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 アダムとイブが禁断の果実を食べたということが、
聖書に載っているようですが、
意味がわかりません。
簡単に言うと、どういうことなのでしょうか?

A 回答 (27件中1~10件)

私見ですが、まだ人間として精神的にも未発達の状態(神から許してもらっていない)の中で性交渉をしたのではないかと思っています。

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これは食べてはいけないよ、と神様にいわれた知恵の実(リンゴ)を食べ


知らなくてもいい知恵をつけてしまいました。
それが原因で彼らはエデンを追い出されたわけです。

知恵というのは往々にして知らなければ幸せでいられたのに、というものが少なくありません。
彼らは知恵をつける=神に逆らったために辛苦を舐めるのです。
神に逆らう知恵を持たなければ今でもエデンでのほほんと暮らしていたのでしょうか。
ちなみに最初に知恵の実に手を出すのは悪魔に唆されたイブです。
この辺りにすでに色濃く聖書の男尊女卑っぷりが出てますよ。
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人間の脳と脊髄の神経系だけを取り出して見てみましょう。

木に見えるでしょう。
つまり、神は人間の五感で味わうことのできる楽しみをすべて許されたのですが、ただ一つ性的な快楽だけは許されなかった。
つまり性的な快楽こそが禁断の果実だったのです。だからイブは性器が見えないよう隠したのです。性的な恥じらいを憶えたのです。
性的なエネルギーは人間を霊的に進化する力をもっていたのですが、それを放棄したことを神はお怒りになり、エデンの園から追放したのです。
おそらくエデンの園は霊的な世界にあったのだろうと思われます。

この回答への補足

 ご回答ありがとうございます。
「つまり性的な快楽こそが禁断の果実だったのです。だからイブは性器が見えないよう隠した」というご説明の「だから」の前後の因果関係が理解できませんでした。
ご教示くだされば幸いです。

 なお、「イブは性器が見えないよう隠したのです。性的な恥じらいを憶えたのです。」のつながりは理解できました。

補足日時:2007/06/21 01:43
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神様が大人の人間を作って神様の農場で働かせていました。



神様はどの食べ物も食べてはいいが、エデンに植わっている智恵の木だけは食べてはいけないと命令しました。

せっせ せっせとアダムとイブは農場で汗水流して働いていると、そこに蛇がやってきて、汗水たらして働いている二人を眺め「あああ。。。」と思い、「イヴさん イヴさん まあ あそこになっている木の実を食べてごらんなさい」と言いました。

イヴは「あの木の実は食べては駄目だとご主人様が言ったのよ もし食べちゃうと死んでしまうから決して食べては駄目だとご主人様が教えてくださったの」と言いました。

蛇は「食べたら死ぬってことはないから大丈夫 それどころか目が開き、真実が見えるようになるから食べてごらんなさい」と言い、イヴは蛇の言葉を信じて食べました。

はい 真実が見えるようになりました。

イブは自分だけではなくアダムにも現実が見えるようになってほしいと思い、アダムに教えてあげ、アダムはイヴを信じて食べました。

幻が消え現実が訪れ、二人に現実という深い悲しみが訪れました。

ご主人様はいつものように農場の具合を視察しにやってきて、そこで働いていた二人の姿が見えないことに気づきました。

「おーい どこにいるんだ」とご主人さまに言われた二人は木陰から顔を出しました。
なんと二人は下半身を子孫を増やす木の葉で覆っている。

「お前達! いいつけを守らなかったな! そこでなにやっていたんだ!!!」

ご主人様はカンカンになりました。

「だって 蛇さんがあの木の実を食べると真実が見えるって言ったんですもの」イヴが答えました。

「アダム!!! 貴様はどうなんだ!!!」

アダムは「だってイヴが食べろって言ったんです。僕は断ったけどイヴが言ったから・・・・ えーーーーん えーーーん」

「蛇よ 私はお前を呪う お前は永久に地を這うものになる。」
「イヴ 私はお前を呪う 言いつけを守らなかったお前に産みの苦しみを与える」
「アダム 私はお前を呪う お前は私の言いつけに従わずイヴの言葉を信じた。 永久に働き続けるという苦しみを与える。」
「もう私を信頼しないお前らを農場に置くわけにはいかない とっとと失せろ!!!!」


というわけで、農奴であったアダムとイヴは、自分達が幻をみせられ、神に愛されていると思っていたが、現実神のために農場でこきつかわれていたという現実を知ることになり、幻をもう見れなくなったので、農場を出ていきました。


永遠の命が与えられると幻を教える宗教がありますが、、、、、
智恵を得たとき、それが偽りであるとわかり、だが、財産も職業も家族も既に失っていて、悲しみにくれる という脱退信者もいますが。。。

