A 回答 (16件中1~10件)
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No.16
- 回答日時:
★(№15補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
〈やり取り〉という現象が事実として,ここ,にあるのは確かです。
しかし、では,ここ,に、互いに認識し合っている、互いに確認し合っているという
現象があるでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ えっとですね。
まづ基本的に言って このいわゆるデカルトのコギトの問題・そこにおける《われ
なる存在》の問題 につきましては すでに述べたと思いますが わたしはそれほ
ど重要視していません。
考えている。コミュニケーションが始まった。どのようにしっかりと応え答えてい
けるかな。・・・と思うことはあっても だからそのとき いったい存在論がどう
展開されるかといったことは 何も考えていません。
★ 〈やり取り〉という現象が事実として,ここ,にあるのは確かです。
☆ これで 差し詰め じゅうぶんなのです。
とおことわりして:
★ 互いの認識と確認がなければ〈やり取り〉は成立していない。
というのは想定に過ぎません。
☆ 《やり取り》だけではダメだということでしょうか?
いや もちろんそういうふうにさらに突っ込んで考えることも出来ますよ。別にそ
のことを避けてもいないし まして否定もしていません。
つまり だったらさらに互いにきっちりと認識につとめ確認しあって行けるように
するとよい。――こういう問題ではないのですか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~
,ここ,にあるのは、言葉が交わされているという現象のみです。
そこから認識している、確認している主体を想定するのはナンセンスです。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ いえ。そこから主体をみちびき出そうとはしていません。
なぜなら すでにやり取りをおこない合っている時点で 取りあえずその行為の主
体となってもいる。と ふつうに・自然に見るわけです。
さらに《対話》を深めて行こうということになれば そのようにすればよい。
そうすると 主体としての存在が 確実になると あなたは見るということですね?
それは そうだと思います。そのとおりだと思います。
そこまでしない場合は うっすらと互いに行為主体である。ということでしょう。
うっすらとであることは けれども決してウワベだけのマジハリではない。ですよ。
No.15
- 回答日時:
★(№12補足欄) ここは、言葉が交わされ合っている様な形式をしているにしても、
だからといって互いに認識して、互いに確認し合っている様には思えません。それは言
葉が交わされているということから導いた想定に過ぎないのではないでしょうか?
☆ たとえばこのようにそれぞれの自己表現の《やり取り》がおこなわれている。その
認識が なおまだ互いに相互の理解に達していなかったとしても あたかもボールが相
手のコートに入ったということは双方とも確認している。
――これで ひとまるマジハリが現象している。ということでいいのではないですか?
何もコミュニケーションにおいて 真理を相互に了解するといったことをふつうは望ん
でもいないのですから。
★ 想定から論を進めていくのはナンセンスとしか言いようがありません。
☆ そちらから質問としての発信があった。それにこたえてこちらからも発信がおこな
われ これについて受け取りがあった。そういう《やり取り》です。
――これは 《想定》ではありません。
★ ご指摘の,世界を開拓しているもの,とは、,世界が開かれている視点,、,コギトする
〈もの〉,という意味で使用しました。
☆ ぢゃあ ですから いまこのように互いに発信し受信しているというとき それぞ
れにおいてその発信内容や受信内容についてコギトをおこなっています。そういう事実
であり 現実であると捉えます。
No.14
- 回答日時:
>思考している主体,というのは本当に存在しているのでしょうか?
No2です。ここが肝ですよね。
思考している主体にとって思考している主体が完全に存在しているように感じる/思考するということ、になります。
では、その外側からみて思考している主体が本当に存在しているかですがけど、第三者は、存在を証明できない。おそらく自分と同じだろうなと考える程度ですね。
では、人間を超えたなんらかの存在の視点からみて、人間の思考している主体本当に存在しているかというと、本当に存在するものなど一切ないのというところに行きつくだろうとおもいますね。
そして、我は、システムなんだろうと推測してます。
だからこそ、我は我を知ることができない。
いわば、あるゲームの中にいるキャラクターは、そのゲームの外から自分を見ることが絶対にできないのと同じです。
No.13
- 回答日時:
「我思う故に我あり」
たとえば、私が「夕食に食べた鍋は上手かった」と思ったとしましょう。
「思う」という動作は、存在していないと行なうことができません。
なので、私(=我)が「夕食に食べた鍋は上手かった」と思ったなら、私(=我)は存在していることになります。
No.12
- 回答日時:
★(№8補足欄) 何故他人に考えや思考が伝わると、考えて思考している
主体が我になるのでしょうか?
☆ 互いに認識しあっており その伝達についても互いに確認しあっている
からです。
むろん 絶対の確実だという意味ではありません。その行為や事象が起きて
いるということ。これだけで構わないという捉え方です。少なくともふたり
によって認識され確認されているという事態です。
★ また、ここでの,他人,とは何のことでしょうか?
