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 1. / n / という音素に注目します。しかもこれに《同定相》という意義素を想定してみます。

 2. 《そのものを同定する》から 日本語《 n-a 》あるいは 英語《 n-ame 》は 《名》という語義を帯びる。

 3. 《数量の同定》として 《 n-e =値》あるいは 《 n-umber =数》であると。

 4. 同定相が 同時にみづからの対極の《否定相》の意義をも帯びるという見方を提出します。
 或るもの( A )の同定は そのものでないもの(非A)を規定することにもなるとき 仮りにその非 A をまちがって同定してしまうことになった場合 そのかぎりで元の A については 《否定》の相を帯びさせます。
 これは非合理的ですが 言語の変化としてありうることです。《留守》は 外へ出かける人( A )の代わりに家にいて守る人( B )を言ったものですが そうではなく非合理的に意味が変化を受け 《外へ出かけた状態のこと(つまり≒非 B つまり元に戻って≒ A )》を言うように変化しました。かくして A を否定する意義をも持ちます。
 すなわち 音素 / n / は 同定相のほかに《否定相》をも帯びた。
 《 na な》:否定命令=禁止法。《 nu ぬ》=否定(打ち消し)法。および 英語《 no ・ not 》といった否定辞に現われます。

 どうぞ自由なご見解をお寄せください。

A 回答 (59件中1~10件)

音韻と意味はつながってると思います。


文字ができてから、発話しない読みが普及して、意味重視みたいなところもあるかもしれませんが、音は大事だと思います。演奏と楽譜の違いみたいに、音はことばの主体であるとおもいます。(文字を軽んじるわけではないですが)
なごやかなね、味わいみたいなものがあるんじゃないですか。
漢字の形や、音の感じを通して、語るべき言葉を吟味して選ぶのはもっともなことだと思います。
野放図に述べまくるより、ずっといいです。

ところで、名演奏家の音楽が、他の演奏家とは何かが違うのは、楽器の違いでも、演奏する楽曲の違いでもなく、その人の、芸術家魂からの演奏が、観客の心に響き入ってくるものだからです。
名演奏家は決して自身の奏でる音楽に酔いしれることはないでしょうが、酔いしれる以上に微妙な調べを奏でます。

人の話す言葉も、いくら言葉巧みに工夫を凝らしたとしても、いくら複雑高邁な論理を展開しても、また、ミューズも驚くような韻律を包含していたとしても、そしてそれらにさらに磨きをかけて、人類の言語と言う言語をマスターし尽くしたとしても、そこに話者の心に語りかけるものが込められていなければ、その言葉は、博士の言葉であって、本当にみんなが聞きたいと思っているその人自身の言葉ではないのだと思います。

詩人は韻律で語ります。博士は論理で語ります。しかし人は、種々の想いで語るものなのです。人が本当に聞きたいのは、ミューズの言葉でもなく、ロゴスの言葉でもなく、人のことば、それもあたたかい思いやりの言葉なのであるからです。
そして、種々の想いでは語りつくすことのできない心底の想い(=ほんとの気持ち)、それが、真実の人生に伴う真実の言葉(真実の在り様)であるのではないでしょうか。

私は、やっと共通の主題にたどりつけたでしょうか。
 
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この回答へのお礼

 なるほど。
 ★ 楽譜と演奏の違い
 ☆ (順番を替えましたが) を掲げていただきました。
 ★ 詩人は韻律で語ります。博士は論理で語ります。しかし人は、種々の想いで語るものなのです。
 ☆ その作品における実際の韻律はすでに《演奏》に成っていますが あるいはまた論文における推論の整序(その仕方)にも《演奏》がかかわっていますが そうなのですが しかも 人間よ 日常の生活において仕事において 人としての思いを――決して遠慮することなく―― 語れ・語り明かせ。というところでしょうか?
 ★ そして、種々の想いでは語りつくすことのできない心底の想い(=ほんとの気持ち)、それが、真実の人生に伴う真実の言葉(真実の在り様)であるのではないでしょうか。
 ☆ わたしの乱暴なうたい継ぎとしては ええいっ面倒だ 全部うたい上げてしまえ ともがら・はらからの間で 何を遠慮することがあるか! スサノヲにとってアマテラスは 姉さんではないか。政治家としてはおざわいちろうは要らないのだ 何で言えないのか? さもなければ いちろうよこころをぜんぶ入れ替えて共同自治について仕事するようにせよ だが まづは反省ぢゃよ。――という真実のことばも なおあのわれらがこんなにもうめきつつあえぎつつ問い求めているあのことば あのしらべ あの泉の水 はなお遠い。――もののあはれとは なんなんだい?

