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偏見はいけないことなのでしょうか?
広辞苑で調べると「偏った見方、中正ではない意見」とか記載されていました。

俺の中で以前から偏見はいけないという認識がありました。
だから極力しようは思いませんでした。
また偏見という言葉は負のイメージで悪い言葉で認識している自分に気づきました。

正のイメージっていうか、いい意味での偏見も存在するような気がします。
たとえば単に「あの人はいい人だ」と思うことも偏った見方ではないでしょうか?
多くの人は偏見という言葉に偏見を持っているような気がします。
これについてどう思いますか?

A 回答 (15件中1~10件)

「悪い」から偏見なんです。

仰るとおり。
いい意味でのは「愛」とかになります。
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再度の投稿です。

お返事を頂き有難うございました。
さて、偏見そのものは各自が持っている主観に基づいていると私は考えています。従って、偏見はやはりゼロにはできないというのが、私の拙い理論の出発点です。そうすると、結果的に、「偏見イコール悪」と捉えてしまうとそれで議論が終わってしまうことに対し、私はNOと言いたいのです。経験上、2人の人間がいたら、どこかしらそのふたりの意見に相違があるはずです。それを私は偏見という言葉の範疇に入れています。そして、前回述べさせて頂いたように、そうした偏見の中から生まれる事実に2タイプあると考えています。即ちプラスの結果を導き出すようなものと、マイナスの結果を導き出すものです。
具体例は前回述べたものもそうですし、「近頃の若い者は……」なんてのも偏見であり、それは概ね若者に対するマイナスの意見であり、結果として若者蔑視のようなことが言えると思います。そういう目で若者を見ている人は、若者に対してちゃんと理解しようとしませんから、トラブルが発生するでしょう。
質問者の方を混乱させてしまった原因は、私の表現力の拙さと、偏見をむしろ主観の別名というように私が捉えていることを書かなかったせいだと反省しております。
現在の私のことをもうひとつの具体例として挙げます。私は現在の上司ににらまれています。上司が作ったパソコン上の書類を一部改訂したり、天候が悪かった時に、職場に泊まれという業務命令を聞かず帰宅したことが原因だと思っています。こうして「私イコール職場では悪い奴」という計算式が上司の頭の中に出来上がってしまい、私が言うことやることにクレームを付けて来る様になりました。他の同僚も「上司は変わった」と嘆いている人が多いのですが、現場の人事権を握る最高権力者であり、降格と減俸を甘んじて受け入れている状態です。今の私の立場は偏見が生んだマイナスの事実の具体例に他ならないと思います。ただ私は、誰がなんと言おうと、自分の信念は貫くつもりです。
横道に反れましたが、これが私の意見の補足です。すみませんでした。
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三度コンニチハ。


ちょっと思い出したので、参考になればと思って
カキコませていただきます。

ゴンゾー(GONZO)ジャーナリズム、という言葉をご存じですか?

一般的にジャーナリズムには、客観・公正・中立という
公然の了解があります。

でも、何をどう報道するかには、本当は常にジャーナリストの
視点と主観が入り込むのだけれど
建前上は「客観的に事実のみを報道している」と言うし
そこに思わぬ傲慢や怠惰が隠れていることが多い。
さらに、そんな姿勢だけでは絶対に汲み取れない情報も
確実に存在していて、それを正確に書くためには
対象にドップリと漬からないといけない。
だから、渦中のノリを伝えるために
文章の荒れなんて気にしてらんないし
主観だってガンガン盛り込む。
ゴンゾージャーナリズムとは、そんなスタイルの
ジャーナリズムのことを言います。
ちなみにゴンゾーとはイタリア語で「不良」の意。
その第一人者がハンター・S・トンプソン。
彼の「Fear and Loathing in Las Vegas」という本は
後にジョニー・デップ主演の「ラスベガスをやっつけろ」という
映画になっています。

下記URLが参考になると思います。

参考URL:http://www.post1.com/home/hiyori13/books/lvnote. …
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再度回答です。



