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 この質問は リワ゛イワ゛ルです。あたらしい見解は さほど出ないかと思っておりますが いろんな角度からあらためて見直しておきたいと考えました。どうぞよろしく。

 ○ (前身の質問での趣旨説明です。)~~~
 ここでは けんかを 口論にしぼってください。
 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。
 存在を愛し 〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を憎むことです。

 なぜ いけないのでしょう?
 理由が分かりません。おしえてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 そこでのべストアンサーをも掲げます。それを出発点にしたほうがよいと考えました。あまり後戻りは したくないと思うからです。でも 検討してみてください。

 ○ (べストアンサー) ~~~~~

 口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、
 競いあうようなスポーツは嫌ですが、
 絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、

 自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、
 自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。
 自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。
 口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。

 自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。
 けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、

 互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。
 互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。
 ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。
 頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。

 徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、
 自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、
 自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、
 ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、
 思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、
 ・・・(あと省略します)・・・
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ (この回答の筆者の方には 掲載について事後承諾になりますが よろしくお願いいたします)。

 ☆ このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。
 これが 哲学としての対話である。こう考えるという意味です。
 むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。
 
 さて 対等で自由な 建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。つまり 哲学におけるけんかという主題についての情報交換となります。(これは 念のために 自分の主張を推し出すためのものではなく またアンケートをとるためでもないということを表わしたものです)。

A 回答 (35件中1~10件)

個人的には、けんかがいけないとは思わないですね。



原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦った。
その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き
力を養い、鍛え、一面で道徳律を築き上げた。その結果、文明が築かれ
文化が創られた。

これは、口げんかでも、腕力けんかでも、基本は同じでしょ。



でも、一般的にはいけないとされています。
その理由ですが。

口けんかは、己の悪いところを発見確認できる
から、それを素直に受け入れ、直すべきは直す。
そういうのは、己の人格向上のためにはよいんじゃないか、
ということですよね。

でも、そんな人はごく少数でしょう。
ほとんどの口げんかは、修正不可能な部分を攻撃し
互いに憎しみ合って終わりです。
そういう口げんかを良いことだ、としたら社会が乱れて
どうしようもなくなります。

そういう現実を踏まえて、いけない、ということに
したんでしょ。
一部のレベルの高い人に合わせて社会規範を構築しても
役に立たず、弊害ばかりになってしまいます。
それは、社会主義が失敗した理由の一つでも
あるでしょう。

つまり、マクロ的に考えていけない、ということに
したんだと思われます。
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この回答へのお礼

 なるほど。と思うと同時に それだとすると こんどは何故その《マクロ的視点》に人びとはしたがったか? が問われると思います。

 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 社会全体の秩序を考えて むしろやむを得ず ひとつの倫理的な規範としては互いに 《けんかは いけない》という申し送りをした結果 一般的な道徳律のようになったのだと。

 ここでじつは へきゆさんに参加してもらっている【Q:自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。】の問題になると思います。

 わたしの歴史的なその伝統についての感触としてはなのですが どうも上から蓋をかぶせるようにして・しかもクウキのごときやわらかいあたたかい繭のごときこの道徳規範をおしつけたという仕掛けがあるのではないか。というものです。


 つまりは 人びとは・庶民は しょっちゅうけんかをしています。仲が良いからです。腹にふくむものがないからです。
 ★ ~~~
 口けんかは、己の悪いところを発見確認できる
 から、それを素直に受け入れ、直すべきは直す。
 そういうのは、己の人格向上のためにはよいんじゃないか、
 ということですよね。
 ~~~~~
 ☆ という効用を知ってか知らないでか そんなことにもお構いなしにけんかをしています。そして おおかたは そういう結果になっているのではありませんか? 家族をテーマにしたドラマなどは いまでもそういう筋書きになっていませんか?
 ★ でも、そんな人はごく少数でしょう。
 ☆ と もしした場合にも 話は別の要因があるように思います。
 ★ ~~~
 ほとんどの口げんかは、修正不可能な部分を攻撃し
 互いに憎しみ合って終わりです。
 ~~~~~
 ☆ おそらくこの種の事例は 《ほとんど全部》なのではなく〔おそらく〕少数なのだけれどもその結果があまりにもひどく悲惨であって 取り返しのつかないことになる場合がある。よって そのことを考慮するなら どうしてもやむを得ないと判断するしかないのだと。こうなったのではないかと考えます。