 てるてるさん ご回答をありがとうございました。お早うございます。


 ★ 漢字の形や、音の感じを通して、語るべき言葉を吟味して選ぶのはもっともなことだと思います。
 ☆ はーとまいんどさんのご所論を承けていただきました。


 ★ 音韻と意味はつながってると思います。
 ☆ これも継いで行きたいと思います。もしそうだとしたら 世界がそうではないという恣意性の説なるトンデモ科学にまいってしまっていると言わねばならないからです。

お礼日時:2010/03/21 09:36

質問者さん的には、この質問では、(特に私とのやりとりにおいては)もう満潮な感じですか?



もし、どこか足らぬところがあれば、引き続けられますし、いまのままでも、十分満足であれば、{私の方もずいぶん補足していただいたし、質問者さんの世界観を聞けてとても満足しています。自分の整理にもなりました^^。}とりあえず、私からは、また機会を得れたら登場したいと思うのですが、この段階では、ROMに入るという形になってもよいかと思います。質問者さんとしては、引き続き他の回答を待つと言うこともできると思います。

按配はOKですか(^^)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 分かりました。
 主題の問い求めや対話に もうこれでよいということは――ひと段落するということはあっても―― ないと思います。でもたとえば めりはりをつけるというかたちも 案外大事で たとえ再び三度び同じ主題で話し合うことがあるとしても ひとつのステージを終えておくことも案外よい結果をもたらすと思います。

 この質問は 題目が言語にかんすることですから 広い話題を扱い得ます。それに閉めるのはいつでもできますし ひとり一度に五件の質問が出来ますので 開けておいてありました。
 でも そうですね。もし主題を引き継ぐなら あらたな出発をするかたちを取ったほうがよいかも知れません。回答者や訪問者にしてみれば そういう感覚がやりやすいようにも思います。

 ほかのみなさんからの投稿も途絶えましたので それでは ひとまづ閉めることにしましょうか。今夜にでもそうします。
 はーとまいんどさんや ほかのみなさんともども ありがとうございました。この主題にかんしては そうとうえらそうに述べていると思いますが そこのところも ふむふむ そうかいといった程度に取り扱っておいていただければありがたいです。
 それでは。

お礼日時:2010/05/08 16:36

そろそろ再開(かるめに)しましょうか。



終わりからはじめるのお話なんですが、終わりから始まり、そして終わっていると言うことについてはどうお考えになりますか?

不動というのは完成です。動と言うのもまた、完成です。

つまり、明と暗が同時に完成であるようなものです。

生と死が、同時に完成してあるようなものです。

永遠を動の完成と言い、静止を不滅の完成と言えますか?

真無限とは、終わりも無く始まりも無いことであり、永遠の事でもあると思います。

また同時にこれは時ではなく存在であり、その存在の背後には無が前提としてあるようにおもいます。

真とは、言葉にはできないものであり、知ることのみができるものであって、語ることはできない。

そのように私は思うが、それで十分なのではないかとも思う。
また、求めるとはそういうことなのではないのかとも思った。

如何だろうか。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 えぇっとですね。
 わたしの体験から これでいいと思うところを述べます。

 ★ 終わりからはじめるのお話なんですが、終わりから始まり、そして終わっていると言うことについてはどうお考えになりますか?
 ☆ この行き方については 理論としては 例の非思考の問題としてありますが それ自体は 単純なことなんです。
 ○ わたしは問い求めています。何かを得たい もしくは 何かになりたい あるいは このままでよいから言わば《たゆたえども沈まず》というごとく つねにやわらかくありたい。
 ○ このとき それが何であるか分からなくても その問い求めているもの(状態・境地)を いま・ここにあると捉えて(見なして)出発する。
 ☆ ただこれだけのことなのです。

 ★ 終わりから始まり、
 ☆ つまり終わりから始めるのですが ただし
 ★ そして終わっている
 ☆ というのは 微妙です。
 ○ その出発のときには 基本的にたしかに《終わりつまり目的が いま・ここにある》と見なしていますが それはそのまま同時に 動態です。過程です。わたしは 時間的な存在です。
 ○ 《たゆたえども沈まず》とも すでに初めに行く先を捉えていたはずです。あるいは そういう思わくは何もなかったとしても 《始める》というかたちだったはずです。
 ○ ですから 《終わっている》としても それを《始める》というかたちです。
 ☆ そして これだけです。まったくこれだけなんです。
 もしそれはおかしいということでしたら 
 ○ これらすべては わたしの非思考としておこなわれる。もしくは 非思考のもとにおこなわれる。
 ☆ というかたちです。

