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はじめまして。
現在大学3年で、サルトル哲学を勉強しております。

『存在と無』について勉強しているのですが、「対自存在」と「即自存在」の意味がよく分かりません。この2つはどういう意味なのでしょうか?

ご存知の方いらっしゃいましたらご指導の方よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (2件)

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。

例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指します。つまり、人間がその「対自存在」にあたるとサルトルは言うのです。つまり人間は、道具のようにその本質を与えられているものではなく、気付いた時にこの世に生きているものであり、そのあとで、自らをつくっていくものだからです。例えば人間には、赤ん坊として生まれた最初から、卑怯者や英雄はいません。しかしその後の人生の中で、自らの意志で人生を選択し決断して、ある者は卑怯者になり、ある者は英雄となっていくのです。ですから、サルトルの人間観は、人間という存在はあらかじめ何者になるか決まっておらず、何者にもなる可能性があるという意味で自由であり、「人間は自らをつくるところ以外の何ものでもない」と言ったのでした。そういった意味でサルトルにとって人間とは、常に、ある自分を乗り越えて、無である未来に対し自己の可能性を「投企」していく(=投げ出して創造していく)存在であるとしたのでした。そのためサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言ったのです。要するにサルトルにとって、人間の本性(=本質)は存在せず、その後にその人が自ら選択した行為によって、その人が何者であるかが定義されるとしたのです。

 なお、サルトルは、惰性や多忙に流れて組織の部品になり下がり、マスコミの論調に判断をゆだねて自己を合理化し、自己を主体的に選択する決断を回避する「即自的」(「即自」ではない)な生き方を、「自己欺瞞」として批判しています。
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この回答へのお礼

対自存在については特に分かりやすく解説していただき、ありがとうございます。
これで自己欺瞞についても理解することができました。

お礼日時:2007/05/20 12:52

「対自」という概念はサルトルがヘーゲルの提示した概念に沿って自己流に少しアレンジしたものなので、ヘーゲル流の難解さがありますね。

(ヘーゲルは簡単に述べればよいことも難しそうに説明してもったいをつける俗物精神の持ち主だと思います。)

非常に大雑把にいうと、存在というものをAとしたとき、Aと¬¬A(=A)しか考えない存在を「即自存在」といっているようです。(¬は否定の意味。)よって、「即自存在は完全に自己充足している」とか「即自存在には一切の欠如もない」などと言われます。¬Aを取り込まない考え方なのですから、論理的にも当然ですね。

一方で、「対自存在」はAと¬A(の一部)を包括する存在のことで、人間の意識を対自存在と規定することにより、常に自己意識の外部への拡張、社会(自己の外)へのかかわりを積極的に意味のあるものとするところが、サルトルの一番の特徴ではないかと思います。その思想を実際の生活の中でも実践したのが彼の偉いところです。(ヘーゲルの実社会への否定的な影響に対して、サルトルのポジティブな影響を見よ!)

「対自存在」としての人間意識は、「自己充足しておらず、常に欠如を持つ」とか説明されますし、「自己否定」という表現でも説明されています。(日本で俗に言う「自己否定」とは違いますよ。非常に誤解されている用語でしょうね。)

めちゃくちゃアバウトに説明しましたが、大きく的は外していないと思います。...どだい、これだけのスペースでサルトルの真髄が説明出来るわけも無いですし、当方の理解も怪しいものです。-失礼しました-
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この回答へのお礼

ヘーゲルが作った言葉というのは知っていたのですが、あまり彼のことは知らなかったので調べてみようと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/20 12:53

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QJ.P.サルトルについて

サルトルについて、いま勉強してるのですが、独学な分、分かりづらい所が多々あります。優しくサルトルについて、教えていただけたら幸いです。
また、書籍やHPなども教えて、もらえると、なお嬉しいです。

Aベストアンサー

 
  ジャン・ポール・サルトルの何について勉強されているのかで話が違って来ます。まず、哲学者としては、「サルトルの実存主義」を唱えた人です。実存主義というのは、唱えた人ごとで随分内容が違うのです。「ハイデッガーの実存主義」「ヤスペルスの実存主義」では、互いに違いがあり過ぎます。
 
  基本的に実存主義は、「かけがえのないこの私の実存」というものを重視します。この場合の「実存」は、他の人と交換できない、「この私の現なる存在」で、例えば、私は女である、私は学生である、私は27歳である、わたしは北海道生まれである……などは、「私の実存の要素」ではあるが、それは私にとって「非本来的」である。(注:この「私」は、話の例で、わたしのことではありません。わたしは性別・年齢・職業など、公開していません)。
 