ただ、幻は幻でしかないので、死ぬ前に幻から覚めて残った生、自分が本来持っていた生を取り戻し、誰かの奴隷ではなく、自由意志ち自分で判断決定し、他人の土地ではなく自分の土地(人生)を耕し、人間として人生をまっとうできただけでも、目覚めた者は幸せだと思います。

聖書では蛇は悪者として描かれています。
が、本来はソフィア つまり 叡智のこと。
叡智がイヴに働きかけた。

あるものにとってみたら農奴が智恵を持つことは非常に都合が悪いことなので、それを与えた蛇は悪者となってしまっただけ。


ただし、以上のことはグノーシス系の聖書。

でも 大まかなストーリーは一緒。

一般的に出回っている聖書の内容を簡単に言うと、アダムとイヴが神様のいいつけに従わず蛇の言葉に従い、智恵の木を食べたため、神様は人間が神を第一と考えなかったということで、楽園を追放したって物語です。
その神様を第一としなかったことが原罪とする派もあり、この時永遠の命を持っていた人間が楽園から追放されたことで、限り有る命になってしまったとする派もある。

この回答への補足

 ご回答ありがとうございます。

 「子孫を増やす木の葉」とは、どういうことでしょうか?

 「農場から追い出された」とございますが、
「農場」そのものがエデンなのか、
知恵を付けてしまったら「農場」がエデンでなくなってしまったのか、
どちらなのでしょうか?

補足日時:2007/06/21 01:45
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これのおかげで我々は今存在するのだということなんでしょうね。


聖書の科学書といったところです質問者さんの仰る所は精神形成
論とでも言ったところでしょうか。
聖書には人間の作られ方や精神形成論まで書かれています。
信じても信じなくても良いです。
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普通人間が知恵を持った事とか考えられていると思いますが、私は勝手に人間が自我意識を持ったことと考えています。

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ANo.3様に一部重なりますが。

基督教にも顕密があるかと存じます。私の勉強しているのは基督教でも仏教でもないが、顕密両方に亙ります。神という唯一の意識がにんげんという意識存在を作った。ここにおいての人間は神の至福の存在としてのものであり、性にしろ、その他の感覚で遊び、自由と尊厳を失うものではなかった。感覚の遊びを、その楽しみを性により行った。それが禁断の木の実というのではなかろうか。これはANo.3様のいわれる通りと、私の勉強しているものに一致します。もう一つは自分勝手な論理や、物象的物証の思考とその意識を醸成していってしまった。これもANo.3様のと関連しております。自らをエデンから追い出させ、つまり自分性から出て行ってしまった。知恵の実というのは神の意識と思考から、性やその他の感覚世界での意識と思考による自己性の忘失ということなのでしょう。

この回答への補足

 「性にしろ、その他の感覚で遊び、自由と尊厳を失うものではなかった。感覚の遊びを、その楽しみを性により行った。それが禁断の木の実」ですか。難しゅうございますね。

補足日時:2007/06/22 22:56
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No4です。



創世記が書かれたのは、恐らくバビロン捕囚の捕囚先でだと言われています。
つまり紀元前597年以降。

洪水の箇所は捕囚先に伝わっていた伝説をモチーフに書かれたと思われます。
が、楽園追放の部分はどこの伝説を下地にしているのか今のところわかりません。


>「子孫を増やす木の葉」とは、どういうことでしょうか?

どうして筆者はイチジクの葉で二人の腰の部分葉を覆わせたのか。
イチジクは多産のシンボルだから。
だから他の葉っぱじゃなくイチジクなわけです。



> 「農場から追い出された」とございますが、
>「農場」そのものがエデンなのか

はい その農場(園)がエデンです。
へブル語で快楽、アッカド語で園という意味を持つそうです。


>知恵を付けてしまったら「農場」がエデンでなくなってしまったのか、

おおまかに二つの解釈があります。
最初に書いたグノーシス派の方は「この神は低俗な神で人間を閉じ込めてしまって働かせていた。本当の神は他にいる。」という観点からこの創世記を解釈しています。
何故なら本当の神は正しい人なので、このように利己的であるはずが無いから、としています。
いわば悪魔のようなもので、この悪の世界には絶対的な義をもつ神は直接入ることはできない。
何故なら悪の属性を全く神は持っていないから。

それで蛇を通して神は人間に幻を説く方法を伝授した。 というもの。
従って蛇はグノーシスでは叡智のシンボル。
ヘルメスの杖や、インドあたりの昇華の概念も蛇の力を利用するとあるし。

