

世の中のありとあらゆるものは、根本的に「自明」ではないと考えられます。
しかし、人間は何物かを「自明」なものにしなければおそらく、いわば「精神を固定できない」
ために、何物かを「あたりまえなもの」にしていると思われます。
つまりそれは、根拠なく自明なものにするという非科学的なこと、「信ずる」ということになる
でしょう。
ですから、「信ずる」という心は特定の宗教にばかり向けられるものではないと思います。
また、何を信ずるかと問われて、「自分を信ずる」と答えられる方は多いと思いますが、私も自
分の心身の存在は信ずることができますが、「自分とは何か?」と考えた時に、明確な答えを持
っておらず、従って大変に観念的になってしまいます。
1.あなたは何を信じていますか?
2.そして、それを信じているのはどんな理由が考えられますか?
3.科学を信ずることは間違いのないことでしょうか?
4.自明性ということについてお考えを。
以前も部分的に同様の質問をしましたが、改めて問うてみたいと思います。
A 回答 (47件中31~40件)
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No.16
- 回答日時:
まことはそれを信じた人を裏切らない。
・・・・・
科学は無理解(何故?)という色紙(キャンバス)に理解(わけ)という絵を描くなものだろう。この絵は言語によって描かれる。(哲学者が言語について研究するのも、科学だけでなく学問すべてが、言語によってその可能性が開けていると同時に、言語によってその限界を生じているからだろう。)
自信がなくては良い絵は描けない。良い絵が描けなければホントの自信は生まれない。立派な科学を作る学者も、自信があるのだろうと思う。
素人は、これは良い絵ですよと言われて贋作を売り付けられたりする。科学でも、トンデモ科学が流行することがあるだろう。
太陽は地上から見れば昇り沈むが、天空から見れば回っている。おそらく科学にとって大事なのは、ワケよりもナゼの方だろう。太陽は何故昇り沈むのか?と、太陽はなぜ回っているのか?では同じ太陽の運行に対する疑問ではあるが、別の見方をしているのである。何故のほうが、理由のあり様を規定している。
キャンバスを選ぶ時点で、どんな絵を描きたいのかが定まっているように、目の付け所の時点で、言いたいことの大半は決しているのかもしれない。
・・・・・
自明の構造というものはどういうものだろうか。
研いだ刀がよく切れるのは当然である。
よく切れるように研ぐのであるから。
一方、鋭い刃物が使い方を誤れば人を傷つける恐れがある。
これこそ自明である。故に鋭い刃物は気を付けて扱わなければならない。
眼ある人は危険を見て、それを利に変える事さえできる。
鋭い刃物を優れた調理器具とするようなものである。
見る目のないもの、危険を軽視するものが、危険によって自ら、また他者をも巻き込んで難所に陥る。鋭い刃物を凶器に変えたようなものである。
智慧を、自らに潜む悪を調伏する武器として扱うのは自らの過誤を明らめるのを恐れない勇気のある人である。それでこそ智慧は智慧となるのである。
そして言葉には、まことあるものと、虚偽あるものとがある。
よく説かれた言葉も、受け取り方によっては聞き手に害をもたらす。虚偽ある言葉なら猶更だろう。
刃物でケガをしたりさせたりする事の責が刃物にではなく使い手にあるように、語るに優れた人よりも、聞く耳のある人が、言葉をよく使いこなしているのだろう。
世に飛び交う言葉をよく弁別し、明あるものだけを知る人が、危険を避け、利を得て、次第次第に事の真実を明らめてゆくのだろう。
>科学にとって大事なのは、ワケよりもナゼの方だろう。
そう思います。しかし、ワケに偏っているのは「その方が簡単だから」だと、また
憎まれ口を叩いたりする私です。
あなたの思索は深い。知的善知識、というべきか。
悪知識をも善知識にするべきである、という日蓮の教えがあります。
とても難しいのですが、それを試練と捉えることができれば、悪知識の価値も生ま
れるということになる。
つまり、善人によって悪人が救われるということになるのだろうか?