  非本来的というのは、そういう「女である」「学生である」「27歳である」「北海道生まれである」というような特性・性質は、そういう性質を他にも持っている人がいて、そういう部分は、他者と交換可能で、独自な唯一の「私の実存」の本来的要素ではないということです。西欧哲学で、こういう属性を「本質」とも云います。「私の実存が、私が何であるか=本質に先立つ」とは、こういう意味です。
 
  サルトルの場合、存在(etre)、無(neant)、即自(etre en-soi)、対自(etre pour-soi)、対他(etre pour-autrui)、また意識(conscience)、アンガージュマン(engagement)などの言葉が、その思想を理解するキーになります。わたしは、サルトルはよく知らないので、一般論になりますが。
 
  サルトルは、意識は対自、対他存在であって、常に対象を必要とするが故に、「無」であるとします。この場合、実質の存在としての実体がなく、機能として、対象を追求し求め、投企してゆく作用のなかに意識の存在はあり、それ故、意識は実体がなく、機能として「自由」であるが、「無」であるとなるのです。対象を求める作用は果てしなく、意識の自己実現というか、実存は充足されることがなく、意識であること、対自・対他存在であることは、完結のない無であり、「自由」は「呪い」であるとなります。
 
  即自存在(エートル・アンスワ)は、物質の存在などがそうで、何か対象に対して存在があるのではなく、意識ではないが故に、それ自身で充足しており、完成しているともされます。即自には、「自由の呪い」はないのです。
 
  即自こそ、存在であり、対自・対他は意識であって、意識は対象を求める過程・作用であって、存在として不完全で、無であるということになります。
 
  サルトルの小説に『嘔吐』というものがありますが、この「嘔吐」とは、意識は、常に対自(自己を意識し、自己を対象とする)であり対他(他者を意識し、他者を対象とする)であって、対象との関係にある「無」なのですが、「ものそれ自体」を考えていると、それは「即自」であり、そのような「存在のありよう」は、意識を超越しており、意識である「私」にとって、到底受容しがたく、生理的に反発を抱くことしかできないものであり、即自存在の「体験」は、まさに「嘔吐」を催させるものに他ならない、ということから、こういうタイトルが付いています。
 
  無である意識である「私」は、いかに自己の実存を充足できるか。サルトルは、対自・対他である意識は、社会的重要事項に「関与・参加(アンガージュマン)」することで、実存を実現できると考えました。社会参加を通じて、人は、ただの人一般から、独自な「その人の実存」へと到達できるというのです。サルトルは、このアンガージュマンの考えから、現代社会(サルトル当時の)では、参加するにたる価値ある社会運動は、マルクス主義しかないと主張し、マルクス主義に接近して行きます。
 
  思想家としては、一体何を主張しているのか、一貫性がないとも言えるのですが、それがサルトルの「実存主義」だということにもなります。
 
  サルトルの思想は、いまは人気がなく、それでも次のような本があるようです。(サルトルは、文学的実存主義のアルベール・カミュなどと対比されます。メルロー=ポンティとも当然親交がありますが、メルロー=ポンティの方が思想家として豊かであるような気がします)。
 
  >「サルトル―実存主義の根本思想」中公新書 124
  >矢内原 伊作 (著) 単行本 (1967/02/01) 中央公論新社
  >価格: ¥420
 
  >「ハイデガーとサルトルと詩人たち」NHKブックス
  >市倉 宏祐 (著) 単行本 (1997/10/01) 日本放送出版協会
  >価格: ¥1,120
 
  >「実存主義とは何か」
  >J‐P・サルトル (著), 伊吹 武彦 (翻訳) 単行本 (1996/02/01) 人文書院
  >価格: ¥1,900
 
  >「同時代人サルトル」講談社学術文庫
  >長谷川 宏 (著) 文庫 (2001/08/01) 講談社
  >価格: ¥1,100
 
  新書などで読んでみて、大体の輪郭を把握されることです。
  以下の『存在と無』はサルトルの主著ですが、わたしは読んだことはありませんし、随分本が高いです。この本で「存在」とか「無」と呼んでいるのが、先に述べた、即自や対自・対他です。
 