☆ 伝達しているふたりのあいだで 一方が他方にとって他人です。
★ ここでの,他人,とは,世界を開拓しているもの,のことを指しているので
しょうか?
もしそうなら、その,他人,を想定するのはナンセンスとしか言えません。
☆ 《世界を開拓しているもの》というのが よく分かりませんが。
繰り返すなら ひとりが他人を相手にして 自己表現し何かを伝えようとし
ている。確認し合えたなら そのマジハリが それぞれの人間が現実である
という事態となると考えます。
★ ,世界を開拓しているもの,を知ることは不可能です。
☆ 《開拓》の意味をおしえてください。
No.11
- 回答日時:
「我思うゆえに我あり」
この‘思う‘というのを‘認識している‘と解釈すると、
たとえどこかからの思考が入ってきているとしても
それを認識しているものとしての我は存在しているということになり
少なくともそういう我の存在は確実である、
ということになるのではないでしょうか。
認識した瞬間にその認識の主体である我は存在する。
その入力がどこから来るのかにかかわらず。
みたいな解釈で問題ないと思います。
No.10
- 回答日時:
補足を試みます。
>言葉を発している事が、思考をしている主体の存在を証明している。という事は分かるのですが、何故その主体が,我,になるのでしょうか?
なるほど。言葉を発している主体が「我」ではなく、別の何者かである可能性があると言うのですね。しかし別の何者かである可能性とは、どういうことなのでしょう。例えば、SFなどでよくありますが、第三者のテレパシーで操られているとか、コントロール下にあるような状態でしょうか?
>>思考している彼が存在することの何よりの証拠です。と思考しているのは一体誰なのでしょうか?
これは簡単です。読者であり、より局所的にいえば、私です。
>ではそれを思考しているのは、また一体誰になるのでしょうか?
私の報告を読んだ、質問者さんではないでしょうか。
>おそらくこの問いかけは永久に続くと思います。
上の様に応えていけば、問題ないと思ったのですが、ダメでしょうか?
>では改めて聞きますが、,思考している主体,というのは本当に存在しているのでしょうか?
お言葉を返すようですが、ご質問を読む限りでは存在していないという懐疑を私が持つには至りませんでした。存在していると思うのです。逆に存在していない疑う理由を教えてください。
No.9
- 回答日時:
「我思う故に我あり」、これは真である。
と、述べた者である。削除されて、一部削除されている。
観なければ分からない。昔から言われている。百聞は一見に....。
峻烈、苛烈、熾烈は死にそうになければ分からない、遠い道のりのさえぎる山谷を超えなければ分からない。
以上である。
No.8
- 回答日時:
★(№5補足欄) 一般的な自我(思っている主体としての私)を証明出来るか
どうかについてのbragelloneさんの意見を聞きたいです。
☆ 9. 《思っている主体・考える主体》としてのわたしは 経験事実とし
てつねにあります。そしてただし同時に それゆえに《われあり》といった存
在論をみちびくことは 大げさであるとも考えます。
10. つまり 《証明する》必要はないと捉えます。それは 言いかえると
先ほど《経験事実としてつねにある》と表現したことは むろんわれありとい
う存在が 相対的なものに過ぎないということを物語っているのだと思います。
11. 《思う・考える》⇒《その行為主体は われである》⇒《そのわれが
存在していることに 別にうたがいを入れる必要はない》。なぜなら その思
いや考えは やがてほかの人に伝えられることになるからです。そのような互
いのカカハリまたは具体的なマジハリ これがあれば 人間にとっては紛れの
ない現実です。
12. なお ここで《自我》という言葉には わたしは抵抗があります。な
ぜなら 《わたしが(エゴー;イッヒ;アイ)》という言葉をわざわざそう翻
訳したのですが 《わたし・われ》と言えば済むはずだからです。《自我》な
んて言うと わたしとは別の何かが――何か別のわたしが――あるかに思って
しまいます。
13. 要するに デカルトが言ったにせよそうではなかったにせよ このコ
ギトの命題は 別にどうということを言ってはいない。と捉えます。
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回答ありがとうございます。
デカルトの「コギト」については哲学史や他の哲学者を交えて色々な解釈があるとは思うのですが、ここではそのデカルトの言った「コギト」の背景や解釈ではなくて、一般的な自我(思っている主体としての私)を証明出来るかどうかについてのbragelloneさんの意見を聞きたいです。
回答ありがとうございます。
>「我思う故に我あり」、これは真である。
上記の理由について、もし失礼でなければ説明してもらえると幸いです。
尚、デカルトの「コギト」については哲学史や他の哲学者を交えて色々な解釈があるとは思うのですが、ここではその様なコギトの解釈ではなく、「一般的な自我(思っている主体としての私)は成立しうるか」についてのあなたの意見を書いて頂きたいです。
回答ありがとうございます
>>「我思う」という言葉を発した時点で、言語使う主体である「我」は既に「ある」のです。彼が言語を使い、言葉を記しているということそれ自体が、思考している彼が存在することの何よりの証拠です。
上記についてなのですが、
言葉を発している事が、思考をしている主体の存在を証明している。という事は分かるのですが、何故その主体が,我,になるのでしょうか?