 ところが・ところがです。ところが そういうふうに取り返しのつかない結果をまねいた場合というのは 大きくふたつに分かれるのではないでしょうか?

 ひとつは たしかに腹に一物も何もないのに その場の衝動的な感情の爆発によって 悲惨な結果に到ってしまったという場合です。広い意味でヒステリー現象だと言えば分かりやすいでしょうか。

 もうひとつは 計算づくのけんかの場合です。あるいは もっと細かくみれば むしろけんかなどはしないという人間 A とふつうの庶民である人間 B とのあいだに 衝突が起きた場合がいい例だと思います。
 庶民 B は よほどのことでなければ 手を挙げたりしないと思うのですが よほど《金持ちけんかしない》類型に入る人間 A の言動に腹をすえかねたのでしょうね。その結果 食ってかかり悲惨なけんかにまで発展したという場合。
 さらにまだ 細かい話はつづきます。じつは その A と B のけんかには もっとおおきな問題があって むしろ A のほうは 自分からは手を出さないのだけれど けっきょくにおいておこなったことは B をけしかけたというその挑発行為のことです。

 わたしの言いたいことは この事例のさらにあとの話です。この《決してけんかをしない主義の人間 A 》こそが その品行方正ぶりとそして取り分けその学力優秀ぶりによって アマアガリして行った結果 いまの国家におけるお二階さんが出来たという妄想としての歴史観です。
 アマアガリして行く人が みなわるいと言っているのではありません。よい人も最後には 感化されてアマテラス公民の人間類型になってしまうという問題です。
 《けんかは してはいけません》すなわち《和を以って貴しと為す》というクウキなる蓋をかぶせるのは むろんこのお二階さんたちです。

 つまり そういう意味でも
 ★ つまり、マクロ的に考えていけない、ということにしたんだと思われます。
 ☆ でも それにも・つまりそのような仕打ちにも スサノヲ庶民は耐えて来ました。一揆を起こすくらいです。反抗としてのけんかをやらかすのは。
 つまり スサノヲ庶民の一階部分では みな平和です。けんかが絶えないほど平和です。腹に含むものなど ありません。富士山の日本晴れです。それが 《和の精神》としてのわが日本人の心です。

 《和を以って貴しと為せ》と言われなかったら わたしは《和を乱す》ことを知らなかった。


 ★ ~~~~
 一部のレベルの高い人に合わせて社会規範を構築しても
 役に立たず、弊害ばかりになってしまいます。
 それは、社会主義が失敗した理由の一つでも
 あるでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ 当否が相交じっていると思います。
 庶民は おとなしい。みな総じて かしこいのです。ぎゃくに
 ★ 一部のレベルの高い人
 ☆ というのは 明らかに《けんかをしない主義》のアマアガリ・シンドロームに罹った人を言います。つまり そのような《一部のレベルの高い人》に反発して これを排除して自分たち労働者・農民とその代表によって社会を造り直そうとしたとき そのあたらしい《一部のレベルの高い人たち》
 ★ に合わせて社会規範を構築し
 ☆ たのが
 ★ 社会主義が失敗した理由の一つでもあるでしょう。
 ☆ ほらごらんなさい。日本の庶民はかしこいでしょう。そんなヘマはやりません。あくまでお二階さんが 心を入れ替えて わかった われわれがわるかった 独走して来てしまったようだ だからここでみなさんの生活社会に大政奉還をおこなおうと言い出すところまで 静かに見守っています。みな平和です。

 だから

 ○ けんかをしては 何故 いけないのでしょう?

