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復讐に意味はあるのでしょうか。
憎しみとは一体なんなのでしょうか。
どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。
別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。

また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。
宜しくお願い致します。

A 回答 (39件中1~10件)

あらゆる言動の軌跡は記号の範疇に留まっています。

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価値の欠如は有り得ますが、意味が無ければ言葉を存在させられません。

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私は、「復讐に意味はあると思う」という立場です。


例えば、人は、いじめを受けて傷つくと、エネルギーを相手に奪われてしまうのです。
引用となりますが、以下のような理屈です。

「いじめの本質とは、「相手からエネルギーを奪う」行為に他なりません。
いじめを受けている人達は、エネルギーを奪われ続けているのです。   

エネルギーを奪われると、人は卑屈になり、自分自身を「過小評価」するようになります。
言わば、「いじめっ子」によって、「自分自身」を小さくされてしまうのです。

いじめっ子に奪われたエネルギーを取り戻せば、「本来の自分自身」に戻れます。
しかし、エネルギーを取り戻し、「本来の自分自身」に戻るには、
まず、いじめっ子の「膨れ上がった虚栄心」を叩き壊す必要があります。

なぜなら、一度奪われたエネルギーは、
相手の「貯蔵庫」を破壊しない限り、絶対に戻って来ないからです。

いじめられた貴方が、「エネルギー」を取り戻すには、
いじめっ子の「膨れ上がった虚栄心」を徹底的に破壊する事が必要です。」

結論から言えば、復讐とは、奪われたエネルギーを取り返す、
「エネルギー奪還の行為」なのではないでしょうか?

もちろん、違法なことはしてはいけませんよ(^ー^)

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/bagensan+ijimekaiketu/
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「教えて!検索」で「憎しみ」をキーワードに「全カテゴリーから検索」すると、参照URLに記載した質問が見つかります。


これの、ベストアンサーが一番的を得ていると思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3784996.html
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 でも 本音を言うと「自分がだけが変われ 他者は関係ない」と言うのも 極論だと思うんだけどね。

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 質問の仕方が適切ではなかったかもしれませんね。



 単なる復讐ということであれば No.42の言い分は正しいと言えますが、そうではない義憤、憤りであれば 「やって欲しくない」という主張に対してのバランスを取る意味でも

 やるべきことはやりなさい と言えます。

 自分のレベルで他者を見て、論じる人間に反論するのは復讐ではなく、正当な行為であると考えられます。

 人は、自分が出来ないこと、やれなかったこと などのこだわりがある場合、それを揺るがすと思われるような主張や質問に対しては 過剰に反応するものです。

 特に、正当な行いをされた時に身の危険や精神的安定を壊されそうだと判断したときに 「あれをやってはダメ」「これをやりなさい」と声高に主張します。

 人は他者を変えることは出来ません。しかし、他者との関係性、他者に対してどう関わるかで自分と自分の世界を変えることが出来ます。

 とにかく、ここで言葉として語るべきことは語り尽くされたと言って良いでしょう。
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 11月26日の代理母出産の記者会見を事例に。


 26日午前6時30分。ある母娘が会見。娘が1歳で卵巣がんになり、その手術の代償で不妊つまり産めない女性になった。その娘が27歳(たしか。怪しいから確認を)になり、結婚。その娘の受精卵を母親の体内に入れ代理母出産した。その母親は57歳で高齢出産で帝王切開で産んだ。この母親は記者会見の時に「娘を母親にしてあげたかった」と言った。妊娠の危険やリスクに対する記者に、自分のリスクより娘を母親にしてあげる事を優先したのだ。つまり、代理母出産は妊娠のリスクで、他人のためにリスクを背負うという理屈はおかしいというかもしれない。ただ、その母親が娘を母親にしたい思いに涙が出る。母娘は代理母のイメージや認知や関心を持ってもらうやめに、中傷を覚悟して会見したのだ。

