餃子を食べるとき、何をつけますか?

地球という星に生れて・・・

雲を間近かに見ていると、そんな言葉がつい浮かんできた

だが、その後の言葉が出てこない

何故だろう?

また、これでいいのだろうか?

A 回答 (30件中1~10件)

雲と呼ばれ あなたに見つめられ


想いを伝えることも かなわず
ただ風に流され 空に消えてゆきます

いつか私は そこに行きます
あなたのもとへ あなた自身となるために
はかなくも 無限の存在を 確かめるために

生まれたのは雲 ことばという雲
空に浮かんだ (チキュウトイウホシニウマレテ)・・・

風に流され 形を変えて 消えていく
・(キュウ)・・  ・(ホシ)・・  ・(ウマ)・・・・

この回答への補足

皆さんに。

そろそろまとめようか と思っています。
その前に atoさんの答えから導かれた ある事に触れておきたいと思います。
それは お礼の欄で述べた「試し」の前に書いておくべきことのように思います。
楽しい内容ではありませんが 一部の方には参考になるかもしれません。
私自身においては有益だったと思っています。
なるべく箇条書きにして あっさりと述べたいと思います。
解釈や批判は自由です。


地球という 星に 生まれて
この三つの言葉の組み合わせが
チキュウトイウホシニウマレテ
という一つの音声の連なりになりました。
この事を 符号として見た時には
三つの言語符号から 一つの音声符号への変換のように見えます
「三」が「一」になったのです。

では最初に「三」が出てきた訳は

直感に対する言葉の付与において
言葉は符号としての簡潔さが望まれる
つまり 直感優位の概念構築における言葉の持つ意味とは 直感の符号化です
突き詰めれば 一字 一音によってもそれは可能となりうる
例を上げれば 「空」とか「阿」です
「阿」に至っては 言葉の付与というよりは むしろ音声の付与による符号化です
直感それ自体が求める言葉とは 以上の如く 正に簡潔であり明瞭性を備えたものです
そうした点から見れば
直感に付与する一般言語の数は「三」までである と見るのが妥当と思えます
この実例は 文学における俳句に見ることができます(詳細割愛)

「三」を「一」に変換することにより 「三」を「一」として扱うことが可能となります
変換した「一」には 構築した概念は失われていない
一つの音声符号の中に 当初の直感の内容と概念が含まれている
このような音声符号としての言葉とは 通常の言葉とは区別されるべきだと思います
この実例は 般若心経に見ることができると思います
末尾に記されている真言は
繰り返し深く観察する智慧の働きとその内容を 真言という音声符号として表しています
真言が如来語、秘密語といわれるのは 通常の言葉とは区別されるべきという意味でしょう
一音から 長い真言まで それらは全て「一」の音声符号です
直感に付与する「一」の音声符号です
般若心経の「一」真言には 色即是空 も当然含まれていると思います

だいたい以上です。
質問の答えは これらの中において 既に出てしまった感じもしますが
それらは 心の働きの仕組みという面においてのように思います。
atoさんの答えから 一気に正解に近ずいたような感じがします。
私にとっても大変有益でした。
質問してよかったと思います。
残されているのは ごく一般的な感性面において求められる展開でしょう。
地球という星に生れて という言葉には
きれいな世界に生れて というニュアンスがあります
きれいな世界を 自己の有り方と共に きれいに表現してみたい というものです
そのへんを締めくくりにしたいと思っています。
ありがとうございました。

補足日時:2012/09/06 20:59
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この回答へのお礼

そうか
雲に恋されている とは知らなかった
こんな素敵な ラブレターが届くとは
ありがたい

>チキュウトイウホシニウマレテ
語感がいい
改めてそう思う
この場合 三つの言葉の切れ目がない
一つの言葉としてまとまっている

では試しに

直感の符号化における 実際の言葉の最大選択数は「三」までである
「三」の中の「一」において 既に符号化が達成されているという条件付きである
また 「三」が「一」ともなりうる

あ~ やってくれましたね~
おめでとう。

ちょっと味気ないので 私もラブレターへの返事でも

チキュウトイウホシニウマレテ
チジョウトイウソラノシタニイキテ
アストイウトキガクルノヲムカエヨウ
クモノカナタカライツカノボル
ヒカリヲシンジテ
コノ テアシヲタシカメナガラ
イキテミヨウ

ちょっと キザかな~
ごめん。

お礼日時:2012/09/04 22:06

なるほど。

。。分断と接合(個と全体)ですね。。。

雲を雲単独として背景から切り離してしまうわけではなく、また、背景と同一レベルでの濃淡や色調の変化として捉えたわけでもない。。。

「すごく近くに」見えた「雲」と、背景である「青空」とが、分離されたかのようであって、一つ(全体)として認識された。。。

そうして、そこに「自身」さえも分断されたわけではなく、「全体の一部」として認識された。。。

三つであり、そうして一つ。。。

おそらく、そういうことだったのでしょうかね。。。
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この回答へのお礼

>(個と全体)・・・全体と個

間違いなく近い感覚だと思います
あえて言わせていただくならば
私という個が 全体を感じると同時に
全体の内の私という個を感じとった事です。
この直感を 自然に対する閃きという人もいるでしょうし
自然との一体感という人もいるでしょう。