 どういうことかと言えば こうです。
 ○ わたしは 問い求めるものが何であるか分からない。何となく分かっている。なぜなら問い求めているということ自体は 実際のことだから。
 ☆ これでいいんぢゃないですか? つまりこれが 非思考です。そして この非思考のまま すでにその終わりから始める。

 ★ 真無限とは、終わりも無く始まりも無いことであり、永遠の事でもあると思います。
 ☆ 永遠であると思いますが 時間を超えている=経験世界を超えている だと考えます。
 したがって 終わりが有るか無いか 始まりが有るか無いかは 分かりません。分かるか分からないかが 分かりません。
 つまり 非思考は 単なる想定です。いえ 精確には 《真無限=絶対》が想定であり その想定された真無限とわたしとの関係として 非思考がみちびかれます。
 この四次元の経験世界を超えたところ という想定は 想定の中身は《分かるか分からないかが分からない》しろものですが 想定すること自体は 現実です。想定した時点で その真無限との関係が わたしに生じます。非思考として。あたかも心に窓があるかのような状態だと思います。
 想定ですから――想定から始まっているのですから―― 何もないのですが その窓がみちびかれたということは こころにあたかもその窓を開くかのような明け もしくは 伸びが生じているのではないか?
 いえいえ じつは もともと このような心の明けないし伸びが わたしの中で生じていた。もとからあった。と気づいた。だから そこから わざわざ真無限なるわけのわからない何ものかを想定し その想定に立ってわざわざ非思考という実際であると説明したに過ぎない。
 つまり 何のことはない わたしは――そして人間は―― もともと何かを信じている。
 《信じている》というふうに人間の言葉で表わすなら それはそこですでに《考える》の領域に入っています。つまり 思考です。経験思考です。しかも もとの心の伸びは 非思考だと捉えられます。《経験世界を超えたところ》だとは分かっているからです。

 ★ 真とは、言葉にはできないものであり、知ることのみができるものであって、語ることはできない。
 ☆ ですから 《真理 X 》は 真無限のことであり絶対のことです。これを言葉にするのは 仮りに代理させて表わすというかたちです。《かみ X 》と。 《真実 Y-Z 》は わたし( Zi )の主観真実( Y-Zi )のことであり 経験思考において妥当であると見なされたものごとを言います。《事実・歴史事実 Y 》について認識しさらには判断したその内容にかんして 《真実 Y-Z 》が持たれます。
 《事実 Y 》と《真実 Y-Zi 》とで 《現実》です。
 そして 想定を容れれば 《現実》は 《わたしの世界観( X-Y-Zi )》のことです。つまり非思考が 経験思考に影響をあたえています。《信じるから語る(自己表現する)》。
 生と死はよく分かりません。

お礼日時:2010/05/08 08:31

NO36の解答の訂正



カリグラフ→書体
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ちょっと、他の皆さんのご意見を聞いてみましょうか。


少し話しすぎたかな。すみません。
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この回答へのお礼

 では そうしましょう。

 ご回答をありがとうございます。

 このところ いろいろ覚え書きを参照することが多くなっていますが 次のような文章も見つけましたので 掲げてみたいと思います。 
 ▲ (真理と人間の真実) ~~~~~~~~~~
 真理とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ちに物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。

 それらは 私が 神は真理にましますと言ったその最初の瞬間 君を照らした清澄の光を曇らしてしまう。真理 と語られるとき 君がいわば電光によって捉えられるその最初の瞬間に 出来るなら留まれ。しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中へ滑り落ちるであろう。

 私はたづねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さによるのであろうか。
 (アウグスティヌス:三位一体論 8・2・3)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 彼岸は見えなくても その海上にあっても故国への道にあると思いますが 《情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱》を多かれ少なかれ人は たずさえている。
 すでに神であるキリストに似た・人間としての(ただ人間であることだけによるところの)キリストであるとみづから宣言したあとにありながら この地上の国にあることの《重さ》を人びとは背負っています。
 わたしは 黐がからだにねばっこく絡みつき汚辱による感染を――《アース役》のことでもあります――帯びている。帯びているのですが わたしは木の船に乗ってもいます。海の上をアップアップしながら泳いでいたとき 或る晴れた日の或る時 大きなたも(網)で掬われ 船に乗せられています。向こう岸は見えませんが そんなことは屁の河童です。


 ということを キリストのキの字も持ち出さずに 語りたい。ものです。ね。
 それが 哲学ですから。


 地上の権力も いろんな救命ボートを用意し すくいの手を差し伸べているのでしょうね。――えぇっ? ほんとうですか? ううーん どうでしょう?