また、>>思考している彼が存在することの何よりの証拠です。
という部分についてなのですが、
>>思考している彼が存在することの何よりの証拠です。
と思考しているのは一体誰なのでしょうか?
それも「彼」でしょうか?
ではそれを思考しているのは、また一体誰になるのでしょうか?
おそらくこの問いかけは永久に続くと思います。
では改めて聞きますが、,思考している主体,というのは本当に存在しているのでしょうか?
これは簡単です。読者であり、より局所的にいえば、私です。
>ではそれを思考しているのは、また一 体誰になるのでしょうか?
上記のそれを思考しているの,それ,とは、あなたの,思考しているのは私です。,という答えであり、その答えに対して「ではそれを思考しているのは、また一体誰になるのでしょうか?」と問いているのです。
故に思考しているのは報告を読んだ私ではありません。
回答ありがとうございました。
文の中で解らない部分も多くあったのですが、
《思う・考える》⇒《その行為主体はわれである》⇒《そのわれが存在していることに別にうたがいを入れる必要はない》。なぜならその思いや考えはやがてほかの人に伝えられることになるからです。
この部分について質問なのですが、
何故他人に考えや思考が伝わると、考えて思考している主体が我になるのでしょうか?
また、ここでの,他人,とは何のことでしょうか?
ここでの,他人,とは,世界を開拓しているもの,のことを指しているのでしょうか?
もしそうなら、その,他人,を想定するのはナンセンスとしか言えません。
何故なら想定に過ぎないからです。
勿論逆に、,他人,は存在していない。というのもナンセンスです。
故に,他人,を想定して論を進めていくのはナンセンスとしか言えません。
,世界を開拓しているもの,を知ることは不可能です。
回答ありがとうございます。
以下の部分について質問させて頂きます。
>>☆ 互いに認識しあっておりその伝達についても互いに確認しあっているからです。
この,互いに認識、伝達しあう,とはどういうことでしょうか?
ここは、言葉が交わされ合っている様な形式をしているにしても、だからといって互いに認識して、互いに確認し合っている様には思えません。それは言葉が交わされているということから導いた想定に過ぎないのではないでしょうか?
想定から論を進めていくのはナンセンスとしか言いようがありません。
ご指摘の,世界を開拓しているもの,とは、,世界が開かれている視点,、,コギトする〈もの〉,という意味で使用しました。
回答ありがとうございます。
>>☆ たとえばこのようにそれぞれの自己表現の《やり取り》がおこなわれている。その認識がなおまだ互いに相互の理解に達していなかったとしてもあたかもボールが相手のコートに入ったということは双方とも確認している。 ――これで ひとまるマジハリが現象している。ということでいいのではないですか?
〈やり取り〉という現象が事実として,ここ,にあるのは確かです。
しかし、では,ここ,に、互いに認識し合っている、互いに確認し合っているという現象があるでしょうか?
互いの認識と確認がなければ〈やり取り〉は成立していない。
というのは想定に過ぎません。
,ここ,にあるのは、言葉が交わされているという現象のみです。
そこから認識している、確認している主体を想定するのはナンセンスです。
ありがとうございます
まず前提に、,認識、確認している主体,を,ここ,に想定するということは、コギト的主体(思っている、思考している主体)を,ここ,に想定する事と同意になってしまう。そのことについては問題ないでしょうか?
これを前提にした上で、
>なぜならすでにやり取りをおこない合っ ている時点で取りあえずその行為の主体となってもいる。とふつうに・自然に見るわけです。
この上記の,その行為の主体となっている。,の,主体,とは何を意味しているのでしょうか?
もしこれが、認識、確認している,主体,を意味しているのであれば、それはコギト的主体(思っている、思考している主体)を,ここ,に想定する事と同意になってしまいます。
つまり私は、〈やり取り〉という現象が,ここ,に成立しうる上で、認識、確認している主体、つまりコギト的な主体(思っている、思考している主体)は想定しえないと言いたいのです。
回答ありがとうございます。
では最後に、
★(№8補足欄) 何故他人に考えや思考が伝わると、考えて思考している主体が我になるのでしょうか? ☆ 互いに認識しあっておりその伝達についても互いに確認しあっているからです。
ここで最初に質問したことなのですが、
結局、
何故、〈やり取り〉が現象としてここにあるという事から、考えている、思考している主体が我になるのでしょうか?
尚、やり取りという現象から認識している主体、確認している主体を想定するのはナンセンスです。
さらにそこから認識している、確認している主体を我としてしまうのは最もです。