【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ)
2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような)

1)から2)の帰結が肯定されそうですが、

1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、
その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、
と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、
2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった
断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。

1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む)
さらに、
1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか?
このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。
結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。

テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、
宜しくお願いします。

A 回答 (22件中11~20件)

こんばんは、fishbowl66さん。






●三角形をひっくり返す

って、あーた、そりゃぁ ヨダレかけでしょ?


●…悩んでます

って、口あいてます。ヨダレ垂れてます。拭いて、拭いて →※注意喚起



惚けてどうする!!!


状況設定:場所は国会議事堂前あたり、
時は早朝、警備待機の警察官一人、巡回の警察官一人、
通行人の手にはライターとタバコを所持



●不安がよぎる

ならば、こういうのはどうでしょうか?
『むすんでひらいて』を歌う


むーすぅーんでぇ、ひーらぁーいいて、てぇーをぉぉうって、むうすんでぇ~♪
まーたひらいてぇ、てぇーをぉぉうって、その手を~♪


ぷるぷるぷる


その手は頭にもってっちゃダメダメ


なぜ?


状況が状況、頭の上に手をもっていけば…その手には何を所持していましたっけ?ライターとタバコでしたよね?近くには誰がいましたっけ?ましてや、その場はどんな場所?警察官には注意義務がありますよね。みせびらかすように高らかにライターとタバコをちらつかせれば、挙動不審と職務質問もしくは職務妨害したとしてしょっぴかれるやも。李下に冠を正さずです。警察官には注意する義務がありますから、その義務を怠れば注意義務違反と職を問われかねない。おおごとにならん先に時と場所を通行する人も気づかいせんと。角つき合わすはめになったらえらいこっちゃぁ。



では、その手はどこへ?


あーた、それはやっぱヒザでしょー


ヒザのばしたまま腰曲げて、手をヒザにもっていけば…腰がイテッ、テテテと。すかさず腰に右手をあて、さするさするさする。決して不自然ではありません。トシですから自然です。危機回避。朝の体操。

【リスクヘッジとリスクフリー】
http://teiiyone.com/blog/2006/11/post_41.html

【ポートフォリオ】
http://teiiyone.com/blog/2006/10/post_4.html


http://www.mhlw.go.jp/shingi/0102/s0207-3f.html

http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0903/h0331-4.html

この回答への補足

お礼の続き
根本的に、もしユートピア主義者でないなら、あなたはまぬけでしかない。
ジョノソン・フェルドマン
(アナーキスト人類学のための断章 デヴィット・クレーバー)

2003年に邦訳が出されたインドの女性作家アルダティ・ロイの反戦エッセイ集「帝国を壊すために」に収められている第一のエッセイに「貨幣」論という点で非常に興味深いエピソードが紹介された。・・・、タイトルは「無限の正義という名の算術 The Algebra of Infinite Justice」である。・・・
「無限」に相当する英語の〈infinite〉は、数学用語としては、微分・積分における無限小や無限大、あるいは無限集合などを表現するのに用いられる。高校の時に習うことを簡単に復習すると、近代数学では、本当ならその「定義」からして、足したり引いたりできない「無限なもの」を計算するためのルールを発展させてきた。無限に小さいyの値の増加分(Δy)を、これまた無限に小さいxの値の増加分(Δx)で「割る」ことによって有限な値が導き出されるというのは、よく考えてみれば訳の分からない話であるが、高校の受験勉強ではあまり突っ込まないでそのまま受け入れるよう教えられる。・・・こうした言葉のニュアンスを念頭において、「無限の正義という名の算術」というタイトルを理解すると、「その価値が有限ではないので、本来なら数値化して足したり引いたりすることが不可能なはずのものを、何らかの特殊なルールを用いて計算可能であるかのように装うテクニック」ということになるだろう。・・・ロイはエッセイの中で、そうした「命の勘定」の例として、オルブライト元国務長官の発言を引き合いに出している。