私は文明の自明性というものは、権力者が作ってきたものだと考えています。
そして、次代の権力者がそれを引き継ぐ訳ですが、引き継ぐ者というのはいわば二
代目、三代目、あるいは「雇われ社長」のようなものといえるでしょう。
創業者の苦労を知らないバカ息子のようなもので、また、年齢も大抵中高年であって
大変保守的であると思います。
社会悪というものはここに大きな因があると考えています。
あらゆる権力者の総力は、一般大衆を支配するのに十分なものがあります。ですから、
私は、その力に対抗するために「強力な攻め」が必要だとずっと考えているのです。
勿論「武力」ではなく「言論力」でです。
No.15
- 回答日時:
>私も、キチガイだというご結論を残し、去ってゆくという訳ですね。
いや、それはDRさんが自分で告白してしまっていることではないでしょうか。
私はDRさんが書いたことを整理しただけで、「キチガイだというご結論」を出したわけではありません。
これは細かいニュアンスの違いですが、大切なことなので、ご理解いただきたいです。
去っていくという言葉は、その通りです。私は精神疾患を差別したいわけではありません。
しかし何か起きてからではよくないと思いました。DRさんがこれまで殉死に関する質問を連発していることと、no9のお礼欄で自殺した女性患者の話をしていることが私の中で重なり合わさりました。私としては、本当に苦慮しました。
私に言えるのはこのくらいです。あとはいろいろ思いますが、語弊が一層起きることを恐れるので、申さずにお暇します。
ヌケ作だということは分かっていましたが、これ程とは…
人がいいと思っていたのですが、近頃のお人よしは、極めて幼いようですね。
つまり、魅力がないんです。
「耐える」という作業がないから大人になれないんでしょう。
速やかにお去り下さい。
No.14
- 回答日時:
23. ★(№10お礼欄) 10.までは一応理解できます。
☆ よかった。
24. ★ 「宇宙の摂理」という言葉を使ってみます。
☆ 摂理には 秩序とか法則といった・経験事象とそれの人間による認識や思考
が含まれていますが その法則のみなもとなる場(チカラ)として 受け留めま
しょう。
25. ★ 「神」という言葉は私にとって違和感がありますし、「仏」という
言葉はあなたにとって違和感があるであろうと思うからです。
☆ ありません。たとえば:
▲ 〔中村元ほか編:仏 (岩波 仏教辞典 1989)〕 ~~~~~~~~~
なおキリスト教伝来時には 創造主がデウス( Deus 天主)とその下生またはそ
の子とされたイエス・キリストを仏といい その教えを仏法と称した。仏キ習合
的理解・・・( p.743 )
▲ 〔同上:法身 p.741 )~~~~~~~~~~~~~~~
真理(法)の身体 真理(法)を身体としているものの意味・・・法身仏ともい
う。
大乗仏教では 絶対的な真理を法身(ダルマ-カーヤ)というようになった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
26. 神に対する違和感は 超えたほうがよいと思います。または 違和感を
持つ理由をおしえてください。
27. ★ 私は、人間というものは、この「宇宙の摂理」を尊崇する本能的な
ものを所持していると思います。
☆ 《タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)》とよぶのが その
想定内容だと思います。アートマン(霊我)も神の霊も同じだと思います。
28. ★ 「そこに自分を合わせて、幸せに生きてゆきたい」という。
☆ ここはげんみつにまいります。《幸せに生きてゆきたい》のは 神――普遍
神――のもとにある人間に共通だと思いますが 《そこ(摂理)に自分を合わせ
る》というのは げんみつには 普遍神には合いません。
29. 端折りますが 普遍神が絶対性ならば 人間が摂理に自分を合わせると
いうのは 人間の思い上がりになります。
30. ブッダターのはたらきによって――あるいは めぐみによって――自分
を摂理に合わせるように考え意志することが出来るようになる。・・・こう捉え
るのが 整合的な内容だと思われます。こまかいですが。
31. ★ それは、人類の文明を見れば、「宗教」(原始的なものを含めて)と
いうものが、切っても切れないものとして存在していたと思うからです。
