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世の中のありとあらゆるものは、根本的に「自明」ではないと考えられます。

しかし、人間は何物かを「自明」なものにしなければおそらく、いわば「精神を固定できない」
ために、何物かを「あたりまえなもの」にしていると思われます。

つまりそれは、根拠なく自明なものにするという非科学的なこと、「信ずる」ということになる
でしょう。
ですから、「信ずる」という心は特定の宗教にばかり向けられるものではないと思います。

また、何を信ずるかと問われて、「自分を信ずる」と答えられる方は多いと思いますが、私も自
分の心身の存在は信ずることができますが、「自分とは何か?」と考えた時に、明確な答えを持
っておらず、従って大変に観念的になってしまいます。

1.あなたは何を信じていますか?

2.そして、それを信じているのはどんな理由が考えられますか?

3.科学を信ずることは間違いのないことでしょうか?

4.自明性ということについてお考えを。

以前も部分的に同様の質問をしましたが、改めて問うてみたいと思います。

質問者からの補足コメント

  • (つづき)

    その現実があるからといって、仏の覚りが「ない」という論理には全くならないということです。

    書ききれませんが、私の本意をくみ取っていただき応答願いたい。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/12/10 17:06

A 回答 (47件中1~10件)

私に師はおりません。

道の完成者と認める方はいますが、弟子と認められたわけでもありません。

仏教については色々な解釈があり、また経典とされるものもその真偽はさておき沢山あります。どれに出会うか、そして何を見出すかはそれぞれの人の因縁や、それぞれの人が何を求めているかによるでしょう。

デヴィッドさんとの会話では、すぐに仏教的な言葉(先程は法華経から抜粋しました)、を使ってしまうのは私の悪い癖かもしれません。そうではなく、自分の身につけた知見だけで語る方が素直である気もします。

少し私の方がデヴィッドさんに甘えてしまっていたかもしれませんね。

良ければまた、デヴィッドさんも遠慮なく、自己の信じるところやその見解を述べて下さい。人は群れて道を歩くことは無いのですから(と私は思ってます)。
私は私の見解を押し付けることも無いし、デヴィッドさんの見解をはねつける事も無いでしょう。
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この回答へのお礼

師と言うわけではないのですね?

尤も私は松下幸之助さんとは面識も何もあったわけでなく、無許可で弟子を
名乗っているわけですが。

少し冷たい言い方だったかも知れませんが、キサラギさんに対し不快な思いが
あったということは全くありません。
ただ、相手の言うことを一言も漏らさずに理解したいという思いが強いという
ことと、自分の信ずることは一切妥協はしないという超頑固な性格であることを
申しあげておきたい。
しかし、自分の信念にも「疑い」を持ち続けられるように努力しているつもり
です。ええ、成長するためにです。

お礼日時:2018/01/24 01:19

デヴィットさんに強引さというのは微塵も感じていませんよ^^



仏道を得させるということは救いなのかどうか、ということです。
諸仏の請願によるところは救いを超えているもので、救いには該当しないだろうという意味です。
また、抜苦与楽でもないでしょう。そういうことではなく、、あいにく言葉が浮かびません。
喩えを出しましょう。
子どもたちが、子供たち同士の関係を育む中で成長し、やがて大人になる時がやって来るでしょう。子供たち同士の関係は、彼らが大人になることを目的に存在していたわけではありませんが、その時が来たなら、子供は子供時代ときっぱりと決別するのです。
「こんな子供じみた事やってられねぇよ!」
善知識の言葉というのはいわばこのようなものとして世に顕現し、大人になる準備ができている子供(菩薩)を大人(仏)にするわけです。
救いというのは極めて衆生じみたことです。救う救わない、それは、敵味方と言った分別と同じ地平に存在するものです。一方で仏の立場は一仏乗であり、それは一なる他の立場であります。第二の立場すらないのに、第三の立場などあるはずもありません。この立場は敵や味方と言った諸々の分別とは同じ地平に存在していないのです。

解脱というのは、衆生じみたことをすっかりと離れていて、二度とこの(苦悩の)輪廻には戻ってこない(最後の人生を送る)ことを言うのだと理解しています。特に慧解脱の場合は、諸仏の請願を魂の座に据えていることがあるでしょう。
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この回答へのお礼

キサラギさんの仏教の師が、どのような解釈をしているのか、まだ少し
しか知りませんので何とも言えませんが、世には様々な解釈があります。

仏教的三世の生命観に私はとても納得していますけれど、ここから離れて
道徳的と言いますか、心理学的と言いますか、先祖崇拝的と言いますか、
キリスト教的ともいえる解釈が近頃においては多いように思います。

私としましては、そのような解釈は私の信ずる仏教とは一線を画すものと
なります。
そして、理解・把握するために、また努力しなければならないでしょう。

以前「法」とは何かと訊ねたときに、未だ十分に理解していないとおっし
ゃっていたので、お互いに理解を深めてゆきたいと思います。

お礼日時:2018/01/22 23:36

私には、道の完成者と認める方が一人おりまして、仏教の話をするときはその方の言を借りることが少なくありません。

自分の言葉で語ることも大切ですが、引用する方が良いと思うときにはそうしています。

第二の善知識が示すのは六波羅蜜に言う智慧と禅定(この二つは一体です)であると思われます。それが正法の通りに出現するのを目の当たりにした人は覚るということです。

世間、出世間ということについては、世間が衆生のあるところ、出世間は解脱者のあり方、ということと理解しています。ただ、四つの徳を修めることで、出世間や無住心の何たるかが微かに感じられるのではないかということです。