前回の回答にも書いた通り、
あくまで僕の考え方に基づいて
書いている意見としてお読みください。

事実と真実は、【僕自身をメインで考えた場合】は
どっちもどっちです(意味的に)。
<あの人は悪い人だ>
と思った時、事実、自分もそう思って(感じて)いるので、
これは前述(前回の回答)の通り、【事実】であり、
同時に、真でもあるので、【(僕の中の)真実】です。

が、対象が自分以外になった時、
僕の中での真実の意味合いはがらりと変わります。

基本的に、
【解りえないし、知りえない】といったところでしょうか。

僕の考え方は基本的に、【事実(=その人にとっての真実)】は
その人以外は持ち得ないものだ、ということです。

よく、「その気持ちわかる」などという表現を耳にしますが、
嘘(もしくは酷い勘違い)です。

結局別個の存在である以上、「その気持ちわかったような気がする」
としか表現できないはずです。(しかもまったく検討違いの恐れもあるし)

その人しか事実はわからないというのは、
口に出したり、書き記したりして、それを伝える時点で、
それは、【その人の考えをあらわしていると思われるモノ】
に変わるからです。

疑う余地がいくらでもあります。
口から出た時点で、嘘が混じったかもしれない。

これが、僕の考え方です。

人ではなく、物事でも同様です。
事実も真実も、当事者間にしか真に存在しえません。
いろいろな要素がありますが、
例えば、伝聞される間にゆがんでしまうとか。
圧力がかかり捏造されるとか。

例えば、その事件を体験した人の話とかいって、
実際のその人の話のインタビューとかテレビで
やったりしますけど、
その人が、完全にホントの事言ってるの、誰が証明できるんです?、
と、思うんですよ。
また、その人が、自分がさも活躍したように
見せたいがために、話を捻じ曲げるかもしれません。
そうなると、そのうち、その人自信の
頭の中の記憶も、時間とともに、書き換えられて
しまうでしょう。

【あの事件の真実は!・・・】

とかっていうのは、その事件が
起こったその時その場所にしかありません。
時間がたつにつれ、歪みます。

これは、他の物事もそうです。

僕以外の人から見た、
僕が今こういうこと考えながら、
これを書いているという【真実】はもう、
今後どうしようが、存在しないわけです。

ただ、僕の視点で見ると、
僕がこのときこう考えていたのは
事実だと、記憶が歪められていなければ、
確認できます。
まあ、歪んだ記憶も自分自身のことであれば、
事実だと、自分では認識してしまうのでしょうけれど。

結局、一般にいう(自分を対象外とした時の)真実とは
検証し、証拠を残し、いろいろな要素を組みあわせて
、創り上げられた、【真実だと思われるモノ】だと思います。
そして、それを真実ととるかどうかは、あとは、
個人個人の気質の問題じゃないでしょうか。
僕は真実だとは思いませんけれど。

こんなひねたことばかり書いてると、
人間不信だと思われそうですが(苦笑)、そんなことはありません。

余談ですが、
【信じる】いうのは、辞書にもありますが
【その人(対象)を信用しようと思うこと】であり、
その人(対象)が、ホントに信頼できるのかって
いうのは関係ないんですよ。

信じるのは、その人を信じようと思った自分の
気持ちって事ですね~。
だから、僕は、基本的に裏切られようが何しようが、
相手が悪いとかそういう発想湧きません。
ああ、話がそれて来たのでこのあたりにしておきますね。

またまた長くなってすいません。
そして、わけわかんなくてすいません。

・・・頂いた質問の答えになっていたでしょう
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再度書き込みます。



【事実】と使ったことについてですが、
全ての物事について、感想等を持つことが
偏見であるというのであれば、話は終わってしまうので
、あくまで僕自身の考え方ということで
意見を言わせて頂くと、