1996年に、当時アメリカ合衆国の国連大使だったマデリーン・オルブライトが、アメリカ主導の経済制裁の結果、50万人のイラクの子どもが死亡した事実をどう思うかと聞かれて、テレビの全国ネットで、こう答えた。それは「たいへん難しい選択だった」が、あらゆることを計算に入れれば、「払うだけの価値がある代価だった」と。オルブライトがこのような発言で職を解かれた、という話、どなたか聞いてます?彼女はその後も、アメリカ合衆国政府の意見と希望なるものの代表者として、世界中を旅して回っていますね。より重要なのは、イラクに対する制裁がいまだに継続しているということ。子ども達はしに続けている。(『帝国を壊すために』)

「50万人のイラクの子どもたちの死」が「払うだけの価値がある代価だった」というのは、答えに窮しての開き直りだとしても、すごい言い方である。(お金に「正しさ」はあるのか 仲正昌樹)

以上の諸事例から、百姓らのさまざまなたたかいにたいして領主らは、張本の処罰という対応策をとったこと、しかしながら、その張本は百姓ら全員によって固く守られ、容易には処罰できなかったことが明らかになったといえよう。
ひるがえって第七条に目を転ずれば、当条でもまた、地頭の処罰(追放)を受けている百姓の代表四人が、「これら御領に安堵して候わば、百姓御公事を仕り候とも、いかが百姓喜び候わん」とあるように、阿弖河庄百姓らによって強く擁護されている。当条から、張本を守る阿弖河庄百姓のたたかいを読み取ることができるだろう。
ところで、こうした張本を守るたたかいは、どのような意味をもっているのだろうか。中世の村について、その自力=基礎体力の解明が重要であるとみた藤木久志は、村の身代わりとして処罰された犠牲者に、万雑公事の免除や苗字の付与などの手厚い補償体制が村によってとられていたことをあきらかにした。例えば、元亀元年(1570)、近江国神崎群伊庭の「惣中」は、村の代表して織田信長の人質となった家にたいし、その代償として永代万雑公事免除の権利を与えたという。そして驚くべきことに、この家のかかり物一切の免除は、明治に至るまで続いたというのだ。(ミミヲキリ ハナヲソギ 黒田弘子)

婦人の堕胎
堕胎はすでに伴天連が渡来してきたころから、日本では頻繁に行われていたようである。
ある婦人たちは、出産後、赤児の首に足をのせて窒息死せしめ、別の婦人たちは、ある種の薬草を飲み、それによって堕胎に導く。ところで堺の市は大きく人口が稠密なので、朝方、海岸や濠に沿って歩いて行くと、幾たびとなくそこに捨てられているそうした子供たちを見受けることがある。もし母親が、出産後、捨てようと思う赤児に対して、なお幾ばくかの人情味を示そうとするならば、彼女らは赤児たちを岸に置き、潮が満ちてその児らを完全に殺すようにするか、それとも濠に投げる。そうすると通常は犬が来てそれらを食べるのである。(フロイスの見た戦国日本 川崎桃太)
前回のお礼に続く

補足日時:2007/05/25 22:35
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この回答へのお礼

大変遅くなりました。
一番の問題は、例の参考ページ、証券会社のものでしょうか、
これは、以前もご紹介いただいたのですが、
正直な所、あまり関心がないのです。
で、にもかかわらず、再度のご紹介、如何なものかと。
ひょっとして、お仕事の関わりとか、余計な思案を巡らして、
正面から、リスク管理のあれこれも、あまり意味の無いことで。

そこで、熟慮の結果、今回お礼が遅れたのは、多忙と言う事で押し切ろう。
今月、読みかけた本。
1)「零度のエクリチュール」バルト
2)「複製時代の芸術」ベンヤミン
3)「地下室の批評家」ジラール
4)「アナーキスト人類学のための断章」グレーバー
5)「お金に正しさはあるのか」中正昌樹
6)「ミミヲキリ、ハナヲソギ」黒田弘子
7)「フロイスの見た戦国日本」川崎桃太
8)「村と領主の戦国世界」藤木久志