 となるはずです。つまり もしこの史観が妥当であるならば へきゆさんまで アマアガリ神話なるクウキに毒されている。こう考えられます。



 どうでしょう? からくりは ありませんか? あるいはそのようにカラクリを指摘するわたしの見方が くだらんカラクリでしょうか?

お礼日時:2012/03/11 09:33

あそっ、





もうー 



廿
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甘えて、どこが悪い?

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この回答へのお礼

 《ふざける》の中の部分的な《甘える》を さらに取り出して 強めたまで。

お礼日時:2012/03/14 15:12

ポストモダンって?なに???


http://pmcblog.exblog.jp/2350961/
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この回答へのお礼

 ふざけんな。あまえるな。

お礼日時:2012/03/14 14:58

『赤目四十八瀧心中未遂』にでていた女優さんだれだっけ?



あっ、そうそう寺島しのぶって人だったよね。この女優さんとトヨエツ(豊川悦司)がでていた映画のタイトル何だっけ?そだそだ、『愛の流刑地』そうなんたよなあー。ここのやりとり眺めてると、何だかこの映画をみてるような気になるんだ。存在を愛し、〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を憎む。

死んでなお相手の心の中に棲み生きようとする。愛の形もいろいろなんだなあ。人が人をおもうおもいかたも。人が人に死を乞う。「殺して」と。乞われた方は、戸惑いつつも相手ののぞみを叶えてしまう。死を乞うた者のは、満たされた表情を浮かべ息絶える。戸惑いつつも相手の首に手をかけのぞみを叶えてしまう乞われた者。ふと我に返り手の中を見ればそこにはもう息をすることのない生温かい身が横たわる。その様を見つめる我一人。取り残されし者が佇む。取り残されし者一人、刑に問われる。檻の中に囚われの身となりなおも心までも死を乞うた者に囚われる。人は自由を求めていたのではないのか?なのになぜ自らが自らの自由を手放してしまうのであろうか。これが人が人を愛してしまったことへの罪と罰なのか。愛が憎しみにかわるとき、憎しみか愛にかわるとき、愛を求めてやまない罪深きそんな人間の業の深さを感じ入る。求めちゃいけない。存在を愛し〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を憎む。死ぬことを手段に相手の心の中に居座る。なんて、厚かましいんだ。もうあなたはわたしを忘れられない。なんて身勝手なんだ。生きていればこそ話しもできれば、けんかもできる。死んでしまった相手といったい何ができようか?愛しているというけれど、からだ重ね会うことももう叶わない。一人先立ち逝ってしまえば残された者のことなどおかまいなしか。何て身勝手なんだ。物言わぬ相手を前に一人相撲の押し問答。身も心も疲れ果て、いつしか眠りに落ちていく。



ヽ(  ̄○)ゞ。o○ファァ~~♪
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この回答へのお礼

 その人の場合は ほんとうには心の奥底でみづからが そのような自己批判をしたがっているのです。さもなければすでに死んでいます。

 自分で自分をとがめつづけているのです。いっさい隠しています。十人前ほどの知力と努力で これをつらぬいて来ているようです。

 わたしは ただ 好きなようにその人の面向くままに おつきあいしているのみです。もしわたしとの対話を嫌えば わたしのところには来ない。それだけのことです。

 わたしは その人からブロックされているので そこへは行かないということもありますが そういう問題ではなく もともとすでに見放したあとの世界に入っています。その人をわたしが見放したあとの世界に入っています。見放してくれという声を受け留めそれに従ったのです。その世界においてあちらから わたしのもとにやって来た。それだけのことです。
  
 もしわたしの挙げる質問の内容が その人の心境や問題点とかかわっているとすれば それはそういう課題を わたしが自分の主題として・しかも一般的な哲学の主題としてかかえたことから来ています。自分の通って来た経験事態の中から哲学としての主題を取り出すのは 不思議でも何でもありません。ふつうのことです。