 同日18時30分。代理母出産の意見で非常に稀に見る中傷といえる意見があった。
1人目 母親の偉大さに感動する。
2人目 同上
3人目 同上
4人目 代理母出産に反対です。私は避妊治療をしています。妊娠の母子に関するリスクで問題です。憤りを感じます。

 その4人目の意見は何だと思いませんか。その母娘に関する意見ですが、4人目は自分が避妊治療してという、誰も聞いていない内容(私だけか?)を答え、自分の避妊治療と代理母の論理的関係も曖昧で、さらに憤るだと。その態度はおかしいですね。その会見の母娘で母親の気持ちというのが分かりますか?その女性の人が同じ境遇だったら、同じ意見が言えますか?無責任です。4人目の女性が産めない女性なら、自分の子をどうしても欲しいとかの感情はないか。つまり、妊娠の危険性という一次元の問題(科学的思考)が先に行きついている。婦人科学会も代理母出産は認めていない。だが、その医学の先にあるものは何か。それは、母親の強い思いや信念や決意という二次元の問題(人間心理的思考)であるのだ。その科学という先に、暗闇があり人間としての明るさを見失ってはいないか。科学も哲学も明るい未来を見ないといけない。
 確かに、代理母出産に関する医学上の問題で他人の子を産むことへのリスクの問題がある。生命倫理も代理母出産を生命の尊厳に反するとの意見がある。そのため、母子への安全性を重視するのは当然といえよう。だが、問題は違う。
 この問題は、会見の母娘の話のみであったはずだ。母子は安全で事故が起こらなかった。ただ、事故が起きればその母親の生命は危ぶまれたかもしれない。ただ、彼女(母親)は成功した。もっと、その思いやりを持ってほしいと思われたのだ。世間は冷たい。代理母も法制的に認めていない。だが、彼女を批判し自己の体験でリスクがでは可笑しい。尚、ニュースの意見募集の4人目の「憤り」という言葉も不適切。あなたは当事者(加害者と被害者)ですか。原告が被告にいうなら「憤り」も正しい使われ方です。他人の事で「憤る」という態度は何事ですか。それはあなたの主観で主張して言うからそうなるのです。なるべく、中立に客観的に書く。それを我々は疎かにし、自分の主張に独善になり配慮が足りないものになりえる。つまり、相手の思いや思考を理解し公平や中立に心掛けないといけない。そのため、どの世界も過激派の立場は歓迎されず、中立的な立場を求める。ならば、文章力という問題も作者自身の精神的な問題や常識度が出てくる。自分が苛立つ気持ちがあり書くと、誰も不愉快な気分にさせる文章になりえる。だから、文章表現とは自分の感情と文章に間を少し空けて書くのが重要なのである。
 「復讐はあるか・憎しみはあるか」という質問者の問いにも同じことが言えるのではないかと思います。復讐するや憎むは自分の欠点を認めず、相手に一方的な悪を主張する事です。紛争や喧嘩もどちらが正解や正論とかありませんね。紛争が起きた時に裁判で自分が正論だと主張する人がいますが、民事訴訟は和解が多く勧告も多いのです。ですから、どちらかが譲る、いいえ両方が譲り合う事が重要です。第三者の人の忠告は誠意を持って受け取りましょう。でも、当事者同士が和解できることが大切です。お互いが欠点を認めることが大切です。
 哲学も自分の主張が正しいという独善的態度も感心しません。まず、哲学の論争も彼らが相手に嫌味や悪気を思って対立するのではなく、彼らの大事な考えや譲れない思想で対立します。つまり、自分の正義と相手の正義のぶつかり合いで、どちらも人間として恨みや復讐を第一に考えていません。つまり、実存主義と構造主義の対立もサルトルとレヴィ・ストロースの論争も、彼らの正義の価値観が異なったことです。サルトルはマルクス主義者ではないがマルクス主義に正義があるとおもった。レヴィ・ストロースは歴史が重要と思った。それは、サルトルが歴史を重要とは考えなかったことにある。しかし、1970年を境に実存主義から構造主義に変わった。
 構造主義とは何か。天才言語学者ソシュールが、言葉は物を表す物でしかないという事からです。つまり、「犬」は動物を表すのでなく、ある動物に人間が「犬」と命名したことにあります。犬は英語は「dog」ですね。それが、比較言語学で「一般言語講義」なのです。それをソシュールが発見した。そのソシュールも夭折した。だが、学生は講義ノートを合わして作ったのが「一般言語講義」です。
 レヴィ・ストロースは構造人類学者です。彼はユダヤ人で、フランスで哲学教授の資格を得たが、それでも幼少時代の趣味で人類学を諦められず、ブラジルに渡り人類学を教えました。そのブラジルの先住民の研究がレヴィ・ストロースを構造主義に導いたのです。彼が構造主義の親です。
 今はポスト構造主義いや、構造構成主義ですね。どう時代が変化するか楽しみですね。
 かなり話が脱線した。復讐の話だっけ。まず、自尊心がないから復讐を誓うのです。自分にプライドを持ちなさい。そうすれば復讐に明け暮れるのが馬鹿に思えますよ。自分の欠点を克服しましょう。
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 あらためまして こんにちは。