慈悲、及び慈悲喜捨について、少し引用します。

引用:
慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。 したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。

慈: 慈しみの心。 相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。 ものおしみ(飢渇)を制した其の心。

悲: 世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。

喜: 大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。 見下し(嫌悪)を制した其の心。

捨: 自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。 愛著(欲望)を制した其の心。

[補足説明]
無理を承知の上で敢えて仏教を哲学的に表現するならば、大きく二本の柱を立てることができるでしょう。 それは、「慈悲心」と「平等心」の二本柱です。 ここで、慈悲喜捨の慈悲は「慈悲心の柱」にあたり、喜捨は「平等心の柱」にあたります。 また、同じ事を別の言葉で表現するならば、「清浄心」と「本来清浄心」の二本柱を立てることができます。 ここで、慈悲喜捨の慈悲は「清浄心の柱」にあたり、喜捨は「本来清浄心の柱」にあたると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
慈悲の慈は外的に観察され得るこころ(外に出して憚ることのないこころ)であり、悲は内的にのみ見い出されるこころ(人にさとられてはならないこころ、人にさとられてしまっては完成し得ないこころ)です。 同様に、喜捨の喜は外的に観察され得るこころであり、捨は内的にのみ見い出されるこころです。

**引用終わり

衆生済度と諸仏の請願について。
如来は、衆生を救ってやろう(=衆生済度)ではなく、法華経に言う諸仏の請願、つまり『・・・諸仏の立てた誓願は、自分が実行した仏道を、普く生ける者達に、同じ様にこの道を得させたいというのである。』なのであり、同じように仏道を得させたいということは、まさしく善知識が世に示す意のとおりであると考えられるのです。

人間革命について。
これは、人を言葉によって改革するということだと思いますが(違う場合は仰ってください)、もしその言葉が有為のものであれば、たとえばべき論(人とはこうあるべき)によって人を縛り付けることになってしまう。しかしその言葉が無心、無為のものであれば、それは人を改革するとか、そういう発想のものではなくなる。
デヴィッドさんの為そうとすることに反対するわけではありませんが、私は、人間革命をしようとか、人々を啓蒙しようと思ったことはありません。(若いころは人々から学びを得ることに夢中だったし、自分を啓蒙したいとは思っていました。)
デヴィッドさんと私の考えの違いはここら辺にあるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

私にも「師」的存在は何人かおります。
仏教において、その解釈において、人生全般において、また商売において…
商売の師は松下幸之助氏です。

「慈悲喜捨」ー仏・菩薩が衆生を憐愍する四種類の計り知ることのできない心。
大智度論(竜樹)等に説かれる。(引用)

この四つの心を得、四徳を備えた状態を「解脱」であると。それは、日々の仏道
修行の結果と、善知識の存在に助けられて至るものであると。そういうことでよ
ろしいのでしょうか?

>如来は、衆生を救ってやろう(=衆生済度)ではなく

これがよく分かりません。
「四弘誓願」が仏教には説かれています。「誓願」するということは即行動にな
ると思います。
釈尊も約五十年にわたり諸経を説き、教団を作り「善知識」としての役割を果た
したと言えると思います。
これは、「衆生を救ってやろう」という心ではないと言えないと思うのですが。

仏・菩薩といえど所詮は仏道に導くという「善知識」の働きしかできず、結局衆
生が「どう考え、どうするか」によるのであって、そこは仏・菩薩もどうしよう
もない、という意味であれば納得ではあります。

「人間革命」ということの意味ですが、これは仏道修行によって仏界(仏性)を呼
び覚まし、「常業化」させるということ、また、それに付随する様々な自己変革、
ということになります。

啓蒙、あるいは勧誘(強引な)というイメージをお持ちなのかもしれませんが、信
仰ですから本人が納得しなければ成り立たないもので、仮に教団に入れることが
目的であるならば、信仰心というものがなおざりにされ、従って地道な仏道修行
がなされなくなり、形骸化し衰退してゆくことになるでしょう。

信仰というものは、そういう本質を持つものであると思います。

お礼日時:2018/01/21 15:08

六波羅蜜、及び四つの徳目についてその意味を確かにするために引用をしておきます。



引用その1
六波羅蜜:
六波羅蜜とは、次の6つのことを指しています。

 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧

なお、このうちの布施、忍辱、精進、持戒の4つを徳(徳目)と名づけ、これらは不完全ながらも世間において見ることができるものです。 一方、禅定、智慧の2つは、如来および善知識のみが持つ特質であり、この2つは出世間の立場においてのみ世に現出し、人々(衆生)に向けて示現されるものです。

引用その2
徳目:
およそ世の中には、称讃さるべき4つの徳目がある。 その4つとは、「誠実」「堪え忍び」「施与」「自制」である。

誠実: 自らは世俗的に生きていて、世間の生活においては何事においても情緒が常に安定している人。 好意をもって人と接する人であり、見 かけの優しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている悲しみを理解することが不得手で我が身可愛さに他の人に憎悪を抱きやすい。 このような 人に欠落している徳目が誠実である。