☆ 端折りますが はじめには ナゾの何ものかを心に受け容れたという《信じ
る》が来ると見るわけです。
32. そのあと このわが信仰――非思考の庭なる動態――をとおしてあたえ
られるヒラメキから広がって 人間の判断(命題)ないし規範として(つまりオ
シヘとして)人間が持ち得たのが 宗教だという理解です。
33. くどいですが 《人間にとって切っても切れないもの》は 信じないと
いう選択肢をふくめた《信じる》のほうです。
34. むろん《神を信じないと自己表現する〈無い神〉派》も その一種のオ
シヘをゆるいかたちながら 共有していると思うならば それもひとつの宗教に
なります。
35. ★ それが、近世・現代に至り、宗教の信頼性が薄れてゆくことと反比
例し、
☆ 《信じる》の第二次展開としての(つまり なぜならそこには必ず《考える》
が介在して来ている)宗教については 最も極論するならば 信仰という蝉の遺
した抜け殻であるとなります。
36. つまり・じつは 《摂理》という捉え方にしてもすでに《考える》が入
って来ているのです。
37. 普遍神ないし法身仏なる真理ならそのチカラは かならず《経験世界に
ハタラキカケをおこなって そこに因果の応報なる法則をもたらしているはずだ》
という人間の思考が 顔を出して来ているからです。
38. これは 神ないし法身仏についての人間の自由勝手な忖度にすぎません。
そうであるかも知れないし そうでないかも知れません。――これも 普遍神が
あたえる《心の明け》です。
39. 宗教は 因果応報説ないし摂理をかかげて――それは オシヘであり人
間の思考であり思想であるに過ぎないのに―― それが絶対性なのだと言い張り
これを信じなさいと説くとすれば それは 相対性なる人間の思い上がりです。
40. 宗教は 信仰なる蝉の抜け殻にすぎないという・つつしみ深い人間の心
を 勝手に膨れ上がらせています。増上慢も はなはだしいでしょう。
41. もっとも 思想としては 大いに自由に発言すればよいわけです。つま
り 信仰という蝉は すでにありません〔から まったく表現の自由です〕。
42. ★ 宗教からいわば独立した国家権力、あるいは国家そのもの、哲学な
どの人文科学、自然科学、そして文明そのものに対し、人々の尊崇の念が移って
いったものと考えています。
☆ 国家の主権を振り回す政治人間も 相対なる思想を絶対性なのだと自己表現
するマ(間)の違いを犯しますが そのような思い込みが ほとんどつねに・最
大級に現われるのは 宗教です。
43. ★ いわば、「宇宙の摂理」の代用品です。
☆ (あ) 宗教は 絶対性を説いているが ただの人間のあやまち得る思想で
あると分かって来た。
(い) マルクス主義が 《「宇宙の摂理」の代用品》であったことがあるのか
も知れません。つまり 宗教です。
(う) 自然科学は 信仰とそして思想ないし経験科学とを――経験合理性の物
指しに徹するという了解のもとに――切り離して成り立った《思考の緑野》です。
(え) なのに 人びと一般の中に これを宗教の代用品とするクセが現われて
いるかも知れませんが。
44. ★ 問題は、これらの代用品は人間の思考において捉え得るものです。
☆ ですから 《オシヘをかかげてこれを信じなさいと説く宗教》も 信仰から
得たヒラメキを思考によって展開し 経験思想として形成したしろものです。
45. ★ とすると、「思考」と「信ずる」とが密接に係わってきてしまうこ
とになると考えられます。
☆ 非思考の庭なる信仰は 人間が 普遍神を無条件でわが心に受け容れるので
あるからには 《受け容れる》のは 人間の経験的な意志行為です。すでに 経
験事象としても成り立っています。
46. ただし 受け容れるその相手(対象)は 思考を超えています。
47. オシヘは――因果応報の説や あるいは 不殺生戒なる規範などは――
すでにその内容が 思考の問題となっています。ころす・ころさないは 経験事
象であり 思考です。
48. かつてアブラハムは やっと百歳でさづかった長子のイサクを 神にい
けにえとしてささげるという難題に出会った。錯乱のかぎりをつくしてというほ
どに考えに考えて得た結論は 《神のためなら ささげよう》でした。
49. ところが いざ生け贄の台にイサクを載せるとき ヒラメキがあたえら