 ★ 心中
 ☆ というのは ひとつに 人殺しです。

 ひとつに 昔の身分制のもとでの世の中では その《道行き》によって ふたりそれぞれの《わが自由》を守るために――むろんマイナスのかたちにおいてながら――おこなったという側面がなきにしもあらず。普遍的な自由を生きるというかたちが 負の姿となって現われた。ゆえに まったく取り上げるに足りぬというわけでは その身分制による自由の死という情況のもとでは ないかも知れません。

 そのような自由の死は もはや 現代の世の中ではあり得ません。自由の制約はあります。それとたたかうのが 自由です。情況がまるで違います。
 もしその種のドラマが迎え入れられているとすれば それは 昔なら支配者の満足とするところであろうし(なぜなら 庶民はその事件のことを考えて不平不満が散らされて行きます) 今では お二階の偉いさん方も もうどうしてよいのか分からず 昔の事例を持ち出して来ている。ただやみくもに振る舞っている。といったところでしょう。
 知性が枯渇したのか。それとも 魂が去勢されてしまったのか。

お礼日時:2012/03/14 11:25

よかったら、その欠席裁判というもののリンクをはっていただけると


ありがたいのですが。
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この回答へのお礼

 もし内に省みて そういう答えが返って来るのだとしたら それで かまいません。

お礼日時:2012/03/14 05:02

現実の世界の方が大変なことは多いから、大抵の人はそういうことを


ネットの世界において純粋な理論で考えてみたいんじゃないでしょうか。
だから、わざわざどうしてネットでけんかしなきゃならないんだと
だいたいの人は思っているのです。

その理由がわからないんですよ。
政治でも教育でも社会問題でもない、ましてや日常の悩みごとでもない、
この匿名システムにおいては「ネットの人格」なんてどうでもわけだから
それが純粋な議論が可能になる利点でもあると思うんだけど、
ブロジェロンヌさんという現実の人格がまるでそこにあるみたいに、
「ネット人格の情念」がうかびあがっていることがまるでうそみたいに
思えるのです。

現実では勿論意地になってただ論破することが目的になってしまったり、
立場や感情を無視出来ることの方が少ないのだけれど。

なぜ、どういうのっぴきならない事情がそこにはあるというのか、
みんなは、それが本当に知りたくてしょうがないんじゃないでしょうか。

この回答への補足

 人びとは むしろ そのはけ口を求めているのです。

 わたしの質問の場にそれを見つけたのです。

 ぜんぶまとめて めんどうを見ています。

 しかも その不平不満が解消する道を ともに互いに問い求めて来ています。

 それだけのことです。

補足日時:2012/03/14 10:44
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この回答へのお礼

 はあとまいんどさんも たしかあの欠席裁判に参加していましたよね。
 
 その事実によれば その参加はとがめられるべきだとわたくしは考えますので その咎が晴らされたあと 初めてふつうの対話ができるようになります。

 これまで・そしていまも 存在が存続しているわけですから 趣旨説明に書いているとおりにその存在を愛し コミュニケーションの断絶をきらって お応えしてまいりますが そういう事態になっているとはきちんとお伝えします。(これまでは そのことについて触れても かえって意味がないと受け取られてしまうと思って 触れませんでした。ですが その問題は つづいて来ています)。

 欠席裁判は たとえ咎のある人に対してであっても 何かを判定するということに際してはその人の意志自由による発言や弁明を聞いて初めて成り立つという人間社会の法的精神に反するものです。それを主宰するのもそこに参加するのも 同じく責めに任じなければならないと考えます。