  >「存在と無〈上〉-現象学的存在論の試み」
  >J‐P サルトル (著), その他 単行本 (1999/05/01) 人文書院
  >価格: ¥7,600
 
  >「存在と無〈下〉-現象学的存在論の試み」
  >J‐P サルトル (著), その他 単行本 (1999/07/01) 人文書院
  >価格: ¥7,600
 

 
  ジャン・ポール・サルトルの何について勉強されているのかで話が違って来ます。まず、哲学者としては、「サルトルの実存主義」を唱えた人です。実存主義というのは、唱えた人ごとで随分内容が違うのです。「ハイデッガーの実存主義」「ヤスペルスの実存主義」では、互いに違いがあり過ぎます。
 
  基本的に実存主義は、「かけがえのないこの私の実存」というものを重視します。この場合の「実存」は、他の人と交換できない、「この私の現なる存在」で、例えば、私は女である、私は学生である、私は...続きを読む

Q即自存在 対自存在の英語訳は?

サルトルの即自存在と対自存在を勉強しています。 サルトルについて書かれた日本語・英語の本を読んでいる最中なのですが、日本語版では重要かつ有名な「即自存在」「対自存在」が英語の方の本では見つけることができないんです。かわりにpre-reflective consciousnessとreflective consciousnessが出てくるのですが・・・これが即自存在と対自存在の英訳ですか? いまいちしっくりこないのですが・・・。

知ってる方いましたら教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

Hazel E Barnesの英訳では即自存在はBeing-in-itself、対自存在はBeing-for-itselfとなっています。
pre-reflective consciousnessとreflective consciousnessは、そのまま該当する箇所を見つけることができなかったのですが、おそらく日本語では反省以前的意識と反省的意識になるのでしょう。

Qサルトルの言葉らしいのですが「自由とは自由でありたいという精神が自由で

サルトルの言葉らしいのですが「自由とは自由でありたいという精神が自由であること」という格言の英語版をご存知の方いらっしゃらないでしょうか?
サルトルの格言を集めた英語版HPでも該当しそうなのが見当たらず困っております。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

> 「自由とは自由でありたいという精神が自由であること」

これはサルトルの言葉ではなく、サルトルが『存在と無』のなかで言った

「人間存在がまさに自己自身の無であるべきであるかぎりにおいて、人間存在は自由である」(『存在と無』第四部第一章I「行動の第一条件は、自由である」p.67 ちくま学芸文庫)

という言葉のなかの「自己自身の無」というところを、解釈して言い表した文章なのだと思います。

この「自己自身の無」というのは、

(1)人間存在は、その過去によって規定されるがままに行為をおこなうようなことはありえない
(2)意識に対して外的な何ものも意識を動機づけることができない
(3)人間存在はまずはじめに存在して、しかるのちに目的に対して関係をもつような何ものかであるのではなく、自己の目的によって自己を規定する一つの存在である

という三つを総合して言っているのですが、おそらく上記の文章を書かれた方が、この三つをまとめて「自由でありたいという精神が自由であること」というふうに解釈されたんでしょうね。

もちろんわたしがそう思うだけで、『存在と無』を全巻(なにしろ三分冊なのでね)を読み直してみたら、そんな文章があるかもしれないんですが、だけど、おそらくはないと思います。ちょっと表現がおおざっぱなので。

ですから、それに当たる原文の英訳というご質問の回答は、ありません、という以外にありません。

ところで、ちょっと思ったんですが、サルトルは「決定論」(すべてのことは必然的に起こる、自分の行動も外部の積み重ねによって、そう行為させられている)との対比で「自由」ということを論証していきます。そうして

「人間は全面的に決定されているか(それは容認されないことである。なぜなら、わけても、決定された意識、外から動機づけられた意識は、それ自身、単なる外面性となり、もはや意識であることをやめるからである)、あるいは、人間は全面的に自由であるか、そのいずれかである」(『存在と無III』p.42-43 引用同)

という。つまり、ここでは動機すらも否定されているんです。あらゆることが自己決定であり、自発性に基づくものである、と。あらゆることに自由である、ということが、意識の本質である、それゆえに、自分に関わるあらゆることは、自己決定に基づくものであるから、自分にはあらゆることに責任があるのだ、というふうに、この先つながっていきます。「或る意味で、私は、生まれたことについて選ぶ」(p.319)とまで。

そんなふうに考えていくと、「自由とは自由でありたいという精神が自由であること」というまとめはなかなか深いな、と思います。というのも、「自由でありたい」というのは、要するに外部からの束縛を逃れたい、という外的な要因から生じた意識です。けれども、人間の本来の意識、自由な意識というのは、そんな思いからも「自由であること」、つまり、三番目の「自由」というのは、要は "smoking free" の "free" と一緒で、“自由でありたい”という思いからすらも、自由であるのだ、と言っているわけですね。