偏見という言葉は、自分に対して使うのではなく
あくまでその対象(人、者、事柄・・・ETC)が必要だと
僕は考えます。

で、そういう相手(物)に対しての感情、気分は
どんなに相手を知った上でのものだとしても、
確かに、【偏見だ】といってしまえば偏見でも
あるというのは、納得せざるを得ません。

では、なにが【事実】であるのか。
これは、偏見が介入する余地の無い(僕の考え上)
自分のなかの考えです。
これだけは【事実】です。
ただ、この【事実】は、
嘘っぱちかもしれません。

【いい人だ】と思う知り合いがいたとします。
その人は、多くの人に指示される人です。
善行に勤め、人から慕われ。

ただ、誰にもわからないですが、
その人は本とは、ものすごい悪い事が
したくて、いろいろと空想しているけれど
、臆病でできないとします。

その人は、世間一般ではいい人です。
ただ、頭に思い描くことを実行に移せば、
とんでもない悪人になります。
そして、おそらくその人自信も、
自分を悪人だと思っているでしょう。

その人が、周りから良い人だと言われ、良いと思われる行動を
とっていても、自分自身では自分を悪人だとおもっているなん
ていうのは、その人しか持ち得ない【事実】です。
それを、世間の人が【いい人だ】というのは、【偏見】ですね。

つまり、自分自身の価値観、見たこと、
経験・・・ETC、で物事を考えているだけです。

とある人から見た僕の意見は【偏見】なのかも知れないし、
また、とある人から見たら【偏見】では無いのかもしれませんし、
僕自身が僕の意見を【偏見】ととっているのかどうかも定かではありませんし、
僕が【偏見】じゃないと思っている意見も世間一般の常識から見たら【偏見】
かも知れません。(じゃあ常識ってなに?というのはこの際おいといて)。

長くなりましたが、自分自身が感じたこと(自然にそう思ったこと)は
僕敵には【偏見】ではなく、事実だと思っています。
【いい人】だ、と思ったとしてその人が本当は悪いことばかり考えていても
僕に対して悪い事をしない限り、僕の仲の評価はいい人のままです。
その後、その人がぼくを裏切ったとしたら、
悪い人だと思うこともあるかもしれません。
【信じる】って事を考えることにもつながってきそうですけれども・・・。

いろいろな考え方、とらえかた、感じ方があります、
千差万別どころか、それ以上の種類で。
そのさまざまな人たちの考え方を、
なんとか何らかの説明をつけて【偏見】という言葉に
集約しようとすることがそもそも偏見なのかもしれないなー、
と今書いていて思いました。

長くてすいません。
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この回答へのお礼

いえ長い回答は嬉しいです。二度目の回答どうもありがとうございます。確かにそう考えたらそうですよね。事実というのは俺の考えですが、新聞やらニュースで言われている事を事実と捉えています。例えば「昨日、オーストラリアで双子のパンダが生まれた」とかそういうものを捉えています。TTU006さんが考える事実と俺の考える真実はおそらく近いものと思います。だけどたまに俺自身はニヒリズム的に考えることがあるので、真実なんか考えるときもありますが・・・・。
TTU006さんは真実とはどう捉えていますか?もしよろしければ、いつでもいいのでお願いします。どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/07/16 14:46

> 『20世紀に入るや否や「基準にならない」ということが証明されて


> この証明はまだ覆されていないそうです。 』
> どう証明されたかもしよろしければご紹介ください。

私はクルト・ゲーデルの「不完全性定理」を想定して
このように書きましたが、不完全性定理はご存じですか?