 ただし 参考資料のみの投稿です。

 ▲ (パウロ:ローマの信徒たちへの手紙12:9-21) ~~~~~~
 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(申命記32:35)と書いてあります。

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (箴言25:21-22)

 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 解釈を述べませんが 注意が必要だとも思います。
 1. 信仰(非思考)の問題である。
 2. 時代情況が 踏まえなければならない文脈としてある。
 3. ただし 合理的で納得しうる解釈ならば むしろ自由にこころみるのは 問題ないと思われる。
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こんにちは、No11です。
booter さんの、その後の回答者に対するお礼などを読んでいて、考える所があり、再書き込みをいたします。


>> <復讐することの意義は,何か>
>> <復讐は,何を生むか>
>> <復讐には,正当性が有るか>
>> <復讐の念を持つことが,生きる意味なのか>
>そこです! 
>核心をついて頂きありがとうございます。
>復讐の念は沸き起こるが、社会正義に反している。そのジレンマに悩んでおり、どう捉えれば良いのか分からないのです。


質問者 booter さんは、「復讐」および、「憎しみ」に対して、哲学的解釈を求めているのが、強く感じられました。
それが、booter さんを救う一つの道だと理解したので、突き詰めて、本質的解釈を試みました。

「復讐」「憎しみ」は、強いイメージを持っています。ですから、そのイメージに左右されて、それらが悪とか、倫理に反しているとかの考えになりがちですが、それらをイメージから離れた、言葉で本質的に捕らえ直して、その事を見つめることが、 booter さんの「背負っている荷物」が何であるか、客観的に見ることが出来ると思います。

まず、「復讐」ですが。色(イメージ)のない言葉で表現すると、

自己の存在(生きること。より良く生きようとすること。自尊心。経済的な保障)等を、脅かされたり、または、大きく破壊された場合、それを行った対象の「存在」に打撃を与えて、自己の存在を回復しようとする行為。

同様「憎しみ」を同じ様な、色のない言葉で表現すると、
(これは、復讐と重なる部分が多いのですが、行為以前の感情とすればいいと思います。つまり)
自己の存在(生きること。より良く生きようとすること。自尊心。経済的な保障)等を、脅かされたり、または、大きく破壊された場合、それを行った対象を忌み嫌う感情。

どうでしょうか?上の解釈は府に落ちたでしょうか?
とにかく、イメージの付いた言葉は良くありません。色眼鏡で世界を見ているようなもので、そのままの姿が捉えられません。

さて、ここで、上の疑問を考えて見たいと思います。

>> <復讐することの意義は,何か>
復讐を、自己を回復する行為に書き換えます。
自己を回復する行為に意義はあるか、・・・・ 自己回復する意義がある。(自己の尊厳等が回復できる)