さて、quotation サーチで"Sartre","freedom" で検索すると、山のようにヒットするのが
"Freedom is what you do with what's been done to you."
です。

「自由とは、あなたの身に起こったことに対してあなたのとる行動にある」ぐらいの意味でしょうか。これもおそらく直接の引用ではなく、第四部第一章IIIの「自由と責任」という箇所のまとめなのだと思います。

おそらく質問者さんはきっと、これは上記の言葉とはちがうとお考えで、この質問を立てられたのだと思うんですが、結局はおなじことを別の角度から言っているのだと思います。

だから、上記の英語をもとに、ご質問で書かれた文章を英訳してみると、
Freedom is what you are free from what you want to be free.
ということになるでしょうか。
何か、妙に格調高くないね……。いよいよサルトルから離れちゃったみたい。

以上、何らかの参考になりましたら幸いです。

> 「自由とは自由でありたいという精神が自由であること」

これはサルトルの言葉ではなく、サルトルが『存在と無』のなかで言った

「人間存在がまさに自己自身の無であるべきであるかぎりにおいて、人間存在は自由である」(『存在と無』第四部第一章I「行動の第一条件は、自由である」p.67 ちくま学芸文庫)

という言葉のなかの「自己自身の無」というところを、解釈して言い表した文章なのだと思います。

この「自己自身の無」というのは、

(1)人間存在は、その過去によって規定されるがままに行為をおこ...続きを読む

Q汎通的規定の原則 カント

表題の通り、カントの「汎通的規定の原則」について知りたいのですが。
一応、ネットで検索しましたが、研究論文の目次としては有りましたが、内容が見られません。

どなたか、内容又は解説書等を、ご存知でしたらお知らせください。

Aベストアンサー

fishbowl66さん

そうでした、その点が良くわからないと仰っていたんでしたね。
つまり、「個々の実在の間にはカントの説いた〈汎通的規定の原則〉が作用している」(『価値の哲学』49頁)
という箇所です。

この価値序列の文脈ではこの文章に続いて、「W1は・・・汎通的に規定される。かく規定されることによってW1に、そしてまたW2・W3・W4……にも普遍妥当的意味を超えて新たに個体的な意味が付与されることになる」(同上)、とありますように、ここで大事なのは区分される価値(Wert)のそれぞれに「個体的な意味」があるということです。

つまり、ここで「汎通的規定」という言葉は、「普遍妥当的意味」に対して、「個体的な意味」というものを明確に表すために用いられているのです。

では、「汎通的規定」(durchgaengige Bestimmung)とは、どういう意味なのかを以下にみていきたいと思います。

「命題: すべて存在するものは、汎通的に規定されている」
(Der Satz: alles Existierende ist durchgaengig bestimmt)
(『純粋理性批判』A573/B601)
このようにカントは言うわけですが、「或るものが汎通的規定を受けているということは、それが普遍ではなく、個物であるということの、したがって、単なる概念ないし可能的なるものではなく、現実的に存在するものであるということの、論理的な表現なのである」(『カント辞典』427頁以下)、ということに過ぎません。つまり、「汎通的に規定されている」ということは、現実に存在する「個物である」という意味です。


『価値の哲学』の文脈では、それ以上の意味では用いられていませんが、一応、言葉の意味からも説明したいと思います。

まず、durchgaengigという形容詞(副詞―注:ドイツ語の形容詞はそのままの形で副詞としても用いられる)は、「(全体を)一貫した」という意味で、「すべてくまなく」ということになります。それゆえ、「普遍はその概念内容において未規定的な部分を残していることによって、複数の対象に当てはめることができるのに対し、個物はその規定に関して残るくまなく規定済みであることによって普遍ないし概念から区別された現実的な存在者となる」(『カント辞典』428頁)、という説明が見られます。

しかし、「汎通的規定」という概念は、「カント固有の概念というわけではない」(同上)。当時はガチガチの理論理論した哲学がドイツに流行していましたが、ヴォルフ学派の影響下で育ったカントの周りで普通に使われていた概念だということです。