お礼日時:2010/04/29 10:45

>この(α)「どうしてもいけなければどうするか」なる公案の主題は わたしにとっては 対話の断絶の問題です。

そのときわたしが見る限りで 相手においては人間放棄がおこなわれているのではないかという問題です。

詳しくは当事者ではないので解からないのですが、私は、話題の質かなという気もします。話しにくいこともあれば、話さなくてもわかるはずのこともあります。人間性の問題でもありますが、どちらかが何者である、という話では無いような気もします。

ブランジュロンさんの問題であるので、これ以上の詮索もできませんが、つまり尋ねられてもいないことを云々答えることは難しいですし、尋ねられてもはっきり知らないことは答えられないものですが、対話に関して、私自身の場合に見立てると、そのように見ています。どうしてもいけなければどうするか、という題で、対話に関するシチュエーションといえば、そのようなものを思い浮かべました。相手の所為でもなく、自分の所為でもないということです。話題そのものを知るということでしょうか。

つまり、難問ということでもありえるし、問い以前ということでもありえるし、問うに相応しいのか、ということもありえる、、でしょうか。

人間として知っていて当然の事を問われた場合、答えに窮するものです。
つまり、道とは外さないのが当然であり、外したところからの問いというのは、本来的に即答のはずです。
あるいは、人間として知らなくて当然の事を問われた場合も、同様の性質を帯びるでしょう。絶句するというものです。善悪の話ではなく、それ以前の問題です。
さらに、知らなくてよいということもあり、話題の質に関しても、考察ができると思います。
知ろうとして当然の事などもあるでしょうか。

これは、テーマは人それぞれだとおもいますので、私の場合には、そのように思いましたよ。

参考まで。
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この回答へのお礼

 ありがとう。そしてご回答をありがとうございます。

 そうですね。ただわたしの中では 何も問題はないのです。もしあたまをめぐらせていたり こころに若干ひっかかるものがあったりするとすれば それはわたしの趣味として 相手の人間の人間たることに関心を抱いているというだけのことですから 何の問題もやはりないのです。むしろ 人事を尽くしているというほこりがあるのみなのです。
 でもそこを 考えていただいて ありがたく思います。でもそういう内実になっていますので どうかご心配なきよう取り扱ってもらえばだいじょうぶと思います。

 その上で 人間が人間に対してたとえば次のような文句を言うということは いったいどういう事態か。それは 哲学の主題になると考えます。
 ◆ (【Q:日米関係】No.6)~~~~~~~~
  ★ わからずやは、自分の関係するものすべてが、きにいらず、
 自分だけが正しいと思っている。

 おれおれ感覚の老人に何を説明しても無駄であるのと同じで、
 聞く耳持たない姿勢に変化はありません。

 おいさきみじかいものに、何を示してもエネルギーと資源の無駄です。

 ひびの「去れ」という言葉ぐらいしか残されていません。

  ☆ (補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   他人(ひと)に言った言葉は おのれに跳ね返ってくるので あまり無責任なことは言わないほうがよいでしょう。
 まだ若いのでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえ《甘え》だとしても 人間放棄です。かつて人間であったことの余韻で かろうじて言葉を発することが出来ているという状態です。
 その意味では
 ★ 話題の質
 ☆ という見方は 絡んでいるようで 的を逸していると考えます。言いかえると 神経質にならなければならない微妙な問題がひそんでいる話題にかんして ちょっとそのような問題を想起させられると 途端に常軌を逸してしまうというのでは 哲学の話どころではないと言わねばならないでしょう。
 つまり そのような話題について落ち着いて互いの知恵を出し合えるように考え意見を述べ合うことこそが 哲学であり 日頃の哲学の継続による効用でもあります。