>> <復讐は,何を生むか>
自己を回復する行為は、何を生むか・・・・ 自己が回復できます。相手へのダメージを生みます。場合によっては、相手も自己回復したいとの気持ちが生まれる場合もあるでしょう。
(しかし、これは、質問者さんの自己回復する「手段」により、相手の反応は違ってくるでしょう。つまり、再発防止の効果もあるでしょう。)

>> <復讐には,正当性が有るか>
自己を回復する行為には、正当性があるか・・・いままで、考察を重ねたように、(言葉を変えて考えると)必ずしも正当性でないと、結論する訳にはいきません。
例えば、再発防止としての、正当性があるとも言え。自己を回復するという正当性があるとも言えます。
ただ、悪と言う言葉は、色が付きすぎているので、使いませんが、法に触れなければ、問題ないとも解釈できます。
または、本人が法に触れても、その覚悟があれば、それも問題でないと考えることも出来ると思われます。
(法が、必ずしも本質的な正義ではないからです。)


>> <復讐の念を持つことが,生きる意味なのか>
自己回復の念を持つことが、生きる意味なのか・・・これは、No11でも回答したように、行為の意味に答えを見出すのは難しいので、別の方向から考えたいと思います。
自己を回復させたいと考えるのは、人情だと思います。
ただ、それは、上で、書いたように心理的には、「荷物を背負う」事に似て、本人には、重苦しい思いが付きまとうと思います。
その思いを続けるのは、精神衛生上好ましいと言えません。
その荷物は早く降ろしたほうがいいと思います。

なお、上で自己を回復する行為としましたが、完全に自己を回復することは無理で、ある程度回復されると、解釈してください。

それから、自己回復の行為後の心情はどうなるか、という問題があると思います。

これは、実例をもって、紹介したいと思います。
自分の知人にも、ある恨みから、自己の回復の行為を行った人がいます。
相手へ打撃を与えるという目標は、半分しか達成できなかった様ですが、行動せず悶々としているより、行動したほうがとても気持ちが楽に
なったと言っていました。

なにか、良くないことを言っているような印象を受ける人もいるかもしれ知れませんが、僕は、道徳論を好みません。
客観的な、現実的(哲学)の上に立つことを良してしています。

道徳論を語るにしても、「生」とか「悪」とかについても、徹底的に考える必要があると思っています。
例えば、人殺しを重ねた、極悪犯がつかまって、刑が確定したとき、殺された人の親族が、「犯人を捕まえてくれた、関係者様。ありがとうございます。これで、娘にやっと報告ができます。」という言葉をリアルに受け止めたいのです。

booter さん、突き詰めて、「復讐心」を色のない言葉になるまで突き詰めて考えて、それで、考えてみました。
色の付かない言葉を使うと、いかに、物事がクリアーに見えるか驚かれませんか?

この解釈が、「腑に落ちない」なら、また、回答へのお礼で再度要求ください。
もう一度、突き詰めて、考えたいと思います。

どうか、客観的な言葉で、客観的に問題を捉えることを希望します。
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>それを産み出し、かつ包含している者に任せておくことが、いずれは最も厳しく残酷な、最高の復讐となる。



 「それを生み出し」ているのは、 司法に従事している者及び法による統治を積極的に認めている者 を指しているのか?


 三角関係による 、その社会の一片 としての今までどおりの生き方と言うわけですね そこからもう一歩踏み出したい気が...

 もし最高にして最も残酷な第三者というか世界による復習をしたら(しているつもりでいたら)その無慈悲さにより自らの精神が崩壊するのでは(例えば繊細な感受性が死んで音楽を楽しめなくなるとか)


 悪い事した奴(赦せないと判断した奴)は、それを記憶としてしまっておけば、その想念がカルマのエネルギーとなって そいつに帰っていく ってことか

 そーかなー... のうのうと、嬉々として暮らしていたりして。

 過去のラクシュミさんとアスラさんの意見って事で。
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