カントがこの概念を用いた意図は、神の概念を巡るそれまでの形而上学との対決にありますが、それは質問外のことですので、その点には触れずにおきます。

〈補説〉
しかし、そのカントの先達の形而上学との対決について詳しく知るには、先に挙げられていた中橋氏の論文「カントの批判主義と批判的動機」(『哲学と宗教』に所収)が理解の助けになると思われます。「汎通的規定の原則」について、
「この用語は、(・・・)もとはライプニッツらによって影響を与えられた術語であった」(32頁)、「このように『汎通的規定』という語は、ライプニッツ・ブォルフ学派から受け継ぐものであるが、(・・・)ヴォルフが『汎通的規定の原理』を『個体性の原理』と考えていたのを受けて、(・・・)バウムガルテンは『汎通的に規定されたものは存在する』としていた」(35頁)、というように、カントの批判哲学の根本的な問題をこの点から考察する、というものです。

余談ですが、この存在論の問題はこれはこれで面白いテーマですね。個体とはなにか?、花の本質は普遍性にあるのか、個体性にあるのか?、など・・・
これも価値の哲学かな?その意味では大切かもしれません。やはり意識や志向性というのがポイントなのでしょうか、、、(独り言です・・・)


〈蛇足〉
しかし、『価値の哲学』のように文脈である程度わかる場合は、哲学の奇妙な言葉にそれほど捉われる必要はないとも考えられます。たとえば、ドイツ語を習い始めたときは、こうした一語に引っかかってなかなか論旨を追うことができません・・・おそらくそれと同じことだと思います。
でも、それにこだわりたい、気になるので調べたい、そうでないと気がすまない(笑)、、、それが知的好奇心 → → → フィロゾフィー?

でも時間はかかります・・・おやすみなさい☆

fishbowl66さん

そうでした、その点が良くわからないと仰っていたんでしたね。
つまり、「個々の実在の間にはカントの説いた〈汎通的規定の原則〉が作用している」(『価値の哲学』49頁)
という箇所です。

この価値序列の文脈ではこの文章に続いて、「W1は・・・汎通的に規定される。かく規定されることによってW1に、そしてまたW2・W3・W4……にも普遍妥当的意味を超えて新たに個体的な意味が付与されることになる」(同上)、とありますように、ここで大事なのは区分される価値(Wert)のそれぞれに「個体的...続きを読む

Q国民の三大義務と三大権利について

むかしむかし中学で習ったのですが忘れてしまいました。三大義務と三大権利教えて下さい。ちなみに選挙権が入っているのはどちらでしたか?

Aベストアンサー

三大義務は勤労、納税、子供に教育を受けさせることで、三大権利は生存権、教育を受ける権利、参政権です。
選挙権は「権利」になります。(義務だったら、投票率があそこまで低くなることはないかと…)。

参考アドレスも掲載しておきます。

参考URL:http://www.city.miura.kanagawa.jp/index/download/007385;000001.pdf

Q実存主義の理解を深めたい サルトル

こんばんは。
サルトルを読みたいのですが、哲学頭ではないので敷居が高く入り込めない状態です。今までサルトルで読んだのは「嘔吐」「水入らず」「実存主義とは何か」です。実存主義の理解を深めたいのですが、他に何から読むとよいでしょうか?なるべく、哲学用語だらけだったり、長すぎないものがよいのですが、わがままを言わず読みたいと思っています。初心者がおさえるべきサルトルの著作を勧めて頂けると幸いです。よろしくお願い致します

Aベストアンサー

サルトルの著作という事になると、
「嘔吐」「水入らず」「実存主義とは何か」は読んだのであれば、
次は戯曲を読んでみるのがよいと思います。
「蝿」「出口なし」「汚れた手」「悪魔と神」がさしあたりお勧めできます。
「悪魔と神」以外は新潮世界文学47「サルトル」の中に収録されています。
評論では岩波新書に収録されている「ユダヤ人」も読みやすいでしょう。

サルトルの実存主義は、彼自身の哲学理論から来ています。
実存主義とは何かは存在と無のある種の通俗化と取ることができます。
ですから、実存主義を深く理解しようとすると、サルトルの哲学的著作に
どこかでぶつからなければならないでしょう。
存在と無は哲学書の中ではかなり読みやすいほうだと私は思いますが、
それでも予備知識がない状態で読みこなすのはかなり困難です。
初期の哲学論文である自我の超越などは量的にも少なく、
論旨もわかりやすいのですが、やはり一定の哲学的予備知識
(以前の哲学理論をどうサルトルは受け止め、そしてどういう立場から
それを批判し、どう乗り越えようとしたのか)を知らないと辛いと思います。
ですので、哲学的分野に関しては、今回はサルトルの著作ではなく、
サルトル哲学の解説書としてよいと思うものを挙げます。