1~3は、相性が悪く、1)だけは、再度読み直す事とし、他は、目次と解説でお引取りをお願い。
4~8は、概ね通読、ただし、5)は少々引っかかって、読み直しの為、保留。
そのうち、6)の鎌倉時代の農民による六波羅への御侘言と言いますか「片仮名申状」、たった13条から成る片仮名書きの文章を、300ページ以上の詳細な研究、大変勉強になります。
網野史観に一部異を唱えつつ、片仮名・平仮名・漢文の使い分けを、階級的に説明、網野片仮名表音説と比較して、若干、黒田説が優位なのかと思いつつ、芋づる式に8)へ。
此処でも、網野史観の影響があるものの、律令時代の「出拳(すいこ)」による、利息の起源らしきものと、戦国期に至る、無利息の預け物や利息に対する嫌悪感の存在、はたまた、村ぐるみの治安の為の処刑と保険システム、等など、社会的経済的秩序の成立過程を「村の自立」を通してお勉強。三角形のよど掛も何処へやら。

お礼日時:2007/05/25 22:34

お礼文ありがとうございます。



函数関係に解消して理解する方法がない。
⇒函数関係に解消して理解するしか方法がない。
訂正させていただきます。

2は間違いだとは思いませんが、少なくとも1には自然は延長であるというデカルトの2元論が背景にありますよね。
精神の仕事は自然を算定量化することであるという。
しかもガリレオは実験、測定から物理的法則という科学的方法を確立した人ですから名古屋弁の何某とは時代背景がまるで違います。
2は科学的思考にどっぷりと慣れ親しんだ現代人の言葉です。

>>人間は直観で世界を把握できないようですから。
などと、皆さん、解決済みと澄ましていませんか、って

解決済みとはまったく思ってませんが、何故人間は言葉でものを定義しなければならないのでしょう。
禅の坊さんでさえものを言葉によって定義するではありませんか。
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この回答へのお礼

毎度、御回答有難うございます。
何処かで、言葉の問題と、口を滑らしてしまったのですが、
本意は、
数学で説明できる=数学で出来ている
この等記号が言語表現としては比喩だから「是非に及ばず」と。


尤も、言葉も抽象化ですから、漏らすものがありますね、
言葉と数字の比較も面白い検討が出来そうですが、
問題山積み、頭の痛いところです。

お礼日時:2007/05/16 18:10

1)2)共に比喩的表現であることは当然のこととしましても「書かれた」と「出来ている」とでは、やはり大きな差があるように感じられます。

確かに
>1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して
いるような印象を受けますし
2)では
>断定的な
言い回しであるような印象を受けます。
>数学で理解するのが容易
と言いましても数学が苦手な場合は、この限りではございませんでしょうが、実は、この方面に至って明るいかたに私の或る発言を数式に置き換え分析されたことがあります。
私というヒトの発言を対象に数式化したわけですが、意外と言うべきか、やはりと言うべきか私の心中秘かに限界を感じさせる結果となりました。
と申しますのは、その数式(けっこうな長大さでしたが)
によって導かれた結論と私の発言時における正直な感情にハッキリと食い違うものを感じたからです。これを、どう考えたらいいのか…当方も数学はサッパリというクチですので云々するのは憚られるのですが、どうもその、数式によって得られるものと、ナマのニンゲンの発言という個別具体性を持ったものとでは次元が違うような気もするのです。
科学においては捨象というプロセスが殊に重要なことでありましょうし数式においても然りではないかと思っておりますが、このあたりで、どうも「取りこぼし」のようなもの(御質問者様のおことばを借りれば「何かしら、はみ出すもの」)が生じるように思えます。

余談になりますが私の言動に表れる個性の一つとして、相手に変わってもらうのを待つより先に自分側が変化したほうが何しろ手っ取り早いという気持ちが基本的にありまして、普段日常では、あまり自分個人の主張や欲求等を頑として譲らないタイプではないほうです。ですから相手の言動によって、比較的たやすく自分側の方針等を譲歩させることが割に多い。受身に徹しているほどとは到底言えませんし、もちろん限界はある、場合にもよるのですが。
逆に自分側の主張や欲求を変えることが非常に困難なタイプの人の場合、「数で勝負」的発想や行動をとりがちかもしれない。これは所謂いじめっ子的行動原理にも通じているかもしれません。つまり「数(量)を頼む」という発想であるという…。
御質問の的をはずしているかもしれませんので恐縮ですけれども、いずれにせよ捨象、抽象化というプロセスを経なければならないのであれば、それによって大きく得られるものがあると同時に何ものかを取りこぼしてしまう、ということが宿命的について回るのではないかと思います。
そのあたりのことを常に念頭に置いておくということが特に科学分野における学問的考察また人間観察を行ううえでの謙虚さでもあろうかと。
言ってしまえば「数学」にせよ「書物」にせよ、それらはヒトの手になるものであり、突き詰めれば自然が産み落としたものであるということになります。偉大なる自然をヒトの理解可能なものにしてくれるが飽くまで部分的、限定的という条件付きではないでしょうか。少なくとも現時点において、そうでしょう。
心理学方面でも大いに言えることではないかと思うのですが、数値によって測れることがあっても決して万能万全なものでない、ナマの人間観察に習熟していない人が数値に頼ることの危うさを感じることもあります。わざわざ数式化を行わずとも理解の鍵は案外、自分の足元に転がっているものかもしれません。
この程度しかお答えできませんが僅かでも御考察の足しにしていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