堪え忍び: 自らは友好的に生きていて、世間の仕組みや成り立ちに詳しく目先が利いて、予め知り得た事柄に対しては何事においても冷静に対 応できる人。 余裕をもって人と接する人であり、見かけの頼もしさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている寂しさを理解することが不得手で自 らの考えに愛着を抱きやすい。 このような人に欠落している徳目が堪え忍びである。

施与: 自らは享楽的に生きていて、世間の出来事に敏感で事件とその顛末に詳しく弁が冴えて、深く理解した事柄に対しては何事においても平 静に対応できる人。 孤高に生きて疑惑を抱えつつ人と接する人であり、見かけの面白さに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている空しさを理解す ることが不得手で他人を見下しやすい。 このような人に欠落している徳目が施与である。

自制: 自らは運命的に生きていて、世間の流れに敏感で将来の展望にすぐれていて、自分の気持ちと合致している限りにおいては何事において も嬉々として対応できる人。 楽しく人と接する人であり、見かけの美しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている怯えを理解するのが不得手で 自らの心を高ぶらせやすい。 このような人に欠落している徳目が自制である。


総じて、徳とは人が心の奥深くにもっているところの、覚りの境地に向かう素直な心の発露を喚起する基本的心理要素のことである。 それは、通常は抑圧され ていて意識化されることが無いものであるが、縁に応じて不意に意識化されてしまう。 すなわち、自らの意に反して起こる不快感や嫌悪感などがそれである。  つまり、未だ覚りの境地に至っていない人々(=衆生)においては、徳目はいわば顛倒した心理機構として作用している。 それゆえに、人々(衆生)はそう とは知らずに徳をおろそかにしてしまう愚を犯すことになる。

徳行を為すことは難しい。 しかし、徳行に篤いことは人に確かな安楽をもたらす利益(りやく)があるのは確かである。

***

また、徳は人々においては、四つのうち一つはほぼ完全に備えられており、残り三つの内の二つも程々に備えられている。しかしながら、残りの一つについては決定的に欠けていると言われます。この欠けている徳目を、間接的、或いは直接に指摘してくれる人、彼(彼女)を善知識と言います。
この善知識によって人は発心すると考えられ、発心した人は次いで第二の善知識に出会って解脱すると私は理解しています。

出世間について。
出世間とは、世間にあって世間を超えている、立場無き立場のことです。その意味の半分は平等ということではないでしょうか。なお、これは世間において言われる意味ではありません。世間においてみられるあらゆる立場、父母、兄弟姉妹、友、師弟、上司部下、民、王、臣下、国、民族、同輩、敵、味方、などなどすべての立場を超えた立場無き立場を言います。短絡的な意味に捉えてしまえば人たること、という風になるのでしょうが、人たることとはどういうことかを考えなければその真の意味は理解できないでしょう。そこで、尊厳という言葉も現れる。人の尊厳とは何か。これは重要な問いであると思います。自由を守ると言うが、そもそも自由にふるまうとはどういうことか?他の動物たちに比べてどうかということが自由というならば、それは知性において(知性故に)自由だということになる。しかしこれはあくまで内世間の話であり、真実はそうではありません。ここに徳目について語りえる場が整います。

また、私がよく聞く喩え話は、例を取れば次のようなものです。
公園は子供にとっては遊び場に見える。しかし大人にとっては公園は公園に見える。というものです。
つまり、衆生にとっては世間とは自己実現の場であったり、人々と親睦を結ぶ場であったり、人生を謳歌する場であったりし、またそれぞれの苦も生じるところであります。しかしながら仏にとっては世間は世間(=衆生の総体)以上でも以下でもなく、そこに遊楽する場とは見えない。もちろん苦しみもない。そして、衆生の心には動揺がありますが、仏の心(無住心)には静止があります。世間は燃えており、彼岸は静まっている。先ほど私の言った世間と出世間の決定的な違いとはこの違いの意味です。動揺はなぜ生じるのか、考えてみることによって徳目の影(姿)がわずかに目に映る事でしょう。またそれを完全に見切ったときに、静止というものがわずかに覚知される。

世間の大人たちは、子供たちを見て、わざわざ彼らをして「大人にしてやろう」などとは考えない。如来もまた、衆生済度に興味はない。なぜなら、子供たちは各々が各々のタイミングで各自大人になるものであり、衆生もまたそれぞれの因縁によって解脱するものだからです。
しかしもし、子供たちの内で、孤独な子供がおり、その子が「別に友達なんかいなくても平気よ。」とか、「遊びなんて無くてもいい。」とか言っていれば、それを一大事であると見る大人は少なくないでしょう。
如来や善知識もまた、衆生(人々)が、覚りなど無いとか、覚れるわけなんて無いとか考えるのを見て、それを一大事だと見るのです。