れた。人間ではなく 羊で済ませなさいと。
50. ここまでが 信仰です。つまりすでに いけにえだとか そのささげる
人間の存在だとかの経験事象が介在し そこに人間の思考が絡まっていますが
信仰なる生きた蝉の――アブラハムなる主観の内における特殊な絶対性としては
蝉の――すがたのそのままの現われであるわけです。
51. ここから――モーセが十戒に表わしたわけですが―― 《なんぢ こ
ろすなかれ》というオシヘないし規範が思考による展開として持たれたのであっ
て そのときには 宗教が成り立ったことになります。倫理規範ないし道徳は
かように 蝉の抜け殻です。
52. アブラハムやモーセの系譜を継ぐイエスなる男が この宗教を 元の信
仰に還し 民族内に閉じられたヤハヱ―神を外にひらき 普遍神の次元に揚げて
ふるい神に関するふるいナラハシはぜんぶ棄てました。
53. その後の歴史において イエスの指し示した普遍神の理論が 現実と成
っていないではないか?――そのとおりです。そして これからです。
>よかった
問題は、あなたの持論の中身及び、それを根拠づける理論が私の経験合理性に
基づいて納得できない、つまり真理とは思えないということなのです。
これについて納得したいがために、これまでやり取りをしてきましたが、私の
一応の結論としては、あなたが議論のための議論をしているに過ぎない、とい
うことになっております。
なぜなら、繰り返しになりますが、あなたはこう言っています。
「自分の哲学の根本を論破されたら、別の理論を考える」
これは、思想的には独善的態度といえると思いますし、永久に終わらない議論を
しようという風にも受け取れます。
それが、哲学だというのならば、私には興味のない、場合によっては有害なもの
と考えます。混乱するからです。
しかしながら、あなたから長文の回答をいただいているので無視するわけにもゆ
かず、一つでも明らかになるものがあればと思い、応答しております。
「神」という言葉に私が違和感があると言ったことは、「いらぬ誤解を避けたい」
ということです、これを読む人に、です。
あなたが、仏という言葉を使うにあたり、注釈をつけるのと同じことです。
「信じる」ということについて、そもそもあなたの言うことに納得していません。
これがあなたの宗教批判の論拠であり、あなたのとって要の論理の一つなのでしょ
う。
あなたは、人間の知性の及ばない「何物か」を無条件・無根拠で受け入れることが
「信ずる」ことであって、知性の及ぶものについては「考えること」であって、
「信ずる」ことではないとしています。
これが、大変恣意的な論理であると思います。
人間は何物か分からないもの、つまり認識できないものを信ずることなどできないと
思います。
これは、まず、私の人生経験から言えます。また、そういうものを信じている人を私
は見たことがありません。
私は信仰を持っています。実践の部分は拙くても、長い間教団、信者を見てきている
という経験を持っています。
その経験から言えることは、人間はそうそう神仏を信じられるものではない、という
ことです。
ですから、私の信奉する日蓮仏法においても、「仏」というものを理解できず、信じ
られず、そのために存在する経典、哲学の理論等を信ずるにとどまっていることが多
いと私は思います。
No.13
- 回答日時:
まずは、質問への回答です。
1.いわゆる素朴実在論、自分が知覚している事で、幻覚と思えないものは存在すると言う事は信じています。
2.理由は単純です。 自分が知覚している事以外の世界の情報が無いからです。
3.科学者の方が、多分、一般の人ほどは、科学を信じていないでしょう。(これは、科学の限界を理解していると言う意味です) ですから、今の科学をその範囲を超えて信じるのは、間違いとは言えます。
4.自明性については、その定義が難しいですが、No.9のお礼に引用されている「自明性の喪失」では、当該患者は、「自明性」自体が何かは理解できていなかったようです。(理解できないから、精神疾患だと言う事なのでしょう)
どうも、その本の文脈では、「自明性」とは、社会的なコミュニケーションもしくは、行動に対して、当たり前と思える感覚のようです。 いわゆる常識的な行動を決定する要因と言う事なのでしょうが、「自明性」が無い(理解できない)場合は、常識的な行動が出来ないと言う事のようです。 実を言えば、疾患が無い人でも、別に「自明性」と言う物があるわけでは無いと思います。(これは、言葉どおりの「自明」と言う意味です) だれも、絶対的な自明性があるわけでは無いですが、こう行動した方が問題が無いとか、当たり障りが無いと言う判断をしているだけなんだと思いますよ。