振り返ってみて思うことは 一言でいえば
その時々の 私という個の感覚と自然との触れ合いであった ということです。
そう思えば
誰にでも起こりうる事ですし
誰でもが感じうる事だと思います。
言葉にする人もいれば
言葉が浮かばないまま すぐに忘れてしまう人もいると思います。
心に刻む言葉を見つけた人の方が得かもしれません
なぜなら
その言葉と共に そこにあった新鮮な感覚を蘇らすことができるからです。
自分の内のきれいな一ページです。

最後に
もう一度読んでみます。

「地球という星に生まれて」

ありがとう自然

ありがとう皆さん

お礼日時:2012/09/08 20:07

『地球なる星に生まれていくのだろうなあ。

』という詠嘆では、…!?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7671611.html

この回答への補足

この場をお借りして締め切りのご挨拶をさせていただきます。
皆さん ありがとうございました。
沢山のお答えを寄せていただいた事を嬉しく思います。
ありがとうございました。

直接の正解ではなかったのですが
atoさんの答えから有益な示唆をいただきましたのでポイントを差し上げたいと思います。
ご了承ください。

最後に
地球という星に生まれて という言葉を
私の内から解き放ってみたいと思います。
皆さんの心に どう響くかは分かりませんが
ありのままです。


仰向けになれば見える 白い雲
目を閉じて 開ければ 違う雲
覚えていた雲は去って
見知らぬ雲が話かける

青空にとけてゆく薄い雲もあれば
雨を降らす重い雲もある
みな静かに 音もなく 通りすぎてゆく
心に残していった言葉は
地球という星に生まれて
雲に生まれて
人に生まれて


以上です。
駆け込みのために あと一日開けておきます。
ありがとうございました。

補足日時:2012/09/07 21:18
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この回答へのお礼

ん~~と そろそろです。

>だろうなあ。
も否定はしません
自由でいいと思います
でも ちょっと長いかな~
大切なことは 短く言った方が効果的だと思いますよ。

他の方の質問との関係については控えさせていただきます。
幾度もありがとう。

お礼日時:2012/09/07 20:47

地球なる星に生まれて、漸く彼等は『死の谷

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B9% … 』からの解脱を…!?』

こういう冒頭からの書き出しでも、次の展開を導けませんでしょうか?
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この回答へのお礼

おお~
死の谷からの復活は難しい
だが夕焼けは美しいだろう
赤い河の谷間の向こうは きれいな草原に違いない
牛の声は緑の・・・・・高く低く流れる赤い河の谷間

違った 違った
青い空と白い雲 だっけ

お礼日時:2012/09/07 20:31

「『地球なる星に生まれて』きたつもりなのですが、果して…!?」


というFictionはどうでしょうか?
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この回答へのお礼

残念ながら
>つもり
はありません

という冷たい返事よりも
大切なことを

「三」が「一」になった事により
他の概念の接続が可能になったようです
この場合の展開において
同一の概念の指向性の延長としての展開か
また 飛躍とかフィクションなどの展開があるでしょう
だが これらはすべて「一」に比すれば虚しいものです
文学的には優れていても 「一」の実存性から見ればNOなのです

ちょっと厳しかったかな・・・
ごめん

お礼日時:2012/09/07 20:23

 「小さな虫の死骸を土のあるところに戻してやる」



 私はそこまでしませんが、踏まないようにはしていて、最近のことでは地面から出てきてアスファルト上にいる蝉の幼虫を木の枝に移してやりました。

 私の帰依する明治のお坊さんは四六時中、念仏しながら若草や蟻などを踏まないようにして歩いたということです。
 ためらう必要はありません。行動してみてください。
 仕事が外回りなので、強風で倒れている植木鉢なども私は起こしてあげています。
 好ましいほうの心は使うほどに育つ故に。

 「三」「3」という数字を私は「安定」と意味づけています。

 三位一体なんて言葉がありますが、心の働きは、意志、理性、感情の三つで表されたりしますし、別の表現では、信(理性)、愛(感情)、欲(意志)、とも言え、また色の三原色とか、光の三原色とか、空間を三次元と言ったりします。(時間については“空間”を存在させているという“継続”なので別格でしょう)

 また、五徳ではなく足が三つの“三徳”ならばその足の長さが多少違っていても、でこぼこ地面に安定させられるという“特技”を持っていて、“三”という数字には意味深いものがあるように思います。

 宇宙の存在(安定)は 三つの要素に依る故と思いませんか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>好ましいほうの心は使うほどに育つ故に。

そうなんです
いつのまにか育っていく
これは 確か

>宇宙の存在(安定)は 三つの要素に依る故と思いませんか。

三密や六大に関しての深いことでしたら はっきり言って私には申し上げる資格がありません
汚したくないという気持ちもあります
ご存じかと思いますが
宇宙の構成要素と思われているものは 実は要素ではなく
宇宙の実在の働きを分けて表現したものとされています
六大一実にして常に・・・ 三密加・・・ の御文の通りなのでしょう
勝手な解釈は許されても それを論じるくらいなら 実修に臨むべきといった感じもします 
また 今回の質問の趣旨からも そこまで踏み込む必要はないと思います
ご了承ください。