デヴィッドさんだけではないが、仏国土や地上天国を現世に建設したいと願う人々がいる。世の中を正せば、、世の中を直せば、、うまくいくのだと思う。それが利他行であると考える。しかしながらそのようなことを言う人々の中に、自らが曲がっていることを覚知している人は少ない。真っ直ぐな心根をした人は少ない。そして、真の利他とは上に述べた徳目や波羅蜜のことを言うのであり、それこそが(究極的にも途上においても)自利であると知る人もまた多くはない。人には我執あって自分のことは知り難いからです。
利他は常に実行できるものであり、それゆえに常なる自利が全うされると言われます。利他(無心)は本から我執を離れたものであると知って、現世の浄土建設に人は囚われるべきではないでしょう。何故なら、こだわったものは愛執のしがらみを受けるものであり、当初目的したものとは大きくずれていくからです。普遍なるものはあるかもしれないし、人々がそれを求める傾向にあるのは分かるが、それにも増してまずは超えるべきもの(我執)を超え、捨てるべきでないもの(自分、本心)は捨ててはならないのではないでしょうか。そのことによって、予定調和ではなく大団円を得られる機縁が生じるのではないかと思う。
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この回答へのお礼

仏教一般の知識は初級者の域を出ないので、いろいろ調べながら書いています。

六波羅蜜とは、大乗の菩薩が悟りを得るためにしなければならない六種の修行の
こと。法界次第初門などに説かれる(引用)。

このうちの四つを、一般大衆(凡夫)において、不完全ながらも持つべき徳であると
どなたかが論じたものを引用いただいた訳ですね?

「誠実」「堪え忍び」「施与」「自制」これらを持つことは確かに徳と言って間違
いないと思いますが、また、確かに顛倒した心を矯正させる作用があることは間違
いないと思いますが、果たして「どの程度」力があるのか?これで人間の尊厳を守
れるのか?をもう一重深く考えてみたくなりました。

すると、第二の善知識とは何かということになります(以前に聞いていて忘れている
のかも知れませんが)。

世間・出世間ということについては、凡夫の境地、仏の悟りの境地と単純に理解して
いました。

ところが、キサラギさんの説では、凡夫の境地の中にも、世間・出世間があり、社会
的な立場というものが出世間で、人間そのものが世間であると…そう理解しました。

そのあとの文章は仏の境地を説明したものでしょうか…

>衆生もまたそれぞれの因縁によって解脱するものだからです

これは、そうだと思います。しかし、

>如来もまた、衆生済度に興味はない

私は仏の精神性の柱は「慈悲」だと思います。ですから、この文を文字通り解釈すれば
仏教的でない、キリスト教の神的な冷たさを感じます。

また、世の中を直せばよい、というのとは違っていて、人間を直すことによって社会が
良くなる、と考えています。
これが日蓮仏法の考え方で、現代的には「人間革命」という思想になります。

結論を申し上げましたが、二人の考え方の違いが出てきましたので、これからの対話は
難しくなってくると思いますが、二人の結論の違いがいかなるものかということが明確
になるまで対話ができたらいいなと思いました。

お礼日時:2018/01/17 00:51

仰る通りだと思います。

これは一つの回答たり得ると思いました。尊厳は、大いなるキーワードでしょう。よくぞ言ってくれた感があります。

私達は餌ではなく食事を摂る。
巣と縄張りでは無く、家と世間に住む。
裸ではなく衣装を纏う。
しかしながら、もし美食に溺れたならばその尊厳は失われる。
家(好み)に執著起こし世間に溺れたならば尊厳を失う。
外見、外聞を誇り他を見下すなら尊厳を失う。
もし腹を空かせ、住む家も無く、だらしのない外見、評判をしている事を自ら卑下している人がいるのであれば、尚更です。

人間たり得る事で生死に翻弄されれば尊厳を失うが、どうしてもその人間たり得る事によってその生死に翻弄されるのが衆生というものです。もし動物的な境涯に堕ちたなら尚更でしょう。
そこで、世間には四つの徳があると言われます。
堪え忍ぶこと、ものおしみしないこと、誠実であること、自制すること。
これらは人の尊厳を護る事ではないでしょうか。
人は動物的な暮らしでは満足できない。その精神が満たされなければならないが、その精神というものによって却って驕りを生じて悪に習う。
だから徳が尊ばれる。徳のない人は、たとえ歳を重ねていてもただ老いぼれて馬鹿になった人と言われてしまう。一方で徳は老いないと言われる。徳はまた格率とは異なるものでしょうが、人の生き方にある種のラインを定めます。それが道となるのではないでしょうか。
しかしこれは内外から強制されるものではありませんから義務や権利とは異なります。
社会の進歩によって人権や自由が保障され、人の生活が向上し、また広げられた見識によって経済活動が自然との調和を果たし、他の生命を無碍に侵害しない人類としての妥当な暮らしが実現したとしても、それだけでは人の尊厳は保たれないと私は思います。
薬も過ぎれば毒となります。人間も、人間臭さに溺れてしまえば悪を生じてしまうのではないでしょうか。
ここに世間と出世間、という二つの有様の決定的な違いが論じられうるようになる。
それで諸々の教えもまた説かれたのではないでしょうか。

人間は人間臭い事を好む傾向があります。かと言ってそれに半目して人間のことが理解できていないのでは話にならない。人間を理解して、しかも人間臭さの美醜を判じて余分を捨てた人、このような人は徳を備えてあると思われます。
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この回答へのお礼

理解をいただき嬉しく思っています。

仰るように「人徳」あるいは「人格」という概念は、現代では美術品のような扱いに
なっているようですが、改めて大切なものであると思います。

即ち、人を大切にすることによって自分を高めることができる、言い換えれば一人で
生きていたならば自分を高めてゆくことが大変に困難である、と言えると思います。

これは、私が言うところの「調和」の骨格と言っていいと思いました。

ちなみに、四徳にもいくつかあるようですが、仰る四徳は、何の四徳でしょうか?