初めまして、ご回答有難うございます。
当初、不思議なご回答とあれこれ考えているうちに、
御礼が大変遅くなり、失礼致しました。

どうやら、自然を広義に解釈して、人々の行為などを自然の内として、
それらの行動を、数学で理解する統計的な部分を含まれた御回答かと、

ここでは、もれる部分は狭義の自然よりはるかに重要かもしれません。
ただ、此方には、主観と客観と言う秤がありますから、
狭義の自然のように、数量化の問題点は、比較的解り易いのでは。
「狂人より、一見、筋の通った様な説明の方が、よほど危険」

ただし、この危険度では、広義の自然が圧倒的に恐ろしい。

要するに自然を観察して上手く言った手法を、広義の自然にも当て嵌めたのでしょうが、この両者が漏らすものについての比較も検討の手がかりになりそうですね、足元に有ればよいのですが。
思わず足元を見る。

お礼日時:2007/05/16 18:09

どうも難解なお礼文ありがとうございます。



明晰判明な表象が数学ということですよね。
結局、存在者とは何か、という問いは実体とは何かという問いなんですね。
しかし世界は表象であって実体は認識不可能だから函数関係に解消して理解する方法がない。
人間は直観で世界を把握できないようですから。
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この回答へのお礼

>人間は直観で世界を把握できないようですから。
などと、皆さん、解決済みと澄ましていませんか、って。

例えば、2)は間違いらしい。
なのに、1)は、どうやら成立するらしい。

で、そこには抽象化があって、もれるものもある。
そうなんでしょうね。
すると、数字の[1]は、量なのか質なのか。
頭の中に、山手線がぐるぐる廻っています、
こんな日は、外に出かけよう。有難うございました。

お礼日時:2007/05/13 08:19

こんばんは、fishbowl66さん。




ANo.4へのお礼を読みました。なんか、お気遣いいただいているような…気ぃーつかわんといて下さい、littlekissにおいては。返事があろうがなかろうが気い悪うにはしやしませんて。逆に返事返さな返さなと、気いもまれて急いて具合悪されても困ります。かえって気い遣わせたみたいな格好になってごめんやで。


ところで、横浜の観光案内を持って東京見物ですか?


ガグッ=☆



ズッコケてどうする!!!


あっ?!コレ、お約束? < 吉本新喜劇かぁー

ほでは、ぼつぼつ石橋を叩いて…いや叩き割らない程度にこのお話つづけます。よろしく。しかし、ヤバいです。1)と2)をみてますと…ぽわぽわぽわとゲシュタルトあらわる。『自然』が後ろの書物という文字につられて『辞書』とみえてくるから艶めかしい。ひとつ「論理的」とことばを引くと、論理にかなった様とこうでてくる。続いて「論理」を引くと、論証の筋道と。「筋道」と引くと、道理、手続きと。「道理」と引くと、物事がそうあるべき筋道と。「手続き」と引くと、事務上必要な一連の手順。「論証」証拠を示し、正しい論理によって証明すること。山手線ゲームのようにぐるっと一巡、はじめにもどる。こうみると、辞書って言葉の整合性が保たれてるけど、なんか曖昧、化かされてるみたい、くるっとまわるんだもん。辞書は言葉の束の集積。ひとつひとつの言葉を数学という形式を用いることで仕訳し繋ぐ。そうして修められた言葉の束を辞書と呼ぶとすると、1)は辞書ー完成品 2)は辞書の成り立ち筋道手順ープロセスー構造とみることできるんじゃなあかなぁー。