手に入れやすいものの中でまず挙げるとすれば、
「サルトル―失われた直接性をもとめて 」梅木 達郎著です。
NHK出版のシリーズ・哲学のエッセンスの一冊ですが、
存在と無の内容をコンパクトながら丁寧にまとめてあり、
まずお勧めできると思います。

清水書院人と思想シリーズの中の
「サルトル」村上 嘉隆著も、紙数の都合か若干駆け足ですが、
サルトルの著作を解説しながら生涯を伝記的に追っており、
読む価値はあると思います。

「同時代人サルトル」長谷川 宏著は、サルトルの解説もさることながら、
著者がサルトルをどう読み、どう時代と向き合ったかについても多く書かれています。
純粋な解説書とは言えませんが、全体を通して著者のサルトルに対する
共感があふれており、好著だと思います。講談社学芸文庫に収録されています。

「図解雑学 サルトル」永野 潤著はわかりやすいのですが、
簡潔にしすぎていて、内容的に物足りなさが残ります。
「90分でわかるサルトル」ポール ストラザーン著、
「サルトル」ドナルド・D. パルマー著も単純化しすぎに思います。

岩波新書の「サルトル―「人間」の思想の可能性」海老坂 武著と、
クセジュ文庫の「サルトル」アニー コーエン=ソラル著は、
サルトルが生きた時代状況と絡めての解説という趣が強く、
読む価値はじゅうぶんにあるのですが、
著作の詳細な解説という側面は薄くなっています。

古本屋へ行くこともいとわないのであれば、
「サルトル哲学序説」竹内 芳郎著がだんぜんお勧めです。
存在と無の解説として内容が充実しているのはもちろん、
叙述が生き生きとしかつ明快であり、
私が読んだ中ではこれを超える本はないと思います。
ぜひ入手してみてください。

以上、参考になれば幸いです。

サルトルの著作という事になると、
「嘔吐」「水入らず」「実存主義とは何か」は読んだのであれば、
次は戯曲を読んでみるのがよいと思います。
「蝿」「出口なし」「汚れた手」「悪魔と神」がさしあたりお勧めできます。
「悪魔と神」以外は新潮世界文学47「サルトル」の中に収録されています。
評論では岩波新書に収録されている「ユダヤ人」も読みやすいでしょう。

サルトルの実存主義は、彼自身の哲学理論から来ています。
実存主義とは何かは存在と無のある種の通俗化と取ることができます。
です...続きを読む

Q調査書と成績証明書と卒業証明書の違い

高等学校が発行する調査書と成績証明書と卒業証明書の違いを教えてください。

Aベストアンサー

先の方のご回答通りですが、もう少し詳しく説明すると
(1)調査書=高校入試でいう内申書と同じです。あなたの住所などから卒業したのは何年の何月か、3年間(あるいは4年間)の各教科の成績(一般に5段階の評定)・修得単位数・欠席日数・3年間の高校生活の担任所見・所属したクラブ活動や係活動など、高校が発行する証明書では最も詳しいものです。(卒業式の日以降に発行されたものなら内容的には卒業の証明としても使えます)
(2)成績証明書=調査書の内容のうち、各教科の成績(評定)・修得単位数(場合によっては出欠席)だけが記されたものです。
(3)卒業証明書=あなたがその学校をいつ卒業したかだけが記されています。(卒業証書とは別のものです)
基本的には(1)で(2)の代用をすることは十分可能です(ただし、証明書を提出を求める学校や機関が(1)と(2)の違いをわかっていない場合が多いですが)。ただし(3)のような書類が必要なときに(1)でまかなおうとすると不必要な情報まで相手に伝えることになるのでやめた方がいいです。もしあなたが現役の高校生でこれから卒業式を迎えるなら、卒業式の前日までは「卒業見込み証明書」、卒業式の日からは「卒業証明書」を発行してもらえます。卒業証明書は卒業式の日に全員に1枚ずつ配る学校も多いようです。

先の方のご回答通りですが、もう少し詳しく説明すると
(1)調査書=高校入試でいう内申書と同じです。あなたの住所などから卒業したのは何年の何月か、3年間(あるいは4年間)の各教科の成績(一般に5段階の評定)・修得単位数・欠席日数・3年間の高校生活の担任所見・所属したクラブ活動や係活動など、高校が発行する証明書では最も詳しいものです。(卒業式の日以降に発行されたものなら内容的には卒業の証明としても使えます)
(2)成績証明書=調査書の内容のうち、各教科の成績(評定)・修得単位数(場...続きを読む


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