 さてこの質問への回答としては 実質的な回答の部分は 最後の段落だと思われます。
 ★ ~~~
 なぜ、どういうのっぴきならない事情がそこにはあるというのか、
 みんなは、それが本当に知りたくてしょうがないんじゃないでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ これは 何を指すか? ひょっとして
 ★ ~~~
 ブロジェロンヌさんという現実の人格がまるでそこにあるみたいに、
 「ネット人格の情念」がうかびあがっていることがまるでうそみたいに
 思えるのです。
 ~~~~
 ☆ ここですか?

 ふたつ答えます。
 ひとつは わたしは 基本的にネットの世界と現実とが異なるとは考えていません。なぜ異なると考えるかの理由が知りたいほどです。
 たとえば 手紙を書いた場合 本人がどこか変わると思うほうが おかしいと考えるからです。

 もうひとつは
 ★ 情念
 ☆ これは 読み違いでしょう。つまり もし実際に情念を感じるとしたら それは わたしがほかの人たちの感情を受け取ってそれをあたかも反映させている。それだけのことです。
 だいたいは 自然とそういう反映が現われているようです。
 また 相手に応じてそれぞれ具体的に現われています。なぜなら 相手の心境や状態を反映させるものだからです。

 つまり最初のわたしの考えとつうじています。実際には誰もが 感情の人としてもこのネットの世界に参加しているのです。それはちゃんと現われています。現実の本人なのです 誰でも。

 あるいはつまり ただしそのように現実の人となりがネット上にも現われるのは もしかしたら わたくし=ぶらじゅろんぬを相手にしてやり取りをするときが ほとんどであるというのかも知れません。

 それは わたしの文章は 
 ★ 純粋な理論
 ☆ だけではなく 現実の社会やその情況と密接につながった思想を扱っているからです。

 

 その結果 
 ★ ~~~
 わざわざどうしてネットでけんかしなきゃならないんだと
 だいたいの人は思っているのです。
 ~~~~~
 ☆ と言うのは わたしとのやり取りにおいて 感情が現われるということと 現実の社会に対する不満がやはり感情として現われるといったことがあるからでしょう。
 わたしは けんかをしなくてもよいようにという世界観を明らかにして問うていますが 上のふたつの感情が《活きていて》 人びとは けんかをしたい気分にもなるのでしょう。

 そういう化学反応が この質疑応答の場では起きている。そう見ています。
 その化学反応を起こす触媒になっているかも知れません。わたくしがです。つまり わたしの質問がです。

 

お礼日時:2012/03/13 23:44

マシュマロさん、



こんにちは。妙なことに巻き込まれ、後味が悪いかと思います。横やりを入れる形ですが、私の意見を書いておきます。

>私はサイコロさんの質問に何度か投稿しました。
ですが、私の投稿内容とあなたとはいったいどのような関連性があるのでしょうか。

まず私自身、欠席裁判などではないと抗議しており、いかなる意味でも、誰に対しても、咎はないと考えています。しかしマシュマロさんを巻き込む形となり、申し訳ありません。 ブラジュロンヌさんの言葉を引用しつつ、マシュマロさんが無関係であることを、示しておきます。以下は私に向けられた言葉です。

>★ 欠席裁判を主催
 ☆ あやうく見逃すところだった。もしこの《主催》という文字だとすれば たとえそれが本当の事実だったとしても 原告も判事もほかにいるという言い逃れができるかも知れないと見られうる。
 《主宰》した。これが 真っ赤な事実である。

ブラジュロンヌさんの記述は、日本語として意味が分かりにくいですが、
・主催=共犯者がいる、
・主宰=単独犯である、
という区分をまず前提としているようです。その上で、私が「主宰している」、すなわち、私一人の責任であると糾弾しています。つまり、マシュマロさんを含めて、私の問いに参加した他の方には、何の関わりもないのです。