極端な例ですが、多くの犯罪者は、自白を強要されても、最初は無罪を主張するでしょう。(これを「自明性」と呼ぶべきかは難しいですが、自分に不利な事は話さないと言う意味では、「自明」とは言えます)
これは、簡単な例なので、実際にはもっと複雑な状況にあるとは言えます。 一般的には、「自明性」と言うよりも、「行動原理」と考えた方が良い内容かもしれません。 当該患者については、統合失調症として判断されていたようですが、現在では、発達障害の自閉症スペクトルの一種として解釈した方が的確だと言う意見もあるようです。 したがって、当該患者について、「自明性」とはあくまで、「行動原理」の適応の障害と考えるべきで、「世界」認識に対する重要な懐疑性などの、「現実感の喪失」や「幻覚性」とはちょっと違うのかもしれません。(「世界認識」に対する障害の場合は、現実と幻覚の区別が出来なくなり、誰かに操られているなどの妄想障害も生じます)
自閉症と統合失調症は、昔は似た症例と考えられていましたが、現在は症例も違うと判断されています。(ただし、両方が複合した症例もあるので、なかなか難しいです)
自閉症スペクトルの場合は、自我もしくは、自己に対する「自明性」はむしろ高いようです。 自我と社会の齟齬が問題なわけです。(逆に言えば、自我に一定の柔軟性があれば、社会との齟齬が少なくなります)
これが、むしろ、精神疾患と言うより、性格の一種だと考えた方が的確だと言われる理由です。(統合失調症の場合は、幻覚や現実感の喪失が極端な場合は、社会適応は困難になります)
昔、自閉症も統合失調症も、脳の時間感覚のずれが原因だと言われていた事があります。 自閉症の場合は、脳の活動速度が早すぎて、一種の暴走状態になる場合があるようです。(実際に、かなり脳に負担がかかって、頭痛などの症状を訴える場合もあるようです)
これ以上は、哲学と言うより、心の医学の領域に入ってしまいそうですね。
文字通りの「自明性」ならば、私自身は、それが確実にあるとは思えませんが、現実の生活でそれを考えすぎれば、何も行動出来なくなるとは言えるかもしれません。 「信じる」と言う事が、無条件に受け入れると言う事であれば、私が、素朴実在論的な「世界」の存在を信じているのは確かでしょう。
1.2 明快ですね。
「素朴実在論」、我々一般大衆は大抵これなのでしょうが、哲学的には深みがあるのでしょう。
3. 科学の全体像を理解していない一般大衆は、どうしても過信してしまうのでしょう。
4. >だれも、絶対的な自明性があるわけでは無いですが、こう行動した方が問題が無いとか、当たり障
りが無いと言う判断をしているだけなんだと思いますよ。
なるほど、勉強になります。
時代が変わり、常識が変われば「頑固者」以外は新しいものに適応してゆくわけですから、そういう
ことなのでしょう。
では、哲学的な「絶対的な自明性」というものが、存在するのか?とすれば、どういうものなのか?
考えてみたくなります。
No.12
- 回答日時:
やりとりして一年くらいになってきますが、私はDRさんという人が特にno9のお礼欄で一部見えた気がします。
ここはなんか、クライマックスという感じがします。
>その本の中で、精神疾患を抱えた女性が「あたりまえのものをあたりまえに思えない」という症状を訴えるのです。
>このことから、人間はおそらく自分の環境というものを本能的に自明なものにして育ってゆくものなのだと考えました。自立するまでは必要なことであろう、と。
確かに、質問に書いている内容は精神疾患のものだと私は思っていました。
しかし問題は読書ではないと思います。というのも、質問文では、ご自身を含む人間一般のこととして書いてあるからです。
DRさんは、その女性の意見に共感しており、もしかしたら自分も同類なのではないか、おかしいのじゃないか、って不安になっていらっしゃる。つまり問題の本質は、「おかしい」女性の話ではなく、「おかしい」女性に共感してしまうDRさんご自身のことなんです。
誰か同じ意見の人がいれば安心できると思っていた。
これがこの「雑談」と称する問いを投稿した、本当の理由ではないですか?