>人間も、人間臭さに溺れてしまえば悪を生じてしまうのではないでしょうか

この「人間臭さ」が、例えば、自分が楽になるためについ人を虐めてしまうとか、つい
金欲、物欲、食欲、性欲に流されてしまうとか、法律の抜け穴を見つけたら悪いと知っ
てて、ついやってしまうとか、そういうことであれば仰る通りだと思います。
私は要は「利己」に流されるか、自分の利益を「利他」の中に見るか、という選択なの
だと思っています。

>世間と出世間、という二つの有様の決定的な違いが論じられうるようになる

「世間、出世間」という言葉にもいくつかの解釈があると思いますが、簡単に説明をし
ていただければ幸いです。

お礼日時:2018/01/14 15:32

サッカーですか。

喩えが分かりやすくて良いですね^_^
ここに、人類社会にとっての勝利とは何なのか、と言う問いが出てくると思います。サッカーではサッカーのルールで相手チームに勝つ事が目的です。強いチームを組織する為にはチーム内の競争もあることでしょう。
これが人類社会になると、格率と言うある意味で自由度の高いルールに基づいて、全体として何に向かっていくのか?人類の真の繁栄、平和、幸福とは?負け組の居ない社会、それは素晴らしいと思います。端的に言えば共存共栄ということになるでしょう。しかしこの目的に自然界は同意してくれない。自然界の持つルールと実態は、個体や種の生死をまるで意にかけていないかのようです。人間は生命である故に、どうしても生存の内に幸せがあると思ってしまう。生きてさえいれば、、、この様なある種壮絶で哀しい想いに縛られる。またある人々は死にさえ希望を見出そうとするが、生存の執著を超えて居ないので人として自由に振る舞う事ができない。人として自由に振る舞う為にはどうしても道を見出さねばならない。それは生きるための道や、ただ存在、存続しようとする為の道では無く、人がこの縛りを超え、もって争いを超え、純粋に、人に生まれた意味を具現する為の道であり、本能的に生じる動揺とは別の所にある生き方、存在の仕方を示すものであります。

弱肉強食も一つの「飲まされたテーゼ」として持つ自然界の多様な表情は、私達の想像を凌駕しています。そしてこの世は無常と言われる通り、じたばたしてもしなくても、何かの通りになるということはなく、自然自身、移ろい行くものであります。
この様な中で、人にとって、しあわせとは何なのか、問い直さなければならないのかも知れません。
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この回答へのお礼

譬えが分かりやすすぎて、かえってよくなかったかも知れません。
私としたことが、時代に流されてしまったか?

人間には他の生物とは比較にならない自由度があると思います。
それは、脳の機能が極めて高いからと言えるでしょう。

チンパンジーやイルカが人間の知能に近いと言われ、殺戮をしたり道具を使ったりで
きますが、その生き方を見れば違いは歴然としています。

人間には他の動物とは違うという強烈な尊厳感があります。公共の場で動物と同様に
排便や性行為などしませんし、食事の仕方にマナーがあったりします。

この尊厳感が人間の最も顕著な特徴の一つだと思います。
人は誰でも、軽んじられることを嫌がり、それをされれば不幸のどん底に落ちる故に
そうされまいと頑張るわけです。
時に頑張りすぎて、同胞を一千万人虐殺するなどということも起きます。これは、明
らかに悲劇です、不幸です。

そもそもが、この極めて知能が高く、強い尊厳感を持った人類が、動物と同じ弱肉強食
の原理の中で生きるべきだと考えることが全く不自然であると私は思います。
尊厳を全く無視することになるし、いつ自分の尊厳が踏みにじられるか分からない状態
だからです。

例えば、微生物などの一つ一つを認識することはできませんし、また、彼らが尊厳感を
持っているとは思えませんので、これについては自然界全体に対する尊厳を守るという
ことで良いのではないかと思います。

人間の尊厳を守るということは、自由を守るということであると思います。その自由が
守られてはじめて人類の調和へ向かうことができると考えています。

人間のまた生命の尊厳、人間の自由あるいは人権…これらが果たして本当に守られてい
るのか?

私は「NO!」と言います。

これらのことを深~く考えて、これらが守られる社会を作ることが人類の勝利である、
と言っていいのではないでしょうか?