お礼日時:2012/09/07 15:56

 特別なこと、神秘的なこと、を言おうとしたわけではありません。


 誰の心にもある感性について、述べてみたのです。

 宇宙を全体、とすればその中に現れている“物”は宇宙に対して“個”と言えます。

 自分に執着している心の状態に気づく時、“心ある人”はなぜか罪悪感を感じ、それゆえに自分自身に“言い訳”をすることで自身を保とうとしているものですが、自分よりも他者に思いをかけているような時は、そんなことはなく、かえって“充足感”さえ覚えたりして・・・・・不思議ですね。

 人の心の“仕組み”なのでしょう。

 全体と個、神仏と悪魔、善と悪。

 青空に浮かぶ白雲を見て厳かな気分になる人もいれば、黒雲に轟く雷鳴に興奮して活き活きとしてくる人もいます。
 人の心の反応です。

 いま貴方は、自分自身への執着心の度合いを「白雲」に問われているようですね。

 

 
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この回答へのお礼

>いま貴方は、自分自身への執着心の度合いを「白雲」に問われているようですね。

う~んと 結果的そういう一面が出てきたことは確かなのかな

詩にしてみよう

地球という星に生まれて
今日という日の空を仰げば
真綿のような真っ白な雲が
来たよ~ と言っては 去ってゆく
自分はどこへ行くのだろう
どこから来て どこへ行くのだろう
雲が教えてくれた言葉は
地球という星に生まれて
手の届きそうな雲が 教えてくれた言葉は
地球という星に生まれて


時々感じる事があります
「執着心を問われている」というよりも「試されている」というものです
それは 自然を通して見た自己の投影を強く感じたときにそうなってしまいます。
些細な例を上げれば
小さな虫の死骸が道端に落ちているのを見つけた時
そのまま通りすぎてしまうか
拾いあげて土のあるところに移して、土に帰れるようにしてやるか どうか
こうした時 いつも思うのは「試されている」という感じです
自然はいつも 必ずこうしなさい とは言いません
数多い選択肢の中から どうするかは自由なのです
小さな虫の死骸を拾えるかどうか
自分を離れたことができるかどうか
やはり「試されている」気がしてならないのです。
まあ
そう思うのも 一つの執着かもしれません
そのへんはご自由な批判にお任せします。
幾度もありがとうございました。

お礼日時:2012/09/06 18:51

「言葉が出てこない」てのも、一つの表現かね。

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この回答へのお礼

>「言葉が出てこない」てのも、一つの表現かね。

前の言葉に比する言葉がみつからない
付け足しはいくらでもできるのだけど NOになってしまう
直感の内容に それ以上の言葉を与えられない 相応しくない という判断と嘆きです。
直感は思考しない
思考せずに得たものに対しての 理性の判断の表現
直感優位の概念構築に対する 理性のため息
みたいなもんでしょう。

お礼日時:2012/09/05 21:17
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この回答へのお礼

IT トポロジー フラクタル
ときては何だろう
形象 非形象の展開だろうか
結局 ひっくるめて 無限の事象と その純粋要素を叩き出したいようだ

そうだ叩こう
キ―を叩こう
丸い太鼓を叩こう
四角い箱を叩こう
叩けば出てくる
音と振動の世界
言葉から符号の世界へ
言語符号から 音声符号の世界へ
とうに その世界からの招待状は来ているのだけれど
まだ 行くのは早い

という事にしよう。

お礼日時:2012/09/05 20:56

 精神は肉体に依存し、肉体は精神に依存している。


 下等生物であっても、同様であると思う。
 

 健康な精神は健康な体に宿り、不健康な精神は不健康な体に宿る・・・というわけではないようで、そう思えば
 この言葉は、そうなりやすいと言った程度の意味でしょう。

 健康な体でも不健康な精神は宿るし、不健康な体でも健康な精神は宿ります。
 “宿る”と言いましたが、精神は作り上げられるもの、と思うので“宿る精神”はあえて言えば“素材”的な精神と言ってみたい。

 他の生物はいわゆる“本能”が心の働きのすべてかと思いますが、人間はそれに加えて理性なる能力を得たので、それに依って意志をコントロールしたり、感情を制御することができます。

 その理性が善悪を判断し行動を選択します。
 こんなことをするのは、神の世界や悪魔の世界があるから。

 悪魔の世界は暗黒で象徴されますし、神の世界は光で象徴されます。
 aboutさんは青空に浮かぶ白雲を見て「厳かな気分」になったと云っていますね。

 
 

 
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この回答へのお礼

ついに神様が登場
嬉しい

私は神様に出会った ことになる
青空と白雲の神様に

と 思ってみたいけど
そんな大げさなもんじゃない

主観の妄想と言われるよりは いいけれど

誰でも それが「来る」 と思う

分類してみれば
色界を垣間見たようなものだ

誰でもそれが可能

だと 思いますよ。
ありがとう。

お礼日時:2012/09/04 21:23

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