しかし他人に「おかしいやつだー!」と指摘されることを恐れてもいる。
>>私も自分の心身の存在は信ずることができますが、「自分とは何か?」と考えた時に、明確な答えを持っておらず
実は心身の存在を信じることが問題ではない。自分の心身が正常だと信じることが問題である。
わからない。確信が持てない。しかしおかしいと言われることは怖い。我慢ならない。
だから骰子に「独特の考え」と指摘されたことは、予想していたことであると同時に、最も恐れていたことであった。しかも骰子はDRが「気違い」と言われたことを思い出して、さぐり当てるように書いている。
で、逃げ出すために壁をたくさん作る。まず骰子への罵詈雑言。当て付け。
「気違い」とは大したエピソードではなかったと説明する。
しかし次のようにも書いてもいらっしゃる。
>どこかに書きもしましたが、ですから、人に言ったのはこれが初めてです。そして今後特に人に言うつもりもありません。まず、理解されないでしょうから。
「どこかに書いた」ことを骰子に見透かされていると感じている。相手がどこまで覚えていて、どこから覚えていないのかがわからなくなり、怖くなっている。そして、「人に言うつもりはない」とか「理解されない」とか、自らの言葉で壁を作っている。
この言葉は二つの意味で理解することができる。
・諦めや、「理解しないで欲しい」という拒否や、尊重を求める言葉。
・誰かに壁を壊して欲しくて、言ってはいけないことを告白してしまった言葉
いずれにせよ、DRという一人の人間の心の壁のありかはわかった。当人が白状してしまった。
骰子は壁の壊し方について考えを巡らす。しかし同時に考える。壁が壊れた時、そこから何が出てくるのか・・・・・・。
精神科医ではない骰子にはわからない。責任も取れない。
だから骰子は去って行くのであった。(了)
ーーーーーー
まあ、小説風にしてみました。おもしろくなったでしょ。
No.11
- 回答日時:
No.3です。
「陽が昇ること、地球、自分の体などは信ずるに値するものですが、たまに心配になります。病気になったら大変だ、と」
⇒確かに、その通りです。
医学が進歩した現代であっても、健康は最も大切ですね。
「仕事柄、70・80代の女性とよく話しますが、とても明晰で、倫理観に溢れた方がいます。信頼できますね」
⇒私もそう思います。
「これは、よく申し上げることなのですが、科学はその目的の範囲内では信ずるに値するものであると思いますが、科学を本質的なことの根拠にしてしまうことは大変な間違いであると考えています」
⇒おっしゃる意味は理解できます。
つまり、科学万能ではないということでしょうね。
No.10
- 回答日時:
★(趣旨説明欄) 世の中のありとあらゆるものは、根本的に「自明」では
ないと考えられます。
☆ 1. 《わたしはわたしである》は 自同律であり その限りで《自明》
です。
2. ほんとうにその命題は 自明か? その内容について分かっているの
か? つまり われは本当にわれであるのか?
3. この《うたがひ》は――話を端折りますが―― じつはどこまでも続
く果てしのない思考(疑問)です。
4. なぜなら そのウタガヒについて その根拠はあると考えるときの根
拠は じつは自明だというものであり そのことは他方において ウタガヒ
に根拠はないと捉える見方が その根拠を やはり自明だとうったえること
と 互いに同等でああるからです。
5. つまり どちらも《われはわれなり》を出発点として考えています。
6. しかしながら そのような――相対的で限りのある知性しか持ち合わ
せていない人間の――確信が どうして疑い得ないのか? 《根本的には自
明ではない》のではないか?
7. そうなのですが そのように考えそのように言えるのは 人間とその
知性が せいぜい経験合理性としての能力しか持っていないと言うことと同
じになります。――つまり これも 自同律です。
8. たしかにおっしゃるように・それゆえ この世界には この人知を超
えた場があるかも知れないという話になります。
9. 《考える》のではなくそれを超えた――つまりそのとき 思考をも別
様にともないつつの――《信じる》の問題が来ます。
10. 思考や知覚を超えて 《無条件で無根拠において そのナゾの何も
のかを わが心に受け容れる》。これが 《信じる》です。
11. けれども このことは:
★ 人間は何物かを「自明」なものにしなければおそらく、いわば「精神を
固定できない」ために、何物かを「あたりまえなもの」にしていると思われ
ます。
☆ とは かんがえられません。