不完全性定理は現代思想において拡大解釈されがちな
ソーカル問題においてはNGワード大賞候補にもあげられる?
定理ですが、とりあえず説明しておくと
●自然数の理論を形式化して得られる公理系が無矛盾であるかぎり
 その形式体系のなかでは証明できないし否定もできない、つまり
 決定不可能な論理式が存在する。
この定理が現代思想でもてはやされたのは
この定理に次のような系があるがゆえなのですが
●自然数論を含むような理論Tが例え無矛盾であるとしても
 その証明はTの中では得られない。
 そのためにはTよりももっと強い理論を必要とする。
つまり、数学は数学自身の正しさを証明できない、ということを
証明してしまったのです。
どうやって証明したか?は専門書をご覧下さい。

例えば同じ頃、ソシュールは言語学を厳密化していくうちに
言語が正しいか/否か?を言語によって記述せざるをえない
=自己言及化を免れないことに限界を感じ、後に沈黙してしまいます。

ソシュール以前、すでにフッサールが偏見を排除し
モノそのものを見る(=現象学)ことを考えていくうちに
結局、主観の正しさを問うこと自体が主観である、といった
自己言及化の罠に陥ります。

ゲーデルの場合は、数学が正しいか/否か?は
数学自体では証明できない!と証明してしまったので
インパクト大!だったわけです。

言語は正しいか/否か?
数学は正しいか/否か?
○○は正しいか/否か?、を考えたとき
●理論Tが例え無矛盾であるとしても
 その証明はTの中では得られない。
 そのためにはTよりももっと強い理論を必要とする。
のであれば、これはもうキリがないことになります。
つまり神のみぞ知る、です。
神学化してしまっては、それは逃げにも等しい=ニヒリズム
と断じたのはニーチェですね。
現代思想とはニーチェ以降を指しますが
●それは神学化せずに
●自己言及化をせずに
どうすればイイのだろう?といった思考でもあります。
これは現在進行形のトピックです。

既知であったらゴメンナサイ。
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この回答へのお礼

いえいえ、既知ではありません。無知でした。二度目回答ありがとうございました。だけどすごく難しいですね。そこまで深く偏見という事象についてかんがえていませんでした。深く考えるようにさせていただきましてありがとうございます。いろいろとこういうのを読んでみたいと思います。本当にありがとうございました。

お礼日時:2002/07/16 14:34

rutさんへ



すいません、昨日の書き方がわるかったんのでしょうか?
私は、偏見と言う言葉について、考えていた事を書き込んで
自分の中で、説明文にした物をかいただけなのに、どうして、
rutさんを偏見しているってなるんですか?

>アナタ自身が言った偏見を俺にしています。
>勝手に自分の目線で相手の価値を決め付ける事を今まさにしています。
べつに、rutさんのことをそんな風に思ってません、
多かれ少なかれ、なんか、テーマについて語り合ったつもりだったのに、
私の書き方が、言葉足らずだったからかもしれませんが、朝からお返事見て、
胸が締め付けられそうになり、泣いてしまいました。

これじゃ、テーマについて発言できません。
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この回答へのお礼

貴女を傷つけてしまって大変申し訳ございませんでした。再度貴女の文をじっくりと読みました。完全に俺が誤解していました。本当に申し訳ございませんでした。貴女の気持ちを踏みにじる返事をしてしまい、深く反省しています。本当にもうしわけございませんでした。ごめんなさい!

お礼日時:2002/07/16 14:27

「偏見の奥に潜む個人の性格をケアしてあげましょう。

」とはどういうことでしょうか?もしよろしければ具体的に教えてください。

私は、偏見というのは、個人の過去の経験が大きく左右されるものと思っています。たとえば、レイプされた経験をもつ女性が、その後男性にどのような偏見をもつのか、貧乏で暮らしてきた場合、いじめを経験してきた場合、さまざまな人間関係、いったいどのような偏見をいだくのでしょうか。
別にそのひとが悪い人間と決まったわけではないのに、偏見があると思っただけで、悪い人に見えてしまったり、危険なことだと思うのです。

「偏見の奥に潜む個人の性格をケアしてあげましょう。 」というのは、なぜそういう考えに至ったのかまでを考えることによってお互いの理解を深めるのに必要なことだとおもっているからです。
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます。そういうことだったんですか。納得しました。すばらしい意見だと思います。わかりやすく説明していただきまして、本当にありがとうございました。