 そうしてどうも日本人の哲学は――特にブディズム系統の場合には―― 何でもおとなしく礼儀正しくというかたちを重んじていて そういう頭にカチンとくるような話題を出すこと自体がわるいと考えているようなのです。相手が罵詈雑言・誹謗中傷を吐くというのは それを吐かせるような話題を出したほうがわるいのだと。
 ○ 万機公論に決すべし
 ☆ と言いましたが そうであっても 権威ある者が先にのたまわったものをしもじもの者はやっと口にすればよいというような考えが 人びとのあたまを支配している。こういったところのようです。禁忌つまり所謂る菊と鶴のタブーですね。人びとは 腑抜けになっています。魂が去勢されているのだと考えます。
 だから ののしりまくるやからが 大手を振ってのさばる。タブーにいどむ奴は 引っ込め!と無条件に言ってもよいのだと思っているし 思い込まされているようです。それが 世の中の――現代日本の――《空気》であるようです。こんな不幸は 世界中でどこにもないのではないか。
 かと言って 銃を持てばよいともならなければ カミカゼのまねをすればよいともならないのですが かれらは そのように根本的にまちがったやり方において たましいをその去勢から守ろうとしているようなのです。
 いまの空気が あたかもあのブルカとかチャドルとか呼ばれるへジャブなるヱ゛ールのごとく日本人のたましいを覆っているようです。

 スサノヲひとりだけが なぜ自由か?

お礼日時:2010/04/28 11:37

質問者さん>ちょっとわたしのアンテナの感度がにぶくなっています。

この鐘を撞いたのに 向こうの別の鐘が鳴り響いたということになっていないかとおそれます。どうなんでしょう?

回答者さん<ギアを切り替えるときには、一度クラッチを踏むようなものでしょうか。そういうことにしましょう。踏ん張りが利かなかったとも言えますが、踏ん張るようなものでも無い気がします。つまり、常に滑らかなものが、正しい観とおもいました。


謎を知るというのは、雲の中をのぞき見るようなことでもあると思います。
一方で、数多の川が途中で蛇行しながらも、海へと注ぐようなものかと思います。

更にすぐれているのは、真っ直ぐな川が、海に注ぐようなものであると考えます。蛇行することの無い真っ直ぐな川とは即ち、降雨の事であると思われます。

わたしは、三つ目の道で、海に至ることを考えている途中です。

聞くところによると、以前、智常という僧侶がいて、禅宗の、六祖慧能に尋ねたことがあるようです。

『先生、私は、小さい乗り物と、中くらいの乗り物と、大きな乗り物については既に聞きましたが、最上の乗り物についてはまだ聞いていません。先生、教えてください』と。すると先生は、『自分で考えなさい。乗るとは行うということである。君に言うことはもう何も無い。』

と。このような問答であったかと記憶しております。

肝心のところがよく思い出せないのですが、六祖慧能はこのときに、自ら至り、自ら行い、云々、といったことが仏道に他ならない、というようなことを助言していたような、うろおぼえなのですが。

ただ、自ら行って、というところに本筋があるようでして、行わない限りは夢のまま終わりますから、ここは是非、おさえておきたいですよ。

後ろ向きに前に進むのは、基本として、ここで是非尊重しておきたいことは、つまり直き心の元のところから常に出力しておくことにあるのだと思います。これが道となって、雲の中でも迷わずに真っ直ぐ進めるものですので。

SRKWブッダから聞いたところでは、『やさしいとは何か』の追求、真のやさしさの探求が、観の目的であるということで、それに法って歩くのは最善であると思うのですが、さらに、障碍なしのことについて言及しておこうと思います。なぜなら、やさしさは常に無障碍であると思うからです。

直き道の元からのそれによると、その光は如何なる影をも生じないものです。
従って、これに法ることは法に法ることです。
同時に、やさしいとは何かを真実に究明しなければならず、それは、人間本性の縁(よすが)でもあると思います。これらの両方を完全に備えていることは、道の通りとおもいます。

謎というのは、雲にも例えられますが、同時に、雨の素でもあります。
まずは自ら、雨になる、謎を明けるべきかと思い、前回解答と相成りましたでしょうか。
一文字流を無一文字流に持ち替えたということで。

本来、素直な心が道であるでしょうし、実際に、まさしくその通りでしょう。
随いまして、誰しもに歩めるその道が、本流ということになろうかと思います。
※注意すべきところは、既に曲がっているが、実は真っ直ぐなのであるというところで、煩悩即菩提に言われるように、『逆手に持てば順手に』かえるという所でしょうか。