12. なぜなら 《思考の緑野》としての精神とは 《信じる》は《根本
的に・つまり人間の知性が及ぶ範囲としては》 関係しないからです。絶対
のへだたりがあるというかたちで 関係します。
13. 《信じる相手(かんたんに 神)》が もしわれらが精神にかかわ
るのであればそれは ひとえにその神の側からのハタラキカケによるものだ
からです。《絶対》とは そういうものです。(人間の相対性の自明と 裏
腹であり 同じ自明です)。
14. 人間の側から働きかけることが出来る神であったなら それは 信
じるのではなく考える対象だからです。
15. この《非思考の庭》が――つまり 信仰が――成ったとき われら
が精神は 自由であると受け取られます。《無限ないし絶対性》にあたかも
カカハリを持った状態だからです。
16. 精神を固定する・固定しないとは 別の現実だと捉えます。
17. 精神は その非思考の庭のもとに 心の明け――単純に 閉じられ
ていないこと――をめぐみとしてあたえられます。
18. そのときには 人間がその知性と意志とで 精神を固定してもよし
自由に解き放ってもよしとなります。
19. これは 信仰の効用です。ほかにも ヒラメキや良心のはたらきと
いった効用がありますが まづは 《心の明け》が いちばんのめぐみです。
20. ★ つまりそれは、根拠なく自明なものにするという非科学的なこ
と、「信ずる」ということになるでしょう。
☆ 信じるは 科学として考えることと 両立します。→(9)。
21. ★ ですから、「信ずる」という心は特定の宗教にばかり向けられ
るものではないと思います。
☆ 《宗教》は 信じる信仰とは 別のものです。そこに オシヘがあって
これを《信じなさい》と説くかぎり。
22. オシヘは 人間の言葉で表現されているかぎり 思想であり 思考
すべき対象です。その根拠や内容の当否を考えるものです。
10.までは一応理解できます。
「宇宙の摂理」という言葉を使ってみます。
「神」という言葉は私にとって違和感がありますし、「仏」という言葉はあなたにとって
違和感があるであろうと思うからです。
私は、人間というものは、この「宇宙の摂理」を尊崇する本能的なものを所持していると
思います。
「そこに自分を合わせて、幸せに生きてゆきたい」という。
それは、人類の文明を見れば、「宗教」(原始的なものを含めて)というものが、切っても
切れないものとして存在していたと思うからです。
それが、近世・現代に至り、宗教の信頼性が薄れてゆくことと反比例し、宗教からいわば
独立した国家権力、あるいは国家そのもの、哲学などの人文科学、自然科学、そして文明
そのものに対し、人々の尊崇の念が移っていったものと考えています。
いわば、「宇宙の摂理」の代用品です。
問題は、これらの代用品は人間の思考において捉え得るものです。
とすると、「思考」と「信ずる」とが密接に係わってきてしまうことになると考えられます。
まず、この点についてお伺いしようと思います。
No.9
- 回答日時:
>しかし、人間は何物かを「自明」なものにしなければおそらく、いわば「精神を固定できない」ために、何物かを「あたりまえなもの」にしていると思われます。
ふーむ。これは独特の考え方でいらっしゃる。皮肉ではなくて、真面目な話。
そうとも言えるが、大方の人は、そこまで考えていないのではないかな。
つまり精神を固定したいとは思っていないし、精神が流動していることさえも自覚していないということです。
私の場合は、流動はわかっていますが、概念によって固定しようとは思っていません。流れて行く範囲を決めているので、いくら流れても困らないわけです。具体的には行動範囲や、コミットすることが決まっているわけです。どう決めたんだと思われるかもしれないが、生きている時間の積み重ねで、取捨選択を繰り返し、枠が決まっています。
DRさんは50代でいらっしゃった。こうなるともう定まっていておかしくないが、ちょっと特殊だなと感じています。
>1.あなたは何を信じていますか?
答えに合うかわかりませんが、他人よりも数手先を読む頭脳の明晰さ、かな。
>2.そして、それを信じているのはどんな理由が考えられますか?
今まで、これが自分の道しるべとなってきたので。それでうまくいき、周囲に評価されてきたので。
逆に、優しさ、義理人情などは、足かせになってしまったかなあと思います。私の生きている環境は、やや地獄みたいなことかもしれません。あと人情のニの字も知らないヤバい人に囲まれているのかな(笑)。
>3.科学を信ずることは間違いのないことでしょうか?