後は、一人一人の人間の自律。

これらが出来上がることが、人類の平和・繁栄・幸福だと思います。
この二つが出来上がれば、後は人間が自由に創造してゆくであろうと思います。
はじめから、社会主義だ資本主義だと決めるのもよくないと言えるでしょう。

お礼日時:2018/01/13 13:00

ふむふむ。

そうなのですね^_^
もっとデヴィッドさんの話を聞きたく思いました。
全体の中で、個(個性)が活き活きと発揮され、それが全体と個にとって共益となるような世界、と言うことかなと思いました。
調和という事に関して、生死の問題を投げかけたいと思いました。自然界は遠目に見ればとても調和し、美しく輝いています。原始経典にも、王者の車輪の如くであると謳われています。しかしその内実を見て見れば、それは食物連鎖や共生、闘争などの複雑で生々しい相関関係の上に成り立っているものであることがわかります。自然界の見せる美しい表情は、老いと死の集積の上に成り立っている非常に薄い膜のようであります。自然界にとって生死とは何か、全体と個にとって生死の持つ意味とは何か、それを考えてみたいと思いました。もしかすれば組織(ここでは自然界)は、個々の生命体の事など何も気にかけていないのではないか。いや、むしろ個々が全体に作用するからこそ全体が成り立ち得るのか、など。
私たちが普段、自分の腸内に生息する腸内細菌一匹一匹を気にかけることがないように、自然界は個々の生命体を顧みる事はない。しかし自然界は一定の統一感を持って何某の生きた機構を備えています。私たちが一個人間として、意味や目的を見出そうとできるように、自然界にも何かの志向性があると見る事もできましょう。しかしそれは極めて人間的な見方であり事実と大きく乖離している可能性もあります。
しかしここに、私たちは、この生命連鎖の中であっても、ありえべき人の姿を見出しえるのだということが、あるのではないでしょうか。人間的な見方に縛されているが、正しく人間である道もまた備えていると。

ところで仏教では、大団円(結果オーライ)を良しとします。仰るように調和した世界が人智の範疇にない以上、それを求めても達成する手段は見つけられません。しかしながら、結果オーライの事象ならば、それを人為的に誘発する事はできないが、にも関わらず可能な事であるように思えるのです。

人生の最高の目的をわきまえ知って、他の人のために自分の勤めを捨て去ってはならないとは釈尊の言葉です。勿論釈尊の言葉ですから最高の目的とは覚りのことであるでしょう。しかし、この言葉は世俗の事柄にも援用出来ると思われます。自分の中にこそ全体があるのだと言う考えによって、自分の勤めに専念する事が結局は全体に何某かの信号を送って、それがまさしく全体として機能するように、働くのではないでしょうか。これは無意識と言うものに関わっている事柄であると思います。

個々が、欲望ではなくしあわせをもとめ、我執ではなく自由を求め、争いではなく和することを求め、群れるのでは無く一人立つ事を求めるならば、人類は正しく、(個々のためにも)機能するのでないでしょうか。
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この回答へのお礼

私の大好きなサッカーというスポーツのことを考えてみますと、野球以上に
組織力といいますか、連携力といいますものがモノを言うスポーツだと思い
ます。
昔ほど固定的ではないにしろ、それぞれのポジションで役割があり、一流と
言われる選手ほどそれを忠実に守って、「チームが勝つこと」という目的に
向かいます。
その目的のためには、自分の手柄のみを追うことはまずいわけです。

ところが、人類社会というチームになりますと、構成人員がけた違いに多い
ということと、目的がそれぞれであるということがあってか、「合法的な奪
い合い」ということになっていて、それが「調和」という原則に合っていな
いために負け組という不幸が生まれるし、勝ち組も大きな幸福を感じられて
いないと思うのです。

しかし、民主主義の時代ですから、目的を強制することはできず、個々の人
間の格率によって、個人のことも社会のことも「決まってしまう」というこ
とです。

>生死の問題を投げかけたい

きましたか…

私が抱いている大きな問題の一つに、「何故弱肉強食という調和になってい
るのか?」があります。

生死を含めた生命観は仏典に数多く説かれていますが、私自身深い理解には
至っていません。それでも、改めて考えてみると…

まず、生物は他の生物を殺して(植物は殺すと言えるのか?)自らの体内に取
り込まねば生きてゆくことはできません。
また、有機物でできた生物の肉体は、必ず劣化をして死を迎えねばなりません。

このことから、次の仮説が私の中に出てきています。

(1)個々の生命の宿業ゆえに、このような残酷な調和になっている。

(2)死の苦しみというものは「必要」なものである。避けることはできない。

どちらも仏教の三世の生命観が前提です。科学では全くお手上げの問題でしょ
うから、この前提から科学的思考・知識の助けを得て、思索を進めてゆくしか
ないだろうと考えています。