従ってグノーシス派の解釈は人は智恵をつけたため、つまりちょっとは賢くなったため、より現実が判断できるようになった というもの。
この木は善悪を知る木だから。
つまり悪が無いと思っていたけど、実を食べたことで悪も見えるようになった というもの。

だから、智恵の木を食べたことで、<楽園が楽園じゃなく別な世界に転じた> というものではなく、最初から楽園じゃなかったのに、楽園だと言い含められていたが、判断ができるようになったので、<自分達がいたところは楽園では無かった>と知ることになった というもの。


信仰宗教に入信する人が、その宗教団体が持つ施設に家族を捨てて、仕事を捨て、財産を全部寄付して住み込むってものがありますよね。
オウムなどが典型的なもので、そこでせっせと信者の方々は働いたわけです。
富士山のその施設を楽園だと思って。
麻薬などを使い、幻を見せられた信者は「教祖は宙を浮いた。」「教祖は壁を通り抜けてどこでも移動していた」と麻薬による幻覚を、幻覚ではなく本当にそうだと思ってしまい、麻薬が切れた後も、その記憶は鮮明で、麻薬を飲まされたと知らされていないので、修行により見えない世界が見えるようになった と錯覚し、現実に起こったことだとしか思えなくなってしまった。

信者にいくら麻薬が施設内から見つかり、キリストのイニシエーションの時に麻薬を飲ませていたと内部からの証言があったことを教えてやっても、「あれは麻薬による幻覚などではない。現実確かに見たのだ。教団が麻薬などまやかしを使って信者を騙すはずなどない。修行によりできたのだ。 私は苦しい修行の末その能力を獲得いたのだ」って言うんです。


さて、、、智恵の木をどうやったら食べていただけるんでしょうね。


解散させられても信者は元に戻る。
失楽園から外部の手によって追い出されたので、また楽園だと思うところに戻っていくわけです。

20世紀の失楽園物語。
こちらの世界からすれば楽園などではないのですが、そこに住んでいた人々、 働かされていた人々にとってはあの教団は楽園なわけです。

結構 楽園ってお手軽なんですね。
財産を全部寄付して入信すれば楽園に住んでいると認識できるという。

これはこの教団に限ったことではなく、多くの宗教がこの手を採用していますよね。

ただ、幻だと思った人たちは、自らそこを出ていく。
グノーシスのこの話も、アダムとイヴは自ら出ていった となっています。
本当の神を探しに。

この回答への補足

 詳細なご回答、再びありがとうございます。

 「どうして筆者はイチジクの葉で二人の腰の部分葉を覆わせたのか。イチジクは多産のシンボルだから。」というのは、論理的には理解できました。
しかし、アダムとイブ(筆者ではなく)は、なぜ、
「葉で二人の腰の部分葉を覆」ったのでしょうか?

 グノーシス派(「この神は低俗な神で人間を閉じ込めてしまって働かせていた。本当の神は他にいる。」という考え。)の、
「人は智恵をつけたため、つまりちょっとは賢くなったため、
 より現実が判断できるようになった。
 この木は善悪を知る木だから。
 実を食べたことで悪も見えるようになった。
  だから、智恵の木を食べたことで、
 農場が最初から楽園じゃなかったと知ることになった」
ということ、論理的に理解できました。

補足日時:2007/06/22 23:07
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創世記1章28節で神が人間を創造されたときに性関係によって子孫を増やすように期待しておられますので禁断の果実は性に関係しているはずはありません。



蛇がイブにどのように誘惑しているか良く考えましょう。
創世記3章5節「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
神が食べるな死ぬと言っておられたのに否定し神のようになって善悪を知ると言うことは、
神を離れて何でも人間の考えで基準を作ることは良いことだと言うことになります。
その結果が現在の世の中です。
おろかな人間は争いを続け地球を破壊し自分の行くべき道がわからずに混乱と自暴自棄に陥っています。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
なんとなく、イメージが湧きました。

お礼日時:2007/06/22 22:59

ANo.7  宗教や思考、人類の生誕以来、盲目的信仰は、地球のいたるところで、愚かしさと、悲しさ、そして惨状を出来(しゅったい)させてきたことは、ご回答方のお話のオーム真理教につきるものではありませんでした。

人はいつになったらこの盲目的信仰を克服できるのでしょうね。エデンを、禁断の木の実を、自己の目を騙さないで、騙されないで、自己としてみることのどんなに大切かを、これまでの、現在の人類史は、どんなに警鐘しているでしょう。冷たくない、硬直ではなく、普通での静謐な自分を持して、エデンと木の実を、そして出会った聖典や人のお話に対面することがどんなに必要なのでしょうか。私達みんな誰しも、心がけたいことだと存じております。
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