素直でいることによって、ことは解決を見るのだと思いますよ。

一つ確認したいのは、素直になると、今までの語りが、読めなくなるような気がするかもという点にあります。今まで以上にすくすく読めるということでしょう。

謎に対する私の見解と、前回の失投と、これからの向かう方面について、とりあえず。

おそらく覚りの境地には、味方はいない。全て自分自身によって、成し遂げられなければ成らないだろう、と。

この道によって、人は正しい道を実践、そして成就するのだと思いましたよ。

質問者さん>たぶん われわれの前に《完成の境地》がぶらさがっているのではなく すでに完成の境地は こころの窓として(自然本性において) あるのだと思います。ですから このさとりの状態を見つつ・ということは 後ろ向きに前へ われわれはすすむのではないか。と思います。


回答者さん<おそらくですね、その窓の中身が、ご自身の本性のはずですから、それを自身として歩いていけばいいのではないのかと思うのです。縦横無尽に。正面に。いけますよ。
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この回答へのお礼

 こんばんは〔になってしまいました〕。ご回答をありがとうございます。

 ★ SRKWブッダ
 ☆ を検索して つぎのサイトを見つけ 次の文章に注目しました。
 ◆ (「悟り」とはどんな状態? 1) ~~~~~
  http://debate.100man.info/keijiban/read.cgi?2&49&1
 § 2004年01月22日
 [公案]

 (α) 「どうしてもいけなければどうするか」
 「立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか」

 § 2004年01月23日23時07分

 (β) 基本的公案を解くこと、ひいては覚りの境地を目指すことは、自分ならざる何かに自分が試されているのではありません。 この道において、そのような試練などは一切ありません。
 ・・・
 (γ) いずれにせよ大事なことは、試されているというのは自分以外の何かに依拠したことであり、誰も自分を試す人などいないのだと言うことを先ずはこころに理解されるべきです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という箇所で わたしとの違いを述べたいと思います。
 《試練》の意味が主題です。もしくは ここでは《試練はない》と言っていることをめぐってです。
 まづ《人から ということは社会関係から 与えられるたぐいの試練》は ここでわたしは問いません。それは 互いに与え合い受け取っていると思うからです。(意地のわるいものもありますが それは 試練そのものの問題ではなく 意地の悪い人間の問題だと考えます)。

 ◆ 自分以外の何かに依拠したことであり
 ☆ この《依拠》には やはり寄らば大樹の陰というふうな・あるいは長いものには巻かれろといった依存状態としての社会力学的な依拠が一方にあり 他方には やはり非思考としての《何ものか》への聖なる甘えとしての依拠があると考えます。そして端的に言って 後者におけるおのれの主観内面の動態としては 《試練》が起こると考えるものです。
 さらにそしてこのとき 未完成の完成ですから 《覚りへの道を歩んでいる》(β)のですが それは逆に すでにさとりを得た状態から出発しているからこそであり その意味でも試練のような意味合いを持った動態に ひとはその身を置いていると捉えます。《自分ならざる何かに自分が試されている》(β)というふうに見られるようなかたちです。たぶん 謎の何ものかをわたしが問い求めたゆえに その問い求めに応じて試されるようになるのではないかと捉えます。試練を与えられるという格好です。つまりもっと言えば 試練をめぐまれる です。

 この(α)「どうしてもいけなければどうするか」なる公案の主題は わたしにとっては 対話の断絶の問題です。そのときわたしが見る限りで 相手においては人間放棄がおこなわれているのではないかという問題です。ですから 広い意味で そういう試練です。
 ですから 次に説かれるように この試練をつまり(α)の公案を 一歩下がってのおのれの修行の道だとは見ていません。言いかえると 《試練が与えられるのだけれども その中身は すでに自然本性として与えられているさとりが磨かれ顕在化する過程なのであって そのさとりの道でありつづける限りでは おのれの到らなさが招いた試練や危機であるのではなく さとりをさらに問い求めるゆえに遭遇した動態過程である》となります。

 ◆ ~~~~~~~~~
 § 2004年01月24日
 そのためには、他ならぬ自分自身が(楽だと思って実は)苦の中にいることを知らねばなりません。 この世がすべて顛倒した世界であることを観じなければなりません。 人々(衆生)が顛倒の世界の中にいて、苦を楽だと思い、善かれと思ってまさに苦の道を選択していることを知らなければなりません。 それが完全に達成されたとき、「どうするか」と言うことは、ほとんど自動的に出てきます。 そして、それこそが自分の本心に他なりません。 そして、それこそが諸仏の誓願に他ならないのです。 それに正しく気づいた人は、自らが仏になる正しい決心を為し、そして仏になるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この一連の修行とその成就をつうじて《仏になる》のではなく そうではなく《はじめにブッダである〔と宣言しており さらに問い求める〕ゆえに これをいろんな事件に出会いそれらをつうじて表わしてゆく》と見ています。なぜなら 《諸仏――もしくは阿弥陀仏――の誓願》は むろんそもそもの初めにあったからです。