そして、このような一般の思潮から、この問題を研究する学者が出てきてくれ
ることも期待します。

お礼日時:2018/01/12 13:53

よく、強者が生き残ると言われます。

しかし私は最近、これは違うなと思うようになりました。どう違うのかと言うと、生き残った者が、強くなると言うのが事実ではないかと。もし前者の通りであれば、世界は最終的にピラミッド型の単調なものとなります。頂点の者のみが生き、残りは死ぬ世界です。しかしながら事実として、この世界はピラミッド型という単調な様子ではなく、複雑多様な様子を示しています。なぜかと言うと、生き残るのに実に多種多様な道が存在するからです。端的に言えば、答えは一つではないと言う事です。
調和とは何か。どの様な様相を示すのか。少なくともピラミッド型の単調な社会ではないはずです。また他方で、起伏のない単調な平面でもないはずです。
一言に世のため人のためと言っても、それらが一様の姿を持つ単一のものならばいいですが、実際には、世と言うのは単一の相を示すものでもないし、人というものも一様のニーズを持っているわけではありません。多種多様なわけです。ここに調和というものを見出すには、たとえば料理のようなものを想像すると良いと思います。いくつかの材料と、調味料と、調理器具と、調理法と、腕前によって出来上がる一品の料理が、つまりは一つの優れた商品であったり、流通システムであったり、場を整える法律であったり、イノベーションであったりする。多種多様な対象には、多種多様な事によって応じるしか無いのではないか。
つまり調和とは、人々が簡単に思い描けるような単純なものではないと言うのが私の見解です。料理一つとっても、ホットケーキ一枚作ることさえ結構な複雑な行程があることが想像できます。土を作り畑を作り麦を育て、収穫し、粉にし、その他糖類や酵母などを作り出したり発見したりし、水、ミルク、卵で溶き、鉄のフライパンで、、、、云々なわけです。そしてその出来上がりは美味しく栄養がなければならない。この複雑な一品を、ただ歴史と文化文明の継承者と言うだけで、我々は簡単に作れる。簡単に作っているが、それは実は簡単ではないのです。
調和も、簡単にできると思えばそれは大きな落とし穴となるのではないでしょうか。
増して世界の調和となると、重要な晩餐会のディナーで出すコース料理を、どでかい厨房で腕の立つ職人集団が作り上げるようなものです。その複雑さと難しさはホットケーキの比ではありません。
しかしそれは不可能ではない。そのためには、何が人と世界に相応しいのかを見出さなければなりません。その重要な晩餐会にはどんな料理が相応しいのかを考えるようなものです。
その見出したものが、正当であって、本筋であって、しかも素晴らしいものであるときにのみ、人はそれを目指して邁進することができ、それに向かう価値や理由があるのです。
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この回答へのお礼

仰る通り「調和」というものは非常に複雑怪奇といって過言ではないもので、
人知でその全貌を捉えることはできないものなのかも知れません。

例えば、人体にしても、自然界にしても、調和していると思うのですが、環境
の変化などにより調和の仕方も常に変化していると思います。
ある種が絶滅したならば、その役割を補うために全体が少しづつ変化するとい
うような。

また、他の天体では、地球とは全く発想の違う調和がなされていてもおかしく
はないと、常々考えています。

つまり、私は世の道理、宇宙の道理というものは「調和」ということではない
かと考えているという訳です。
しかし、「調和」という言葉は大変広い意味を持っているので、キチンと対話
して理解しあわないと誤解が生ずる危険性はありますね。

私がこれをどう考えているかといいますと、「組織の中で役割分担を果たしなが
ら個人の利益を得てゆく」ということになります。
また、人類という組織の目的は「人類の真の繁栄、平和、幸福」ということに皆
が同意すべきだと思います。

このことが私が申し上げた「世のため人のため」という理念です。

あくびが出るほどの正論だ、という人がいるかもしれませんが(笑い)、現実が全く
そうなっていないで、詭弁によりそう思わされている、というのがまた、大問題だ
と考えています。

複雑極まりない、人知では現在捉えられていない自然界の調和の中に70億をこえる
人類が生きていて調和しなければならないということは、至難事です。
資本主義も社会主義もまた、様々な思想、哲学もこの調和を志向したものと言える
でしょうが、未だ人類としては確たるものを持ってはいないのでしょう。
私も、十分に分かっていません。
仏典の中にも、私の知る限りでは具体的なものはありません。

しかし、この調和というものに向かって新たなモノを生み出してゆかねばならないと
私は信じています、故にこれは私の中では自明のことなのです。

大胆な、画期的知性が今こそ求められているのではないかと思います。

お礼日時:2018/01/10 13:07

なるほど。

字数の関係という事で、簡単な回答をしますので、良ければお礼欄を使ってください。笑
「ものにしろ」という言葉は私も覚えています。この言葉をどこで聞いたのか、覚えているという事は大事な事なのでしょう。私はものにしたいと思うことがあります。それは、自分の人生をものにしたいのです。またある時は言葉を変えて、本物になりたいと思っていました。「ものにする」という事は本質的な事である故に時代を超えた教えである気がします。古くは勝鬘経にも記されております。武道などでもよく使われますし、職人の現場でもそうでしょう。きっと、文字の発明される前から、人はこのことを言っていたのかもしれません。
それに対して現代は、新しいものに飛びつけみたいな風潮があるのは否めないですね。
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この回答へのお礼

つまり、どんな文明が理想的と考えているかと言いますと、言ってしまうと
あっけない感があるかもしれませんが、まず「調和」ということを善とする
ということです。

「自分のため」という目的を捨てて、「世のため人のため」という目的を善
とする哲学を人類は共有すべきだということです。
「善」というものを人間は本然的には特定できないと考えているからです。

頑張って勉強することも、自分磨きすることも、仕事に打ち込むことも、ま
た人生そのものも「世のため人のため」という目的に向かった時に「調和」
が可能になってくると考えています。

そうでなくて、例えば自分の利益のみを目的として商売をした場合、使い切
れないほどの富が得られる場合があるでしょうが、ライバル会社が倒産した
り、下請けが苦しんだりするし、独占された富が経済全体を潤さない、とい
うことにもなるでしょう。