私にとって科学は信仰の対象ではないので、何を答えたらいいのか、わからないです。
科学に基づいてダイエットはします。でも、科学者を信じて原発を放埓に稼働はさせたくないです。
>4.自明性ということについてお考えを。
私はDRさんとは逆の考えです。人間一般が、自明ではないことがあらかじめわかっているのに隠蔽しているわけではなくて、自明かどうかもそもそも考察の対象外なんだと思います。
自明ではないとわかることそれ自体が、発見なんだと思います。
リンゴがなぜ落ちてくるか。これは当たり前のことだとみんなには思われていたが、ニュートンにかかると、自明の話ではなくなったわけです。で、重力を発見した。これは逸話みたいですが、こんな調子で、「みんなが当たり前だと思っていたけれど、そもそもこれはなぜでしたか?」と問いを立てられる人は、まずその領域で才能がある人だと思っております。
DRさんが自明ではないものを見つけて困惑しているというのなら、それは才能が溢れすぎているのかもしれません。ただそれはとても苦しいことではあるでしょう。前に他人に「狂っている」と罵られたことがあるとおっしゃっていたけれど、もしかしたら、関係ある?。自明のことを自明でないとあらわにし続けると、周囲に恐怖を与えてしまうだろうなと思うのです。。。
「精神を固定できない」という表現は、質問文を極力短くするために苦肉の策で
ありました。
興味のある人は訊ねてくるだろうと思ったので、これでよしとしました。
以前ある人の勧めで「自明性の喪失」という本を読みました。
その本の中で、精神疾患を抱えた女性が「あたりまえのものをあたりまえに思え
ない」という症状を訴えるのです。
原因は両親との悪い関係性にあったということですが、彼女はその症状のために
社会生活がうまくできず、自殺という最期をとげてしまうのです。
このことから、人間はおそらく自分の環境というものを本能的に自明なものにし
て育ってゆくものなのだと考えました。自立するまでは必要なことであろう、と。
「精神を固定する」という言葉は、こういう意味で使いました。
>他人よりも数手先を読む頭脳の明晰さ、かな
あなたの年齢は知りませんが、大人大人といいますが、あなた自身が立派な大人の
年齢ではないですか?
自分の高い能力を信ずるというところから卒業するには決して早くないと思いま
すよ。
そういう人をたくさん見てきましたから。
おっと、これももちろん「苦言」ですw
それから、先を読んでも外れていたら仕方がありません。
私が、この質問文の考えに至ったのはつい最近です。
どこかに書きもしましたが、ですから、人に言ったのはこれが初めてです。そして
今後特に人に言うつもりもありません。まず、理解されないでしょうから。
それから、以前確かに「気違い扱いされた」といいました(こういうことは覚えてい
るんですね)。
ザックリ言いましたが、これは私が理想的なことを言ったからです。しかも、日記を
盗み読みされて、家族にです。
家族だからそれほど悪意はなく、「おかしいんじゃないの」くらいの話です。まあ、そ
れでもショックだったのでよく覚えていたという訳です。
ああ、つまらん話だ。
No.8
- 回答日時:
>世の中のありとあらゆるものは、根本的に「自明」ではないと考えられます。
なんとまあ大胆で人類の歴史に残りかねない主張を宣っていますね。そんな人類史的に貴重な主張を、それがあたかも自明であるかのように根拠も示さずに言い放ってしまって良いのですか。それとも、根拠を示すことが必要ないくらい自明なことなのですか。コロンブスの卵ってなんですか。モンテーニュはどうなんでしょう。但し、デカルトみたいな全く非生産的な中学生並みの屁理屈の受け売りではない、生産的なご意見を聞かせてください。
>なんとまあ大胆で人類の歴史に残りかねない主張を宣っていますね
何といっても初対面で先生に食って掛かった「ニャンポコリン」(覚えておられますか?)
ですからね。
半分は自由に生きています。でも半分は結構丹念に生きているんですよ。
歴史に残る偉人変人になったらすごいじゃないですか?
私はここでいろんな質問をしてきました。
学問のプロの(と思われる)方からいろいろ教えていただくことも楽しいですが、一般大衆の
方々の考えていることを知ることも大変興味深いことと思っています。
日本人は本質的なことを考えることが苦手であるとの指摘がありますが、私も経験上そう
思っています。
ですから、こういった本質的なことを一般庶民同志であれこれ話すことは大変に価値的で
生産的なことと思います。
>根拠も示さずに言い放ってしまって良いのですか
いいじゃないですか。
私はここで学問をやっているわけではなくて、雑談をしているわけですから、自由だと思い
ますが。
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(つづき)
その現実があるからといって、仏の覚りが「ない」という論理には全くならないということです。
書ききれませんが、私の本意をくみ取っていただき応答願いたい。