お礼日時:2002/07/16 14:16

偏見そのものが悪いのではなく、それによって引き起こされるマイナスの事実が悪いのだと思います。

質問者のご意見の通り、「だれそれはいい人だ」も偏見でしょう。しかしこの場合、それによってマイナスの方向性を持つ事実は発生しにくいでしょう。しかし、「だれそれはミスをした」くらいであっても、その人があるエリア(会社や学校など)内で大多数の人たちからのけ者にされる可能性は大いにあるでしょう。ことに日本人全体がそんな傾向にあるようで不気味です。偏見を減らすことは無理かもしれませんが、「だれそれはミスをした」で話を終わらせず、「じゃあこうすればミスはなくなるよね」とプラス方向へ結論を持っていく人間でありたいと私は思っています。私自身、よく誤解を受けるので、肝に銘じているところです。
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この回答へのお礼

回答してくださいましてどうもありがとうございます。「偏見そのものが悪いのではなく、それによって引き起こされるマイナスの事実が悪いのだと思います。」に関してですが、これについてもう少しご説明願いませんか?私的に、原因がマイナスで結果が偏見だと思ってしまいます。理解する能力がないのかもしれません。もしよろしければお願いします。後半部分は賛成です。人間はコミュニケーションを取る上で必ず偏見が存在しますが、それをそのままにしておくとコミュニケーションがそれ以後成立しません。偏見を起こした原因や理由を改善していくことが大切だと俺も思います。

お礼日時:2002/07/16 14:05

>偏見はいけないことなのでしょうか?


いけない、無い方が良いとは思いますが、大半の人の中に潜む物です。
私自身、偏見されて見られたく無いくせに、人に対して偏見を持っています。

私の考える所の偏見と言うのは、勝手に自分の目線で相手の価値を決め付けて、
そして自分を安心させる、ばつの悪いものさしであり、何の責任ももてない
進化しない、麻薬物質(痛み止め)だと思います。

又、偏見があるからこそ、成長もしてゆく事もあります。
沢山の命がざわめきあっている中、主張し合い、進化してゆくこの世では
偏見も、神様がくれた、一つの罪であり、愛であると思います。
よくも悪くも変えてゆける、与えられた一つの感情と思います。

そして、偏見を経験してゆく事で、偏見はいけないとなってゆくのだと
思います。
生まれたときから偏見を持っていないのは、神や仏の境地、同じレベルの
心の持ち主しか居ないでしょう。
でも、人間でも、生まれたときは偏見など持っていません。
という事は、周りから、教えられ感じ自分の中に育つ感情ですね。

偏見をいけない事と思えるのは、された事のある人、それに気付いた人が
口にした言葉でしょうか?
相手を理解しない気持ちが偏見。
勝手に決め付けられたらたまりませんものね。

>偏見という言葉に偏見を持っているような気がします。
これについては、自分が経験して、そこに↑到達したわけでも
ないのに、軽軽しく、言ったり、教わったまま理解した人は
そうである人が多いと思います。

少なかれ、多かれ、1つの意見に対しても沢山の考えがあり、討論に
なるのです、偏見的考え、エネルギー、感情も、生きてゆく上では
一つの起爆剤です。
ただ、ナイフの部分ももちあわせている、感情です。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございました。

>私自身、偏見されて見られたく無いくせに、人に対して偏見を持っています。
アナタの偏見に対する考えは十分分かりました。まず身の回りの人に偏見を持たないようにしていくことを始めてはいかがですか?少しずつでもいいんです。がんばってください。

>偏見をいけない事と思えるのは、された事のある人、それに気付いた人が
口にした言葉でしょうか?
あなたが言う偏見はしましたし、されもしました。過去ですが。
その中でその時そう思いました。

>これについては、自分が経験して、そこに↑到達したわけでも ないのに、軽軽しく、言ったり、教わったまま理解した人は そうである人が多いと思います。
アナタ自身が言った偏見を俺にしています。
勝手に自分の目線で相手の価値を決め付ける事を今まさにしています。

お礼日時:2002/07/15 19:52

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