 荒削りですが。そして ご回答の内容に直接触れないかたちになりましたが。

お礼日時:2010/04/28 00:19

質問者さん<


 ○ 人を欺いているようでいて、誠実である。
 ☆ という命題です。つまり短絡しますが この命題が
 ★ 自分をこころから大事に、他の人をこころから大事にするということ
 ☆ に通じると言おうとするものです。No.46でこの説明は 保留とされましたが その事情にもかかわるかも知れないと思って 無理やりですが 取り上げます。>

回答者さん<うーん。。既に皆さん実行済みのことのようにおもえるのですが、、。これでいいいのでは?

青は 気持ちいいでしょう

既に覚りの境地を歩んでいる、そんな表現で妥当ですか?

謎は解決しているわけでは?

依然おっしゃっておられていたと思うのですが、もうけもんみたいな感じかもね、って。

そこらへんは、どうなのでしょうか。いいんじゃないの?これで?
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この回答へのお礼

 青は気持ちいいですね。前の無地の青もよいと思ったのですが 雲を配した図案のほうがしゃれていますね。
 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 謎は解決しているわけでは?
 ☆ このなぞは なぞの側においては 解決しています。もともと解決しています。
 その《なぞ》と《人間であるわたし》との関係では 時にはうたがいやつまりは不信が顔を出すことがあります。つまり《なぞは解決していないではないか?》という問いです。
 答えは 《人間の感性と理性とでは分からない》から《なぞ》なんだよということになります。


 ところが 《そのなぞの背面を きみは見る》と言われてもいます。そういう観想を得て言葉にした人間が昔いたことになります。もしここに妥当性や非思考としての窓の魅力があるとすれば 《うしろすがたは 見える。つまり そのぶんにかぎれば解決している》ということも 時として人間に起こるかも分かりません。

 ★ 既に覚りの境地を歩んでいる、そんな表現で妥当ですか?
 ☆ 《なぞの背面を見た》ということは それが部分的にであっても 《さとった》ということを意味すると思います。部分からであってもすでに全体観においてさとったのだと考えます。
 しかも うたがいが生じます。解決してないぢゃん?! ということの繰り返しになると思います。
 たぶん われわれの前に《完成の境地》がぶらさがっているのではなく すでに完成の境地は こころの窓として(自然本性において) あるのだと思います。ですから このさとりの状態を見つつ・ということは 後ろ向きに前へ われわれはすすむのではないか。と思います。


 ちょっとわたしのアンテナの感度がにぶくなっています。この鐘を撞いたのに 向こうの別の鐘が鳴り響いたということになっていないかとおそれます。どうなんでしょう?

お礼日時:2010/04/27 11:21

小休止に詩を、、。




ぼくは なんにも知らないのだけれど 君のことなら しってるよ

きみのことなら しってるけれど じぶんのことは しらないんだ

いそぎはしないよ いつでもいいよ いつでもいいからいつかは

おしえてくれよ

この回答への補足

 お礼欄の最後のくだりで 文字化けがありました。

 ☆☆ 《いわば主(= X )の霊(= X )によって 人間 Z の栄光( ? Y - Zn )から主 X の栄光へ 変えられる》
 ☆ 《 ? 》は ギリシャ文字のシグマつまり集合の意味です。 《 Y - Zn 》にかんして すべての人びと=《 Z1 ~ Zn 》の全体という意味です。シグマの大文字が出ませんでした。あしからずご了承ください。

補足日時:2010/04/26 17:41
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この回答へのお礼

 彼岸も故国も 分からなくて構わない。

 神の国が分かる人は もはや信仰は要らない。

        ::

 《さて 自分自身によって 神を観想し神に密接に結合されるほど清められると思っている人がいる。そのような人を汚すのは とりわけ高ぶりそのものである。
 ・・・
 《しかし 不遜な人にとって また このゆえに木(十字架)の船に乗るのを恥ぢる人にとって 遠くから海を越えて存在する故国を望み見ることが 何の役に立つであろうか。
 逆に あの不遜な人がそれで運ばれるのを軽蔑する木の船に乗って祖国に行く謙遜な人にとっては このように遠くから祖国を見ないことがどうして不都合であろうか》。(アウグスティヌス:三位一体論。以下同じ)

