑)
確かに昔のことですしねぇ。泰範自身の著作がないですし・・・残さなかったのか、残せなかったのか、著作はあるが散逸したか破却されたのか・・・晩年の消息もわからない・・・
よほどの資料が出てくるでもしないと、わからないままなのでしょうね。ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
3と4について、私的見解ですが・・・
私は泰範は、空海に師事する前から天台宗に失望していたのではないかと思っています。その理由は天台宗の教義と組織が未だ未成熟であったからだと考えます。
泰範は空海に師事する前に一度、比叡山を下り隠遁しています。その理由については天台宗内部の紛争が原因との説があります。
また、空海の密教は最澄が灌頂を受けるほど優れたものだったという事実です。
泰範だけではなく、当時は天台宗の年分度者に選ばれながらも、僧の資格を得ると法相宗へ転向する者が多く、天台宗に残る者が少なかったという事実も、その当時の天台宗が他宗に比べいかに魅力がないか、もしくは教義や組織に問題があったかという事を指していると思います。
泰範にしてみれば、天台宗の教義、組織に限界を感じ、または失望していたところに、空海に出会い、その密教に触れ、そこに自分の求めるもの、または新たな希望、理想を見出したのではないでしょうか。
また、空海自身に魅力を感じたのかもしれません。
泰範事件は、当時の仏教界においては、それほど大きな事件ではなかったのではないでしょうか。大きな事件であれば、もっと文献や資料が残っていてもおかしくないと思います。
当時の天台宗は年分度者制の資格を得ても、戒壇は未だ置かれていませんでした。奈良仏教に比べ未だ未成熟の宗派であった事は事実です。その内部での事件ですから、それほど仏教界に大きな影響を与えたとは思えません。
あくまで天台宗内部の事として大事件だったと考えます。
ご回答有り難うございます。
この泰範という人は、わからないだけに興味深いなと思う人物でして・・・
学部的な、違いはあるけど一枠の中という感じの南都仏教だけだった仏教界において、最澄の「対決姿勢」が投じた一石は大きかったのだろうと思うわけですが、それだけに天台宗側もたいへんだったのだろうと思うわけです。
天台宗から南都に戻る僧が出たり、南都出身の泰範が天台から離れたりしたのは、果たして彼ら自身のみの考えによるものなのか??と勘繰ったこともあります。南都側の何らかの天台宗切り崩し工作(?)はなかったのだろうか、と。(←少々妄想入ってます。)
単に「組織」という点であれば、天台宗より後発の真言宗も同様に未熟であったと思いますし、真言宗の教義が完備されていたとしても、周囲がそれを完全に理解できたかどうかは少々疑問ではありますが、桓武天皇の崩御後、天台宗が消沈気味であり、嵯峨天皇の庇護や最新モード(?)の密教修法をもって真言宗が躍進していた時期の「事件」なので、泰範が教義的な違いを見て転宗を決めたという見解も、それも考えないといけないなと思います。
両宗の「教義」がどれぐらいこの一件に関係しているのか、という点は、自分は結局、考えあぐねて留保状態なのですが、泰範が「僧侶であり続けた」という点は、重要だなと感じています。
単に、逃避するなら還俗するという選択肢もあったかと。
後に高野山開創に尽力しているところからして、泰範は、少なくとも、要領よく振る舞って「喰いっぱぐれのない公務員」であり続けようとして僧侶を続けていたわけではないと思いますし・・・
これまで、教義とはあまり関係ないところの「取り巻く状況」に目がいっていたのですが、僧侶であり続けた泰範にとって、教義はやはり無視できない要素なのかな、と感じました。
泰範事件が、当時の周囲にとってあまり大そうな「事件」でなかったというのは、確かにそう感じます。
そうなると、余計に当事者たちの心情が気になるところですが・・・
投稿いただき、感謝いたします。
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