また、人間不信を増長させ、更に人と人が仲が悪くなるでしょう。

「世のため人のため」という哲学が人間の持つ「愛」とか「慈悲」の心を活性
化させ、つまり、「良心」が溢れてきて、社会に「良識」が満ちて、人の幸せ
感は増大すると思います。

以前、永ちゃんの言葉を紹介しましたが、金とか権力を持つと、もっと欲しく
なるし、死んでも手放したくなくなるみたいです。そこに、社会悪が生まれます。

そもそも、一人の人間が莫大な富とか権力を求めること自体が私は「おかしい」
と思います。
煩悩を捨てるのではなくて(捨てられやしませんが)、煩悩を燃やす方向を変えれ
ばいいんです。

世のため人のために、働いて、生きてゆけば、やり方によっては結構な収入にも
なるでしょうし、満足感も大きいでしょうし、人に感謝され、尊敬されるはずです。

しかし、現代人はそんな単純な話を否定していると思う。否定したいがための詭弁が
社会には充満していると思います。

何故そうなのか?と考えたときに、人間の心の奥深いところにある問題だろうと考え
ざるを得ないわけです。
これが大問題ですよね。

お礼日時:2018/01/08 01:38

格率と言うことに伴って。


例えば嘘をつかないと言う原則、格率があるとします。私の場合、これは、嘘をつく必要がない、と言うことによってその原則を破ること無く自由でいられると考えました。これは、嘘による保身を図る必要がないほどに自己をしっかりと確立していると言う裏付けが、あるという事です。
他には、生命を弄ばないと言う格率は、生命を弄ぶことを喜ばない、これは、その様な意地悪な心や自分勝手な心が消滅しているということによって。
約束を守ると言うのは、出来ない約束はしないと言うことによって。基本的に人間はいつ死ぬかわからないので、未来についての約束は、言葉を吟味して行う必要があると思います。軽々に約束と言うのは出来るものではないでしょう。それなのに、現代の文明社会は、何かにつけて契約を結ばせます。それによって互いを縛らなければならない程に、人間が奔放で勝手であり信頼できないからでしょうか。それとも、縛ることで隷属させ、広い底辺でもって文明の頂点を押し上げるためでしょうか。文明の主が何者なのか、いかなる意志を持っているのか、文明そのものに意志があるのか、尋ねてみなければ分からないことですが。自由と文明の関係も語り合いたいですね。
是非、デヴィッドさんの抱く文明のヴィジョンもお聴きしたいです。^_^
格率によって形成される文明社会とはどの様なものなのか。格率はそもそも何処から生じるのかなど。
また、もし推測するなら、織田信長のもつ行動原則、原理とは何だったのか、など。
ざっくばらんに楽しく話せたら良いなと思います。

基本的に、私は昔、自分の理解の範疇を超えた過去の人々の功績と言うものを意識してこなかったし、無碍に扱うことさえありました。それが災いして優れた他者から学ばない今の自分が出来上がったと思います。同時に、自分を超える知見のある者(ブッダなど)の言葉を聞いて、一層自分自身にしっかり根付かなければならないと思う様にもなりました。
また、誰が言った言葉であれ、その言葉の意味内容そのものを聴いてきました。そのことは良かったと思えます。
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この回答へのお礼

格率ということについてのお考えはよくわかります。

教条的なものから格率・信念に昇化させるためには、そのことについてよくよく
理解する必要があると思います。
その作業なくして社会の常識に従うということは、誠に生命力のない、文明への
隷属的生き方です。

昭和では、物事に対し「自分のものにしろ」とか「身体で心で理解しろ」などと
いう助言をしてくれる先輩がほんの一部ではありましたが、いました。
現在はそういうことを言う人は見かけませんね。

契約ということについて申し上げますと、私も大手企業とはなはだ不平等な商的
契約を結んでおります。
結んでいるというよりも、実質強制的です。拒否したら商売が成り立ちませんか
ら。
公官庁との商的契約はよりシビア(えげつない)らしいです。

力の同等な者同士の契約であれば交渉の余地はあるのでしょうが、力の差がある
場合の契約の真意は、隷属させること(搾取を含む)にあると私は見ています。

>文明の主が何者なのか、いかなる意志を持っているのか、文明そのものに意志
があるのか

う~む、核心に迫ってきたという感じですね。
このあたりのいくつもの難問に対する理解が深まらねば私の思想も未熟と言わざ
るを得ないのですが、現在の考えを申し上げますと…

文明とは個々の人間を包含する「生命体」で意思を持っていると思います。
人間は一人では生きられません。仮に一人で山の中で暮らしていたとしても、言
葉とか考え方等、何らかの恩恵を受けていると言えますから。

また、「時代」というものがあり、これは個人の意思を超えた社会全体の意思と
いうことになると思います。

この意思を持った文明には個々の人間は所詮従わざるを得ないのですが、一人一
人の意思が僅かながら、時にかなり影響していることは間違いないですね。
それは、「意思の強さ」ということになると思います。

織田信長の意思は比類なき強さがあったと思います。ですから、多くの人間を巻
き込んで時代を変えたと言えるでしょう。
私は彼のやったことは評価しませんが、目的に対し全人生をかけたというその生
き方に憧れます。

まだ申し上げたいことはありますが、字数の関係で…

お礼日時:2018/01/07 22:36
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