       ::


 《さらに主はモーセに言われる。

     あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。
     なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはない
    からである。

 《また 主は言われる。

     見よ 私の傍らに一つの場所がある。私の威厳がそこを
    通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。
     私はあなたを岩の頂上に置こう。
     私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。
     私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
     私の顔はあなたに現われないであろう。》(*)

   * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     超経験 X は 見る・考えるものではなく 信じるもの・
   そちらへ開かれるものである。
    その《背面を見る》とは 言われている。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

        ::

 《今 私たちに見ることを欲しさせ 信じさせ 将来見るであろうことを望ませ そして私たちが前進する限り 〈今は鏡をとおして謎において見〔てい〕る〔が かの時には〉明らかに見ることを得させる神の愛を他にして 神の礼拝とは何であろうか。〕》

 《たしかに鏡において見ているものは似像(にすがた)〔代理表現〕に他ならない・・・》

 《実に使徒(パウロ)は 〈今 私たちは鏡を見ている〉と語るのではなく

 〈今私たちは鏡をとおして見ている〉と語るのである。》

        ::

   * そうして 励ましの言葉が添えられる。

 《しかし非物体的であるだけではなく 最高に不可分離的であり 真に変化しないこの神の三位一体を 〈顔と顔を合わせて〉と私たちに約束されている神直視(visio)が訪れたとき 私たちの現在の状態を示すこの似像よりもずっと明らかに確実に見まつるであろう。

 《しかも 〈この鏡をとおして〉〈この謎において〉 この生において見ることが許されている限り 見ている人々は私たちが詳論し提示したあの三つの能力(* 割愛している=記憶・知解・意志)を その精神において認める人々ではなく その精神をいわば似像として見る人々であり そのようにして彼らが見るものを精神がその似像であるお方に或る仕方で関係させ得るのである。

 《そして彼らが認めることによって似像をとおして予感することによってではあるが 神を見得るのである。まだ 〈顔と顔を合わせて〉神を見ることは出来ないからである。・・・》


 《同じ使徒は このことを次のような言葉で意味表示している。

     私たちは顔蔽いなくして主の栄光を鏡に映すようにして見
    つつ 栄光から栄光へ 主と同じ似像において いわば主の
    霊によって変えられるのである。》

      ::

  精神をとおして・そして内密なる言葉である似像をとおして 謎において神 X との類似を見得たとするならば 《いわば主(= X )の霊(= X )によって 人間 Z の栄光( ? Y - Zn )から主 X の栄光へ 変えられる》というのは 私の考えでは ひとつに《煩悩》の問題に関係していると思われる。煩悩即菩提と言うのであるから。

お礼日時:2010/04/25 21:28

そろそろ、沈黙を増すときだろうか。


いままで、質問者さんはどうか知らないが、わたしは、知らないことについて、ああだろうか、こうだろうかとこだわるべくもない持論を述べてきた。
しかしながら、本来、知らないことは知らない。
それが、人間的事実でも在る。

知っていることと、知るに及ばないことと、知らないことのうちでは、
知らないことを知らないことが、ある意味では、道である。
知っていることを知っていることは、私には解からない。というのも、何一つ、定かとして知っていることは無いから。ただ、私は食べ物を食べている、とか、考えることもあるとか、そういった、人間的事実を知ることができるというのみで、本来はそれは、知っていることのうちには入らないとさえも思う。そして、その事実さえも知らなかったということもありうるだろう。知らない間に食べ、知らない間考えるということが、あるかも知れないし、あったとも思う。

そしてまた、人は、あえて、解からないながらももの言わなければならないことが心理的実情として見かけ上にありえ、あえて、解かりながらも言わないことも見かけ上同時にあるもので、そのことについての深い理解は、人として生きているとはどういうことかという意味においても、繊細な事実であろう。
おして、当然わかっていると相互に思われることのはずを、解かり難くなってしまっているのが、人間的実情であろう。

かかる人の実なる哀しみについて、知っている人は少なくない。誰しもこころの底では知っているだろう。
それが人というものであるのだから。

そして、知っていることを知っていて、知らないことは知らないこと、そのままの意味で、これは、直ぐなる道に相当するものであると思う。知っている、知らないとは、本来そのままの意味において、なんら支障をきたすものでも何でも無いのであるから。
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この回答へのお礼

 分かりました。

 エポケーでもよいでしょうし。

お礼日時:2010/04/25 11:24
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