大きく辞書と捉えれば、1)=2)


ものとつくりと捉えれば、1)≠2)






http://www5b.biglobe.ne.jp/~nitti/kaken/3/affoda …
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この回答へのお礼

littlekissさま、お早うございます。
気を使っているわけではなく、最初の数学が難解。
三角形をひっくり返して悩んでおります。

千代田区、国会議事堂前の早朝。
何とか坂の上から皇居方面、大手町を見下ろし
絶好の喫煙タイム、と、と、上手の方から警察官が接近
下手、正門前の警備車両の脇の警察官もこちらに注視、
やや、右手にライターとタバコを持って、不安がよぎる。

千代田区は路上禁煙という平和な日本の「吉本」でした。

山手線と辞書の言語ゲーム
「私たちには本質的に『象徴作用』が有るのさ」
『象徴作用』という言葉に責任転嫁して
私の思考が止まってしまった様な、
あぁ、また三角形がぐるぐる廻る。

お礼日時:2007/05/13 08:02

存在形式が書物と数学では違うので、2は不合理です。


あきらかに自然は延長を持つから。
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。
難解なご回答、有難うございます。
内包とか延長とか外延とか、難しいですね。

難解なお礼。
存在しないものに関して、あれこれ考えたくない、
とすると、現象学でよいのかな、と。

お礼日時:2007/05/12 17:55

自然を数学で語ることの有益性は認識の象徴形式であるとは思います。

ただし、数学は内在的に人間の認識を超えた演繹性を有しており、数学的に「・・・でなければならない」という理由でいろいろ未知の自然現象がわかったりします。

たとえば、数学で物質の運動が記述できれば、その空間のなかにいながらにして、空間の曲がり具合を知ることができたり、100年前は電子と陽子しか知られていなかった(つまり、人間は自分の体重の半分がなにで出来ているのか知らなかったわけです)それが実験ではなく、理論的に予言され確かめられたりしたわけです。

私たちは自分の認識した経験のない事柄を、認識するための道具として、なんでも埋め込んでしまえる数学という装置を使います。数学はその埋め込まれた認識のかけらを純化して新たな関係を浮き彫りにし、私たちは、その事柄を(数学的に)認識できるようになります。それゆえ数学とは認識そのものであり、その一方で私たちの認識の範囲を広げてくれます。そしてどうやら、私たちがそういう営みで「わかった」と思った瞬間に、いつも私たちの知らない認識すべきものの影がちらつくようです。つまり、数学は自然のように豊かであり(つまり、数学に自然を埋め込もうとすると記述できる範囲で出来る)、自然は数学に映し出される構造をいつもはみ出しつづける、といったところでしょうか?

「物質の性質そのものへのアプローチ」は性質そのものを数学に埋め込めばよいわけです。究極的には物質を構成する粒子の運動を記述すれば、性質そのものを記述できますし、性質そのものに着目して、たとえば光の反射具合も、人体への影響も、それぞれのレベルで数学に埋め込んで、反射率や生理反応としてあらわせばよいのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

再度のご回答有難うございます。
物分りの悪い、質問者てご迷惑をお掛けします。

いつも思うことなのですが、
どんな学問もある意味限定して、考察しますから
何かしら、はみ出すものがあるんですよね。

雰囲気として、それで仕方が無い、という事でしょうか。

1)と2)の関係は国語の問題みたいですね。
問題は、最後の、質を量に還元出来てしまうのか、
それともここでも、はみ出すものが出てくるのか、

最近は、「差異のみが存在する」と言った哲学が
もう一つ理解できずに、困っております。
御礼が遅くなりまして、申し訳ありません。

お礼日時:2007/05/12 17:49

>>ANo.3 お礼


>数学は人間が作ったもの、発見したもの、どっちなんだろう。

 数学って、世界の規則を人間が表した学問ですよね。そうすると、世界の規則は人間が発見したもので、数学は、人間が作りだしたものということになるんだと思いますよ。
 また、世界の規則というのは、人間が便利になるように考察したり、ただ興味本位に世界の規則だと言って喜んでいるだけだと思いますんで、完璧に、それが存在しているかどうかは分からないと思います。


>度を過ごすと嫌われてしまう、今回セーフ?アウト?