おそらく、こうやって私にとって親しい相手を傷つけると、私の心が痛むと見越して、わざとやってらっしゃるのでしょう。加えて、ここにはもう一つ、悪意ある狙いが潜んでいます。つまりブラジュロンヌさんは、私に対する批判キャンペーンを張っているようのですが、同じ理屈を適応すると 、 批判キャンペーンとして立てられた一連の問いに投稿した方は、反サイコロの「咎人」ということになります(私はそう思っていませんが)。こうやって憎悪の輪を連鎖させたいのでしょう。とりあってはいけないと私は思います。

ブラジュロンヌさんはこうやって、 私を憎悪の輪に落とそうとしているようです。言い換えると、涼しい顔をしている私を汚したいのですね。 私は笑って放っておくことにしたいと思います(そういう意味を込めて、涼しい顔をしている彫像を私のプロフィール写真にしておきました)。
もう一つの問いの方で、No24とNo31に、ブラジュロンヌさんに関する私の見解が書いてあります。エディット・コンプレックスを応用した解釈は、推論にすぎませんが、事態を理解するよい手だてであると思います。もしよかったら参考にしてください。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7347889.html

なお、私に対する応答は、ご不要です。書けば書くだけ、他人をバッシングし、こちら側が自分で自分の品位を落とすという悪循環に陥ってしまいます。これもブラジュロンヌさんの狙いだとしたら、癪ではありませんか。放っておくのが一番、効果的な手段だと私は思うのです。

悪意は連鎖するものです。それを誰かが断ち切らなければならないと思います。
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この回答へのお礼

 精神のストリップが まだまだだ。とエールを贈っておこう。

お礼日時:2012/03/13 09:16

お久しぶりです。


大切な方から二週間も連絡がなくて不安になっている私です。

けんかはどのような形であれよくないです。してはいけません。骨身にしみました。今では教えてgooに書き込むのも怖いです。それでは。
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この回答へのお礼

 お久しぶりも何もあったものか。自分だけで走ってるんぢゃないの?

 とも言えないのかな。まづは こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 なんですって?
 ★ 骨身にしみました。 
 ☆ けんかが下手だったってことだろ?

 何と書いているか? 《自己批判を基礎とするけんか》ぢゃわい。

 けんかは コミュニケーションの一環である。 
 あんたのけんかは ディスコミュニケーションのためにやっている。いた。んだよ!!


 あなたが出しているのに 返って来ないのか。それとも あなたからも出さないのか。だ。


 趣味でも出来るのなら やればいいし。
 何もかんたんには出来ないのなら じっくり休もう。徹底して休もう。

お礼日時:2012/03/12 21:21

>欠席裁判に参加した咎を晴らしたあと 正式な(つまり ふつうの市民としての)対話になります。



私はサイコロさんの質問に何度か投稿しました。
ですが、私の投稿内容とあなたとはいったいどのような関連性があるのでしょうか。
回答を寄せた私の与り知らぬ事を、ただの傍観者のあなたが「欠席裁判」だの「咎」だのとでっち上げているだけはありませんか。
ということは、何の質問かは存じませんが、そのあなたが「欠席裁判」とみなしている質問に投稿した他の回答者の方々までもが皆、あなたに対していわれのない咎を晴らさなければならないというのですか?
まったく。。。

そんな独善的で思い込みの激しいあなたご自身のでっち上げに対して、私が「欠席裁判に参加した咎を晴らしなさいよ。」などとと言われる筋合いなどいったい何処にあるのでしょうか。

>さて 対等で自由な 建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。

いいえ、これは一方的で私には身覚えのないけんかですから、けんかのふるいようがありませんよ。

>顔を洗って出直して来なさい。総じて考えが なまぬるいわい。

考えが甘いのは今に始まったことではないから甘んじてお言葉を受けますが、
あなたのほうにこそこういう言葉があるのではないでしょうか?
「おととい出直して来てくださいね!」ってね♪
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この回答へのお礼

 ということは その振る舞いや文章内容そのものにおいて けんかがいけない理由はないというご回答だと受け取っておきましょう。

お礼日時:2012/03/12 20:50
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