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沖縄が戦場になる前に別の安全な場所に移住すればいいと思うのですが、何で沖縄の人たちは疎開しなかったんですか?

A 回答 (6件)

No3です。

No4さんのご回答を読み赤面しております。

「第32軍は日本最大の疎開作戦を実施しています。いま手元に本が無いので具体数は出せませんが、半年の間にのべ約700隻の貨客船が動員されました。ただし疎開するかどうかは自由意志でしたので初期は応じる者が少なく疎開船はガラガラだったそうです。10月の那覇空襲以降は応じる者が増えたそうです。全部が満席で輸送されていたら全県民が避難できたのですが…」

「さて有名な『対馬丸』ですが、実は疎開船で撃沈されたのはこれ1隻だけです。」

そういう事実があったとは、第32軍の最大限の努力に敬意を表しなければなりません。「輸送のための船腹の不足、制海権喪失により、大規模な本土への疎開はそもそも無理だった」などと不正確な回答をしてしまったことをお詫びします。No3の回答は無視してください。
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他の方の回答が少し見当はずれに思えたので、訂正・補足の意味で回答させていただきます。


1944年7月7日に沖縄に戦火が及ぶと内閣が判断し警察部遂行の元、60歳以上と15歳未満の疎開させることを決定し、実際に疎開は行われています。しかし、当時沖縄は戦争を身近に感じておらず、また身寄りのない本土や台湾へ行くことの不安を覚え、さらに当時は日本が勝つと考えられていたため、疎開を希望したのは本土出身者がほとんどでした。ですが、米軍により交通が途絶する翌年3月までにおよそ6万2千人が県外疎開したとされています。参考になりましたでしょうか。
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第32軍は日本最大の疎開作戦を実施しています。


 いま手元に本が無いので具体数は出せませんが、半年の間にのべ約700隻の貨客船が動員されました。ただし疎開するかどうかは自由意志でしたので初期は応じる者が少なく疎開船はガラガラだったそうです。10月の那覇空襲以降は応じる者が増えたそうです。全部が満席で輸送されていたら全県民が避難できたのですが…

 さて有名な『対馬丸』ですが、実は疎開船で撃沈されたのはこれ1隻だけです。そういう意味ではこの疎開輸送計画は大成功だったのですが、対馬丸が強調されているという点を見るだけでも一部の心無い沖縄県民がどういう人種なのかがよくわかります。

 昭和20年3月になりますと上陸が近いことがわかりましたので、もはや本土への輸送が不可能となりました。そこで軍司令部は米軍が攻撃しないと思われる沖縄本島北部への移住をお願いしました。せめても戦闘に巻き込まれないようにするためのお願いだったのですが、当時の沖縄北部は未開に近い状態でしたので、住民は危険を理由に疎開を拒否しました。その結果が10万人の巻き添え死と集団自決です。
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No1さんが指摘されるような本土への疎開は、


「日本の船舶事情が極めて逼迫しており、沖縄県民数十万を本土へ輸送するなど物理的に不可能であった」
「日本近海でも多くの商船や軍鑑がアメリカ潜水艦に撃沈されている状況で、船に乗ることが半ば死を意味していた。飛行機であれば安全であるが、飛行機(軍用機)で運べるのは軍・官の要人程度」
「仮に沖縄県民を全て本土に移動させたとして、養う方法も住ませる家もない」
ということで、対象は学童などに限定されておりました。

一方、沖縄本島の民間人については、沖縄本島北部への疎開が公式に通達されていました。米軍も、上陸作戦の前に「沖縄本島北部へは攻撃を加えない」と、上記に応じる声明を出していたとのことです。

ただし、現実には米軍上陸前の本島北部へ疎開した民間人は僅かな人数に留まりました。その理由は
「当時の本島北部は人口希薄、何もないところで、疎開しても住む家も仕事も耕地もない。疎開しても生活できない」
※ 北部に疎開した民間人のために仮設住宅を建て、食料などを供給する体制などありませんでした。北部へ疎開したら後は自活しろ、という役所のスタンスです。
「那覇などの南部との交通機関もなく、未舗装の道を徒歩で行くしかない」
家財道具を運ぶには大八車やリヤカーに積んで曳いて行くか、馬車にでも積むか、沿岸航路の漁船に積んでもらうかしかありません。いずれも難しいことです。
「実際に起こった、言語を絶する凄惨な戦闘で、沖縄本島の上陸地点以南が砲弾や爆弾で一切合財何もなくなり、民間人の財産は全て失われ、多くの民間人が行き場を失って死んで行くことが想像できなかった」
といったことです。

なお、米軍が上陸して地形が変わるような激戦が行われた硫黄島では、米軍の来攻が必至と判明した昭和19年のうちに千人弱の島民が全て島外へ疎開しており、民間人の犠牲は避けられました。これは、沖縄と硫黄島では住民の数が二桁違ったから出来たことともいえます。
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疎開しては生活ができません。


本土でも全員が疎開したわけではなく、田舎につてのあるひとか女性や子供が主でした。
しかも、沖縄から疎開学童をのせた対馬丸が撃沈されてしまい、なおさら慎重になったのではないでしょうか。

参考URL:http://www.cinemawork.co.jp/cwhp/list/tsushimama …
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疎開はしていますよ。



http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub33.oki …

ただ考えて欲しいのですけど、戦争末期になれば制海権は失われ、現実1944年8月には那覇から鹿児島に向かって航行中の対馬丸などはアメリカ軍の餌食になって沈んでおり、最末期にはどうしようも無かったということです。

http://www.h5.dion.ne.jp/~s600days/tusimamaru1.htm
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