まあ、話していけるんで、セーフっぽいですね。本当に嫌いだったら、話しませんから。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
我侭な道草にお付き合いを頂き有難うございます。
結局、私も今回は存在のことか良く解らないようで。
そこでガリレオの言葉が引っかかったのでしょうか。
現象学の判断中止とか、物自体とか、
存在そのものが、最近、おざなり状態のような気がします。
お礼が遅れて、失礼しました。

お礼日時:2007/05/12 17:32

数学ぽく描いてみます。



世界Wがあって、世界Wを数学Mに対応させる写像Fがあって、世界Wの要素全てをMの要素にに対応させることができる。このとき、要素とは、それを構成するものだけでなく、構成するものの間の関係も対応させることができる。これが(1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」です。でも、本当は(1-a)といったところでしょうか?理由は以下の通り。

まずはともかく、Wの要素(や関係)wがMの要素(や関係)mに移されるとします。しかし、数学Mはべつに世界ではないので、Wの要素(や関係)xをMの要素(や関係)mに対応づけてもOKです(個別性を持たなくても良い)。言葉でも同じで「私はあなたを愛している」という言葉で「私」がAさんやBさん、あるいは、私でも良いわけです。つまり、WをFで移したものF(W)は確かにWに含まれるとしたとしても、実はF(W)をもとに戻すと1対1になっていなくて(例えば「私」をAさんやBさんや私に対応させる世界です~パラレルワールド!)、Mでは何かが抽象されてしまうわけです。
これを私たちは「なんか大事なこと忘れてませんか?」というわけです。

ことろが、じゃあ、抽象されないように全ての要素と関係を丸ごと写し取ってしまえばよいではないか!という考え方もあります。「私はあなたを愛している」というのは失格で、「AさんはXさんを愛している」「BさんはYさんを愛している」「私はZさんを愛している」という言葉が正しいわけです。つまり、数学Mに世界Wを写像Fで埋めこんだものと、世界Wが1対1の関係で結ばれるわけです。これが(1-b)になるでしょう。でも、そんなの人間わざとは思えないし、なんか危うさを感じます。

さて、(2)は「自然は数学で出来ている」がや、といっているので(1-b)との対応関係にあるかと思いますが、(1-a)とは別物です。この辺りが、つまり、できるんだかできないんだか危うい1対1対応のありなしが、誤謬の香りがする原因ではないでしょうか?

数学で理解するのが容易な理由は、数学がわれわれが「理解した!感動した!」という感覚をえることのできる関係性を記述する学であるためではないでしょうか?

でも私は思うのです。私がもっとも理解したいと思い、感動したいと思うのは、「物語」なのではないかと。それゆえ、私にとって、世界は(言葉ではなく、もちろん数学でもなく)「物語」により語られるべきではないかと。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
なかなか、読み応えのあるご回答です。

ご回答を簡潔に判り易く、曲解して単純化すると、
現象学的に、認識の象徴形式により数学的理解が有益、と。
この曲解には、誤解があるでしょうか。

だとすると、
水一リットルは、一キログラム、
水銀一リットルは、一キログラム×比重、
このような、物質の性質そのものへのアプローチは、
軽視もしくは無視して、現象的レベルで収まりきるでしょうか。
この辺り、少々疑問が沸きます。
勿論、ご回答者様にご指摘頂いたような、構造は確かに有ると納得できますが、
まだまだ、別の理由も有るのかもしれない、などと、考えあぐねています。
大変参考になります、有難うございました。

お礼日時:2007/05/08 19:06

こんばんは、fishbowll66さん。




●1)自然は数学で書かれた偉大な書物である


●2)自然は数学で出来ている





うへぇーん、泣きはいりそうなお題だこと。情調的な 1)をみてから 2)をみると、ありゃまぁ、ちと無味乾燥?味気ないかなぁと思いもするか?味にたとえると 1)は濃い味 2)は薄い味と。先に濃い味を口にすると、あとから口に入れたのは味もしゃしゃりもないように物足りなさを感じちゃうだろうな。ほでも、まてまて、先に薄味をひと口口へ入れてみなはれ。口の中でそのものの味広がりませんか?飾りがない、ないということはある意味表現の自由が担保されてるとみることはできんやろか?幅がある。限定されてはいない。広がり可能性を含む。



そないこない、思いながらここを眺めてますと…ダッシュとアポストロフィーに思いが飛びます。
類似していることを表すダッシュ。所有をあらわすアポストロフィーs。


【わかる算数 5年生】

【2つの三角形の面積】
http://web2.incl.ne.jp/yaoki/2trisur.htm

http://web2.incl.ne.jp/yaoki/a2trisur.htm


【第73号第95条 錯誤】
http://www.mainiti3-back.com/archives/2005/11/po …


【互助法】
http://www.math.kobe-u.ac.jp/~taka/asir-book-htm …

【岡本綺堂 中国怪奇小説集】
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1301_ …


【九鬼周造「いき」の構造】
http://www.su-ki-da.com/aozora/search?query=cach …


【なぜ関数プログラミングは重要か】
http://www.sampou.org/haskell/article/whyfp.html





一文字、一文字、手入力、、、汗かいてます。

この回答への補足

浮世の義理ごとと読書を楽しんでいましたが、最近
そこへお絵描きが加わり、なかなかどうして、忙しい振りが身に付きました。
読書やお酒は、眠たくなるのですが、
お絵描きは、いつの間にやら二時間と、きりがありません。
月曜の朝は寝坊をし、思ったより眼が疲れている。

そんな訳で、ご紹介頂いたページがなかなか、
なんとか読み終えてから、御礼をします、御礼飛ばしと誤解されないように
補足しておきます。

PS折角の前島密、横浜の観光案内を持って東京見物、お馬鹿さんでした。

補足日時:2007/05/08 19:03
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この回答へのお礼

つぎに、おなじ年(1504)の晩春に日根野荘で起きた、菖蒲村の検断一件である。同じ村人の米俵を盗もうとして見付かった、正円右馬という百姓は、ほかに盗みの余罪もあるということで、これは村の「寄合」で、あっさり首を切られてしまった。領主もさっそく検断権を発動して、まずは犯人の「検断物」の押収にかかる。・折から一帯は大飢饉にみまわれ、庄内には盗みが頻発していた。・
さらに「跡之田地等作職以下」について領主は、「譜代百姓也、於子孫者、不断失、公事屋等可置」と思案していた、とある。そこへ、「菖蒲村之惣地下」を代表して、番頭の源六宮内がやってきて、いう。
「遺跡事、公事屋条、不可被失哉、然者、彼作職以下、子ハ年少之条、伯父(大屋右近)以下、為惣地下預置、彼之子ヲ可取立之田、望申了、」
犯人の遺跡は村の公事屋なので、作職以下は伯父と「惣地下」で預かり、遺児が成人したら「取立」ててやりたい。・・・
こうして、村側の遺跡取立ての申請が認められ、領主に払う「一献料」は千疋ときまった。さっそく村からは、その一部をもって領主館へ礼にでる。遺跡を売り払えば、三、四千疋余にはなるのにとか、作職はぜひ隣の大木村になどと言う声にも、領主はいっさい耳を貸さないが、然るべき額の礼金は、しっかりと取るのである。さらに二十日ほどして、一献料を「皆済」すると、それを機に菖蒲村の村人は、領主に「書下」つまり領主の証明を申請し、菖蒲村あてに、つぎのような奉書(家来の発行する証書)を交付してもらった。
正円右馬遺跡田畠等事、一紙注進被、御覧畢、爰子就小年、可成人之間、伯父以下為惣地下預申、勤御公事、可致其役之田、申請条、被聞食之田、仰出者也、仍状如件、・
父が盗人の咎で処刑されたあと、遺された上の女児は十二歳、下の男児は六歳であった。だから、伯父や惣地下による田畠の耕作と公事の肩替りは、おそらくその男児の成人まで、十年ほどにもわたることになる。・
なお、この「遺跡」はその後、惣衆も大屋右近(伯父)もともに知らぬうちに、村の番頭の源六宮内が独り占めしていたことが露顕し、大きな騒ぎになる。村の遺跡取立てといっても、それが現実の姿で、実現には多くの困難が伴っていた。(「村と領主の戦国世界」藤木久志)

その上、今月のお絵描きは、三点。自転車散歩一日。
連休後半を活用したとは言え、何しろ、忙しかったのです。

お礼日時:2007/05/25 22:40

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